不意に、結界を維持する己の掌に、じっとりと嫌な汗が滲むのを感じた。ざあ、と遠くで風が木々を揺らす音が、やけに大きく耳に届く。**あの、おぞましくも哀しい負の感情の奔流から、僕の意識はまるで深海から無理やり引き上げられたかのように、強引に現実へと引き戻された。「っ……! おぇ……ぇ……っ!」胃の奥からせり上がってくる強烈な吐き気。千年の絶望を一度に流し込まれた魂が、悲鳴を上げていた。あまりにも痛々しく、救いのない彼女達の過去の記憶。その中で、僕の心を何よりも強く打ちのめしているのは……美琴もまた、自らの命を削って術を使用しているのかもしれない、という残酷な可能性だった。それが、どうしようもないほど強烈で、冷たい不安の楔となって、脳髄の奥深くまでこびりついてしまった。僕は、きっと今、ひどく歪んだ、恐ろしい表情で、隣にいる美琴の顔を見つめてしまっているだろう。「…………。悠斗君……大丈夫。そのことは、あとで私がちゃんと説明するから……。今は……今はまず、彼女達に、少しでも癒しを与えてあげましょう……? ね?」僕の心中を全て察したかのように、**美琴がそっと僕の袖を掴んだ。その指先は少し冷たかったが、**どこまでも優しく、そして静かにそう告げる。彼女もまた、あの記憶の奔流を見たのだろう。その美しい眼差しは、先程までの激しい怒りの炎ではなく、まるで聖母のような、深く、温かい慈悲の光を湛えていた。僕は、かろうじて、こくりと小さく頷くことしかできなかった。『……ゴ……ゴ……ゴ……』不意に、結界の中でうずくまる迦夜から、途切れ途切れの声が漏れた。(まさか、また呪詛か……!?)僕は咄嗟に両耳を塞ぐ準備をしたが──『……ゴメン……ナサ……イ…………』それは、先程までの怨嗟に満ちた響きではなく、ひび割れた器から水が染み出すような、か細く、純粋な声だった。心の底からの、あまりにも純粋な……謝罪の言葉だった。あの身を焦がすほどの憎悪の中で、ほんの僅かな、人間としての理性の欠片を取り戻し、彼女達は、僕達へと、確かに謝罪の言葉を伝えてきた。それが、どれほど凄まじく、そして尊いことなのか……あの記憶を視た今の僕には、わかる。でも……僕の口からは、何の言葉も出てこない。ついさっきまで、彼女達に対して、殺意にも似た激しい憎しみを抱いてしまっていた。そんな僕に、
【灯咲桜華の独白】その日、空は、まるで世界の終わりを告げるかのように、重く、暗い雲に覆われていた。冷たい雨が、私の頬を、容赦なく打ち付ける。仲間だった。昨日まで、隣で笑い合っていたはずの巫女だった。その亡骸は、もう、私の目の前で、冷たい土くれと変わらない。心が、軋む。黒く淀んだ感情が、私の中で際限なく大きくなっていく。脳裏に響くのは、もう仲間たちの励ましの声じゃない。甘い毒のような、諦めの囁き。(……やめて)私は、頭を振って、その声をかき消す。ダメだ。そんな感情に、呑み込まれてはいけない。私には、まだ、守るべきものがある。希望が、あるはずだから。***【ある晴れた日の記憶】社の裏手の広場に、私達の歌声が響いていた。私と、数人のうら若き巫女たち。そして、その中心で、満面の笑みを浮かべている子供たち。 ♪なみだの めを つちにうめ ちいさな いのりを かさねたよ 「ないしょだよ」って わらいあい おひさまほほえみかぜがふく ♪きぼうというなの はながさく〜 みんなをてらす はながさく〜この村に生まれ落ちたというだけで、過酷な運命を背負わされた私達にとって、この歌を歌っている時間だけが、唯一の救いだった。子供たちの純粋な願いから生まれた、ささやかな希望の歌。この光景が、この温もりが、一日でも長く続きますように……。私は、空に祈った。青く、どこまでも澄み渡った空に。***──数ヶ月後その日の空は、あの日の青空が嘘だったかのように、重く、暗い鉛色の雲に覆われていた。冷たい雨が、私の頬を、容赦なく打ち付ける。目の前には、小さな、小さな棺桶が三つ、並べられている。数ヶ月前、私の隣で、元気に歌っていた子供たちが、その中に眠っていた。先日、琴音様の呪いの影響で凶暴化した怨霊が、村を襲った。私達、巫女は、必死に戦った。仲間の一人が、命を落とした。それでも……守れなかった。子供たちは、その小さな命を、あまりにも理不尽に、奪われた。私は、崩れ落ちるように、その場に膝をついた。そして、目の前の、小さな棺桶を見つめながら、歌い始めた。もう、何の意味もないと分かっているのに。歌うことしか、私には残されていなかったから。「…なみだの…めを…つちに……うめ……」声が、嗄れている。雨音が、邪魔をす
