Chapter: 6. 二人でのやり直し「その時は人のせいにすればいいんです」「人の!?」 何言ってるの!? 自分が出来なかったのに人のせいにするなんてありえない。「ありえないって顔してますね」「実際ありえないよ、だって自分の夢だよ!?」「思い出してください、彼らの仕事が失敗した時誰が責任取ってますか?」 ……私だ。 教育が悪いんだから私が責任を取らないと、って……。「成功したら自分のおかげ、失敗したら他人のせい、理解できますか?」 そんな、そんなことって。「先輩がしないといけなかったのは相手の考えの本質を知ることです」「あ……」「上辺の考えを知って理解した気になっていたのが失敗点です」 その言葉を聞いて親の言葉を思い出した。 親も私のためだと言っていた。 それは私を理解した気でいたからそう言っていたのかもしれない。 私も親がやっていたことと同じことをやっていたんだ……。「ごめんね……、桑島君も嫌だったね」「一般論を言っただけで僕個人の考えは違います」 ちょっと不愉快そうな顔をして答える。「たしかに先輩は厳しかったです、それは認めます」「やっぱり……」「でも購買に行って、教えてもらったことは役に立っていると実感しました」「え?」 そういうと桑島君は購買に行ってからのことを話し始めた。 みんな優しかったこと。 分からないと言えば一からじっくり教えてくれること。 失敗しても責められず誰かがフォローしてくれること。 考えを否定されないこと。「素晴らしい職場だね」 私はどれも出来ていなかった。 優しくないしすぐに答えを教えず考えさせる。 失敗したら原因追及するし成果は必ず自分で出させていた。 相手の考えも否定して自分の考えを押し付けた。 なんてひどい上司だったんだろう。 そんな私の教育が役に立ったなんてとても思えない。「そう思いますか? なら先輩に一つ質問をしましょう」 桑島君が険しい表情で口を開く。「《《どこで自分の考えの間違いを矯正するのでしょうか?》》」 え? そんなの指摘されれば……。 あ、考えを否定されないなら自分の考えの間違いに気づけないの? でも気づく方法は他にもあるよね。「成果を出せないからそこで気づくんじゃないかな」「周りがフォローしてるから成果は出せなくても困りません」「一から教えてもらう時に気づくと思
Last Updated: 2026-05-17
Chapter: 5. 愛の重さ なんというタイミングだろうか。 顔を合わせるのがつらい。 きっと私の顔なんて見たくないだろうにわざわざ声をかけてくれるんだね。「え? お酒飲んでます?」「ちょっとね」 顔を合わせないことで拒絶の意志を伝えたつもりだけど桑島君は気にせず私の横に座った。「何かあったんですか?」「特になにもないよ」「ない訳ないですよね?」 私の顔を掴んで無理やり顔を向けさせられる。 涙でメイクがボロボロの顔を見られて限界が来てしまった。 目から涙があふれ出てくるのが止められない。「部下がね、異動したいって」「……」「上司失格だって。 パワハラだって」「先輩、店出ましょう」「どうして?」「どうしてもです」 腕を掴まれてレジに連れていかれる。 桑島君はそのまま手早く精算まで済ませて外に出た。 私のお勘定を桑島君に払わせてしまった……。 後でお金渡さないと。「よさそうな場所がないので僕の家に案内しますね」 有無を言わせぬ態度で私を引っ張っていく。 酔いが回ってるから頭が回らないけど、どうして私は桑島君に連れられているんだろう。 桑島君の家に連れていかれてソファに座らされる。「水です、飲んでください」「ありがとう」 持ってきてもらった水を飲む。 外の冷たい空気に当たったのと水を飲んだことでようやく少し落ち着いた。「落ち着きましたか?」「うん、ありがとう」「まだ倒れそうになってるじゃないですか」「思ったより酔いが回るのが早かったね」「普段お酒飲まない人が飲むからですよ、危ない所だったなぁ」 桑島君は昔と変わらない対応だった。 涙を流したせいか気持ちは少し楽になったし、どうせ最後になるだろうから直接聞こう。「桑島君は私が嫌で購買に行ったの?」「そんな訳ないです、向こうからの要望です」 少し怒りながらきっぱりと言い切る。 よかった、少なくても桑島君は違ったんだ。 でも私のパワハラについては部下だった桑島君が一番詳しいはず。「ちょうどいいので私の悪い所を教えてほしいの」「先輩に悪い所なんてないですよ」「本音での意見が欲しいの」「……なら一般論として言わせて頂きますね」 桑島君は少し悩んだ後にそう前置きして話し出した。「先輩、必ずこちらの考えを聞きますよね?」「そうだね」 これは必ずやっている。 相手
Last Updated: 2026-05-15
Chapter: 4. 上司失格 数か月後のとある日、課長から呼び出された。「突然で申し訳ないんだが、桑島君が購買に行くことになった」「え?」「英語を話せる人が不足していてどうしても欲しいそうだ」「そうですか……」 いろいろ仕事を覚えてきてこれからって感じだったのに。 でもスキルが活かせるならその方がいい。 早速桑島君のところに行くと既に机を片付け始めていた。「聞きましたか」「うん、すぐなの?」「らしいですね」「そうなんだね……」「いろいろお世話になりました」「まだ早いよ」 桑島君は引き継ぎの終わった数日後に異動していった。 また一人になってしまった。 仲良く出来ていたと思ったのに残念。・・・ 2年後 桑島君は購買でトップクラスに活躍しているらしい。 私の下ではきっとそこまで活躍させてあげられなかった。 適材適所ということだろう。 そして私の所にもようやく新人が配属された。 名前は坂本君と言う。 ただどうにも上手く教育できていない。 自分で考えさせようとしてるんだけどまったく自分の考えを言ってくれない。 それは行動も同じで何を考えてその行動をしたのか教えてくれない。 少しでも出来ることをやってもらおうと仕事を厳選して理解しやすい仕事を割り振っていく。 説明を理解したかは都度確認するようにして一歩ずつでも前に進むようにする。 出来るだけのことはやってきたつもりだった。 しかし、ある日のことだった。 坂本くんがA社に発注を出すといって見積もりを持ってきた。 これはB社と同時に見積もりを取っていてB社の方が少し値段が安かったものだ。 あえてA社を選んだ理由が気になったので質問した。「ここはどうしてA社を選んだの?」「A社のほうが良さそうだったので……」「どうしてそう思うの?」「A社の方が納期が早いので……」「B社の方が料金安いよね?」「まあそうですけど……」「納期急いでる仕事なの?」「分かりました。B社にします」「え? 何が分かったの?」「料金安い方がいいってことですよね、分かりました」「……分かったならいいけど」 納期が重要じゃない仕事で料金より納期を優先する意味はない。 A社の方がアフターサービスがいいとかの理由があるなら教えてもらおうと思ったのだけど。 この時はそれぐらいの印象だった。 しばらく時間が
