「あ……」 歩さんの案内で夏山さんの部屋にやってくると、すぐにここが夏山さんの部屋なんだなってわかった。この部屋だけまだ片付けの手が入っていないから、まるで今さっきまでそこで夏山さんが過ごしていたかのようにいろいろなものが残っている。中でもやっぱり目立つのが……。「へへ、すみませんね……散らかってて」 歩さんは部屋の状態に恥ずかしそうに笑う。しかし、この風景に記憶が刺激されたのかその瞳はうっすら潤んでいた。「すごい……夏山さんらしい部屋だね……」「ええ、ほんとに……」 いったいどこでこんなものを買いそろえたというのか、壁には皐月 無垢が不愛想ながら一応カメラ目線をしているポスターが貼られ、棚に並べられた写真立てには雑誌から切り抜いたと見えるこれまた皐月 無垢の写真が飾られていた。シーツや掛布団の乱れも直していないらしく、ややぐちゃっとなったそこには枕元のところに皐月 無垢を模したぬいぐるみが置かれていた。この皐月 無垢グッズの数々、あの皐月自身はいったいどれほどまで把握しているのだろう? でも、そんなオタク丸出しな光景に「ああ、そういえば夏山さんってこういう人だったや」と俺も懐かしくなる。部屋の中のどこか埃っぽいような匂いが、普遍的な懐かしさを演出していた。 歩さんは、空の段ボールを手にそれらの収納に取り掛かる。「姉さん、本当にこの皐月って人が好きで……前、本人に会えたんだってすごい喜んでたんです」「ふふっ、ほんと……。俺も最初はびっくりしましたよ。最初はこう、いかにも普通の人って感じだったのに……皐月が出てくるなりいきなり早口になって……」「あはは、水瀬さんの前でもそうだったんですね……」 夏山さんしか共通点のない俺たち。しかしそれでも、思い出話に花を咲かせながら部屋の片づけを推し進めた。時には見つかったアルバムを広げて、歩さんの口から俺の知らない夏山さんの話を聞いたり、逆にダンジョン内での出来事と関連する品が出てきたら俺がそれにまつわる思い出について語ったり、片付けとしては無駄の多い……しかし充実した時間を過ごした。 もうこの世に居ない人なのに、その存在がまた……俺の中で膨れ上がっていく。誤解を招く表現になるかもしれないけれど……やっぱり、彼女は俺の中で大切な人だったんだと再確認させられた。 気がつけば、俺と歩くん
「あ……水瀬さん、ですね」 開かれた扉から現れるのは……当たり前だけれど、歩さんだった。夏山さんと同じ栗色の髪、どこかあどけなさを感じさせる丸い瞳。俺よりだいぶ身長の低い少年は、既視感のある雰囲気を身に纏って微笑んだ。「あっと……君が……?」「はい、歩です。夏山 歩。さぁ、どうぞ……中にいらしてください」 メッセージで感じたときのように生真面目な感じの丁寧な言葉遣い。しかし、実際にこう対面してみると……その声の柔らかさからだろうか、そんなに堅苦しい感じはしなかった。背格好からして、高校生……いや、もう少し落ち着いた雰囲気があるから二十手前くらいだろう。 歩さんに案内されて、玄関に立ち入る。案内されて……とは言ったが、特に変わった作りでもないので一見しただけで大体どこにどういう部屋があるのかは推測できてしまう。そしてその推測通り……俺はリビングルームと思われる場所に通された。「少し待っててください……。あんまり大したものは無いですけど……お茶くらいなら出せますから……」「あ……すいません。おかまいなく……」 俺をリビング中央にあるテーブルを囲う椅子の一つに座らせると、歩さんはそう言って台所へ消えていく。俺が座っているのも含めて、椅子は全てで四つ。四人家族……と見ていいだろう。しかしそれにしては……。「……」 あんまり人の家に上がり込んで色々観察するべきではないのだろうが、なんだか玄関先の雰囲気と比べるといささか生活感を欠いているように思われた。なんというか、妙に片付いている。整理整頓が行き届いているというのとも少し違って、単純に物が少なすぎるように見えた。それこそ四人家族のリビングとなればテレビくらい置いてあるものだろうが、そうしたものは見られない。あるのはテーブルと、椅子と……あとは窓際のカーテンくらいだった。 その生活感の無さのせいか、他人の家に居る時のあの独特の座りの悪さというか、落ち着かなさが無い。まるでビジネスホテルの一室で過ごすのと遜色ないくらいに我が物顔で、歩さんが戻るのを待つ。 どこから戸……おそらく冷蔵庫の扉が開く音がして、すぐに閉じる音がする。そうして少し急いだ足音が近づいてくると、二リットルペットボトルと紙コップを二つ持ってきた歩さんの姿が見えた。テーブルの上にペットボトルとコップを置くと
