社内の時計が午後六時を指しかける頃、ミライズ・クリエイションズのフロアにはゆるやかな緩みが訪れ始めていた。
打ち合わせの資料をまとめる音、パソコンのキーボードが打ち込まれる音も、少しずつ間延びし、帰り支度を整える足音がどこからともなく聞こえてくる。河内は自席に戻り、背もたれに体をあずけると、天井の照明越しに窓の外を見やった。
高層ビルの隙間から覗く空は、夕焼けが濃くなり始め、灰色と朱の中間でゆっくりと夜に溶け込んでいく色をしていた。その色が、なぜか胸の奥を締めつけた。
──週末と、今日を隔てるものは何やったんやろ。
視線はぼんやりと外に向けながら、内側の声だけが鮮明に響いていた。
ホテルの部屋で交わったあの夜。何も言わずに、小阪は出ていった。その背中を追うこともできなかった自分が、こうしていつもの席に座っている。何も変わっていないように見える。
周囲は笑い、誰かが「今日飲みに行きませんか」と声を上げ、また誰かが「明日の資料、頼んどいていい?」と返している。それが“平常”で、社会人としての正しさだとすれば、河内はもう、どこに自分の居場所があるのかすら曖昧だった。近づいたはずだった。
けれど、近づいた“つもり”になっていただけだったのかもしれない。「……ほんまに、おれらは、まだ何も始まってへんのかもな」
呟いた言葉は、もちろん誰にも聞かれていない。
そして、聞かれてはいけない。ここは職場であり、恋愛の場所ではない。でも、それでも胸に残る何かを、無視できるほど器用にもなれなかった。向かいの島で、小阪の姿がふと立ち上がるのが見えた。
PCの電源を落とし、資料を整理し、カバンを肩に掛ける。背筋を伸ばし、足早に出口へと向かう姿には、迷いも逡巡も感じられなかった。けれど、河内の目には、その背中が妙に小さく見えた。
誰にも気づかれないように、まるで空気に溶け込むようにして姿を消していく。そCルームと呼ばれるサブ会議室は、普段は空調の調整すら放置されているような場所だった。壁のクロスはところどころ色が褪せており、長机も天板に小さな傷が無数に走っている。午前十時過ぎ、会議室の中にはふたりだけ。河内と小阪。その配置は、先日の会議で正式に決まったプロジェクトの“核”となるはずの組み合わせだった。静かだった。パソコンの起動音も、コピー用紙が擦れる音も、とっくに収まっていた。机の中央に広げられた資料に、小阪の視線が落ちている。まばたきの間隔も一定で、姿勢を崩す様子はない。ただ椅子に腰かけ、指先でペンを転がしているだけだった。河内は、その向かい側に座っていた。背筋をやや伸ばした姿勢で、モニターを見つめては資料を確認し、視線を小阪へ滑らせる。その一連の流れは、どこか演技めいていた。あえて“業務の体裁”を守るための所作。だが、何かを探るような意識が、仕草の端々に滲んでいた。「小阪くん」呼びかけに、小阪は反応した。けれども顔を上げることはせず、ペンを持ったまま指を止めた。「このアイキャッチの扱いなんやけど、あんたやったら、どういうふうに考える?」“主語”をつけた。それが意識的なものだったことに、河内自身も気づいていた。小阪という人間を、単なる“デザイナー”としてではなく、あくまで“一対一の相手”として認識しようとした言葉。ビジネスの文脈にひそやかに混ぜ込んだ個の輪郭。小阪は、しばらく何も言わなかった。机上の資料に、視線を固定したまま。わずかに指先が動き、ペン先を紙の縁に当てた。カリ、と音がする。まるで、沈黙に傷をつけるような音だった。それから、ほんの少しだけ、まぶたが下がった。まばたきではなく、意識的な遮断のような、思考に沈む前の一瞬の目の動きだった。「……たぶん、こうです」その言葉が、紙の上に降りてきた。小さく、だが確かにそこに落ちた。声の調子は変わらない。無感情でも、投げやりでもない。ただ、必要最低限の語彙と、ぎりぎりの呼吸で構成された返答。
喫煙所の扉を開けた瞬間、こもった空気が顔を撫でた。外の湿気とは違う、ヤニと微かな芳香剤の混じったにおいが鼻に残る。灰皿は定期的に清掃されているものの、壁の隅には薄茶色のくすみがこびりついていて、それだけがここが“繰り返される場所”であることを物語っていた。河内は無言でポケットからセブンスターの箱を取り出し、一本だけ咥えた。ライターの火を灯す動作は、ほとんど無意識だった。カチリ、という音とともに青白い炎が立ち上がり、フィルターの先端がゆっくりと赤く染まった。最初の一吸いで、喉がわずかに詰まる。深く吸い込むつもりがなかったわけではない。だが、肺の奥まで届く前に、煙は違和感のように逆流し、軽く咳きそうになった。それを押し殺すように、もう一度浅く煙を吸い直す。目の前には、誰もいなかった。この時間帯、喫煙所は空いている。会議が終わってすぐ、資料をデスクに置くよりも先にここに来た。