Last Updated: 2026-05-13
Chapter: 3. コミュニケーション数カ月後 桑島君は大分仕事を覚えてくれた。 きちんと自分の考えを説明できるし私が思いつかない発想があったりして面白い。 わからないことをちゃんと質問できるのも良いことだ。「先輩、これ発注お願いします」「……どうしてこの納期なの?」「え、発注先が提示してきたのがこの納期だったので」「この納期で間に合うのか他部署に確認は?」「すみません、してませんでした」「ならすぐする」「はい」 だいぶ考えられるようになったけどたまに抜けている。 どういう所で抜けやすいか纏めて注意するポイントとして教えてあげよう。 ポイントをまとめるついでにちょっと休憩もしようかな。 そう思い休憩室に行くとちょうど同期がお茶を飲んでいた。「頑張ってるね」「うん、いろいろ努力してるのが伝わってくるよ」「奈美もね」「私はそこまで……」 私は褒められるほどのことはしていない。 頑張っているのは桑島君だ。 言われたことを理解して自分なりに行動している。「ただちょっと指導が厳しいって声も聞こえるよ」「そこまで厳しいつもりはないんだけど」「まあ、奈美は上司が厳しかったからね」 言い方は注意しているつもりだけどもっとポイントを絞って要点だけを指摘しないといけない。 相手の感情否定とか人格批判にならないようにしないと。「まあ、コミュニケーションは取ったほうが良いよ」「ありがとう、頑張ってみる」 コミュニケーションか。 といっても仕事中に雑談する訳にもいかないしどうしても定時後になるよね。 となるとご飯を食べにいくぐらいかな? でも上司とご飯って楽しいんだろうか……。 休憩所から戻ると桑島君が一生懸命働いている。 よく頑張ってるよね。 下手に話しかけて邪魔しちゃいけないけどこれもコミュニケーションの一環かな。「どうかな?」「あ、先輩、順調ですよ」「それはよかった」「何かありました?」 私の態度を見て何か言いたそうなのを察したみたいだ。 ここまで来たら勇気を出すしかない。「本当に気が向いたらで良いんだけど定時後一緒にご飯行く?」「いいんですか?」「無理しなくていいからね」「今日で考えておけばいいですか?」「え、あ、うん」「楽しみにしています」 よかった、思いのほか食いつきがよかった。 上司とのご飯なんて気を使うだろうし少し
Last Updated: 2026-05-11
Chapter: 2. 理解するとは何か しばらくして代わりの新人が配属された。「桑島と申します、よろしくお願いいたします」 教育担当は私になった。 責任重大な仕事だ。 井原君のようなことが起きないように頑張らないと。 まずは簡単な仕事から教える。 手書きのアンケート用紙の内容をexcelに入力する作業だ。 作業自体は単純だけどいくつか注意しないといけないポイントがある。「アンケート用紙の内容をexcelファイルに入力してほしいの」「先輩、これはそのまま入力すればいいんですか?」 答えを教えるのは簡単。 でも自分で考える癖をつけた方がいい。「うーん、どうやるのが正解だと思う?」「こんな感じでやってみたらどうですか?」 手書きのアンケート用紙をスキャナーを使ってPCに取り込み文字を自動で読み取らせて(OCR機能)コピペしている。 おお、すごいな、この子。 でも今回は失敗かな。「どうしてこれが正解だと思ったの?」「手順が一番楽で早いですから」 なるほど、たしかに手作業で入れるより段違いに早い。 ただこの方法には問題があるんだよね。「今回は手作業で入れる方がいいかな」「なるほど……それはどうしてです?」「読み取り間違いが困るから」 OCR機能の問題、それは読み取り間違いが多いこと。 特に手書きの文章は読み取りづらい。 人間の目で見ても判別がつかないような文字がたくさんあるから。「先に自動で入れて後で見直したらどうでしょう?」 良い意見。 ちゃんと話を理解して対応策を考えてる。 ただちょっと知識が不足しているかな。「校正するってことだね、その校正ってかなり難易度高くなるの」 みんな軽く考えているけど校正という仕事はかなり大変だ。 人間は最初と最後の文字があっていれば自動補完してしまう。 有名なのはこの文章だ。 [こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です] 普通に読めてしまう。 これぐらい入れ替わっていれば気づくけど、一字入れ替わってるぐらいなら気づかずに読んでしまうものだ。 校正はこういうのに全て気づかないといけない。 専門技能職であるのは伊達ではないということだ。 しかもOCR機能の場合、さらに2つ問題がある。 一つ目は入力時の違和感が存在しないこと。 例えばさっきの文章のように明らかに間違っている文言を
Last Updated: 2026-05-10
Chapter: 1. [調べる]の意味 小さいころ勉強をしていると決まって両親に怒られた。「女の子が賢くなっても何の得もない」「勉強する暇があったら可愛くなる努力をしろ」 二言目にはそれだった。 なぜ賢くなってはいけないのかと聞いても、まともな答えは返ってこない。 お前は考えなくていい、ただ言われたことだけしていろ。 私の考えは聞いてすらもらえなかった。 大学に行きたいと言った時はとくにひどかった。「女の子は結婚して家庭に入るから大学は意味がない」「お金の無駄」 特待生を狙える成績だったのに願書すら出させてもらえなかった。 必死に大学に行くメリットを説明したけど、理解する気すらないようでとにかく就職しろの一辺倒。 結局、高卒で就職したのが今の会社だ。 最初の上司は厳しい人だった。 ミスしていればさんざんに怒鳴るし理屈のおかしいことを言うとずっと追及される。 よく他の子から「最悪な人が上司になったね」と同情された。 でも私としてはそこまで悪い環境じゃなかった。 