Chapter: 聖女の檻 扉の前に立った瞬間、胸の奥が小さく軋んだ。 ここを境に、戻れなくなるような気がした。 ノックした手がわずかに震えたのを、グルナ様に悟られたくなくて、息を整える。 ーーそれでも、扉の向こうの光に吸い寄せられるように、私は手を伸ばした。「サフィー、待っていたわ」 月光を背に扉を優しく叩く。 その声を聞いた瞬間、すべての躊躇は消えた。これが運命なのだと信じて。 グルナ様が出迎えてくれて、部屋の中へ。 微笑みと共に迎え入れられたその瞬間、空気が変わった。 花や香水の甘さではなかった。 香草を煎じたような、遠い昔にとある駅の片隅で嗅いだ匂いーー記憶の底に沈んでいた何かを呼び覚ます香り。 本棚には色々な本があって、タイトルは見ただけでは分からないものも。「サフィー、座って」 優しく囁くグルナ様に導かれて、私は机の前にある椅子に座る。 グルナ様の影が、蝋燭の炎に揺れて、壁に長く伸びる。 椅子は清潔にしているのか、汚れひとつなかった。 机を明るくする蝋燭の炎、様々な結晶の入った小瓶が置かれているくらい。 あと、文字の無い羊皮紙があるだけ。「……これは?」 羊皮紙を見つめてグルナ様に訊いた。「真実を記す紙よ。アプリル・ブラチスラバの罪を、学院に示すの」 低く、穏やかに。 けれどその声音の奥には、抗いがたい重みがあった。「……罪、ですか?」 思わず声が震える。 するとグルナ様はゆっくりと私の背後に周り、両肩へ手を置いた。 その手は温かいのに、どこか冷たい。逃げ場を塞ぐような感覚だった。「サフィー、これはあなたにしか出来ないことなのよ」 耳元で囁かれる。 息が首筋をかすめて、思考が溶けていく。 彼女の差し出す紙には、罪状の一覧が記されていた。 それは、まるで私を”真のヒロイン”に導くための
Last Updated: 2025-10-17
Chapter: 光の部屋へ その夜、食堂の灯りは柔らかく、談笑の声があちこちから聞こえていた。 けれど、私の耳には何も入ってこなかった。 テーブルの上で、湯気の立つスープを見つめながら、私はぼんやりとしていた。 グルナ様の言葉がまだ頭の中で響いていたから。 ”明日の夜、大事な話をしましょう” その一言が、ずっと胸の奥で鳴り続けている。 トレイを持って座ると、アプリルが向かいの席に座った。 相変わらず落ち着いた所作で食事をしているけれど、その顔にはどこか疲れが滲んでいる。 目が合った瞬間、私は視線を逸らす。 最初、どちらも先に口を開けなかった。 でも沈黙を破ったのは、彼女だった。「……サフィー、今日は学院で何かあったの?」 静かな声。 以前と同じ、心配してくれる響きなのに、私は何故か息苦しくなった。「ううん、何も。大丈夫よ」 笑って返したけれど、その笑顔がひどく薄っぺらく感じた。「舞踏会の後、疲れていない?」「平気よ。グルナ様のおかげで、すごく幸せだったの」 笑顔のまま返したけれど、アプリルはわずかに眉を寄せた。「……そう。なら、いいの。無理だけはしないでね」 そう言って、また俯いてしまった。 アプリルの言葉は、まるで祈りのようだった。 でも、私にはそれが”遠慮”に聞こえてしまった。 これ以上何を話せば良いのか分からず、またぼんやりとした。 少しして冷めたスープの上に、淡い月光が反射している。 私はその光から目を逸らすように、食事を終えた。(ごめんね、アプリル。でも、あなたの優しさはもう、私を導けないの……) 夜更け。 部屋の灯りを落とし、アプリルは机で日誌を書いていた。 ペン先が紙を走る音だけが静かに響く。「おやすみなさい、サフィー」「……うん。おやすみ」 背を向けたまま返事をする。 手の中には、昼間にグルナ様から渡された小さな封筒。 ”今夜、この時間に来てください”と記された文字が脳裏に浮かぶ。 そのままベッドから起き上がり、そっと靴を履く。 胸の鼓動が早くなる。(……グルナ様の部屋へ行かなくちゃ) そのとき、背後から声がした。「夜風が冷たいから……気をつけてね」 アプリルの声。 まるで、すべてを見透かしているようだった。 でも、振り向けなかった。「うん……すぐ戻るから」 扉のノブを握る手が震える。
Last Updated: 2025-10-16
