夕方の光が薄く部屋の窓辺を染めていた。高田の部屋は、いつものように静まり返り、空気は温度も匂いも一定で、整いすぎていた。大和は玄関で靴を脱ぎながら、手に持ったコンビニ袋から、今夜の夕飯を取り出していた。買ってきたのは、高田の好きそうな魚の照り焼き弁当と、あんこ入りの和菓子ひとつ。甘いものが好きかどうかはわからないが、前に一度口にしたとき、ほんの少し眉がほどけたように見えたから、なんとなく手に取っていた。キッチンの明かりを点けると、奥の部屋から高田が現れた。白いパーカーのフードをかぶったまま、無言でソファに腰を下ろす。挨拶も交わさず、それでも拒まれている感じはなかった。これが、いつもの彼との関係のかたちだった。「今日の、魚。甘めの味付けっぽいから、食べやすいかもな」そう言って、弁当のフタを外す。高田はちらりと視線を落として、軽くうなずいた。小さな音で「いただきます」と呟いたあと、箸を手に取った。二人の間に流れるのは、言葉ではなく咀嚼音と、器の鳴る微かな音だけだった。テレビも音楽もなく、それなのに不思議と苦ではない沈黙だった。大和はそういう時間が、いつの間にか心地よくなってきている自分に気づいていた。ふと、箸を置いて口を開いたのは、大和の方だった。「なあ、高田」その声に、対面の高田がゆっくり顔を上げる。「来週、会社の飲み会あんねん。営業も開発も合同で。まあ、強制とかちゃうし、無理ならええんやけど……お前、来てみる?」そう問いかけた瞬間、空気がわずかに揺れた。高田は動きを止めたまま、しばらく何も言わなかった。視線が宙を泳ぎ、やがて一点に固定される。そして、少しだけ口を開いた。「無理。行けない」それは決して冷たくはなかった。声のトーンは一定で、尖った響きもない。だが、明確な拒絶だった。その一言に、大和は箸を置いたまま、眉を動かさなかった。けれど、目元にかすかな曇りが浮かんだのを、自分でもはっきりと自覚していた。肩の奥が、わずかに力を失うように沈む。「……そっか。まあ、無理せんといてな」
社内ビルの二階、カフェラウンジの奥まった席に、大和は深く腰を下ろした。昼休みの時間帯は、どこもかしこも社員たちの雑談で賑わっていたが、ここはガラス張りの仕切りに囲まれた半個室で、外の喧騒はほとんど届かない。向かいに座った島本は、大和の同期で、かれこれ五年の付き合いになる。営業部にしては落ち着いた物腰の男で、そういうところが逆に観察眼を鋭くしていた。「で、高田ってやつ、どうなん?」何気ないようでいて、まっすぐに核心を突くその問いに、大和は苦笑でごまかしながらアイスコーヒーにストローを差した。グラスの内側に氷が音を立て、ゆっくりと回転する。「どうなんって、何が」「いや、最近やたら顔がゆるんどるからさ。そいつの話になると特に」島本は唐揚げサンドにかぶりつきながら、わざとらしく眉を上げてみせた。大和は、視線を落としたまま箸を持ち直した。今日のランチはサーモンの照り焼きと小鉢が数種。いつもなら一口食べればその美味さに自然と頬が緩むのに、今日はなぜか箸が進まなかった。「まあ…ちょっと変なやつやけどな。天才肌っちゅうか。生活力ゼロで、めっちゃ合理主義やのに、なんか妙に繊細でさ」「ふうん」曖昧な相槌を打つ島本の視線は、大和の目元に留まっている。そのことに気づいた瞬間、大和は顔を背けるようにして、コップを持ち上げた。「なに見とんねん」「いや、マジで顔に出てる。わかりやす」大和は笑いながらも、グラスを持つ指先にわずかに力が入った。否定の言葉を探すが、口から出てきそうになるたびに、別の何かに引き留められてしまう。「お前、完全に落ちてるやん」唐突な言葉だったが、どこかやさしい響きだった。島本はそれ以上なにも言わず、残りのサンドイッチをゆっくりと口に運んだ。大和は黙ったまま、視線を天井に向けた。照明が少しだけ強すぎて、目の奥に光が滲んだ。あいつの笑顔が頭をよぎる。練習したような、ぎこちない表情。たぶん、彼自身は“笑顔”の意味なんてまだ理解してない。だけど、あの口元が少しだけ上がった瞬間に、自分の心が確実に何かで満たされるのを、大