たしかに説明の矛盾点を追及されるのは大変だったし怒鳴られるのは嫌だった。 けど私の話を聞いて理解しようとしてくれた。 考えの間違いを指摘して、出来るようになるまで指導してくれた。 親のように「何も出来なくていい」と言って放り出すようなことはなかった。 怒鳴られることがなくなったころに上司が異動になった。 周りからは心配されたけどもう十分一人でやっていける。 それぐらい私はいろいろなことが出来るようになった。・・・ 数年後、同じ部署に新入社員が配属された。 井原君と言う男の子だった。 同じ部署の工藤さん(女性)が上司になるので立場的には同僚となる。 傍目で見る限り仲良く仕事をしているようで怒られている所を見たことがないぐらいだった。 そして井原君が入社して一年経った頃のことだ。「これ発注したいんですけど」「あの、発注書は?」「え?」 井原君が発注したいと言う部材は、発注書を書いて私経由で上長に提出するものだった。 発注書が必要なことも書き方も全て入社一か月以内に教わるものなので、なぜ発注書を持ってこずに頼みに来たのか不思議だった。「発注書が必要なので持ってきてもらえますか?」「あ、そうなんですか」 返事はするけど動かない。 持ってくるのを忘れたのかと思ったけどもしかして書く
Last Updated: 2026-05-09
Chapter: 6. 告白「は? 告白が?」 「告白が」 告白されたことが気持ち悪い、それは今まで聞いたことのない考え方だった。「一生懸命気持ちを語ってくれるんだよ、出会った時から好きだったとか普段のこういう所が好きだったとか」 「うん」 「え、そんな目で俺を見てたのって冷めた心で聞いてた」 「その子から好かれていたのが嫌ってこと?」 友達としてはOKでも恋人としてはNGってことだろうか? それなら理解できる。「違う、隠していたことが気持ち悪いんだ」 隠していたことが? それは意味が分からない。「いやいや、仲良くなるまでそういう所を見せないのが普通なんじゃ?」 普通に考えて見知らぬ相手から突然告白されても困る。 まずはある程度仲が良くなって受け入れてもらえる下地を作って告白すると思う。「俺が仲良くなったのは友人としての彼女であって恋人候補としての彼女ではないんだ」 「まあそうだけどまずは友人として仲良くなってステップアップするのが……」 「まさにそれだ、どうして友人の次のステップは恋人なんだ?」 「え?」 普段淳之介が見せていない熱がこもった言葉。 これこそ隠していた本音なんだろう。 「友人は友人、恋人は恋人だろう? 友情は偽りで最初から愛情だったんじゃないのか?」 たしかにその可能性はある。 突然告白するよりまずは仲良くなってからというのはそういうことだろう。 それを嫌うのは理解できなくもない。 でも。「友人として接するうちに愛情が芽生えたってことも考えられるよ」 仲良くなってその人の良さを知って惹かれるというのも考えられる。 その場合は友情に偽りはなく、新しく愛情が芽生えただけ。 どちらなのか区別するのは難しいと思う。「その通りだ」 僕の言葉を肯定する淳之介。 でもその目からは納得していないことが伝わってくる。「そうなった時、俺の友人はどこにいった?」 「え?」 「俺は恋人なんて求めていない、俺が欲しいのは友人だった、なのに受け入れろというのか、友人だと思っていた相手が突然消えるのを」 「あ……」 「友達面をしておいて実際は恋人狙いでした? ふざけるな、俺の気持ちを、俺の感情をなんだと思っている」 「淳之介……」 声を荒げて胸の内を吐き出す淳之介。 それは今までで一番魂のこもっ
Last Updated: 2026-05-25
Chapter: 5. 演技 それからも淳之介は僕に声をかけてきた。 「スバルー、一緒に組もうぜ」 「なぜに?」 「ほら、黒木さんとか相沢さんとかも一緒だぜ」 「何が『ほら』なのかも分からない」 二人は淳之介に興味があるだけで僕に興味はない。 一緒にいた所でギスギスするだけだと思う。「そうか、好みじゃないか、なら二人には断りを」 「いやいやいや、そういう話じゃないけど」 そんなことを伝えたら大変なことになる。 どんなに二人が僕に興味がなかったとしても、僕の方から興味ないと言えば怒るだろう。「じゃあ組むか?」 「組む、組むよ」 「よかった」 淳之介は楽しそうに笑っている。 悪意とかはなく、たんに僕と女子を一緒のチームにしたいだけ。 本当に僕に彼女を作らせようとしているみたいだった。「もしかして中野さんの方が良かったか?」 「いやいや、そういう話じゃないから」 それなのに淳之介自身は彼女を作る気配がない。 女性が嫌いという訳ではなさそうなのに不思議な話だ。 そしてある日の放課後。 日が暮れ始めてきたころベンチの端に座っていると淳之介がベンチに座ってきた。 4人掛けベンチの端と端。 その距離感が心地よい。「スバルはさ、女に興味ないのか?」 唐突な質問だった。 男子にとって女子に興味があるのは普通のこと。 でもなぜか即答できなかった。「俺さ、女が苦手なんだ」 「そう、なんだ」 こちらを向かず話し出した淳之介の言葉に相槌を打つ。 顔の良い男が女を苦手とすることはたまにある。 熱心にアピールしてくる女をわずらわしく感じるうちに苦手になっていくらしい。 数は多くないがそれなりに聞く話だったし、僕も同じ意見だった。「恋人にしてくれとかさ、そういう直球なのはいいんだ」 「へぇ」 思っていたのと違った。 てっきりそういう打算で濁ったものが嫌いだと思っていたのに。 淳之介の方を見ると目の前を見据えて独白のような形で話していた。 どうみても僕のリアクションを見て言っている話じゃない。 そういえば前に聞いた時に『純粋な人間が好き』と言っていたような。 「友d「淳之介くーん」 彼が続きを話そうとした時、中野さんが声をかけてきた。「なに、独り言?」 「いや、ちょっとスバルと話をしてたんだ」
Last Updated: 2026-05-25
