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一一〇話:炎の対価

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2025-07-03 07:46:03

黒崎の叫びが、空気に溶けていく。

最後の残響が消えるより先に、美琴の身体が傾いだ。

「美琴っ!」

駆け寄る。彼女の肩を掴んだ手に、熱が伝わった。異常な熱。制服越しでもわかるほどの。

「……はぁ……はぁ……」

額から汗が流れ落ちている。一筋ではない。滝のように。風鳴トンネルのときとは比べものにならなかった。あのときも代償はあった。でもここまでじゃない。顔色は紙のように白く、呼吸のたびに肩が大きく揺れている。

「ご……ごめん、なさい……。代償が……きます……っ」

「謝らなくていい!!」

声が裏返った。そんなことはどうでもよかった。

「お、おい! これが代償ってやつなのか!?」

春雪が横から覗き込み、美琴の顔を見て息を呑んだ。

「前より酷い……! とにかく急いで彼女を……!」

「わ、わかった!」

美琴を背負う。

——軽い。

支えたときから感じていた。けれど背中に乗せた瞬間、その軽さが別の意味を帯びた。人の身体は、こんなに軽いものだろうか。

彼女は言っていた。代償は霊力の枯渇と高熱、それに伴う意識の喪失だと。

だが——これは。

背中に感じる体温は燃えるように高いのに、その下にある身体があまりにも薄い。嫌な思考が巡るが悠斗は慌ててそれを振り払った。

春雪と並んで走る。美琴の呼吸が、背中越しに小さく聞こえている。

石津製鉄所が、夜の闇に遠ざかっていった。

*​​​​​​​​​​​​​​​​

石津製鉄所を出てから、もう十分以上が経っていた。

バス停のベンチに座り、美琴を背中に抱えたまま、悠斗は何度目かわからない視線を道路の先に向ける。ヘッドライトの気配すらない。

「もう十分以上待ってる……!」

「おかしいな、ちょっと待ってろ。調べる」

春雪がスマホを取り出し、画面を覗き込んだ瞬間、顔が歪んだ。

「げっ……」

「なにかあった?」

「この工業団地行きのバス、事故で大幅に遅延してる」

「こんな時に……!」

背中で、美琴が小さく呻いた。制服越しの熱が、さっきよりも上がっている気がする。

待てない。

「タクシーにしよう」

「はぁ!? 待て待て待て、ここから俺たちの家まで一時間はかかるだろ!? 万近く飛ぶぞ!?」

「そんなこと言ってる場合じゃない!」

今すぐにでも横にさせてやりたかった。布団に寝かせて、額を冷やして、せめて楽な姿勢をとらせてやりたい。その一心で、声が尖る。

「くそ——じゃあせめてもう少し歩いてから呼ぼうぜ! 大通りに出りゃ捕まりやすい」

そんな時間すら惜しい。そう言いかけた、その時だった。

背後から、クラクションが鳴った。

ぷぁぁぁん。

振り返ると、見覚えのある車が路肩に滑り込んでくる。運転席の窓が下がり、聞き慣れた声が飛んできた。

「やっぱり悠斗じゃないか! それに美琴ちゃん——!? どうしたんだい、ずいぶん具合が悪そうだね!」

「静江さん!? それに竹本さんも!」

助手席から静江が身を乗り出し、美琴の様子に目を細めた。

「お久しぶりですね。……この状況は?」

「話せば長くなるんですけど、また彼女が力を使って……!」

「じゃあ熱があるのかい!?」

「ええ……!」

静江が一瞬で表情を変えた。

「裕二!」

「ええ。皆さん、乗ってください」

竹本が後部座席のドアを開ける。悠斗はまず美琴を奥に横たえた。汗で額に張りついた髪を、指先でそっと払う。

春雪が、乗ってこない。

「春雪? どうしたの」

「……俺、自分で帰るわ」

春雪は開いたドアの外に立ったまま、少しだけ目を逸らした。

「三人で後ろに座ったらぎゅうぎゅうだろ。美琴ちゃんも苦しいと思うんだ。だから少しでも広くしてやってくれよ」

「でも——」

「いいからいいから。先に帰っててくれ」

春雪が、頭を下げた。普段のおちゃらけた空気が、どこにもない。

「……ごめん。俺が石津製鉄所に行こうなんて言い出したから、こんなことになった」

「反省してる」

その声は静かだった。ふざけ半分の謝罪ではない。春雪がこんな顔をするのを、悠斗はほとんど見たことがなかった。

「……本当にいいんだね?」

「ああ。俺はここでバスを待つよ。——ほら、早く行ってやれ」

悠斗は一度だけ春雪を見て、頷いた。

「竹本さん、お願いします」

「わかりました」

エンジン音が静かに高まり、車が走り出す。バックミラーの中で、春雪の姿が小さくなっていく。ひとりでバス停に立つその背中が見えなくなるまで、悠斗は後ろを振り返っていた。