高田の部屋には、相変わらず時計の音ひとつすら存在しなかった。パソコンの排熱ファンのかすかな唸りが、無音の空気にわずかに歪みを与えていた。夕方六時過ぎ、部屋の奥から差し込むオレンジ色の光は、既に温度を失い始めていた。大和は床に置いた保温バッグを開き、二人分の弁当箱を並べている。高田はいつものように黙って座っており、その指先はすでに割り箸の包装を剥がしていた。「ほら、今日は豚のしょうが焼きやで。あと、冷凍の春巻き。こっちはサラダや」そう言って、大和が軽く笑いながらタッパーを渡すと、高田は無言でそれを受け取った。箸の動きは相変わらずきれいで、手首の角度にも無駄がない。味見をするように一口だけ春巻きを噛み、すぐに二口目に進んだ。大和は弁当箱のふたを開けながら、ちらとその顔を見た。そのときだった。ほんの一瞬、だが確かに、高田の口元がわずかに持ち上がったのを大和は見逃さなかった。「……今の、それって練習した?」箸を止めた高田が、大和の声に反応する。首をゆっくりと傾け、その表情は曖昧だった。視線は合わないまま、しかし、質問の意味は理解していた。「……データとしては、喜びの表現が相手に安心を与えるらしいので」それは、答えではなく“説明”だった。感情を伝えるためではなく、現象を報告するための声だった。表情も音調も均一で、笑っていた本人すらその感情を実感していないようだった。大和は、箸を置き、しばらく沈黙した。「お前なあ……」苦笑交じりにそう呟いたが、続きの言葉は出てこなかった。ふと胸の奥にひっかかった何かが、うまく言語化できなかったからだ。まるで、目の前の彼の笑顔が誰か別の人間の“模倣”に見えてしまったような気がした。お前の笑顔、誰かに向けたもんちゃうのか…そんな言葉が喉まで来たが、それをぶつけるのは違うと思った。高田が“笑う”ことに、どれほどの覚悟と演算があったのか、少し想像できてしまったからだった。「それ、データにある
ソファの上で、ふたりの肩がわずかに触れたまま、部屋の空気は静かに落ち着いていた。何かを語るでも、何かを強制するでもなく、ただそこに同じ呼吸が存在していた。深夜の室内はエアコンの低い駆動音と、時折外から届く車の音だけが響いていた。高田の手は新しい絆創膏に包まれ、わずかに熱を持っていたが、その温もりさえも、今は心地よく感じられた。大和は背もたれに軽く体を預けて、天井を仰ぐように目を向けていた。落ち着いたまなざし。疲れているはずなのに、不思議とその顔には穏やかな色が差している。「……連絡をくれたん、初めてやな」ぽつりとこぼれたその声は、どこか柔らかかった。問いでも詰問でもない、ただの気づきのような言い回し。咎めるような響きはどこにもなかった。高田はその言葉にすぐには答えず、わずかに視線を落とした。小さく瞬きをし、濡れたままの前髪を指で払う。その指先に、まだ少し痛みが残っている。「……それは、“喜び”で、合ってる?」沈黙の中にぽつりと落とされた、高田の問い。その声は、ぎこちなかった。問いかけという形を取りながらも、どこか確かめるような…あるいは、初めて発音する言葉を探るような響きを持っていた。大和は一瞬、目を丸くして、それから思わず吹き出した。「せやな。正解。大正解や」笑いながらも、その目元には温かな光が宿っていた。高田の言葉に、確かに心を動かされていたのだと、表情が物語っていた。高田はと言えば、その反応に目をしばたたかせてから、ごくわずかに唇の端を上げた。微笑と言っていいのか迷うほどの、ほんのかすかな表情の変化。それでも、その変化が彼にとってはどれほど大きなものだったか、大和は理解していた。「……むずかしいな、人の感情って」小さく高田が呟く。声はほとんど囁きに近く、聞き取るには耳を澄まさなければならないほどだった。けれど、その中にある真剣さは紛れもなかった。「むずかしいよ。でも、ちょっとずつ覚えていけばええ。こうやって一個ずつ、正