Chapter: 4. 無償の善意「ん、しまった、寝過ごした」 昼休みに仮眠していたら予鈴が鳴るのを聞き逃したらしい。 周りには誰もいなかった。 時計を見るともう授業が始まる時間で、みんな技術室に移動したみたいだった。 今日は金槌で加工するんだったよな。 さっそく移動しようと立ちあがる。「あ、赤井君……」 「え?」 「せ、先生、赤井君が!?」 教室の入り口でクラスの女子と出会った。 だけどその女子は僕のことを見て逃げ出すように離れていく。 一体何があったんだろう? 思い当たる節がないのでとりあえず技術室に向かおうと足を動かした時のこと。「痛っ!?」 痛みの原因はガラスだった。 とがった先端が上履きを貫通している。 慌てて周りを見ると、なぜか足元付近にガラスが散乱していた。 どこからガラスが来たんだ……? 顔を上げて周りを見てみると教室と廊下の間の窓が割れている。 どうやらあれが原因だったようだ。 「赤井!!」 先生に大きな声で呼びかけられてびくりとしてしまう。 思わず手に持っていた金槌を落としてしまった。カシャン 足元のガラスの割れる音がひどく耳に残った。「どういうことだ、これは?」 先生の言葉で周りの状況に気づく。 教室と廊下を仕切る窓のガラスが軒並み割れて足元に散らばっている。 そして僕の手には金槌が握られていた。「違うんです、僕が起きた時はこうなっていて」 「金槌を持った状態で寝てたと言うのか?」 「それは技術室に向かおうとしていたから」 「足元がこんな状況で、か?」 説明すればするほど泥沼にはまっていくのを感じる。 違うんだ、僕はやってないんだ。「どうしたんですか!?」 そんな時、彼がやってきた。 遅れて他のクラスメイトもやってくる。 事情を聴いた彼がぽつりとつぶやいた。「俺はスバ、赤井君の言うことを信じます」 「ほお……現場がこの状況なのに?」 先生が矛先を変えた。 どうやら同意してもらえると思っていたみたいだったらしく不機嫌そうな顔だった。「俺は彼を信じる」 「根拠もなくそのようなことを言うのはね」 呆れたように答える先生。 状況を見て分からないのかと言いたげだった。「根拠ならありますよ」 そう言うと彼は僕の足元を指さす。 そこにはた
Last Updated: 2026-05-25
Chapter: 3. 他の人との違い しばらくして少し気になることがあった。「淳君は~」 彼はいろいろな人から淳君と呼ばれている。 でも淳君と呼ばれるたびに一瞬だけほんのわずかに雰囲気が変わるように感じたんだ。 それを感じ取れたのは僕が彗星と呼ばれた時に近いからだと思う。 「あの……、淳君って呼ばれるの、いやなの?」 その言葉は無意識に口から出ていた。 僕の言葉に彼が目を細める。 でもそれは一瞬のことだった。「いや、好きに呼んでくれていいけど」 その言葉に違和感はない。 でも僕には分かる。 それは本音ではないことを。「だって名前気に入っているんじゃ?」 初対面でわざわざ名前の由来を話した時に気になっていた。 よほど名前を気に入っていない限りそんなことはしないと思う。 だって僕は絶対に話したいと思わないから。「えー、そうなの?」 「気になるー」 僕たちの会話に周りにいる女子が混ざってきた。 彼はさきほどと同じ言葉を言ったけど女子たちはその言葉を疑うばかり。 僕は想定外の事態におろおろして何も出来ない。 そして彼があまりのしつこさに耐えかねたように口を開く。「あー、うん、そうだな、気に入っている、俺は淳之介って名前が好きだ」 「ごめんねー、淳君じゃなくて淳之介君って呼ぶね」 「あたしもー」 聞きたかった言葉を聞けて満足下に帰っていく女子たち。 ちょっと申し訳ないことをしたな……。「ごめん」 「何のことだ?」 「名前のこと」 「あー、まあたしかに言いづらかった面はある」 彼は頭をかきながらあらぬ方向を向いて答えた。 それがまるで怒られた子どものようで、少し笑ってしまった。「あ、何笑ってんだよ」 「だって面白かったから」 「……面白ければ笑うんだな」 「それはそうだよ」 僕の言葉にうなずく彼。 そして何が面白かったのか彼も笑い出した。 釣られて僕も笑う。 周りは不思議そうに僕たちを見ていた。・・・ そこから彼は以前にもまして親しく声をかけてくるようになった。「スバル、もっと気軽に話そうぜ」 「別に意図してやってる訳じゃないんだけど……」 「なら意図して気軽に話そう」 「なかなかに難しいことを」 彼は僕が何を言っても答
Last Updated: 2026-05-25
Chapter: 2. 利害関係 次の日、教室に入ると彼が声をかけてきた。「よぉ、スバル、元気か」 「まあ、一応」 「それは重々」 何が面白いのか口元が笑っている。 一体僕に何の用だろうか。 僕と絡んでも何も渡せるものはないのに。 僕たちの会話を見て中野さんが近寄ってきた。 彼女は口数が多く交友関係も広い。 下手な対応をして機嫌を損ねたらほぼ全ての女子から嫌われる、そんな人だった。「え、赤井君ってスバルなんて名前だっけ?」 「俺が決めたんだ、いいだろスバル」 「へぇー、淳君が決めたんだ」 「……良い名前だったと自負している」 「なんでそんなに自信があるのよ」 そんな中野さんを簡単にあしらえるのはすごいと思う。 そして以降も彼はことあるごとに声をかけてきた。 「スバルー、一緒にチーム組もうぜ」 「いや……僕がいても迷惑じゃ」 「俺は迷惑と思わない、よし解決だな」 「強引すぎる」 「お、いいツッコミ、そういうのをもっと頼む」 爽やかな笑顔で言われると反応に困る。 断ろうとしても流されてしまい、そのまま一緒にチームを組むことになった。 明らかに僕が足を引っ張っているのに、気にすることなく笑っているのが印象的だった。 そしてまたある日の下校時。「スバル、どっか寄っていこうぜ」 「なんで僕に……?」 「そりゃあ俺がスバルと一緒にどこか行きたいからだな」 「君と一緒にどこか行きたい人はたくさんいるよ」 「俺はスバルと行きたい」 真剣なまなざしでそんなことを言われると照れてしまう。 特段断る理由もないし一緒に行っても良いかなと思った時のこと。「あれ、淳君、どこかいくんじゃ?」 中野さんが声をかけてきた。 そして僕の方を見ると怪訝そうな顔をする。「赤井君……?」 探るような目で見られた。 あの様子だと先に誘っていたのかもしれない。「あ、僕は用事あるから、ごめんね」 断りを入れて、返事を聞く前にその場を去る。 人間は利益を奪い取るものに厳しい。 こういうちょっとしたことが後で大惨事を招くので避けるに越したことはない。 そんなこんなで過ごしていたある日。 クラスの男子達が不機嫌な雰囲気を醸し出しながら声をかけてきた。 「赤井、お
Last Updated: 2026-05-25