Chapter: 笑っていられるなら グルナ様と別れ、寮への帰り道を歩いていた。 夕暮れの光が校舎の窓に反射して、眩しかった。 角を曲がった先で、アプリルが掃除道具を片付けているのが見えた。 掃除用の布を畳んでいて、背中越しでも疲れているのが分かる。「……アプリル」 名前を呼ぶと、彼女は静かに振り返った。 その赤い瞳が、ほんの一瞬、光を宿す。「サフィー。もう遅いのに、どうしたの?」「いえ……ちょっと、通りがかっただけ」 口ではそう言いながらも、心の奥で何かを探していた。 謝りたいのか、確かめたいのか、自分でも分からない。 けれど、アプリルはそんな私の心を見透かしたように微笑む。「……舞踏会、素敵でしたわ」「……えっ?」「殿下、ずっと貴女を見ておられましたわ。……本当に、嬉しそうに」 意外だった。 もっと皮肉でも言うのかと思っていたのに、その声は温かかった。 まるで、本当に喜んでくれているみたいに。 でも、胸の奥が少し痛みが走る。 その優しさが、今の私には怖かった。(『彼女は変われないのです。悪役令嬢という役割からは誰も逃れられません』……グルナ様が、そう言っていた)「ありがとう、アプリル。でも……私は、もう迷わないの」 アプリルは一瞬、悲しそうに目を伏せた。 それでも彼女は静かに頷いた。「……そう。なら、いいの。サフィーが笑っていられるなら、それで」 笑っていられるならーー その言葉が、何故だか胸の奥でひっかかった。 でも私は立ち止まらず、ただ微笑み返して歩き出した。(……間違ってない。間違ってなんか、ないはずなのに……)【アプリル視点】 わたくしはその背中を見つめていた。 手の中の布をぎゅっと握りしめる。(本当は……気づいているのよね、サフィー。誰が貴女を操っているのかも) 夕陽が沈みきる頃、赤い瞳の奥にわずかな涙が滲んでくる。(でもーー今は、もう届かない) そのままわたくしは、ゆっくりと背を向けた。 わたくしの影は、廊下の端で薄れていき、やがて闇に溶けていく。
Last Updated: 2025-10-16
Chapter: 光の余韻、影の囁き 翌朝。 舞踏会の余韻がまだまだ自分の中で残っていた。 鏡の前で髪を整えながら、昨夜の光景を何度も思い出していた。 王子と踊ったあの時間、グルナ様の瞳、拍手と歓声。 まるで夢の中にまだ居るみたいで、胸の奥がずっと温かい。(……殿下に選ばれるのは、貴女です。わたしが保証します) グルナ様の言葉が、心の中で何度も響く。 あの言葉を信じて良い。だって、彼女は聖女なんだから。 信じていれば、私は本当にヒロインになれる。 グルナ様に協力していれば、間違った結果にはならない。 アプリルは既に起きていてメイドの仕事をしているみたい。 それにしても、ここまで上手くいくなんて。(夢じゃないよね? 舞踏会で踊ったのは) 舞踏会自体が夢の中の出来事だったのではないかという考えになってしまい、少々不安になりながらも、部屋を出て学院の廊下を歩いていく。 すると学院の廊下は、朝からざわめいていた。「見た? 昨夜の舞踏会で、殿下がずっとサフィー嬢と踊ってたのよ!」「まるで童話のお姫様みたいだったわ」 そんな声が次々と耳に入る。 頬が熱くなるのを感じながら、私は胸の前で手を組んだ。(……やっぱり、みんな見てたんだ。夢じゃなかったんだわ) 誇らしさと幸せが胸に広がっていく。 さっき浮かんだ不安は一気に無くなっていた。 でもその時ーー視界の端に、赤い色がよぎった。 掃除道具を手にしたアプリルが、廊下の端で床を磨いていた。 彼女もきっと、舞踏会を見ていたはず。 一瞬だけ目が合ったけれど、すぐに逸らされる。 その仕草が、なぜか胸に小さな痛みを落とした。(ごめんね……でも、私はヒロインなの。間違っちゃいけない) 心の中でそう呟いて、私は視線を前に戻した。 ーーその時、モニカが声をかけてきた。「ねえサフィー、ちょっと手伝ってくれる?」「えっ?」 モニカがティーセットを運んでいた。 どうやら備品室から取り出すみたい。「は、はい……」 私もティーセットを運ぶ。 銀の盆の上に並んだカップやポットは、どれも繊細で高価そう。 緊張で手が汗ばむ。(大丈夫……昨日の舞踏会よりもずっと簡単なことよ) そう言い聞かせながら歩いたけれど指が少し滑った。「あっ……!」 盆が傾き、カップのひとつが縁から落ちそうになる。 その瞬間、鋭い声が飛んだ。
Last Updated: 2025-10-16