。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸​​​​​​​​​​​​​​​​

静江の家に着いたのは、それから間もなくのことだった。

竹本は三人を降ろすと、仕事があるからと短く告げ、そのまま車で去っていった。残された悠斗は、家の広間で静江に向かい、廃工場で起きたことを順を追って説明していた。美琴はすでに二階へ運ばれ、今は休ませてもらっている。

「あの廃工場にねぇ……」

「ええ。そこに殺人鬼の霊がいて……。対峙することになってしまったんです」

「殺人鬼だって? 大丈夫なのかい?」

自分で口にしながら、悠斗は内心で苦くなる。廃工場に殺人鬼の霊がいた、などと言われて、普通なら眉唾で終わる話だ。けれど静江は茶化しもせず、深く、何度も頷いていた。その顔には疑いより先に、受け止めようとする落ち着きがある。

「怪我は特にはありませんけど。それより…あの……」

「ん?」

「疑わしい、とか思わないんですか?」

そう聞くと、静江は少しだけ目を丸くし、それから鼻で笑うように息をこぼした。

「はっ、何言ってんだい。今さらじゃないか。上で寝てる美琴ちゃんも、あんたも、前に私と詩織を救ってくれただろう? そんなあんたたちを、私が疑うわけないじゃないか」

その言葉に、張りつめていたものがほんの少し緩んだ。肩から力が抜けていくのが、自分でもわかる。

「……確かにそうですね」

「ちょっと待ってな。お茶を用意するから」

「ありがとうございます。……静江さん、一度、僕も彼女の様子を見てきます」

「あいよ。見てきな」

静江はいつもの調子でそう返し、台所の方へ向かっていく。

悠斗はその背を見送ってから、静かに息をついた。家の中には、どこか懐かしい畳と木の匂いが満ちている。廃工場にこびりついていた鉄と焦げの気配とは、まるで別の世界だった。

それでも胸の奥に残る不安は、少しも薄れてはいない。

悠斗は二階へ続く階段へ視線を向け、そのまま足を踏み出した。

詩織のベッドに横たわる美琴は、静かに眠っていた。

額に浮いていた汗はもう乾いている。何度かタオルで拭ってやるうちに呼吸も落ち着いて、頬にわずかに色が戻っていた。熱は下がったらしい。

悠斗は椅子に座ったまま、しばらくその寝顔を見ていた。

「…………」

規則正しい寝息が、暖房の微かな音に混じる。穏やかな部屋だ。柔らかい布団があって、暖かい空気がある。製鉄所のあの冷たさとは何もかもが違う。

なのに、胸の底がずっと重い。

——本当に、これで良かったのか。

その問いが頭を離れない。回り続けている。答えが出ないまま、同じ場所をぐるぐると。

禁術・禊火。代償があると、わかっていた。高熱、霊力の枯渇。美琴の身体にどれだけの負荷がかかるか、聞かされていた。

止めようとした。一度は、確かに。

でも止められなかった。止められないと判断したのは自分だ。彼女の覚悟を見て、その意志を尊重するほうを選んだ。

「僕は……止めれば良かったのかな」

指先が美琴の頬に触れる。まだ少し熱い。さっきより随分ましだけれど、平熱には遠い温度が指の腹に残った。

尊重、という言葉が胸の内で反芻される。あのとき自分がやったことは、本当に尊重だったのか。それとも——ただの逃げだったのか。止める力がなかった自分を、彼女の意志という言葉で覆い隠しただけではなかったか。

美琴の寝息が、ひとつ深くなる。布団の中で指がかすかに動いた。夢を見ているのかもしれない。

その穏やかさが、悠斗の喉の奥を詰まらせた。

正しかったのか、間違っていたのか。答えは出ない。今夜は出ない。明日も、たぶん。ただ、この手がもっと強ければと——そう思う気持ちだけが、暖房の音に紛れて消えずに残っていた。​​​​​​​​​​​​​​​​

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