Chapter: 1. 彼との出会い 人間関係は利害関係。 相手に適切な利益を与えられなければ関係は維持できない、そう思っていた。「三浦淳之介です」 女子の目は壇上で挨拶する男子にくぎ付けだった。 そこらのアイドル顔負けの顔で優し気に微笑んで自己紹介をしていれば目を引くのは分かる。「自己紹介はこれぐらいだけど質問はあるかな?」 「えー、どうして淳之介って言うの?」 「気になるー」 今までの男子には何も質問しなかったのに、彼には媚びたような声と表情で質問している。 彼女達にとって見た目というのはそれだけの利益なんだろう。「親が芥川を好きでさ、本当は龍之介ってつけようとしたけど母から駄目だしされたから淳之介なんだ」 「そこでなんで淳之介になるのよー」 「そうそう」 「それがすごいんだ『龍の次といったら虎だろ、でも寅之助はいかついから次の順ってことで淳之介』だってさ、意味分からないだろう?」 「意味分かんないー」 「あたしは分かるな」 女子同士楽しそうに笑いながら話しているけど、目は笑っていない。 彼の話を理解しようと話しているというより、誰が会話の主導権を握るかで争っているようだった。 見た目……か。 彼以外が同じことを話してもあそこまで反応してもらえないだろうなとは思う。 奇しくもそれは直後の体育の授業で証明された。「え、また入れたよね」 「すごいよねー」 「さっき聞いたけどサッカーばかりでバスケットはやったことないって」 「スポーツ万能なんだ」 女子が話すことは全て彼のことばかり。 同じぐらい活躍しているはずの男子には視線すら送っていない。 運動能力を褒めている訳ではないのは一目瞭然だった。「舐めやがって」 それを男子が面白く思うはずがない。 ねたまれるのは当然の結果だった。「おっと」 ある男子が彼に足をひっかけようとした。 ほぼ完ぺきなタイミングでやり慣れているのが分かる。 でも彼には簡単に避けられてしまった。「すまない、足を踏みそうになったよ」 屈託のない笑顔でそう言われると、どうにも恥ずかしくなったようだ。 小さい声で返事して足を引っ込めた。 彼は誰に対しても明るく気軽で優しかった。 誰でも仲良くなるし、嫌われても態度を変えない。
Last Updated: 2026-04-14
Chapter: 後日談 変わらぬ愛を君に 最近奥様が寝込まれることが多くなってきました。 医者にも見せているのですがまったく原因が分からないそうです。「ねえアナ、ちょっといいかしら?」 奥様がわたくしを呼びます。 その姿は少し弱弱しくて不憫になります。「私の体調はどうなのかしら?」「すぐ良くなるそうですよ」「そう……」 原因不明とは言えません。 そんなことを伝えたらさらに心労を増やしてしまいます。「リチャードにはずっと言ってるのだけど私を生き返らせないようにね」「っ、それは」「死んだ人が生き返るのは自然の摂理に反するの」 この時、既に奥様には確信があったのでしょう。・・・ 数日後。「リタ、リタ、どうして、どうしてなんだよ……」「旦那様……」 旦那様が冷たくなった奥様を抱きかかえて大声で泣いておられます。 朝、旦那様が目覚めた時は既に息を引き取られていたとのことです。 隣には涙をこらえるお嬢様の姿があります。「すぐ元気になるって言っていたのに」 おそらく旦那様を不安にさせないためにそう言っていたのだと思います。 実際、体調が良くないことはよくご存じでした。「死者蘇生……そうだ、死者蘇生だ」 ゆらりと立ち上がった旦那様がそうつぶやかれました。「魔術師ならリタを生き返らせることが出来る!!」「駄目です、それは奥様から止められています」「僕にはリタしかいないんだ!!」 奥様が懸念された通りになってしまいました。 なんとかお止めしないと。「もう魔術師はいません、死にました」「他にも魔術師は存在する、今すぐ探せばいい!!」「死者蘇生は自然の摂理に反すると奥様は申されていました」「摂理に反しようが世界に反しようが僕はリタに生きてほしい」 駄目です、わたくし達の言葉では旦那様に届きません。 奥様の言葉すら届かないのにどうすれば……。「お母様の墓前ですわよ」 お嬢様の発したその言葉は静かに皆の心に響きました。「レ、レイナ……」「お父様、死者蘇生?というものでお母様が生き返るのは本当なのですか?」「あ、ああ、そうだよ、一度生き返ったことがあるんだ!!」「それをお母様はご存じだったのですか?」「もちろん!! あの時は大変だったんだ」「なら、やめましょう」「は?」「聡明なお母様が、知っていた上でやめろというなら理由があるのでしょう」「
Last Updated: 2026-09-12
Chapter: 前日談 7.旦那様と奥様の愛情(後編)「あなた方だけでは謝罪が足りない、周りも謝罪が必要だ」「は?」「リチャード!?」 旦那様は謝罪を受け入れられませんでした。 これはみんな想定外で奥様すら驚いておられます。「僕のことはいい、でもリタを悪く言ったのは許さない」「ひっ!?」 旦那様に見られた女性が悲鳴をあげました。 よく見ると先ほど奥様に淫売と言った女性です。「リタに謝罪しろ」「リチャード!? 私はそんなこと気にしないわ!?」「僕が気にするんだ、さあ早く」 これほど怒っている旦那様を見るのも奥様の言うことを聞かなかった旦那様を見るのも初めてです。「む、無理やり言うことを聞かせるなんて野蛮です」「そ、そうだ、主催の貴族が謝罪しているんだから受け入れろ」 主催の貴族が謝ってもあなた方が謝ったことにはならない。 そんなことすら分からないのでしょうか?「謝罪がなければ本家に処分を依頼する、リチャード=スオルムの名にかけて」 『本家に処分を依頼する』この言葉で会場が一気に静まりました。 特に主催の貴族達は顔を青ざめさせています。 スオルム家は王族と強いつながりがある家系です。 旦那様はその分家の末席になります。 もちろん直接的な力は何もありませんが本家に頼みごとをする程度は可能です。 ただし頼めば無償で動いてくれる訳ではありません。 十分な代価が必要となります。 今回のようにこうやって名前を出すだけでも寄付とは比べ物にならない代価を要求されるでしょう。 ましてや処分を依頼するとなるといくらになるか想像がつきません。 その分相手に対する効果は絶大です。「リチャード殿、それは……」 あわてて主催の貴族達が取りなしに来ました。 処分が来る場合は巻き添えを喰らう可能性が高いので必死です。「この馬鹿が、早く謝れ!!」「だ、だって」「つべこべ言うな、周りを巻き込むな!!」 他の貴族は奥様に暴言を吐いた夫人を取り囲んで謝罪を迫っています。 夫と思われる貴族も必死に謝らせようとしています。「も、申し訳ありませんでした」「次はないと思え」「は、はい」 これを皮切りにして貴族達が次から次へと謝罪に来ていますがそれに対して高圧的にも見える態度で対応されています。 いつもお優しくて誰に対しても強く出なかった旦那様があのように怒りをあらわにされるなんて思いませ
