昼間の喧騒と、あの決意が、嘘のように遠い。 僕は一人、夕暮れの商店街を歩いていた。 惣菜屋から漂う揚げ物の匂い、八百屋の店主の威勢のいい声、家路につく人々のざわめき、そして、どこかの家の窓から漏れ聞こえてくるテレビの音。 見慣れた、いつもの帰り道。 聞こえているはずの音は、いつもと同じ。 なのに──なぜだろう。 全ての音が、まるで分厚いガラス一枚を隔てた向こう側で鳴っているかのように、ひどく空虚に感じられた。賑やかなはずの世界から、自分だけが切り離されてしまったかのような、奇妙な静寂。 (なんだろう…この感覚…。いつも見慣れているはずの、この景色なのに……) 僕がその違和感の正体を探して、無意識に視線を彷徨わせた、その時だった。 道の向こうに、「それ」はいた。 焦点の合わない虚ろな目で、口の端からだらりと涎を垂らした、一人の霊。 その霊は、何かに突き動かされるように、商店街を行き交う人々に向かって、無差別に殴りかかっていた。もちろん、その腕は、何事にも気づかない人々の体を、虚しくすり抜けるだけ。 だが、その行動は、僕が今まで見てきたどんな霊とも違っていた。そこには、意思も、明確な憎悪もない。ただ、空っぽの衝動だけがあるように見えた。 僕は、すっと息を吸い込むと、霊眼術を発動させた。 世界から色彩が抜け落ち、霊的な存在だけが色を帯びて浮かび上がる。 そして、僕の目に飛び込んできたのは──燃えるような、真っ赤な影だった。 (敵意を持った霊…!!) 間違いない。あの霊は、危険だ。 けれど、その禍々しい影とは裏腹に、その行動はあまりにも支離滅裂で、どこかおかしい。ただならぬ気配は感じる。やばい、という直感もある。でも、それ以上に……。 (なんだ…あの霊は…!通りがかる人に当たるはずの無い拳を振ってる…??) その、不気味で、どこかちぐはぐな姿から、僕は目を離すことができなかった。 あのまま放置しておくのは、まずい。 僕の本能が、強く警鐘を鳴らしていた。 僕は、すっと手のひらに意識を集中させる。じりじりと、霊力が熱を持って集まっていくのが分かった。やがて、僕の手のひらの上に、小さな光の粒が生まれる。 「星燦ノ礫…!!」 僕がそう呟くと同時に、圧縮された碧い光の弾丸が、手のひら
……夜が明けた。 あれほどの絶叫と謎に満ちた夜が、嘘だったかのように、穏やかな秋の朝が訪れる。教室の窓から差し込む陽光は柔らかく、空はどこまでも高く澄み渡っていた。 けれど、僕の心は、昨夜の出来事に囚われたまま、重く沈んでいた。 「よっ悠斗〜」 「……おはよう」 不意に声をかけてきた翔太に、僕は力なく返す。 「なんか浮かない顔してんじゃんか」 「えっ…」 そんなに分かりやすかっただろうか。内心で驚きながらも、僕は昨晩の出来事を思い返していた。あの恐怖に引き攣ったおばあさんの顔、そして、脳に焼き付いて離れない断末魔の叫び。 「実はさ…」 結局、僕は翔太に、昨夜の廃校での出来事をかいつまんで話した。もちろん、美琴や僕の能力について翔太は知ってるから、包み隠さずに。 「……っていう訳なんだ」 「へぇ〜」 僕の話を聞き終えた翔太は、分かっているのかいないのか、なんとも言えない相槌を打つ。 「いや、俺は幽霊のこととか詳しくないからよく分かんねぇんだけどさ。幽霊って普通、消えるもんなんじゃねぇのか?」 その、あまりにも単純な言葉に、僕は妙に納得してしまった。 そうだ。霊という存在を知らない人からすれば、それが「普通」だ。未練を断ち切れば、彼らは光となって消えていく。翔太の言葉は、一般的な認識としては正しい。 (でも、昨日の幽霊は明らかに様子が違った。恐怖に歪んだあの顔、断末魔の叫び、そして、まるで存在そのものが消し去られたかのような、痕跡の完全な消滅……) 何かが、絶対におかしい。 僕は込み上げる違和感を頭の片隅に押しやると、もうすぐ始まる授業に意識を戻そうと、無理やり教科書に視線を落とした。 *** 昼休み。僕たちは、久しぶりに二人で屋上のベンチに座り、弁当を広げていた。 「なぁ悠斗」 「なに?」 唐揚げを口に放り込んだ翔太が、唐突に言った。 「お前、いつ美琴ちゃんに告白すんだ?」 「ゴホッ...ウッ...ゲホッ!!」 その一言に、僕は盛大に麦茶を噴き出しそうになった。 「お?動揺したな?」 ニヤニヤと笑う翔太を、僕は涙目で睨みつける。 「いきなり何を…!」 「いや…お前なぁ…。お前たちの様子を見てると、こっちも文句の一つや二つ、言いたくなるってもんだ
