エリーは異世界転生者。 17歳のある日、自分が生きるこの世界が前世で夢中になっていた漫画そっくりだと気づく。 彼女の推しは主人公の親友・ゼノン。 けれど彼は自らのコンプレックスに苦しみ、やがて闇落ちしてしまう運命だった。 「推しの不幸なんて見ていられない!」 エリーは魔術士としての立場を活かしてゼノンの訓練指導官となる。 彼が闇に囚われる前に心の傷を癒やし、運命を変えてみせる——。 しかし、いつしかゼノンの瞳にはかつてなかった熱が灯るようになり……? 「エリーさん。僕はあなたのおかげで救われました。だからもう、逃げるなんて言わないでくださいね?」 これは推しの救済を願った女性が、いつしかその心を奪われる物語。
View Moreゼノンと私はすっかり暗くなった皇都の空を飛んでいく。「エリーさん」 彼が言う。低く囁くような声で。「今日は、あなたを帰したくない。嫌だったら言ってください。このまま家まで送ります。でも、もし、許してくれるのであれば――」 いっそ痛いほどの力で、ぎゅっと強く抱きしめられる。 心臓がどくどくと早鐘を打っている。この音は私の? それともゼノンの。「わ、私は……」 怖いと思う気持ちがある。こんなに幸せな告白を受けて、身も心も結ばれるなんて。 本当にそうなってしまっていいのか、頭が混乱してしまう。 私が答えないのを見て、ゼノンは少し寂しそうに笑った。美しい月に雲がかかったような、憂いの表情だった。 その顔が寂しくて、愛おしくて。 彼にもらったたくさんの幸福を思い出したら。 ちっぽけな恐怖など吹き飛んでしまった。「ごめんなさい、無理を言いました。今日はもう十分に幸せだったはずなのに。それでもつい、欲を出してしまって」「――いいよ」「え?」「いいよ。私の全部、もらってほしい。その代わりゼノンの全部も、私にちょうだい?」「エリーさん……!」 闇の翼が羽ばたいて、少しばかりバランスを崩す。「わわっ、しっかりして!」「あはは、すみません。あんまり嬉しくて、つい」 言いながら彼は、人気のない街路に着地した。 私が彼の腕から降りると、残念そうな顔をしている。「こちらの宿へ」 促されるまま入った建物は、なかなかの高級宿だった。 受け取った鍵で部屋を開けると、ダブルベッドと浴室。 ぱたん、がちゃり。背後でドアの閉まる音、鍵のかかる音がする。「エリーさん……これが最後です。本当は嫌だったら、無理をしていたら言ってください。これ以上は帰してあげられる自信がない……」
私の左の薬指で青い宝石が輝いている。 派手さはないけれど、とても上品な輝き。ゼノンの瞳そっくりな冬の空の色。どこまでも透明な青だった。「本当は婚約ではなく結婚を申し込みたかった。やっと僕も成人しましたからね。けれどこれから長い任務を控えていて、今すぐに結婚はできません」 ゼノンは私の手を包み込むように握って、残念そうにため息をついた。「焦ることないよ、帰ってきてからでいいんだもの。でも実を言うと、お付き合いの申込みじゃなくて婚約だったの、ちょっとびっくりしちゃった」 彼はいつから結婚まで考えていたのだろう。ゼノンのことだから用意周到に進めただろう。 ではそれなりに前からだろうか。考えると顔が赤くなる。 恥ずかしくなってうつむいた私に、彼は心配そうに囁いた。「嫌でしたか……?」「ううん。それだけ真剣に考えてくれたんでしょ? 嬉しいよ」 私が言うとゼノンはぱっと笑った。「良かった。エリーさんが誰かに取られてしまわないか、心配で。僕は年下だからどうしても不利だったんです」「取られるだなんて。そんな心配、ないのに」 自慢じゃないが私は特にモテたことがない。 ゼノンの担当訓練官になったおかげで、女子から多少のやっかみを受けるくらいである。 そういう心配はゼノンに対してするべきであって、こっちは必要ないと思う。 ところが彼は首を振った。「いいえ、心配でしたとも。準聖騎士や魔術士の中にも、エリーさんを気にしている人はけっこういるんですよ。薬草園の主で、有能な魔術士で、しかも優しくてかわいい。僕とお兄さんで牽制しまくったおかげで、悪い虫は寄ってきませんでしたが」 なんだと! 兄め、途中からゼノンと出かけることに口出ししなくなったと思ったら、一緒になってそんなことやってたのか。「お兄さんは最初、『エリーと付き合いたくば俺を倒してからにしろ!』と言っていまして。正式に手合わせして勝ったので、お許しをもらいました」「なにやってんの、兄&h