Last Updated: 2026-08-29
Chapter: 前日談 6.旦那様と奥様の愛情(中編)「貴族というのは子どもにお金をたかるものなのかしら?」「は? そいつは成人だろ」「子どもの振りして寄付から逃れようっていうのか?」「あなた方がいつリチャードを成人扱いしたのですか?」「実際に成人だろ」 その言葉を聞いた奥様が周りを見回しながら問いかけます。「《《誰がそれを認めているのですか?》》」 その言葉に周りは黙り込みました。「リチャードを成人と認めてくださる方はいらっしゃいますか?」 奥様がさらに問いかけても誰も反応しません。 旦那様の友人の方も声を出されませんが仕方ありません。 下手に発言すれば主催の貴族たちに目をつけられます。「誰も成人と思っていないようですが?」 主催の貴族たちに向き直り改めて問いかけられましたが返答はありません。「平民風情が出しゃばるな!!」「そうだ、ここは平民が話す場ではない!!」「どうせ金目的で子豚のものを咥えこんだんでしょう、汚い淫売が」 主催の貴族が黙ったことでここがご機嫌取りの機会だと思ったのでしょう。 周りにいる夫人たちが口汚い言葉で旦那様と奥様を罵ります。 しかし奥様はその言葉を無視して問いかけます。「あなた方はどのくらい寄付をされるのですか?」 夫人たちの言葉が詰まりました。 おそらく寄付はしていないのでしょう。 普段から見ていても寄付をしているのは旦那様だけです。「まさか平民以下ということはありませんよね?」「平民を嫁にするような格下の貴族だから寄付してるのよ!!」「そうよ、格が足りないから金で補ってるだけ!!」「つまり格はお金で買えると言っている訳ですね」「は?」「《《補うことが出来るなら結果としては等しくなりますよね?》》」 奥様の言葉に周りの貴族のみならずわたくしも驚いています。 そのような発想自体ありませんでした。「な、な、何言ってるの、格の違いはお金なんかで補えるわけないでしょ!!」「金、金、金、ってあさましい」 先ほどまでと言っていることが違います。 格が足りないというのはどこにいったのでしょうか。「つまり寄付に意味はないと?」「招いてあげてるんだからせめて金ぐらい出すべきよ」「そうよ、参加料よ」「なるほど、みなさん寄付ではなく参加料であるという認識なのですね」 奥様の声が少し高くなりました。 これは奥様が怒っているときの癖
Last Updated: 2026-08-22
Chapter: 前日談 5.旦那様と奥様の愛情(前編) 奥様は貴族夫人として相応しくなるよう大変な努力をなされています。 毎日厳しい教育を受けている様子を見て旦那様はかなり心配しておいででした。「リタ、大丈夫かい? つらくないかい?」「大丈夫ですよ、リチャード」 ジョゼット様のことがあるからでしょう。 ことあるごとに声をかけていらっしゃいます。「心配性ですね、一人で大丈夫ですよ」「だって大変そうだよ」「リチャードも子どものころに一人で教わったのでしょう?」「でも……」「リチャードにずっと見られていたらアナスタシアもやりづらいですよ」「わかった、愛してるよ、リタ」「私も愛していますよ」 渋々といった表情で部屋を後にされる旦那様。 退出前に奥様の手を握って寂しそうにしてたのが印象的でした。「リチャードは甘えん坊ですね」 奥様はよくそうおっしゃいますが今までこのようなお姿はほとんど見たことがありませんでした。 奥様によほど心を開いていらっしゃるようです。 ただ毎日のように『好きだ』『愛してる』という言葉を聞くのでこちらが赤面してしまいます。「今日はリタに我慢させることになると思う」「構いませんわ」 今日は結婚後初めての貴族の交流会です。 平民である奥様にはいろいろと厳しいことを言われるでしょう。 旦那様はかなり気にしておいでですが奥様はあっけらかんとしておられます。 会場に到着しました。 周りの目が一斉にこちらを見ます。「まあ、あれが例の……?」「ええ、そうですわ、何でも平民の出だとか」「割れ鍋に綴じ蓋でちょうどいいでしょう」 わざと聞こえるように話しているのでしょう。 奥様にも聞こえたようですがなんの反応もありません。 しかし割り当てられた席に座ろうとした時、顔色が変わりました。「リチャード、それは?」「いいんだ、リタ」 旦那様に用意されていたのは子ども用の椅子。 さらに近くには踏み台まで用意されていました。「座りやすくてちょうどいいよ、ははは」「リチャード……」 最近こういうことが増えてきました。 旦那様が我慢しておられるので耐えていますが招いておいてこの対応は許せません。 しかし使用人の立場では言えないのが歯がゆく感じます。「さあ早くリタも座りなよ」「……ええ」 奥様も戸惑いながら座られました。 全員着席したところで主催の貴族
Last Updated: 2026-08-09
Chapter: 前日談 4.リタ様が奥様となられた日 どうしましょうか。 突然の旦那様の願いに戸惑いを隠せません。 ジョゼット様の件以降、旦那様は婚約者をお作りになりませんでした。 相手が明らかに財産目当てだったのもありますが一番は旦那様が興味を持ちませんでした。 『僕が好きになった人と結婚したい』とおっしゃる旦那様はよほどジョゼット様のことが尾を引いていると思われます。 そんな旦那様が結婚なさるおつもりだと言うのは非常に喜ばしいことです。 ただ相手が平民となると話が変わります。 平民と貴族は住む世界が違います。 それは身分の差と言う意味だけでなく魔力の有無という意味もあります。 貴族の世界は魔力があることを前提に作られています。 わたくし達のような平民では呼び鈴すら鳴らすことができません。 もし平民が妻となれば社交で問題が出ることでしょう。 ただ先ほどの様子だと既に覚悟を決めておられるようです。 ……ならば使用人としては最善を尽くすのみでしょう。「分かりました、さっそく調べてまいります」・・・ 数日である程度情報は集まりました。 名前はリタ様と言うそうで旦那様と同い年の結婚経験なし。 