玄関のドアが開いた瞬間、ひんやりとした夜気が室内に流れ込んだ。その風の向こうから、足音が重なる。小走りの気配。駆け込むように姿を現したのは、Tシャツ一枚のまま、濡れた髪と裾を引きずった大和だった。高田は、ただそこに立ち尽くしていた。無言のまま、大和の姿を目で追いかける。体は動かなかった。思考よりも先に、感覚だけが彼を受け入れていた。「高田」短く名前を呼ばれたその声に、胸の奥がきゅっと締めつけられたように反応する。呼吸の仕方を忘れそうになる。次の瞬間、大和の手が伸び、ためらいもなく高田の手を取った。人差し指。包帯の隙間から滲んだ赤を見つけた大和は、眉をひそめた。視線がその指に注がれたまま動かない。触れていた掌の温度が、じんわりと肌に伝わる。「なんやこれ…切れてるやんか。お前、何してたん…」呆れと怒りが滲む声だった。けれど、その奥にある感情は、それとは違う。安堵だった。確かに今、目の前で生きていて、自分の声に反応してくれて、ちゃんと呼吸している。それを確認した人間の、緊張のほどけた声だった。高田は答えられなかった。喉が詰まり、声にならない。答えようにも、適切な言葉が見つからなかった。「封筒、開けようとして…うまく…できなくて」ようやく出てきたのは、音としても頼りない、断片的な言葉だった。けれど大和は、それを聞いてふっと口元を緩めた。「アホやなあ、お前」そう言って、大和は微笑んだ。その笑みは、怒っているようで怒っていない、叱っているようで、ただ包み込むような、そんなやさしさを孕んでいた。高田の心臓が、ほんの一瞬だけ跳ねる。視線は絡まなかった。けれど、繋がっていた。大和の手が包帯の上からそっと指を握ったまま、何も言わずに自分を見ているのが分かった。言葉以上に、確かなものがそこにはあった。それから大和は手を放し、台所に向かって歩いた。手馴れた様子で戸棚を開け、薬箱を取り出してくる。戻ってきたときには、消毒液と新しい絆創膏を手に持っていた。「ちゃんと消毒せな、化膿するで」低く静かな声。まるで、いつ
夜はとっくに更け、空気の温度も音も、感覚が曖昧になるほどに静まり返っていた。マンションの最上階。外の街路灯が室内にうっすらと影を落とすなか、高田はソファの背にもたれ、身じろぎもせずに目を開いていた。画面のスリープモードが切り替わり、ノートPCの黒い画面に自分の映像が映る。それを見ていたのか、それとも見ていなかったのか、自分でもわからないまま、ただ何かを待つように座り続けていた。作業は中断していた。体も思考も、もう数時間まともに動いていない。タスク管理アプリは未処理の通知をいくつか掲げたまま、画面の隅で点滅していたが、反応する気になれなかった。書類も、コードも、ログも、何ひとつ処理できなかった。頭の中にはずっと同じ言葉がぐるぐると巡っていた。大和がいない、という現実だった。ふと、手がスマートフォンを探していた。意図的な操作ではなかった。あまりにも自然すぎて、指先がホーム画面を開き、通話アプリを立ち上げていたことに、しばらく気がつかなかった。ディスプレイの中央に浮かぶ、たった一つの名前。大和奏多。それを目にした瞬間、喉がつかえるような感覚が走った。呼吸が乱れたわけではない。けれど、どこか深いところで、何かが確実に反応していた。通話アイコンに指を乗せる。その動作が、これまでにないほど重く感じられた。発信ボタンを押すという行為は、いわば自分から相手に手を伸ばすこと。それは高田にとって、いまだかつて一度も行ったことのない処理だった。誰かに何かを求める。それは、彼の中でずっと定義されていなかった命令文だった。それでも、指は止まらなかった。ボタンを押す。その瞬間、心のどこかで何かが確かに初期化される音がしたような気がした。呼び出し音が鳴る。ひとつ、ふたつ…そして、三つ目の音が鳴り終わる前に、相手は出た。「…高田?」受話器の向こうで聞こえる声は、少し眠そうで、それでも柔らかく、間違いなく自分の名前を呼んでいた。しばらく言葉が出なかった。何を言えばいいのか分からなかった。伝えたいことも、理由も、理屈も整理されていなかった。だが、感覚だけが、口を開かせた。「&he