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一〇七話:からっぽの怪物

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2025-07-01 19:00:00

『よォ』

『黒崎さん……!? どうしたんですか……!? その血は……!』

『いてて……ちょっと、怪我しちまってなァ』

 黒崎の目がいやらしく嗤う。だが、それに気がつくことなく、佐条は持ち前の優しさから黒崎の元へ駆け寄る。 それが──返り血とも理解しないまま。

『いてー……。こりゃあ手当が必要だよなァ……』

『ま、待っててください!  今、タオルとか取ってきますので……!』

  そんな彼女が背後を向いた瞬間――黒崎は素早く手を伸ばし、佐条の胸を荒々しく鷲掴みにした。

『きゃっ!??』

 黒崎の大きな手が、服の上から佐条の豊かな膨らみを強く揉みしだく。指が深く沈み込むほどに、柔肉を貪るように形を変えながら、卑猥に捏ね回す。親指が特に敏感な頂の辺りを執拗に押し潰し、擦り上げるように動く。

『く、黒崎さん……!? や、やめて……!』

『お前、散々俺を弄んでくれたよなぁ…。その分はしっかり払って貰わねーと』

 黒崎は低く笑いながら、さらに力を込めて胸を掴み直す。指の腹でぐにゅぐにゅと柔らかさを堪能するように揉みほぐし、時折爪を立てて布地越しに敏感な部分を引っ掻く。佐条の体がびくんと跳ねるたび、彼の嗤いはますます下品に歪んだ。

「っ……!! やめて!! 誰かぁ!! 助け——」

 叫びが最後まで形になるより早く、黒崎が忌々しそうに顔を歪めた。次の瞬間、その足が容赦なく振り抜かれる。鈍い音が響き、佐条の膝が曲がるはずのない方向へ折れた。

 支えを失った身体が、そのまま床へ崩れ落ちる。

「ぎゃあぁぁ……っ!!」

 耳を裂くような悲鳴だった。聞いた瞬間、喉の奥がきゅっと強張る。それでも黒崎は眉ひとつ動かさず、倒れた佐条を見下ろしていた。

 口元には、ぞっとするほど軽い笑みさえ浮かんでいる。

『なぁ? 俺に逆らうからこうなんだよ。最初から大人しく受け入れときゃよかったんだ』

「……痛い……!! 痛いぃぃ……!!」

 佐条は折れた足を庇うことすらできず、床に爪を立てるようにもがいていた。息は乱れ、顔は涙と脂汗でぐしゃぐしゃだ。痛みから逃れようと身を捩るたび、余計に悲鳴が漏れる。

 なのに黒崎の目は、ひどく乾いていた。

「ちっ、なんだ。足が逆方向に向いただけで、つまらねぇなぁ」

 その言葉を聞いた瞬間、悠斗の心はすうっと沈んだ。冷たい泥が胸の内側へ流れ込んでくるみたいに、じわじわと重く、鈍く、深く。

 痛みにのたうつ相手を見ても、何も感じていない。

 いや、感じていないどころか、まだ足りないとでも言いたげだった。そこにあるのは怒りですらない。ただ、自分の思い通りにならなかったことへの幼稚な苛立ちと、それを晴らすためだけの暴力。あまりにも空っぽで、あまりにも醜い。

 悠斗は唇をきつく結んだ。

 視界の奥で、佐条が震えている。助けを求める声も、床を擦る音も、全部ちゃんと人間のものなのに——目の前の黒崎だけが、その輪の外に立っているように見えた。

 これは、もう人間の所業じゃない。

 人の形をしているだけだ。そんな確信が、重い鉛みたいに胸の底へ沈んでいく。

 さらに、黒崎の凶行は止まらなかった。

 鉄パイプが何度も振り下ろされ、そのたびに鈍い衝撃音が地面へ叩きつけられる。乾いた金属音が工場の空気を引き裂き、そこに混じる荒い息遣いが、場の惨状をいやでも際立たせていた。