明るく優しく聡明な方で結婚していないのが不思議だとか。 妾であれば文句のない相手なのですが……。 旦那様に報告すると『すぐにでも挨拶に行く』とのことでした。 よほど待ちきれないのでしょう。 準備を整えて彼女の住む家に向かいます。「いきなり貴族の嫁になると言うのは大変でしょうが、必ず幸せにします」 それを聞いた彼女は興味深そうな目で旦那様を見ていました。 彼女の印象は悪くありませんね。 ただ家族の方はひどいものです。 彼女の母は得体の知れないものを見る目だったし彼女の姉に至っては嫌悪感を隠しもしない。 旦那様がひどい貴族であれば何らかの処罰を受けていたでしょう。「断っても不利益が生じることはない」 その言葉で彼女の母が安堵したのがわかります。 大事な娘を無理やり奪われると思ったことは理解できますが旦那様の誠意を理解していないことには腹立たしさを感じます。「少しお時間をいただけないかと」「わかった、しっかり考えてほしい」 旦那様は食い下がることなくその場を後にしました。 旦那様の雰囲気だと断られた時は素直に諦めてしまいそうです。 しかしここまで気に入られているなら妻
Last Updated: 2026-07-25
Chapter: 前日談 3.リタとの出会い それから数年。 婚約の話は何度も来ていたが全て断っていた。 女性が財産目当てに媚びてくる姿があまりに悲しかったからだ。 ジョゼットは一度もそんな態度をしなかった。 お金ではなく僕の方を見てくれた。 もし結婚するならそんな相手であってほしい。 そして今度こそ自分が愛を与える側になりたい。 そんな相手を探していたある日のことだった。 その日は偶然が重なった。 たまたま馬車の幌が一部壊れていたこと、たまたま鳥の糞が落ちてきたこと、たまたまそれが幌の隙間を縫って落ちてきて僕の服についたこと。「運が悪いなぁ」「申し訳ございません、壊れた馬車に乗せたわたくしの責任です」 無表情に見えるけどよく見ると若干眉をひそめて下唇を噛んでいる。 よほど責任を感じているのだろう。「アナのせいじゃないし他の誰のせいでもないよ」「旦那様、ですが……」 こんなことで誰かを責めて何になるのか。 それに最終的に僕がいいと言ったのだから僕の責任だろう。「ちょうどそこに店があるし代わりを買おう」「……わかりました、すぐ交渉してまいります」 少しためらっていたけど承諾してくれた。 これでいい、そんなに気にすることじゃない。「貸し切りには出来ませんでしたがなんとか使えそうです」「よかった」 本当は貸し切りの方が迷惑にならないと思うけど店側がいいというなら構わない。 みんなを連れて店に入ると店員が怪訝な目で見てきた。 初めての店だから僕の姿に驚いているのだろう。 いつものことだ。「旦那様?」「いいよ、初めてのお店だし」 店員の怪訝な目にアナが気づいたけどたまたま通りがかった店に対してそこまでする必要もない。 貴族に慣れている店ならそういう反応を見せないものだけどここはあまり慣れていないんだろう。 建物の奥側に案内されて服を試着していく。 とりあえず家に帰るまで持てばいいのだからなんでもいいのだけど、アナ含めメイド達が『似合うものしか駄目です』と言っていた。 おかげで何着も試着している。 まあみんな楽しそうに選んでくれているのでいいか。「何あれ? 気持ち悪っ」「しっ、お貴族様だよ、下手なことを言うと首はねられるよ」「怖っ、え、聞こえてないよね?」 悪口と言うのは存外遠くまで聞こえるものだ。 かなり離れた入り口付近の店員が話している
Last Updated: 2026-07-19
Chapter: 4. 転職先 そんなこんなで入社1年ほどたったある日。 部長から呼び出された。 めったにないことなので緊張する。「申し訳ないけど今期末で契約満了とさせてほしい」 どうも新しい人を入れるために派遣社員を減らすらしい。「高橋君も頑張っていたんだけど、上がどうしても新卒じゃないと駄目と言ってね」 「そうですか……わかりました」 けっこう居心地の良い職場だったのに残念。 でも彼は私がいなくなったら泣いちゃうんじゃないかな。 少し早いけど送別会が開かれることになった。 他にも転勤や退職する人がいるのでまとめてやるらしい。「宮本さん、お疲れ様」 「おつかれさまです」 いつものように彼が話しかけてくる。「ごめんね、頑張って交渉もしてみたんだけど……」 肩を落としてしょんぼりした様子で話している。 藍さんから「正社員を増やすなら宮本さんを正社員にすればいい!!」と啖呵きっていたと聞いた。 まあ派遣社員をわざわざ正社員にする会社なんて珍しいよね。「まあ飲みましょうよ」 「ああ」 頑張ってくれたみたいだし最後ぐらい構ってあげよう。 最後だからなのか私が構ってあげてるからなのか普段より明らかにお酒を飲むペースが速い。「いつ見ても綺麗な髪だよね」 「ありがとうございます」 こらこら。 私はいいですけど、同じノリで他の人にやったらセクハラになりますよ。 飲み会もそろそろ終了。 彼は大分酔っぱらっているみたい。 私も今日は大分飲んじゃった。 次行く所もこういう居心地いい所だといいなぁ。 清算が終わって店の外に出ると、アルコールが入っていてもまだ少し寒い。 道で寝たら風邪ひくどころか死んじゃうかもしれないなぁ。 そんなことを思っていると、藍さんが彼に肩を貸しながら出てきた。「本人は歩けるって言うけどちょっと心配なので送っていこうかと」 たしかに途中で倒れちゃったら大変だもんね。 ……藍さんにも彼にもお世話になったし、最後ぐらいもう少し付き合ってあげようか。「藍さん、私が送っていきますよ」 「あ、いいの?じゃあお願い。でも狼に食べられちゃうかもよ」 「狼はぐでんぐでんになってますよ」 藍さんに変わって、彼に肩を貸す。 うーん、私がちっちゃいせいで逆に歩きづらそうだ。 まあ、いいか。 道を教えても
Last Updated: 2026-05-25