あれだけ焦がすようだった太陽の熱は影を潜め、耳元で鳴り響いていた蝉時雨《せみしぐれ》も、いつしか聞こえなくなった。空は高く澄み渡り、アスファルトの照り返しの代わりに、冷たく乾いた風が頬を撫でる。 夏が、終わったんだ。 校庭の木々が、赤や黄色にその葉を染め上げる 季節。僕たちの周りの世界は、鮮やかな紅葉に彩られていた。 「そういえば悠斗くん」 昼休みの、人の少ない中庭。ベンチに座ってぼんやりと空を眺めていると、隣にいた美琴が不意に口を開いた。 「ん?」 「前に私が話した、廃校のこと覚えてるかな?」 「もちろん。確か、おばあさんの霊が出るっていう場所…だったよね?」 「そうそう!毎晩、同じ時間に現れては、校舎の中を誰かから逃げるように徘徊してるんだって。そこに居合わせた人に、目撃されるっていう、有名な心霊スポットなんだよ。」 「なるほど。じゃあ、そこに今晩行かない?ってことだね?」 僕が悪戯っぽくそう言うと、美琴は少しだけ驚いた顔をしてから、嬉しそうに笑みを浮かべる。 「さすが悠斗くん…!鋭い…!」 「はは、いいよ。じゃあ今夜、行ってみようか。」 「ありがとっ!」 こうして僕たちは、その日の夜、町外れにあるという廃校へ向かうことになったんだ。 *** 「待ってください!話がしたいだけなんです!」 月明かりだけが差し込む、埃っぽい廃校の廊下。僕の叫びは、虚しく響くだけだった。 目の前では、半透明の姿をしたおばあさんの霊が、怯えきった顔で必死に逃げ惑っている。 『ひぃぃぃ…!!来ないでおくれぇぇ!!』 尋常じゃない怯え方だ。 普通、心霊現象といえば、霊の方が生者に恐怖を与えるもののはず。なのに、この霊は、まるで僕が恐ろしい化け物ででもあるかのように、ただひたすらに逃げようとしている。その様子に、僕は強い違和感を覚えていた。 霊は、ふわりと宙に浮きながら、淀みない動きで階段を駆け上がっていく。疲れを知らない相手とは対照的に、僕の肺は酸素を求めて悲鳴を上げている。 「はぁ…はぁ…!ま、待ってくださいってば!」 上の階の廊下に出ると、角を左に曲がっていく霊の背中が見えた。 その、直後だった。 『ぎゃぁぁぁ!!離しておくれぇ!!』 甲高い悲鳴。 そして、曲がり角の向
僕はどかした岩の隙間を再びくぐり抜け、あの静謐な空間へと一人で戻った。 ひんやりとした空気が、肌を撫でる。僕は固く握りしめていた瓶を見つめ、海へと繋がっている水路の前に立つ。 ──これは彼女の物だ。 「想いの込められたこの宝が、誰の手にも渡らず、持つべき人へ届きますように……。」 それは、祈りにも似た呟きだった。 僕は、その瓶を、そっと水路へと投げ入れる。ぽちゃん、と小さな音を立てて、瓶は水面に吸い込まれ、あっという間に暗い水の向こうへと消えていった。 「はは……人魚、か。幽霊とは違って全く未知の存在だけど、この瓶が、人魚の元へ届くと良いな。」なんて思う。生きてるかさえ定かじゃない物語に出てくる人魚。でも、不老不死と言った伝説が、僕の胸を僅かにだが期待させる。 ……これで、僕たちの役目は終わりだ。 そう思い、僕が踵を返して来た道を戻ろうとした、まさにその直後だった。 ──すぐ真後ろで、あの歌が聞こえた。 さっきまで遠くから響いていただけの、あの物悲しいハミングが、まるで吐息がかかるほど近くで、僕の耳元で直接響いた。 そして、歌声と同時に、心臓を掴むような、大きな水音が背後で弾けた。 「えっ……!?」 僕は弾かれたように振り返る。 けれど、そこには誰もいなかった。 ただ、先ほどまで穏やかだったはずの水路の水面が、大きく波紋を広げ、周りには今まさに弾けたばかりの、生々しい水しぶきが飛び散っているだけ。 僕は、ただ唖然とその光景を見つめることしかできなかった。 *** 「ただいま……」 呆然としたまま美琴の元へ戻ると、彼女は心配そうな顔で僕を迎えた。 「おかえり!どうだった?」 「なんかさ…もしかすると、すぐそこに、人魚が居たのかもしれない……」 「えぇ!?そ、それってどういうこと??」 うまく言葉にできた自信はなかったが、僕は今しがた起きた、信じがたい出来事を彼女に話した。すぐ背後で聞こえた歌声のこと、そして、大きな水音と、その痕跡のこと。 僕の話を聞き終えた美琴は、驚きに目を見開いていたが、やがて静かに呟いた。 「それは…人魚、かもしれないね…。」 「だ、だよね……?」 「でも……それが人魚なら……私は良かったって思ってるよ。」 「うん…確かに…。ひと
