玄関の扉が静かに閉じられた。重たい音が空気を震わせると、室内には元通りの静寂が戻った。高田は手を離したまま、しばらく扉の前に立ち尽くしていた。薄暗い廊下の空気が肺に入り、微かに金属の匂いが鼻をついた。
靴も履かず、床に裸足のまま立っていると、自分の足裏がじんわりと冷たくなるのがわかる。玄関の壁にかかる時計の針が、一秒ずつ無情に進んでいた。高田は無意識に呼吸を整える。ほんの少しだけ、鼓動が早かった。自覚はある。だが、それを「動揺」と定義するには、証拠が足りなかった。
数秒後、彼は足を引きずるようにして書斎スペースへ戻る。無造作に積み上がったコードの紙束をかきわけ、薄く擦り切れかけた黒い手帳を取り出す。静かに椅子に座り、表紙を開く。右手に持った鉛筆の芯先が、ためらいもなく白紙のページを汚しはじめた。
ページに最初に書かれたのは、日付でも言葉でもなかった。高田にとって言語より優先されるのは、いつだって構造だった。データ構造、入力、出力、そして処理負荷。曖昧な心の動きでさえ、彼にとっては数値に変換し、意味のあるロジックへと還元されるべきものだった。
書き始めた文字は、自然にコードの形式を取った。
```c
// 社会的接触への処理負荷 接触値 = 視線 × 表情解析 × 応答速度; 負荷係数 = 接触値 ÷ 安定閾値;if (負荷係数 > 1.0) {
自室回避モード = true; 心的リセット = 必須; } ```鉛筆の芯が紙を擦る音だけが室内に響く。エアコンの稼働音すらない。少し首を傾けて、数式を眺める。式のロジックに破綻はない。彼の感覚では、さきほどのような「社会的接触」によるストレスは、明確に許容量を超えていた。視線は複数回、表情は変化を検出、言葉の返答には一貫性と抑揚があり、対話として成立していた。接触値は高い。よって、回避行動は妥当だ。そう判断できる。
それでも。
高田の手は、式を書き終えてから止まったまま動かない。指先が紙の端を無意識に撫でている。目はコードを見ていない。記号の羅列の背後、あるいは余白に、答えが隠れているのではないかと探るような視線だった。
静かに鉛筆を持ち直すと、今度はページの余白に、一定のリズムで線を引き始めた。直線ではない。どこかで折れ、曲がり、かすれて、意味を持たない。その線の流れに導かれるように、文字がひとつ、落ちていった。
目が綺麗だった。エラー?
書いた瞬間、鉛筆の芯が折れた。高田は反射的に手を引き、そのまま鉛筆を机の上に置いた。鉛筆は転がり、コードの書類の上で止まる。視線は動かない。書いた言葉を見つめているわけではなかった。まるでそれが自分の手から出たものだと、信じきれていないようだった。
目が綺麗だった。
その一言には、構造がない。定義も、処理も、条件分岐も存在しない。評価も出力もない。事実としての観察であれば、記述すればいい。だが、それをなぜ“書いたのか”がわからない。それを“書きたくなった理由”が、彼にはわからなかった。
感情ではない。そう思いたかった。だが、感情でなければ、これは何だ。エラー。彼は自分にそう言い聞かせようとした。だが、その定義すら、揺らいでいた。
椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。天井は白い。そこに何も映らないことに、少しだけ安心する。脳内には、さきほどの男の顔が焼きついていた。視線の鋭さ。襟元の乱れ。笑うときの目尻の動き。なぜそんなところばかり記憶しているのか、自分でも理解できなかった。
言葉は柔らかかった。けれど、油断ならない種類の柔らかさだった。あの手の人間は、他人の警戒心を撫でるようにして取り除く。そしてそのまま、距離を詰めてくる。高田はそれを知っていた。知っているはずだった。
なのに、なぜ拒絶できなかったのか。
部屋は静かだった。PCのモニタには、さきほどのトラブル報告のログがまだ開かれていた。大和の名前も、操作時刻も、そこに記録されている。機械が記録した事実。人が感じたこととは別の場所で、情報だけが積み重なっていく。