Chapter: 3. 彼の想い 入社から数か月。もう完全に仕事には慣れた。 いつものように出社したけど彼の姿が見えない。 あれ?今日は有休じゃないよね? きょろきょろと辺りを見渡していると藍さんから声をかけられた。「高橋君、コロナに感染したみたいよ」 なんと休みの内にコロナ感染が発覚したらしい。 今の規定だと濃厚接触者とかにはならないので私は大丈夫。 でも仕事はどうなるだろう? 聞くと彼に変わって藍さんが一時的に上司となってくれるそうだ。 女性の上司は初めてだったけど、今まで飲み会ではよく話していたのであまり緊張はない。 いつも彼とするように雑談しつつ仕事をしていると、ふと藍さんが爆弾発言をした。「雑談はほどほどにね、といっても高橋君の影響でしょうけど」「本人いないので言っちゃうけどあなたには甘々だからね」「あなたが困らないように先回りしてトラブル取り除いてたりとか。飲み会の時もあなたが他の男に絡まれないようにしてたでしょ」 そういえば飲み会の時、毎回彼はずっと私の隣にいる。 あれはそういう理由だったんだ。「本人には内緒だけどきっと高橋君は宮本さんのこと好きよ」 は? それは本人に内緒で言っちゃっていいことなの? 彼が私のことが好き……?いやいや、そんなこと……。 待てよ、そういえば……。----------------------------------------------------------------- 今週はなぜか測定機器の使用予定がかぶる。 普段ならこんなことはないのに、と思って聞いてみた。「ああ、ごめん。今使ってるからもう少し後でお願い」 「普段かぶったことがないのに珍しいですね」 「ああ、高橋さんが事前に調整してたからね」 なんと、私が使う時に予定がかぶらないようにしてくれていたらしい。 一度もそんなそぶりを見せたことがなかったので気づかなかった。 また今週は測定機器の調子が悪い。 彼がいないので他の人に見てもらうと驚くことを言われた。「これ、作業前に調整してもらった?」 「してもらってないです」 「なら調子が悪いのはそれが原因だね」 「今まで一度もそんなことなかったのに」 「あれ?結構な割合で調整が必要になるものなんだけど」 「一度もなかっ
Last Updated: 2026-05-25
Chapter: 2. 何気ない日常 こうして私の新しい職場での仕事が始まった。 彼は非常に話しやすい人だった。 説明が分かりやすいし気軽に質問しても答えてくれる。 彼はかなり優秀な人のようで周りから相談や問題解決を頼まれている。 私には関係ないから(大変そうだなぁ)と思いながら見てるけど。 ただ良く分からないのが仕事中に雑談してくること。 彼はよく私の仕事を監督するんだけど、作業の待ち時間に雑談してくるの。「休日は小説とか読んでいてね」 「そうなんですか」 「最近読んだのだとジョージ・オーウェルの一九八四年とか」 「名前聞いたことがあります」 「宮本さんは小説読んだりする?」 「そうですね」 「例えばどんなの?」 適当に相槌うってたけど、面倒な質問が来た。 こういう人が言う"小説"っていうのはあんまり読まないんだよね。 かといって答えないわけにもいかないし……。「……本好きの下剋上です」 「ごめん、聞いたことない」 「いえ、構いません」 ここで会話は終了した。 まあ、やっぱり知らないか。 難しい小説を読む人って変に見下してくることが多いから、特に何も言われなかっただけましだと思うことにしよう。 でもこうやって上司から雑談を振られても答えに困る……。 変なことを答えるとまずいだろうし無視する訳にもいかないし。 とまあ、このように若干気になる点はあるけれども、総じて言うとそこまで悪くない職場だと思う。 ここなら長く勤められるかもしれないなぁ。・・・ こうして一か月が過ぎた。 大分作業には慣れたし彼が雑談してくるのにも慣れてきた。 雑談については要は当たり障りのないことを答えていればいい、そう思っていた矢先のことだった。「前言ってた本好きの下剋上買って読んでみたけど面白かったよ」 私が前に言ってた本を読んだらしい。 わざわざ買って読むとは頑張るなぁ。図書館とかにもあるのに。「大分時間がかかってしまったけど全巻読めたよ」 は? あれ一巻がだいぶ分厚い上に36巻あるんですけど? しかもまとめて買ったらお値段も4万近く行くと思うんですけど? 適当に誤魔化してるんじゃないの?「最推しはアンゲリカかな。あの取捨選択のすごさと天然のかわいさが良いね」 あれれ、意外と読み込んでる!? いや、アンゲリ
Last Updated: 2026-05-25
Chapter: 1. 出会い 今日からまた新しい職場かぁ。 これが派遣社員のつらい所であり楽な所である。 嫌な職場から逃げられるけど新しい職場が良い所かは分からない。 なので初出社はどうしても憂鬱な気分になる。 面倒な人がいないといいなぁ。 会社に到着してそうそうに上司となる人を紹介される。「初めまして、高橋です。一応君の上司となります」 「こちらこそ初めまして。宮本です」 30代前半で優しそう。でも髪の毛はぼさぼさでなんか冴えない感じ。 私より一回り上だけど大人しそうで怖くはないかな。 機嫌が悪いとすぐ怒り出すような人は嫌だからね。「じゃあ、さっそく仕事の説明を説明するね」 私に任されるのは液晶?製品の性能評価だった。 どうやらそれの明るさとか色とかを測るらしい。「わかったかな?」 「はい」 説明を聞きながら簡単にメモを取ったけど特にややこしい手順はない。 教えられた通りにセットしてボタンを押す。 装置が動いて何か数値が出た。「液晶の動作原理は~~~」 なんか難しいこと話し出した。 それ、明らかに作業と関係ないよね。 ただの派遣に何を期待してるんだろう。 どうさげんりとか言われても何も興味ないんだけど。「光が透過しないのはこの偏光板の効果、液晶に電気をかけることで光が透過するんだ」 「はい、わかりました」 意味わかんないや。 つらつらと専門用語を並べて説明した気になられても困る。 ついでに言うと私の目を見て話してくるのも何なんだろう。 ちゃんと聞いてるのかチェックでもしてる? まあ聞いてるふりしていればいいか。「じゃあ、なにかあったら呼んでね」 一通り説明を終えると彼は去っていった。 さあ、初仕事始めますか。・・・ いくつかの種類のサンプルの測定は終了した。 それはいいんだけど残っているこいつが問題なのよね。 こいつだけさっき聞いた説明と違っている。 何もしなかったら画面が真っ黒と言ってたけど、これは画面が真っ白だ。 壊れてるの?それとも私の理解が間違ってるの? 嫌だなぁ、理解が間違っている場合大体2パターンの対応なんだよね。 ・同じことを説明される。 ・理解しなくていいから言われた通りやれと言う。 どちらにしても怒られるんだよなぁ。 でも壊れてるんだったら言
Last Updated: 2026-03-14