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一〇八話:死してなお

Author: 渡瀬藍兵
last update Petsa ng paglalathala: 2025-07-02 18:45:25

 意識が、じわじわと遠のき始める。

 悠斗の視界は薄く霞み、輪郭という輪郭が滲んでいた。これほど長く霊眼術を使い続けたことはない。その反動が、今になって一気に押し寄せてきたのだろう。

「うっ……! でも……! まだだ……! まだ僕は……! 全貌を見れていない……!」

 喉を震わせながら、悠斗は無理やり意識を繋ぎ止める。

 石津が言っていた。奴は死んだ後に捕まった——と。その意味を本当の意味で知るには、今まさに目の前で繰り広げられているこの光景を、最後まで見届けなければならない。そう思った瞬間、悠斗は食らいつくように目へ霊力を込めた。

「へへ、おら。どうしたよ? 撃てねぇのか?」

 黒崎が下卑た笑みを浮かべる。警官たちの怒気を煽るような声だった。とうとう一線を越えたのか、次の瞬間、二人の警官が同時に黒崎へ飛びかかる。

「この……!!」

 だが、捕らえる側には制約がある。

 生きたまま確保しなければならない。無力化できればそれでいい黒崎とは、初めから背負っているものが違った。その一瞬の差を、黒崎は迷いなく突く。

「オラァ!!」

「ぐあっ……!」

 低い叫びと同時に、刃が閃いた。掴みかかってきた警官の太腿へ、さらに腰へ、黒崎は躊躇なくナイフを突き立てる。男の身体はたちまち力を失い、そのまま床へ転がった。

「井澤! この……!!」

 もう一人の警官が息を呑む。その隙を見て、黒崎は血のついた刃先をちらつかせながら、じりじりと後ろへ下がっていく。

「おっと、近づくなよ? それ以上来たら……分かるよな?」

「クソ……!!」

「へへ、そうそう。大人しくしてりゃいいんだよ」

 その言い方が、ひどく醜かった。

 優位に立ったから笑っているのではない。ただ、自分よりまともな人間が苦しみながら歯を食いしばっている、その状況そのものを舐めるように楽しんでいる。悠斗の喉が、ひくりと引き攣った。

 黒崎は警官たちと距離を取りながら、逃げ切れると踏んだのだろう。次の瞬間、勢いよく背を向け、そのまま駆け出す。

『仕方あるまい……! 命は奪うな! だが、発砲を許可する』

 無線機の向こうから飛んだ声が、場の空気を一変させた。

「っ!! 黒崎ぃぃぃぃ!!」

 直後、乾いた破裂音が響く。

 状況は、あまりにも目まぐるしかった。逃げ出した黒崎の太腿を、警官の放った弾丸が撃ち抜く。発砲すれば、後からいくらでも責任を問われる。世間への説明もいる。犯罪者にだって人権があると、きっとそういう声も上がるのだろう。

 それでも——無傷で逃がすわけにはいかなかった。

「ぐぁぁぁぁ!!!!」

 黒崎の身体が大きくよろめく。足を撃ち抜かれ、耐えきれず片膝をつく。その顔に浮かんでいた余裕は、もう跡形もなかった。

 ——野郎……っ!! 撃ちやがった……!! この俺を……!! 本当に撃ちやがった……っ!!

 その心の声には、怒りより先に驚愕が滲んでいた。

 自分が傷つけられるはずがないと、どこかで本気で思っていたのだ。だからこそ、撃たれた事実そのものに耐えきれず、黒崎の内側がぐらりと崩れ始めているのが、悠斗にははっきり見て取れた。

「確保だ!!」

 警官たちが一斉に駆け出す。靴底がコンクリートを蹴る音が、工場の壁に跳ね返った。

 その直後——時間が、止まった。

 悠斗の霊眼が、黒崎の内側を捉える。

 ──ちっ。死にたくねぇなぁ……。

 声ではない。声になる前の、もっと深いところから滲んだ感情の残滓。それを悠斗は聞いた。聞いてしまった。

 刹那、黒崎の右手が動いた。

 ナイフの刃が、自らの喉を横に走る。ためらいのない一閃。血が噴き出すより先に、黒崎の膝が崩れた。

「な——なに!?」

「……っ!」

 警官たちの足が止まる。誰も、あの速度に追いつけなかった。

 傍から見れば迷いのない判断だろう。だが悠斗は見ていた。あの一瞬の静止を。黒崎の瞳が宙を泳いだ、ほんの刹那の空白を。

 あれが、迷いだった。

 死にたくない。何人もの命を踏みにじっておきながら、最後に浮かんだ言葉がそれだった。悠斗の指が、無意識に拳を握る。今まで感じたことのない種類の怒りが、腹の底から這い上がってくる。

 ──……へへ。捕まったらどうせ……死刑だ……。だったら俺は……裁かれねぇ。俺の命を他人に踏みにじらせたり……しね……ぇ……。

 ──俺の勝ちだ……。

 勝ち。

 その言葉が、悠斗の中で空転する。何に対しての勝ちなのか。誰に対しての勝ちなのか。理解が追いつかない。ただ一つだけ確かなのは、黒崎がこの街に刻んだ傷跡は、あまりにも深かったということだった。

「クソ……!  こいつ自決しやがった……!!」

 若い警官が地面を殴る。拳が赤く汚れた。

「警部補。すみません、黒崎が……自決しました」

 年嵩の警官が無線機に向かって報告する。声は平坦だったが、マイクを握る手の甲に血管が浮いていた。

『なに!? 救急車を使ってもダメなのか!?』

「傷が深すぎます。救急車は——間に合いません」

 沈黙。無線の向こうで、誰かが息を吐く音がした。

『……そうか。それなら仕方ない。世間には、黒崎は捕まえたと報道させろ』

「警部補、それは——!」

『仕方のないことだ。犠牲者の家族に、容疑者が自殺したなんて言えるか? 今回はあまりに死人が多い……。やむを得ない事態だ』

 若い警官が唇を噛み、視線を落とす。血溜まりの中で事切れた黒崎の顔は、笑っているようにも見えた。

「クソ……っ!!」

 拳をもう一度、地面に叩きつける。

「こいつのせいで、どれだけの……!」

「……やめろ。これ以上殴っても、お前の手が壊れるだけだ」

 年嵩の警官が静かに制した。その声にも、押し殺した何かが滲んでいる。

「こいつを捕まえたことにしなければならない。被害者の家族のためとはいえ——こんな結末とはな」

 報われない。誰一人として。被害者も、その家族も、この場にいる警官たちも。あまりにも虚しい幕切れだった。

 だが——。

 悠斗の霊眼が、それを捉えた。

 黒崎の身体から立ち昇る、黒い靄。死んだはずの男の口が、にぃ、と裂けるように開く。

 ──はっ。捕まえただと!? ふざけんじゃねぇ!!

 霊となった黒崎が、警官たちの頭上に浮かび上がる。生前よりもなお濃い、底なしの悪意。

 ──俺はずっとここにいるぜ!! これからも殺し続けてやるよ! 何人も、何百人でも!!

 警官たちには見えない。聞こえない。彼らはただ、報われない正義の後始末に追われている。

 悠斗だけが、見ていた。死してなお嗤い続ける男を。法も、死も、何ひとつこの男を裁けなかったという事実を。

 指の中で、爪が掌に食い込んでいる。痛みすら、怒りに呑まれて遠い。​​​​​​​​​​​​​​​​

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