高田は手帳を閉じ、机の隅にそっと置いた。視線はもうそこに向けなかった。ただ、身体の奥に、微かな熱が残っていた。それは情動と呼ぶにはあまりに小さく、だが確かに、数式では補えない揺らぎだった。定義不能なものは排除する。それがこれまでの生き方だった。
けれど、今回だけは…まだ削除せずに、少しだけ保留にしておこう。そんなことを、ふと思った。何の理由もなく、ただ。
社内ポータルに通知が上がったのは、午後四時を回ったころだった。いつものようにターミナルを操作しながら、業務連絡の一覧に目を走らせていた高田の視界に、その名前は唐突に、無言で割り込んできた。「システム統合に伴う開発チームの再編について(人事異動通知)」軽い気持ちで開いたその告知文。文章の半ばに並んだ名前のひとつに、視線がぴたりと止まる。氷室 弘紀(東京開発部より異動)何も言っていないのに、なにかが崩れた音がした気がした。高田の背筋にひやりと冷たいものが這い上がり、体が瞬時に強張った。指先がタッチパッドを離れ、わずかに震えを帯びて空中に止まる。読み慣れたサンセリフ体のフォントが、その瞬間だけ、別の言語のように感じられた。ページを閉じることができなかった。いや、できなかったのではない。閉じる判断すら、どこかに置き忘れていた。モニタの前で身動きもせず、まるで自分の存在までもフリーズしてしまったかのようだった。椅子の肘掛けを無意識に握りしめた指に、じわじわと力が入る。肩にまで緊張が伝播し、背中が硬直する。息を吸ったはずなのに、胸の奥には冷たい空気しか届いてこない。血が巡らないような感覚。それでも、心臓だけは強く、脈打っていた。「……なんで……」喉から漏れた声は、聞き取れるかどうかのかすれ声だった。自分の耳にさえ届いているか怪しかったが、それは確かに言葉の形を取っていた。どうして、このタイミングで。どうして、また同じ職場に。どうして、僕の視界のなかに。問いは次々と浮かぶのに、どれひとつとして言葉にならなかった。手帳を開こうとするも、手は浮いたまま、ページに触れない。鉛筆の位置が分かっていても、それを握る感覚が戻ってこない。頭のどこかで、「これは、記録してはならない」と言っていた。書けば、その存在を自分の中で“現実”にしてしまう気がした。氷室という名前を、もう二度と目にすることはないと、どこかで思い込んでいた。あれほど距離をとったのに、あれほど忘れようとしたのに——だが、現実は変わら
オフィスビルの会議室。曇り空が窓の外に広がり、灰色に濁った光がブラインドの隙間から差し込んでいた。大阪支社の五階、来客対応用の無機質なテーブルの向かい側に、大和は静かに座っていた。正面にいるのは、東京本社の管理職、仁科。タイトスカートにジャケットという端正な装い。けれどどこか、その表情は硬く、少し冷たい印象を残す。面談の始まりは、建前通りだった。新規開発チームの統合に伴う人事調整、連携のフロー確認、スケジューリングの共有。それらを淡々とこなしていくうち、大和は徐々に気づいた。仁科の視線は、時折妙な間を置いて自分を観察している。その眼差しは、業務の確認ではなく、もっと個人的な何かを探るような色を含んでいた。一通りの説明が終わったあと、仁科は資料を閉じて、大和の顔をまっすぐに見た。「……高田くんは、最近出社していないのね?」唐突ともいえるその問いに、大和は一瞬だけ言葉を探したが、嘘はつかないと決めていた。「ええ。ずっとリモートです。でも、体調も仕事のパフォーマンスも悪くないです。連絡も、こまめに取ってますし」仁科は、ふっと薄く笑った。その笑みに、意地悪さや皮肉は感じられなかった。ただ、ある種の“知っている”という響きがあった。「“元気そうに見せる”のが上手な人よ。あの子は」大和の眉が、わずかに動いた。仁科は構わず、話し続けた。「あなた、高田くんの“前のこと”は知ってるの?」問いというより、試すような視線だった。大和は少しだけ首を傾げた。「氷室、って人のことですか?」仁科は頷く。「ええ。あなたの部署にも、いずれ合流するはずよ。開発チームの統合で」その名前を聞いた瞬間、大和の体の奥がわずかに熱を帯びた。名前だけで、なぜこれほど心臓がざわつくのか、自分でも分からなかった。けれど、それは“敵”と認識するには十分すぎる感情だった。「……正直、詳しいことは、聞いてないです。でも…&hellip