「風が来てるね」 「さ、最後に行ってみようよ!!」 僕の背中で、美琴が力強い声を上げた。 「えっ、でも美琴の足の方が……」 「いいからっ!私、ここで宝探しをあきらめる方が後悔しちゃうよ?それでもいいのかなぁ?」 悪戯っぽく、でも真剣な響きを帯びたその言葉。 (この子は、なんてことを言うんだ……。) 自分の痛みよりも、僕の気持ちを優先してくれる。その優しさが、ありがたくて、少しだけ胸が痛んだ。 「ふふっ、さぁ悠斗くん!早くあっちへ連れて行って!」 僕は、その思いやりに感謝しつつ、彼女が指差す風の吹いてくる方へと、ゆっくりと歩き出した。 洞窟の奥、暗闇へと続く通路。そこから吹き付けるひやりとした風は、まるで僕たちを誘っているかのようだった。 「ここから風が来てるみたいだね……」 「すきま風だったのか…?」 風の出どころは、行き止まりに見える壁のようだった。だが、何かが違う。 「あっ、悠斗くん…この壁、変じゃない?」 「えっ?あっ……」 美琴に言われてよく見ると、確かにその壁は、自然にできた岩肌ではなかった。大小さまざまな岩が、明らかに人の手によって積み上げられ、壁として設えられている。 「岩で壁を作っていたのか……!」 「悠斗くん」 僕の背中で、美琴が期待に満ちた声を出す。 「はぁ…….わかった。じゃあ、ちょっと待ってて。」 美琴を転ばないように下ろしてから、 僕は自分が羽織っていたシャツを脱ぐと、それを洞窟の地面にそっと敷いた。 「えっ?」 「美琴、この上に座って」 「で、でも汚れちゃうよ!」 「汚れなんていいから。それに、そのまま座ったら砂利とかで怪我するかもしれないでしょ?」 僕は美琴を背中から降ろし、その手を支えながら、ゆっくりとシャツの上に座らせた。 「うぅ……」 不満そうな、でもどこか嬉しそうな、複雑な声が彼女から漏れる。 「よし……それじゃあ、少しだけ待ってて。あれをどかしてみるから。」 僕は積み上げられた岩に手をかけた。一つ一つ、丁寧に、音を立てないように持ち上げて脇にどかしていく。全部を崩す必要はない。僕が一人、なんとか通れるくらいの隙間があればいい。 *** 十分ほどそうしていただろうか。滴り落ちる汗を腕で拭う。目の前には、
「まだ……聞こえる」 僕の呟きに、美琴は黙って頷いた。 あの物悲しいハミングは、島の奥深くから、まるで僕たちを手招きするかのように流れ続けている。 僕たちは濡れた身体の上から一枚シャツを羽織ると、まるで何かに憑かれたかのように、再び無人島の中へと足を踏み入れた。 *** 草木をかき分け、歌声だけを頼りに進んでいく。 陽光が遮られた森の中は、さっきよりも空気がひやりと冷たい。楽しい海水浴の雰囲気はもうどこにもなく、島の持つ本来の、静かで、どこか人を寄せ付けないような空気が、肌を粟立たせた。 その時だった。 ふと、耳を澄ましても、あの歌声が聞こえなくなっていることに気づいた。 「あっ、歌が消えたみたいだ……。」 「…………?」 僕がそう言うと、美琴は立ち止まり、不思議そうに首を傾げた。 「美琴、どうかしたの?」 「悠斗くん……向こうから、なにかドドドドド……って音がしない??」 美琴が指差す方向へ、僕も全神経を集中させる。確かに、地響きのような、何かが激しく打ち付ける音が響いてくる。 「これは……滝……?」 間違いない。これは滝の音だ。 「私たち、外から回って宝物を探したけど、中央の方を探してた時はこんな音しなかったよね?」 「うん。でも、一定の時間を空けて滝が流れてる……なんて場所もあるから、もしかするとその時は滝が流れてなかったのかも…」 美琴の疑問に、僕はそう推測を口にした。 「美琴、行ってみよう。もしかすると、当たりかもしれない。」 僕たちは、その地響きのような音を目指して、さらに島の奥深くへと進んでいった。 *** そして、たどり着いた先にあったのは、圧巻の光景だった。 巨大な岩壁を、大量の水が轟音と共に流れ落ちている。滝壺から舞い上がる水飛沫が、まるで雨のように僕たちに降りかかり、肌を濡らした。すぐ隣にいるはずの美琴の声さえ、ほとんど聞こえないほどの、圧倒的な迫力。 「すっごい迫力だ……」 僕が呆然と呟くと、隣で美琴が何かを叫んでいるのが分かった。 「ねぇ……!悠……くん!あっち……隙間……あるよ!」 滝の音に遮られて、言葉は断片的だったけれど、彼女が指差す方向を見て、僕は息を呑んだ。 滝が流れ落ちる岩壁の、その右側に、人が一人、なんとか通れそう