「はぁ…っ…はぁ……これで……お前は、もう動けない…はずだ…!」肩で荒い息を繰り返しながら、僕は目の前で二重の光の結界に封じられ、なおも獣のように暴れ狂う迦夜を、強く睨み据えていた。美琴の浄化の焔で負った傷、そしてこの二重結界の拘束からは、いくら迦夜でも、そうやすやすとは抜け出せないだろう。『アアアアアアアアアアアァァァァァ…ッッ!!!!!』結界がびりびりと揺れるほど、迦夜が憎悪に満ちた甲高い咆哮を上げ続けている。「お前が……何にそんなに絶望し、何をそんなに憎んでいるのか……今の僕には、まだ本当の意味では理解できない……!」「でも……! お前の、その歪んだ力のせいで……! 美琴の大切な家族は殺され……僕の母さんも、意識が戻らないままなんだ…!」「だから……その全ての元凶である、お前の過去を……今ここで、この眼で、しっかりと見届けてやる」──真実を……知らなければならない。ふと、美琴が静かに僕の隣へと歩み寄ってきた。「悠斗君……本当にすごい。あの迦夜を、完全に封じ込めてしまうなんて……」その声には、純粋な賞賛と、どこか安堵したような響きがあった。「ううん……美琴のあの術が、大きな傷を与えてくれたおかげだよ」僕がそう答えると、美琴は視線を迦夜へと戻し、ポツリと呟いた。「迦夜……あなたのこと、私は……私は、絶対に……」その言葉は途切れ、彼女の肩が微かに震えているのが分かった。僕は、そんな彼女の痛みを少しでも分かち合えるように、真剣な眼差しで、そっと彼女へと自分の右手を差し出した。「……美琴。手を、貸してくれるかな」僕の意図を理解してくれたのだろう。こくりと小さく頷き、彼女の、少し冷たい指先が、僕の手にそっと重ねられ、そして、力強く握り返してくれた。その温もりが、不思議と僕の心を落ち着かせてくれる。繋いだ手の温もりを感じながら、僕は再び結界の中の迦夜を真っ直ぐに見据える。そして、意識を集中させ、古より伝わる記憶視の詠唱を、静かに紡ぎ始めた。「──刻還しの響き……」僕の声が、血色の異空間に、厳粛な音色となって響き渡る。「汝、過ぎし時の断影よ。我がこの静かなる祈りに応え、その魂の記憶を映せ──」僕はそう詠唱を終え、繋いだ美琴の手をより一層強く握り締めながら、自らの意識を、迦夜の魂の、その暗く冷たい深淵の奥底へと、深く、深く沈め
緑色の清浄な焔が、確かに迦夜の禍々しい霊体を、その奔流の中へと包み込んだはずだった。けれど……目の前にいる“アレ”は、僕たちの、か細い希望を嘲笑うかのように、そんな甘い存在ではなかった。『……ゥゥア゙ア゙ア゙ア゙ア゙……ッッ!!!』皮膚が焼け爛れるような、凄まじい苦悶の声を上げながらも、緑色の焔にところどころその身を焦がされた迦夜が、その瞳に、消えることのない憎悪の炎を宿したまま、まだその場に黒い影のようにうずくまり、確かに存在していた。祓い切れていない……!「嘘……。私の、今の全力でも……ダメ、なの……?」美琴の震える声が、絶望の色を帯びる。彼女は、霊力の大部分を使い果たしたのか、がくりと膝を折り、力なく地面へと崩れ落ちてしまう。その瞳から、光が、急速に消えかけていた。万策尽きたかのような、重く、冷たい沈黙が流れた、その時だった。『……あ……? なんだ……ここは……?』まるで、永い眠りから今しがた覚めたかのような、生気のない声が、僕たちの背後から、不意に聞こえてくる。僕が弾かれたように振り返ると、そこには──学生服を着た、僕と同じくらいの年の“霊”が、この血のように赤い空や、狂い咲く彼岸花を、戸惑った表情で見渡していた。その瞬間。僕の脳裏に、忘れたくても忘れられない、過去の光景がフラッシュバックする。耳の奥で、あの時の、助けを求める老婆の絶叫が木霊した。(まずい……!)「逃げてッ!!!! お願いだから、早く逃げてぇぇぇぇぇッ!!!!」僕と、膝をついたままの美琴の唇から、ほとんど同時に、同じ言葉が飛び出していた。僕達の警告も虚しく、その困惑していた霊が、この異様な空間の主に気づいた、その時──血の月を背負う迦夜の口元が、ほんの一瞬、三日月のように歪んで、確かに嗤った。それは、これから始まる饗宴を愉しむかのような、ぞっとするほど冷たい笑みだった。次の瞬間、迦夜が、飢えた獣のように、恐ろしいほどの速度で、その迷い込んだ霊へと一直線に飛んでいく。「っ……!まずいっ!」美琴はまだ消耗しきっている。動けるのは、もう僕しかいない!「星燦ノ礫ッ!!!」ありったけの霊力を込めた碧い礫を、迦夜の動きを阻むように放った。けれど、迦夜は羽虫でも払うかのように、最小限の動きでひらりとかわしてしまう。そして…無防備な霊の肩を、その黒く鋭い
