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第722話

Author: レイシ大好き
本来なら口をついて出る言葉ではないのか。

あるいは、迷うことなく言えばいいだけのことではないのか。

けれど、美月の口からは、どれだけ時間が経っても出てこなかった。

このことが、紗雪にはどうしても理解できなかった。

「愛している」と言うことは、そんなに言いづらいことなのだろうか。

若い紗雪の心は、少しずつ冷えていく。

そして母がためらえばためらうほど、緒莉の笑みは深くなる。

これではっきりしたじゃない。

母がここまで言いよどむということは、紗雪を愛していない証拠。

時間が過ぎれば過ぎるほど、二人の心はすり減っていく。

傍から見ても、そんなの誰だって気づけるほど明白なことだった。

美月が口を開きかけた、その瞬間。

若い紗雪が先に言葉を挟んだ。

「もういいよ、お母さん。この質問に答えなくて大丈夫」

伏せたまつ毛が影を落とす。

「私の中では、もう答えが出てるから......もうわかったの」

その一言に、美月の胸はドキリとした。

見透かされている――

そう感じるのが、どうにも居心地悪かった。

それを隠すように、美月の声は不自然に強くなる。

「何がわかったっていうのよ!まだ子どものくせに、大人の気持ちなんてわかるはずないでしょ!」

けれど若い紗雪は、ただ小さく笑っただけで、それ以上は言わなかった。

母が答えなかった言葉の意味くらい、自分にはわかっている。

それくらいの目は持っているつもりだった。

「お母さん、勉強してくるね」

そう言って、彼女はそのまま階段を上がっていった。

紗雪もすぐに後を追う。

だって、それは自分自身の幼い姿。

その時の気持ちがどんなものか、誰よりも理解できていた。

あとは母の態度をどう受け止めるか、それだけ。

少し首を傾げて考えた紗雪は、結局、幼い自分を追うように足を速めた。

冷たい二人と一緒にいるくらいなら、子どもの自分に寄り添う方がずっといい。

もちろん、手を差し伸べても触れることはできない。

それでも心のどこかが慰められる気がした。

だってあの頃の自分は、あまりにも孤独だったから。

病弱な緒莉には母がつきっきりだった。

では、自分には?

清那以外、誰もいなかった。

だが自分という人間を誰より知っているからこそ、理解している。

たとえ清那がそばにいても、すべてを打ち明けるわけ
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