「や、やめて……! こないで……っ!!」

 怯えきった声に、黒崎の口元が歪む。

「てめぇ。来ないでだと? まだ分からねぇみたいだな」

 低く吐き捨てる声には、怒りというより、相手を踏みにじることに慣れきった冷たさがあった。黒崎は鉄パイプを肩に担いだまま、逃げ場を失った佐条を見下ろしている。

「てめぇは今、この場で俺に何かを言える立場じゃねぇんだよ」

 次の瞬間、黒崎が鉄パイプを振り上げた。

 もう駄目だった。悠斗はついに、その光景から目を逸らしてしまう。直後、肉と骨のどこかを確かに打ち砕いたと分かる音が響いた。

 鈍く、重い音だった。

『あーあ、もったいねぇことしちまったじゃねぇか。せっかくそれなりのツラしてたのによ』

 その言葉に、悠斗の背筋を粘ついた冷気が這い上がる。

 人を傷つけた直後とは思えない。壊したものを惜しむみたいに軽く言ってのける、その無神経さがむしろ生々しかった。命ではなく、顔が駄目になったことしか見ていない。そこにあるのは、もう残虐ですらなく、ただ底の抜けた空虚さだった。

 そのときだった。

 どこからともなく、パトカーのサイレンが鳴り響く。鋭い警告音が工場の空気を切り裂き、今さらのように現実の輪郭を引き戻してくる。

「……まだだ。俺の怒りはこんなもんじゃ収まらねぇ」

 黒崎はそう呟いた。

 そこから先は、まさに地獄だった。時間の流れさえ歪んだように長く、重く、救いのないまま過ぎていく。五人以上が殺され、黒崎は目に入るものすべてを、文字通り壊していった。

 人も。物も。区別なく。

 やがて、外から拡声器の声が響く。

「黒崎剛三!! おまえは囲まれている!! 被害者を即刻解放し、投降しろ!」

 その声は確かに届いていたはずだった。

 けれど、もう遅かった。黒崎のそばにいた被害者たちは、すでに誰も動かない。助けを待つはずのその場には、返事の代わりに、重たく沈んだ静けさだけが残っていた。

 *

「動くな!!」

 怒号とともに、黒崎へいくつもの銃口が突きつけられた。

 さすがの黒崎も、今度ばかりは表情を強張らせていた。額には冷や汗が滲み、口元の引きつった笑みもわずかに揺らぐ。追い詰められている——その事実だけは、嫌でも理解したらしい。

 ——ここで俺は……! 終わらねぇ……! 終わる訳には……!!

 その焦りが、空から零れるみたいに悠斗の耳へ落ちてくる。

「お前……っ!! 一体何人殺した!?」

 警官の怒声は、もはや問い質すというより、絞り出した叫びに近かった。けれど黒崎は、そんな激情すら鼻で笑うように顎を上げる。

「さぁな?」

「この……!」

 一人の警官が今にも引き金に指をかけそうな気配を見せる。だが黒崎はそこを見逃さない。怯えを呑み込んだまま、ぬるりとした笑みを口元に貼りつけた。

「おっとぉ、撃っていいのかぁ? 生きて捕まえないとだろ?」

 その言い方は、ひどく人を食っていた。

 自分が優位に立っていると信じている者の声だった。実際には囲まれ、逃げ道などほとんど残されていないはずなのに、それでもなお相手の正しさや職務を嘲る余裕だけは失っていない。警官たちの顔に怒りが濃く滲んでいくのが、離れた悠斗の位置からでも見て取れた。

「警部補! 射殺の許可を!!」

 張り詰めた空気の中、無線越しの低い声が返る。

『……ダメだ。そいつは生かせて償わせねばならない』

 その一言で、場の熱が別の形に変わった。

 撃てば終わる。けれど、撃てない。法が、秩序が、人として守るべき線が、ここで引き金を止めている。黒崎はそこに気づいたのだろう。唇の端が、またゆっくり吊り上がる。

 ——ほらな。どうせこうなることはわかっていた。つまり、あとはどうにか逃げ切れれば俺の勝ちだ!

 その本心に、悠斗は息を詰めた。

 こいつは最後まで同じなのだ。殺した命の数にも、砕いた人生にも、ひとかけらも重みを感じていない。ただ自分がどう生き延びるか、それだけしか頭にない。そこまで来ると、もう残酷という言葉すら浅く思えた。

 黒崎が自認していた通り、空っぽだった。

 けれど、その空っぽのまま、黒崎はここまで人を壊してしまえたのだ。そこにあるのは巨大な悪意ですらない。ただ底のない欠落だけで、それが何よりもおぞましかった。

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