呪影編 125話 君が為の盾、祈りが為の焔「──穢れを清浄なる焔にて……」僕の背後で、美琴の、凛とした詠唱が響く。その声に、迦夜の目が、カッと見開かれた。まずい、と。その詠唱の危険性に、気づいたのだろう。させないとばかりに、迦夜は美琴へと、一直線に飛んでくる。「星燦ノ礫!!」僕は、その間に割り込むように、牽制の礫を放った。迦夜は、鬱陶しそうに僕を睨みつけ、それをひらりとかわす。だが、立て続けに術を使った影響で、僕の呼吸は荒くなり、肺が焼けるように痛い。その隙を、迦夜は見逃さない。にやぁ、と歪んだ笑みを浮かべると、今度は僕へと、その矛先を変えてきた。振り下ろされる爪を、僕は必死に身を捩って躱す。だが、休む暇もなく、次の一撃が襲いかかってきた。「焼き清め、祓いたまえ……!」背後から聞こえる、美琴の焦りが混じった声。僕のこのピンチに、彼女の集中が乱れているのが分かった。「くそっ……!」「悠斗君……っ!!」つい、彼女が僕の名前を叫んでしまう。「美琴!僕は大丈夫だ! 今は詠唱に集中して!!」僕は、彼女の心を繋ぎとめるように、叫び返した。彼女を、信じる。それが、今の僕にできる、唯一のこと。「……!」美琴の気配が、再び研ぎ澄まされるのを感じた。(爪だけなら……なんとか出来るか……!?)滑空しながら、迦夜が、その黒い爪を、僕の頭上から振り下ろしてくる。「幽護ノ帳!!!」桜色の結界が、僕の頭上に展開される。ばちっ、と激しい音を立てるも、結"界は砕けない。(よし……!礫じゃなければ、数回はもつ……!)僕が、勝機を見出した、その瞬間。迦夜の顔が、またあの般若のように歪み、その手のひらに、黒い光が宿るのが見えた。(まずい、礫だ…!)僕は、結界を維持することを諦め、もつれる足で、その場から転がるように走り抜けた。『ウゥゥゥゥ!!!!!』迦夜が、苦痛に満ちた呻き声を上げる。その両目からは、後から後から、大量の血の涙が溢れ出ていた。「──穢れを清浄なる焔にて焼き清め、祓いたまえ……」美琴の詠唱が、終わりに近づくにつれて、この狂った結"界の空気が、明らかに変わっていく。花の腐ったような甘い匂いが薄れ、代わりに、まるで雨上がりの森のような、清浄な気配が満ち始めていた。血のように赤かった彼岸花が、その毒々しい色を失い、白く変色していく
『どうして、私達だけがこんな目に合わなければならかったのだ』脳内に、冷たく響く声がした。それは、どこまでも深い悲しみに濡れていた。(私……達……?)その、複数形であることに、僕は一瞬だけ思考を奪われる。すると、次の瞬間、その声は、燃えるような怒りに変わった。『なぜだ!? 許せない!』『憎い…!こんな運命を強いた琴音も、白蛇も……!』『お前も巫女の末裔なのだろう? それなのに……』怒りの声は、一つの問いを、僕に突きつけてきた。『『なぜ、呪われていないのだ?』』『許せない。憎い、憎い、憎い』ドス黒い、底なしの感情が、僕の心を渦巻き、掻き乱していく。(…違う……!!僕が呪われていないのは…偶然なんかじゃない!!)脳裏に、あの桜の下で、静かに微笑んでいた、一人の巫女の姿が浮かぶ。(僕が…呪われていないのは…沙月さんのおかげなんだ……!)僕の心の叫びに、怒りの声が、ぴたりと止まった。そして、次の瞬間。『沙月…? あの裏切り者か?』『ふざけるな…ふザケルナ……!!フザケルナフザケルナフザケルナ!!!』『我らを見捨て、一人だけ清らかなまま逝ったあの女の名を口にするな!!!』今までとは比べ物にならない、純粋な狂気と殺意の奔流が、僕の精神を叩きのめす。(っ…!あなた達は…一体、何にそんなに怒っているんだ…!?)怒りの声が、答える。『全て。全てだ』『私達に全てを押し付けた村も…琴音も、白蛇も…この世の全てが、憎い』その、あまりにも強大で、身勝手で、そして、どこまでも悲しい憎悪に、僕の胸は締め付けられるように痛んだ。ふと、あれだけ激しかった怒りの声が、また、しゃくり上げるような悲しみのすすり泣きに変わる。『どうして…私達は、こんなにも苦しまねばならなかったのか…』(代償……。代償が、あなた達をそこまで苦しめたのか…!?)『代償………そうだ、我らは代償により……命を、削られ、苦しみ続けた』(い、命…!?)その、たった二文字の言葉が、僕の心臓を、氷の矢のように貫いた。脳裏に、公園のベンチで、優しく微笑んでいた美琴の顔が過ぎる。(待ってくれ!!命って、どういうことだ!?)すると今度は、全てを嘲笑う、底なしの絶望の声が聞こえた。『アハハハハ!!!!! お前が大切に思うあの娘も、我らと同じ様に死ぬだろう!!! 実に滑稽じゃない