わたしが答えるまえに、紗加さんが安西さんの隣に来て、そう言った。 「ひどいなあ、紗加まで」「さあ、そろそろはじめましょう。今日は忙しいわよ」 「ああ、そうだな。おふたりとも、今日はよろしくね」安西さんはカメラのほうに向かっていった。わたしも最初の衣装を着るために紗加さんの後に続いて、事務所に入っていった。 ****** 各衣装それぞれをほんの10分ぐらいの短時間で撮影した。無理に意識しなくても、すっかり着せ替え人形の気分だ。撮影自体は2度目だったので、少しだけ慣れた。 安西さんの指示にできるだけ添えるように、それだけを気をつけた。それでも右を向いてと言われて、左を向いてしまったり、長いドレスの裾につまづいて派手にこけたりと、いろいろやらかしてしまった。安西さんはそんなわたしを見て、肩を震わせて笑いをこらえながら言った。「文乃ちゃんって、見た目は、お姫様かと思うぐらい楚々とした風情なのに、けっこう間が抜けてるよな」 「えー、仕方ないですよ。慣れてないんだから」 「ま、そういうとこが可愛いんだけど」「……」この人のことだ。 深い意味はないはず。 ぜったい、モデルになら誰にでも言うんだ。 可愛いって言われたからって浮かれちゃだめ。わたしは心のなかで一生懸命自分を説きふせていた。
上島さんは手に持っていた薄紅色のスカーフを黒いドレスに巻きつけながら、話を続けた。「心配してるみたいだから教えてあげる。モデルの極意なんて、じつに単純なものだよ。自分が人形になったと思えばいいんだ」「人形に?」思わず問い直していた。彼の言わんとすることがよく理解できなかった。「人形浄瑠璃って観たことある?」「えーと、文楽のことですか? 高校生のとき、学校の鑑賞会で見たのがそうかな」「ぼくは好きでね。よく行くんだけど、ただの人形が人間以上に美しく妖艶に見える瞬間があるんだ。語りや人形遣いの力でね。モデルも同じ。衣装やメイクや撮影の力で、つまりぼくたちの力で一番美しく見えるようにしてあげるものなんだよ。結果の心配はぼくらにゆだねてくれればいい」「はい……」素人のわたしがいくら下手な小細工をしたって無駄ってことかな。でもたしかにそうだ。 いくら意識したところで、なんにもできない。「さすが、いいこと言うなあ。そうそう、文乃ちゃんはただ、おれたちに身をゆだねてくれればいいんだよ、ね」安西さんが事務室での用事を済ませて、会話に割りこんできた。上島さんがくくっと喉をつまらせて笑った。「安西氏が言うと、なんだかいやらしく聞こえるなあ」「えっ? そんなことないよ、ねえ、文乃ちゃん」「あら、わたしは上島氏に一票」
なかでもひときわ目を惹いたのは、衣桁に掛けられた艶やかな着物だった。柄は華やかな花籠模様だったけれど、全体に落ち着いた色目で、成人式に着たレンタルの振袖とは違う、とびきり上等な品であることは一目でわかった。これほどの服を前にしたら、女の子ならみんな目を輝かせるだろう。 まして見るだけでなくすべて着られるのだから。でもわたしはあまりの迫力に気後れしてしまった。「こんな見事な衣装……着こなせる自信なんてない……」 おもわず声に出してつぶやいていた。 「モデルは初めて?」 驚いて声のしたほうを見ると、黒縁の眼鏡をかけた男性が立っていた。 きみが今回のモデルだね、と言って、名刺を渡してくれた。上島渉(わたる)さん。 ここに並ぶ豪奢な衣装のデザイナーさんだった。「はい。きちんと写真撮影したのは、成人式ぐらいで」上島さんは優しげな表情で微笑んだ。優美で中性的な雰囲気の人だった。「安西氏に押し切られたのかな? 彼、強引だからな」 「……ですね」「実はぼくもそのくち。他の仕事で手一杯だったんだけど、彼にどうしてもって頼まれてさ。でも、今、きみに会って、がぜんやる気が湧いてきたよ。たしかに今回のコンセプトにぴったりの人だね」 「コンセプト?」「ああ、聞いてないのかな? まあ後で、安西氏が話してくれると思うよ」