それから私たちは、湖の周りを散歩したり、紅葉した森できのこや珍しい植物を探したりして遊んだ。 ゼノンと過ごすのはとても楽しくて、時間があっという間に過ぎてしまった。 ふと気がつけば西の空が赤く染まり始めている。「もう帰る時間だね」 私は言ったが、ゼノンは無言だった。 少しずつ暗くなっていく風景の中で、彼の青い瞳だけが光を放つように輝いている。「ゼノン?」「エリーさん。大事な話があります」 私も彼に向き直る。緊張のあまり心臓がうるさく鳴った。「エリーさんは、僕に恋人を作れと言っていましたね」「うん、それはその、ゼノンはかっこいいから、女の子が放っておかないでしょう。聖騎士の大変な任務をこなしているし、恋人がいればきっと心の支えになると思って」「僕の心の支えは、ずっと前からエリーさんです」「それは……」 家族枠だから。姉代わりだから。 そう言おうとしたのに言葉が出ない。 代わりに口から出たのは、こんな言葉だった。「女神様が好きではないの?」「女神様ですか……」 ゼノンはちょっと苦笑して、そっと顔を寄せた。誰もいないのに内緒話をするように。「ここだけの話ですが、女神様はアレクと相思相愛なんですよ」「え……?」 それはやっぱり、原作漫画の通りで。 原作のゼノンの闇落ちの引き金を引いた出来事。 私は泣きそうになりながら彼を見たけれど、ゼノンは穏やかに微笑んでいるだけだった。「女神様は、サーシャという聖女候補生に降臨されました。今の彼女は女神様であると同時に、ただのサーシャでもあるんです。それはこの先も変わらないでしょう。アレクはそれを承知して、二つの側面をどちらも愛している。僕は親友の恋人に横恋慕する趣味はありません。彼らの幸せを心から願っています」 目を見開いてゼノンを見つめた。 彼の表情は落ち
朝になってゼノンが迎えに来てくれた。 兄が挨拶するとうるさかったが、ゼノンを煩わせたくない。サンドイッチを対価に部屋から出ないでもらった。 二年前と同じ道を二人で歩いていく。 今日もよく晴れた日で、見事な朝焼けが空を染めていた。「僕は昔、夕焼けよりも朝焼けが好きでした。夜の闇が朝の明るい光で払われて、それが安心できて」 ゼノンが言う。「けど今は、夕焼けも好きです。昼の時間の最後はエリーさんの髪の色。それを僕の闇色が覆い隠していくようで……」「ふふっ。闇属性の理解に役立てたみたいで、良かったよ」 私が答えると、ゼノンは「そういうことじゃないのに。相変わらず手強いなぁ」と呟いていた。 道中は二年間の思い出を話しながら歩いた。この二年半、いろんなことがあった。 話は尽きなくて、気がつけば湖の近くまでやって来ていた。「あのカエル、今も岩場にいるのでしょうか」「どうだろ、もう秋だから。そろそろ冬眠の準備をしているかもしれないね」 湖の周囲の森は紅葉で色づいて、とてもきれいだった。 静かな湖面に赤や黄色の木々が映り込んで、まるで絵画のようだ。 でも、そんな光景よりも。私は隣に立つゼノンを見る。 彼こそが芸術品のように美しいと思う。 少し伸びた黒髪は頬を流れて、整った横顔を際立たせている。 間近に見上げるまつ毛はとても長く、冬空の青い瞳を縁取っている。 原作の漫画よりも、アニメよりも。 生身の彼は生き生きとして美しい。 何よりも瞳に生気が灯っている。息遣いが感じられる。 ふと、湖面を眺めていたゼノンがこちらを見た。 すぐ近くでぶつかった視線に、私は照れて目をそらす。「秋の光景は美しいけれど」 ゼノンは淡く微笑んだ。「エリーさんの美しさには及びません」「そんな、言いすぎでしょ。私は平凡な見た目で、別にこれと言ってきれいでもないし」「僕はエリーさんがこの世