冷蔵庫の扉を開けたとき、微かに冷気が頬に触れた。整然とした庫内に、見慣れぬ簡易保冷バッグがぽつんと置かれていた。白地に紺のステッチが走ったその小さな布製バッグは、どこか大和の雰囲気に似ていた。目にした瞬間、高田の呼吸が少しだけ詰まった。誰もいない部屋。物音ひとつしない。静寂という名の沈黙が、室内に深く沈んでいた。冷蔵庫の棚からバッグをそっと取り出し、テーブルに置いた。手つきは丁寧で、どこか恐る恐るという印象を含んでいた。ファスナーを開けると、なかにはタッパーがひとつ。普段よりも量が控えめで、消化の良いおかずが並んでいた。白粥のように柔らかく炊かれたご飯、出汁の香りが穏やかな煮物、刻んだ野菜がほのかに甘い卵焼き。すべてが、どこか“気遣い”という言葉に満ちていた。その上に、折りたたまれた紙片が一枚、乗っていた。高田はそれを指先でつまみ、広げる。筆跡は、見慣れた癖のある丸文字だった。《気にせんでええ。また行くわ。》その一文だけが、白い紙の中央にぽつんと記されていた。目を伏せたまま、高田はその紙を両手で持った。視線がその短い文字列に固定される。言葉が頭の中で反響する。気にせんでええ。また行くわ。たったそれだけの文章なのに、そこに込められた意図を完全には読み取ることができなかった。いや、できなかったのではない。読み取りたくなかったのかもしれない。なぜ自分は、あんな言い方をしてしまったのだろう。あのとき、大和が飲み会に誘ってきたとき。胸のなかに咄嗟に生まれた拒否感が、反射的に「無理。行けない」という言葉に変わった。その語調が、どれだけの距離を大和に感じさせたか。いまになってようやく理解が追いついてくる。感情にまつわるすべてが、自分にとっては過負荷だった。喜びも、戸惑いも、怖れも、すべてが閾値を超える処理不能なデータとして押し寄せる。けれど、それをすぐに言語化する術は、自分にはない。言葉は、どこまでも不器用な伝達装置だ。少しの選択ミスで、意味が裏返る。少しの声色の揺れで、信頼が揺らぐ。そして何より、それは“伝えたい”という意志がなければ、存在しえない。
夜の帳が静かに降りて、部屋のなかはいつものように整いすぎていた。機械的に管理された温度、湿度、光量。それらは完璧なはずだったのに、今夜の空気はなぜか胸の奥をざわつかせる。高田はデスクの前に座り、手帳を開いていた。いつものように、手元の鉛筆を持ち、記録の準備をする。だが、指先に微細な震えが走っていた。スクリプトのような筆致で、手帳のページに文字を走らせる。```c// 感情解析:他者接触による心拍変動if(他者に接触→心拍上昇){ 排除モード = on;}```その部分までは、いつもの処理と同じだった。想定された範囲の反応。だが、次の行に手を移したとたん、鉛筆の先が紙の上で迷った。```cif(相手 == 大和){ 排除不可; 接近による安心感 = 存在;}else { 新しい関数が必要か?}```その文を書いたあと、彼はしばらく鉛筆を動かさなかった。紙面を見下ろしたまま、視線がそこに固定される。呼吸が静かに浅くなる。機械的に一定だった心拍が、またしても上昇しているのがわかる。耳の奥で、ざわつくような拍動の音が響いた。「心臓が動きすぎる。うるさい。……怖い」小さな声で呟いたその言葉が、まるで誰かに聞かれるのを恐れるように、空気のなかで淡く消えた。手帳に記された文面は、論理的な記述でありながら、そのどれもが自分の混乱を隠せていない。通常の他者との接触に対しては、明確な反応ルールがある。目を合わせず、距離を保ち、必要最小限の発話で済ませる。それが最も低コストで済む方法だった。しかし、大和だけは、そのパターンに当てはまらなかった。彼が部屋にいるとき、心臓は必ず速くなる。だがそれは、かつてのような警戒によるものではなかった。むしろ、彼が発する音、呼吸のリズム、足音の強さ、そうした些細な情報のすべてが、自分の内部で「安心」の定義に収束していくのがわかる。高田は目を閉じた。呼吸を整えようとするが、なぜか酸素が喉を通りにくい。わ