急いでいたわけではない。むしろ、何かから逃げるような足取りだった。だがそれを自覚すると、余計に息が詰まりそうになった。「…組む、って、なにを組むんやろな」ぽつりと呟いた声は、煙に溶けるようにして天井へと流れていった。返事はない。それが分かっていて口にした。仕事上のペアを組む、というのは日常だ。誰と誰が噛み合うか、どこに無理が出るか、営業と制作、あるいは上司と部下、その組み合わせに意味を見出すことなど、本来なら不要だった。数字と結果が全て。性格の相性や感情の動きは、置き去りにして構わない世界だったはずだ。だが今、自分がその選択をしたことが、妙に皮膚の裏側をざらつかせていた。小阪を選んだ。それは事実だった。言葉にしてしまえば、ただの選定理由にすぎない。が、あの瞬間、喉の奥に詰まっていたものは、単なる業務上の都合とは、少し違っていた。…なんで、俺は、あいつを選んだんやろな目を閉じると、別の顔が浮かんだ。過去の恋人。学生時代の、あの町で出会った、あいつ。風呂上がりの濡れた髪を掻きながら、笑いながら、言った言葉。「組もうな。俺と、おまえ」夜の駐車場だ
会議室を出ると、廊下にひとつだけ置かれたパーテーションが、微かに軋んだ音を立てていた。エアコンの風が流れてきて、背広の裾を揺らす。河内はそれを無視するように歩を進め、向かいのサブスペース、通称Cルームと呼ばれる小会議室へと入った。ホワイトボードには何も書かれておらず、薄いアルミ枠の縁が、曇った窓から差す鈍い光を跳ね返していた。小阪は既にそこにいた。ドアの近くではなく、ホワイトボードの脇、やや距離を置いた位置に立ち、腕を組んで壁を見ていた。視線の先には何もない。ただ、空白があるだけだった。「河内、小阪、ちょっとここに」葉山の声が後ろから届き、河内は一度だけ振り返った。葉山は手にしたタブレットを軽く操作しながら、二人の間に立った。「この件、スケジュール管理とクライアント対応は河内に任せる。小阪はビジュアル方針の整理、まず初稿まで。週末までにざっくり叩けるよう、二人で進めといて」「了解です」「……はい」二つの返事は、明らかに温度が違っていた。河内の声は弾みを持っていたが、それは営業職としての反応だった。小阪の声は、どこか空気に溶け込むような鈍さがあった。どちらも葉山には届いたようで、彼は頷き、軽く肩を叩いてから部屋を出て行った。ドアが閉まる音がやけに静かだった。沈黙が落ちた。会議室の奥、ホワイトボードの前に立つ河内が、壁際に備え付けられたトレイからマーカーを取った。キャップを外す音が、微かに響く。手元のホワイトボードに線を引く。日付、納品予定、初回ミーティング。書いては消し、また書く。だがその文字は、どこか雑だった。筆圧もまばらで、斜めに逸れたまま修正されることもなかった。背後に気配を感じる。小阪は変わらず、ホワイトボードから少し離れた位置に立っていた。腕を組み、視線を落とし、壁の一点に焦点を当てるような仕草。誰かと目を合わせるということが、彼にとってどれほどの意味を持っているのか、河内はまだ理解できていなかった。ただ、無視されているとは思わなかった。あれは無関心ではない。ただ、まるで…記憶の底に沈んでいるものに触れることを避けているように見えた。「小阪くん」河内は、
会議室の空調は稼働しているはずなのに、どこか湿り気を含んだ空気が漂っていた。梅雨の名残が床や壁に染み込んでいるようで、窓の外の曇り空は、朝九時の光すら冴えないものに変えていた。長テーブルには、既に十数枚の資料が並べられている。モノクロのグラフ、プロジェクト概要、クライアントヒストリー。どれも目新しさはない。だが、この定例が今までと違うのは、今日から正式に、案件の立ち上げフェーズに入るということだった。河内は席に着いたまま、右手でペンを弄びながら、何気なくその資料をめくった。ページの端に僅かなくせ毛が挟まっていて、それを指先で摘んで取り除く。隣の席では森が何かを話していたが、内容は耳に入ってこなかった。「じゃ、始めよか」葉山の声が会議室に落ちた。抑揚は穏やかで、いつものことながら無駄がなかった。話が早い人間だ。だからこそ、このプロジェクトも彼に任されたのだろう。「新規のブランド案件、動き始めるで。営業は河内、デザイナーサイドはまだ確定してへんけど、今日決めてしまおか。自由に言うてくれてええ。やりたい相手、おる?」その一言で、空気が変わった。微細な沈黙が会議室を包む。パソコンのキーを打つ音が遠のき、紙をめくる音すら聞こえなくなった。視線がいくつか、河内に集まっていた。だが河内自身は、それを感じながらも目線を上げなかった。あえて、資料に視線を落としたまま、少しだけ口元を緩めた。「小阪くんで」そう言った声は、いつもより半音ほど低かった。だが抑揚もなく、あくまで事務的な響きを保っていた。ネクタイはきっちり締めたまま。笑顔の曲線も崩さない。まるで、ただ数字を読み上げるように、その名を口にした。その瞬間、椅子がきしんだ音がした。誰かが小さく姿勢を変えたらしい。森だった。目線は下のまま、手元の資料に視線を落としていたが、次のページをめくる手が一瞬止まった。それだけだった。だが、それは確かに反応だった。「ふうん」葉山が軽く口角を上げた。その視線が一度だけ、会議室の斜め奥、小阪の席をかすめた。小阪は、何も言わなかった。ノートPCの画面を睨むように見つめたまま、まばたきもせず、その場に座ってい