約束の日。 私は前日ぜんぜん眠れなくて、結局夜中から起き出してサンドイッチを作った。「エリー? こんな夜中に何をやっているんだい?」 寝ぼけまなこの兄がキッチンに顔を出した。「明日、お出かけするの。だからお弁当作ってるのよ」「……ゼノン様か」 兄はため息をついた。 私とゼノンは以前はよく一緒に出歩いていたし、任務で組んだこともある。担当の訓練官でもある。いろいろ噂になっているのは知っていた。 実際は全く違うのだが噂は否定したところで消えてくれない。ゼノンと相談した結果、放っておくことにしたのだ。「そうよ、悪い? あの人は今まで一人で頑張ってきたから、姉みたいに甘えられる相手が欲しいの。聖騎士様の心の安定のためだもの、別にいいでしょ」 なぜだか喧嘩腰になってしまった私に、兄はもう一度ため息をついた。「姉みたいに、ね。俺が言うのも何だが、あまり、その……勘違いをしてやるなよ」「何、それ?」「俺の口からは言いたくない。本人にちゃんと聞きなさい。……さて、もう一度寝てくる。おやすみ」「……おやすみ」 兄は引っ込んだ、と思ったらまた顔を出した。「ところで、サンドイッチ。俺の分も作ってもらえないかな? エリーのサンドイッチはおいしくて、食べると力が出るから」「はいはい。ハム多めで作っておくから」「ありがとう、エリー! 大好き!」 兄ががばっと抱きついてきたので、調理をしている手をバンザイして避けた。「もう、やめてよ!」「俺のかわいいエリー! 兄さんはいつだって味方だからな」 兄がやっと離れていったので、やれやれと肩をすくめる。 アレも一応は異性だけど、さすがに全くドキドキはしない。家族だから当たり前だ。 けど、ゼノンは……。 私は最初から彼にときめいていた。だって
山の村の魔獣退治からまた少しの時間が経過した。 私は魔術棟の自分の席に座って、今の状況をぼんやりと考える。 闇の魔力を使いこなすようになったゼノンは、年上の聖騎士たちよりもさらに実力を上げていった。 それに触発されたのだろう、アレクもどんどん強くなっていく。 各地の魔物討伐で実戦をこなしていくうちに、彼らは十七歳にして『神皇国の双璧』と呼ばれるようになっていた。 魔術士や一般人の女子はみんなゼノンもしくはアレクのファンで、彼らはいつも女の子に囲まれている。 アレクは愛想よく対応しているが、ゼノンはいつも迷惑そうだ。「せっかくモテているんだから、恋人を作ったら?」 と私が言うと、ゼノンは苦虫を噛み潰したような顔で、「前にも言いましたよね。僕の大事な人はたった一人だけなんです」 と答えていた。どこまでも一途な人である。 神皇国の双璧の称号は原作の漫画でも語られていた。 けれどあくまでアレクが一枚上手で、ゼノンが二番手だったはずだ。 原作のゼノンは闇落ちするまで、闇属性を発動させられなかった。氷属性もオーバーキルが多くて熟練度は高くない印象だった。 けれど今は違う。 アレクとゼノンに差はなく、彼らは心からのライバルだ。 一つだけ気になるのは、女神様との関係。 一介の下級魔術士にすぎない私では、女神様と接する機会があまりない。 けれど遠目に言葉を賜るたび、お姿を見かけるたび、神威に打たれるような気持ちになる。 原作のゼノンの陰が濃くなったのも、女神が降臨して以降だった。 女の私ですら女神様に惹かれるのだから、男性であれば言わずもがな。 けれど原作のことを考えれば、女神様はアレクを選ぶ可能性が高い。 その時、ゼノンは……。 彼の言う『大事な人』はきっと……。「あぁ、やめやめ!」 私は思わず大声を出して、隣の席の同僚がビクッとした。うん、ごめん。「私
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