夕方の光が薄く部屋の窓辺を染めていた。高田の部屋は、いつものように静まり返り、空気は温度も匂いも一定で、整いすぎていた。大和は玄関で靴を脱ぎながら、手に持ったコンビニ袋から、今夜の夕飯を取り出していた。買ってきたのは、高田の好きそうな魚の照り焼き弁当と、あんこ入りの和菓子ひとつ。甘いものが好きかどうかはわからないが、前に一度口にしたとき、ほんの少し眉がほどけたように見えたから、なんとなく手に取っていた。キッチンの明かりを点けると、奥の部屋から高田が現れた。白いパーカーのフードをかぶったまま、無言でソファに腰を下ろす。挨拶も交わさず、それでも拒まれている感じはなかった。これが、いつもの彼との関係のかたちだった。「今日の、魚。甘めの味付けっぽいから、食べやすいかもな」そう言って、弁当のフタを外す。高田はちらりと視線を落として、軽くうなずいた。小さな音で「いただきます」と呟いたあと、箸を手に取った。二人の間に流れるのは、言葉ではなく咀嚼音と、器の鳴る微かな音だけだった。テレビも音楽もなく、それなのに不思議と苦ではない沈黙だった。大和はそういう時間が、いつの間にか心地よくなってきている自分に気づいていた。ふと、箸を置いて口を開いたのは、大和の方だった。「なあ、高田」その声に、対面の高田がゆっくり顔を上げる。「来週、会社の飲み会あんねん。営業も開発も合同で。まあ、強制とかちゃうし、無理ならええんやけど……お前、来てみる?」そう問いかけた瞬間、空気がわずかに揺れた。高田は動きを止めたまま、しばらく何も言わなかった。視線が宙を泳ぎ、やがて一点に固定される。そして、少しだけ口を開いた。「無理。行けない」それは決して冷たくはなかった。声のトーンは一定で、尖った響きもない。だが、明確な拒絶だった。その一言に、大和は箸を置いたまま、眉を動かさなかった。けれど、目元にかすかな曇りが浮かんだのを、自分でもはっきりと自覚していた。肩の奥が、わずかに力を失うように沈む。「……そっか。まあ、無理せんといてな」
社内ビルの二階、カフェラウンジの奥まった席に、大和は深く腰を下ろした。昼休みの時間帯は、どこもかしこも社員たちの雑談で賑わっていたが、ここはガラス張りの仕切りに囲まれた半個室で、外の喧騒はほとんど届かない。向かいに座った島本は、大和の同期で、かれこれ五年の付き合いになる。営業部にしては落ち着いた物腰の男で、そういうところが逆に観察眼を鋭くしていた。「で、高田ってやつ、どうなん?」何気ないようでいて、まっすぐに核心を突くその問いに、大和は苦笑でごまかしながらアイスコーヒーにストローを差した。グラスの内側に氷が音を立て、ゆっくりと回転する。「どうなんって、何が」「いや、最近やたら顔がゆるんどるからさ。そいつの話になると特に」島本は唐揚げサンドにかぶりつきながら、わざとらしく眉を上げてみせた。大和は、視線を落としたまま箸を持ち直した。今日のランチはサーモンの照り焼きと小鉢が数種。いつもなら一口食べればその美味さに自然と頬が緩むのに、今日はなぜか箸が進まなかった。「まあ…ちょっと変なやつやけどな。天才肌っちゅうか。生活力ゼロで、めっちゃ合理主義やのに、なんか妙に繊細でさ」「ふうん」曖昧な相槌を打つ島本の視線は、大和の目元に留まっている。そのことに気づいた瞬間、大和は顔を背けるようにして、コップを持ち上げた。「なに見とんねん」「いや、マジで顔に出てる。わかりやす」大和は笑いながらも、グラスを持つ指先にわずかに力が入った。否定の言葉を探すが、口から出てきそうになるたびに、別の何かに引き留められてしまう。「お前、完全に落ちてるやん」唐突な言葉だったが、どこかやさしい響きだった。島本はそれ以上なにも言わず、残りのサンドイッチをゆっくりと口に運んだ。大和は黙ったまま、視線を天井に向けた。照明が少しだけ強すぎて、目の奥に光が滲んだ。あいつの笑顔が頭をよぎる。練習したような、ぎこちない表情。たぶん、彼自身は“笑顔”の意味なんてまだ理解してない。だけど、あの口元が少しだけ上がった瞬間に、自分の心が確実に何かで満たされるのを、大