煙草の火が消えたあとも、指先にはまだ微かな熱が残っていた。灰皿の縁に押しつけたあの短い一服が、場を満たしていた空気を少しだけ動かしていた。小阪が立ち去ったあとの喫煙所には、静けさが戻った。けれど、ただの無音ではなかった。空気の重さが違っていた。 ガラスの曇りにふたつの影はもう映っていない。ただ、煙の層が天井へ薄く昇っていく。見上げた先にある通気口のファンは、鈍く回っているようで、ほとんど動きを感じさせない。まるで、この空間ごと、時間の中に閉じ込められてしまったようだった。 河内は、わずかに立ち上るその煙の名残を目で追いながら、思わず鼻からゆっくりと息を吸い込んだ。自分の吐いた煙草の残り香と、そこに重なるようにして微かに残っていた別の匂い。それが、小阪のものだと気づいた瞬間、喉がかすかに締まった。 煙草だけではない。もっと深く、もっと甘く、それでいて乾いたような、伽羅の香りが混じっていた。線香でも香水でもない、もっと肌の内側に近いところから染み出してくるような香りだった。あの夜、部屋の中にゆっくりと漂っていた気配が、今、煙草とともにこの狭い場所で再び自分を包み込もうとしている。 「なんやろな…あいつの匂いって」 声には出さずに呟いたその言葉が、自分の中で輪郭を持ち始めていた。香りは記憶を呼び起こす。あの夜、照明の落とされた部屋の中で、無言のまま指先が彷徨った肌の上。その温度、その沈黙、その眼差し。すべてがはっきりと甦る。 そして、その記憶の中心にあったのは、小阪の左耳に輝いていた小さな黒いピアスだった。昼間、デスクの角度でちらりと見えたときには気づかなかったが、今こうして記憶の中で見るそのピアスは、まるで彼の沈黙すべてを象徴しているようにも思えた。 飾り気のないシンプルな黒。どこにも主張しないのに、確かにそこにある。小阪という存在そのものだ。なぜその夜、自分はそれに気づかなかったのかと、今さらながら悔しさすら混じるような苛立ちが胸をかすめる。顔ばかり見ていたからだ。あの、感情の読み取れないまなざしばかりに囚われていた。 それでも、あのとき、小阪の身体は確かに熱かった。声はなかったが、拒絶もなかった。だが、それが&ldquo
煙草の火はいつのまにか短くなっていて、フィルターの手前までじわりと熱を帯びていた。河内は唇の端でそれを転がしながら、もう一度深く吸い込んでみたが、思っていたほど肺には届かなかった。自分のなかにあるはずの言葉が、今はまるでどこにも見当たらない。 喫煙所の空気は湿っていた。外気を吸い込んでわずかに冷えた窓ガラスが、室内との温度差で曇り、そこにふたりの影がぼやけて映っている。ガラス越しに見える空は、午後の鈍色に沈み、雲の端だけが不自然に白い。風もなく、ただ、時間だけが滑っていく。 ふと、河内が口を開いた。 「煙草、吸うんやな」 それは質問というより、独り言に近い調子だった。特に意図もなく、言葉を探していた先に、ようやく浮かんできたもの。ただ、それすら正しいのかどうか、自信はなかった。 小阪は少しだけ煙を吐き出してから、言葉を置くように答えた。 「……たまに」 低く、かすれるような声だった。煙に混じるようにして空間に溶けるその音は、意味以上に多くのものを孕んでいるようにも思えた。 河内は返事を待たずにうなずいた。会話は、たったそれだけで終わった。 けれど、それで終わることに、どこか安心している自分もいた。何を話せばいいのか、まだ自分たちは知らなすぎる。あの夜に何かを始めたとしても、それは“関係”と呼べるものではなく、ましてや会話の土台になるような感情でもなかった。 小阪は窓の外を見ている。その目線の先には、何もない。雲の切れ目も、鳥の影も見えない。けれど、それでも何かを見ているような横顔だった。 河内はその頬の輪郭を、煙越しに見ていた。眉尻の角度、睫毛の影、唇のわずかな起伏。すべてが先日、暗がりの中で指先だけが覚えた形だ。 それを、今、光の中で見ている。明るさというものが、時に残酷なまでに現実を連れ戻すのだと、初めて思った。 吸いかけの煙草をもう一度持ち直し、灰皿に軽く押し付ける。パリッとした音とともに、灰が崩れる。何かを壊してしまったような音だった。 河内はもう一度、小阪の横顔に目をやった。ふ