「聞いてた?」 「あっ、ごめんなさい。もう一回言ってくれる」 考え事に気を取られていて、俊一さんの話を聞きのがしていた。「来週の週末に、一緒に大阪に行ける? 社宅を見にいこうかと思ってるんだけど」 週末には衣装合わせの予定が入っていた。「えっと、今週の日曜日は合唱の仲間とコンサートを聞きに行く約束があって。次の週末でもいい?」「最近、おれの予定に合わせてもらってばっかりだったもんな。いいよ、じゃ、来週にしよう」 「ありがとう」 わたしはまたひとつ、嘘を重ねた。 ******その衣装合わせの日。日曜日とはいえ、着いたのがまだ早い時間だったので、さすがの表参道も人はまばらだった。 今朝は冷え込みが厳しい。 吐く息が真っ白だ。わたしは、気合を入れるために、冷たい空気を肺に痛みを感じるほど思い切り吸いこんだ。安西さんを想う気持ちを封じこめるために心の周りに壁を築かなければ。わたしはただ、安西さんの仕事に協力するだけ。 いわば、会社の取引先の人間。 それだけ、それだけと、自分に暗示をかけるように唱えながら安西さんの事務所に向かった。スタジオのドアを開けたとたん、色とりどりのドレスをまとったマネキンが、所せましと並んでいるのが目に飛びこんできた。黒のベルベット、純白のタフタ、銀色の綸子、紅色のサテン、薄紫のシルク……目が眩みそうだ。
安西さんのことを俊一さんに正直に話せば、この後ろめたさからは逃れられるだろう。でも何て言えばいい? 今、片思いの人がいて、その人のことで頭がいっぱいだと? しかもその人に頼まれてモデルを引き受けてしまった、と?言えるわけがない。ずるいとは思うけれど、俊一さんとの間に波風を立てたくなかった。 話すことで破談になるかどうかはわからない。 それでも怖かった。周囲の目だってある。 まだ正式に発表はしていないけど、わたしたちが付きあっていることを知っている会社の人はそれとなく察している。それに、もし婚約解消になったとしたら、あれほど喜んでくれた互いの両親にどう言い訳すればいいのか……。そう考えだすと、とても言い出せないという思いでいっぱいになる。一刻も早く安西さんへの想いを断ち切って、この迷いから抜け出さなければ、大変なことになる。そうなるかならないかはただ自分の気持ちひとつなのだと、痛いほどわかっていた。安西さんに会うのはあと3日か4日。 この秘密を抱えるのはそれまで。 それに安西さんとわたしの関係はあくまでもカメラマンと被写体。 分別さえわきまえていれば大丈夫なはず。とにかくしっかりしなきゃと、自分をいましめた。
「やっぱり今日はいつもと違うな。どうしたの? 最近、忙しくて会えなかったから? 寂しい思いをさせてすまなかった」例年でさえ年末は忙しいのに、転勤のための準備や引き継ぎで、俊一さんは寝る間もないほど忙しい日々を送っていた。プロポーズされたあと、ふたりでこうして過ごせたのはほんの2日ほどしかなかった。今日は1月3日。多忙の俊一さんも三が日だけはなんとか休みが取れた。でも明日はもう仕事はじめ。 休み最後の日を俊一さんの部屋で過ごしていた。昨日はわたしの実家をふたりで尋ねた。うちの両親は、俊一さんのご両親以上にこの結婚に大賛成だった。食卓には見たこともない豪勢なおせち料理が並んでいて、それだけで母のはりきりが伝わってきた。そうやって、周りが祝福してくれればくれるほど、わたしの心には暗い影が差す。 秘密を抱えている心苦しさにじわじわと蝕まれていく。「お姉ちゃん、なんかヘンだよ? もうすぐ結婚するハッピーな女って感じがぜんぜん伝わってこないんだけど」 ふたりきりになったとき、3歳年下の妹がこっそりささやいた。どきっとした。 昔から妹は勘が鋭い。「うーん。そうね。正直ちょっと不安もあるかな。結婚していきなり知らない土地に住むことになるし」 「ああ、マリッジ・ブルーってやつね」 妹はわたしの話を鵜呑みにしたようだった。当たり前だ。まさか俊一さん以外の男の人を想って悩んでいるなんて、妹ですら思いもよらないだろう。