Chapter: 月下の囁き 舞踏会が終わった後も、胸の高鳴りは収まらなかった。 王子と踊ったあの時間が、まだ身体に残っている。手のひらには彼の温もりが、耳の奥には褒めてくださった言葉が響いていた。(……夢みたい。本当に私、ヒロインなんだわ……!) そんな陶酔に包まれながら寮へ戻ろうとした時、背後から静かな声がした。「サフィー、少しこちらへ」 振り向けば、月明かりに照らされた白銀の髪。グルナ様が穏やかに立っていた。 その姿を見た瞬間、私の心臓は再び早鐘を打つ。「グルナ様……!」「大広間では落ち着いて話せなかったでしょう。あちらで話しましょうか」 断れるはずがない。私は迷いなく頷き、その後を追った。 案内されたのは、王宮のバルコニー。 月明かりが照らしているけれども、人気が無く誰かに聞かれる心配も無い。「舞踏会、見事でしたわ。殿下が貴女をずっと選び続けたでしょう?」「は、はい……! 本当に、夢のようでした」 私の声は興奮で震えていた。グルナ様は柔らかく笑みを浮かべ、そっと私の手を取った。「それは、貴女の努力と……わたしの導きの賜物でしたわ」「……グルナ様のおかげです!」 嬉しさと感謝で胸がいっぱいになる。 けれど、その微笑の奥に、どこか影のようなものが覗いた気がした。 うん、気のせい。「ですけれど……サフィー。せっかく得た輝きを曇らせる影があることも、忘れてはいけません」「影……?」 グルナ様はわざと間を置き、真っ直ぐに私の瞳を見た。「……アプリル・ブラチスラバ」 その名を聞いた瞬間、胸がひやりと冷える。 確かに、舞踏会の端でこちらを見ていた赤い瞳を思い出してしまう。「彼女は断罪され、地位を失ったはず。それでも今なお殿下に近づこうとしている……」「そ、そんな……」 私の声は震えていた。 けれど藤色の瞳に見つめられると、抗うよりも信じたくなる。「貴女は純粋で優しい。だからこそ、彼女の芝居に惑わされてはなりません。サフィー……わたしと一緒に、学院を、そして殿下を守りましょう」「わ、私に……出来ますか……?」「出来ますとも。あなたはわたしに協力してくれますか?」 グルナ様の表情は真剣で、断れそうな雰囲気じゃ無い。「も、勿論です……!」「大丈夫ですよ。そんなに緊張しなくても、今すぐではありませんので」 微笑みながら優しく頭を撫でて
Last Updated: 2025-10-16
Chapter: 光を見上げる影【アプリル視点】 王宮の舞踏会場は、無数のシャンデリアが灯されて、黄金色の光に満ちていた。 豪奢な音楽が響き渡り、色とりどりのドレスが舞い踊る わたくしは給仕係として銀盆を持ちながら、会場の隅で他の給仕の列に並んでいた。 そこは光から最も遠い、影の場所。(……あの日も、同じシャンデリアの下に立っていたはずなのに) かつては殿下の婚約者として、みんなの視線を浴びる側にいた。 けれど今は”断罪された令嬢”として、光に背を向ける立場。 目の前で煌めく光景が、残酷なほどに遠い。 やがて殿下が歩み出る。 最初に手を取ったのはーーグルナ。 銀の髪が流れ、藤色の瞳が光を反射する。 彼女と踊る姿は、まるで舞踏会そのものが彼女を中心に回っているかのようだった。「さすが聖女様……」「殿下と並んでこそ、完璧だわ」 生徒達の囁きが波のように広がる。 わたくしは唇を噛んだ。 グルナが舞台に立った瞬間、すべての視線が彼女に吸い寄せられる。 その力を、わたくしは知っている。試験の時、必死にサフィーを庇ったわたくしの声は届かず、グルナの一言で空気は一瞬にして変わった。(あの子は……きっと信じ込んでしまう。グルナの光に) 胸の奥に痛みが走る。 けれど、それでもサフィーを見守らずにはいられなかった。 曲が変わって、次に殿下の手を取ったのはサフィーだった。 薄桃色のドレスがふわりと広がり、緊張に震える頬が紅潮している。 けれどその笑顔は真っ直ぐで、必死でーーまるで本当に『主役』として選ばれた娘のように、眩しかった。 生徒達の中心で、まばゆい光を浴びているサフィー。殿下の隣で、幸せそうに微笑んでいる。 彼女、かつて言っていたっけ。『ヒロイン』という言葉。 さしずめ彼女に相応しいかもしれない。「サフィー嬢、素敵ね」「殿下もご満悦だわ」 周囲の称賛が降り注ぐ。 わたくしは銀盆を握りしめた。 それはわたくしが欲しかった未来だったのに。 けれど同時に、あの子に与えられているなら……せめて幸せでいてほしいとも願ってしまう。(サフィー……あなたを守りたかった。今も、その気持ちは変わらないのに……) 視線の先で、グルナがゆるやかに微笑んでいた。 サフィーと殿下が踊る姿を見つめながら、まるで”それは自分が与えた幸福”だと誇示するように。 そして一
Last Updated: 2025-10-16