結局、威勢よく注文してみたものの……そんなに飲むことはなかった。自分が想像以上に酒に弱かったとか、そういう話でもなく……ただどうしてもそういう気分になれなかったのだ。たぶん……俺はここに来て酔う予定だったのだけど、来店していくらか時間が経った今でも意識は明晰で冷え切ったままだった。「なんだかな……」 きっとこんな情けない姿を夏山さんたちに見られたら笑われてしまうだろう。彼女たちがあの日、どんな気持ちで散っていったのか分からないけれど……きっと俺のこの門出を祝福してくれるだろう。みんななら。「ああ……だから、違くて……こうじゃないんだよ……」 祝いの席じゃないか、と自分で自分の心に語り掛ける。これは別に、そう思い込もうとしているとか、そういう自己暗示の類いじゃない。俺はあの日を懐かしむんじゃなくて、あの日々を背に前へと進んでいくのだから。「……」 意を決して……と言うのは少し大げさだけど、一息にグラスをあおる。喉で弾ける炭酸と沁みるようなアルコールが口内を焼く。やっぱり俺には、特別お酒をおいしいと感じる味覚は備わっていなかった。「ふぅ……」 息継ぎのようにグラスをテーブルにおいて一息つく。丁度その時だった、メッセージを送信したきり卓上にほっぽり出していた携帯が通知に震えたのは。「あ、と……姉さんかな……?」 帰りにこの店に寄ることは既に鹿間さんの車内に居たときに知らせてはいたけど、姉さんのことだからそれでも心配して連絡を寄こしてきたのかもしれない。いつも世話になっているし、姉さんに迷惑はかけられないのですぐさま携帯を手に取る。しかし、通知のバナーに表示されていたその名前を見て、絶句する。そこに表示されていたのは夏山さんのメッセージアプリでのアカウント名である「にゃつやま」だった。「え……?」 心のどこかが軋む。空間から切り離されて俺だけの時間が止まったように、何も考えられなくなる。一体どういうことなのか、それが判明する前に……そもそもそんな疑問が頭の中に生まれる前に俺は通知のバナーをタップして届いたメッセージを開いていた。『いきなり申し訳ありません』『あなたが水瀬さん、ですか?』 メッセージが届いていたのは、あのグループチャット。そこに夏山さんの名前とアイコンで、しかし夏山さん本人とは到底思えないカタい言
鹿間さんは武器を構えていない。しかしその存在感から察せられる。”彼は既に臨戦態勢にある”と。 俺は武術に精通しているわけではないが、鹿間さんのその態勢には”武”を感じる。何よりも、喧嘩の経験の無い俺には人間相手にどう切り込むべきか攻めあぐねていた。「どうした? 君が来ないなら……」「こっちから、行かせてもらうよ!」「……え?」 さっきまで一定の距離を保っていたはずの鹿間さん。しかしその声は、俺のすぐ耳元に響いていた。 一瞬……一秒にすら満たない短時間で鹿間さんは俺に肉薄していたのだ。「くっ……!」 状況の把握に時間を要してしまったがために、出遅れる。とっさに剣を交差させて鹿間さんの放った拳打を受け止めると、そのシンプルな動作からは想像もつかないほどの衝撃が腕を突き抜ける。まるで何かが破裂したかのような突風が俺の後ろまで吹き抜けていった。「そうか……飛ばないか……。これもステータス補正の賜物か……」 その一撃を受け止めるだけで精いっぱいだったのに、鹿間さんは意外そうな表情を浮かべる。同時に俺は鹿間さんの”ステータス補正”の言葉に、あの晩の出来事を思い出す。あの晩に戦ったモンスターは確か……A級のモンスターだっただろうか……?鹿間さんはC級クリーナー、あのモンスターよりはランクが低いはずなのだが……一撃の重さという点においては明らかにあいつより突出していた。 このまま甘んじて二発目の攻撃を受けるつもりも無いので、ひとまず地を蹴って後ろに跳ぶ。鹿間さんはちゃんと本気なようで、自身の射程内に俺を捉えようと詰め寄ろうとする。俺はそれを牽制するつもりで、二振りの剣をそれぞれ一度ずつ振りぬいた。斬撃に合わせて烈火が地を這い、三日月状に氷結した斬撃波が鹿間さんに迫った。「……っと」 鹿間さんは迫る炎に拳を突き出し、風圧で穴をあける。その穴を潜り抜け、次いで迫る氷刃を拳で打ち砕こうとした。 拳打が氷を粉砕し、細かな破片が部屋中に飛び散る。その粒子の細かさゆえに、まるで雲のように真っ白く飛散して鹿間さんの姿を覆い隠した。しかしその氷の雲も、鹿間さんは拳で打ち払う。そうして再び姿があらわになった鹿間さんは、驚いたような表情を浮かべて氷を打ち砕いた自らの拳を見下ろしている。「まいったな、こりゃ……。ちょっと威力を見誤ったみた
「えっと……鹿間さん、これどこに向かって……」 あの後、ひとまず退院ということになってから数日……俺は鹿間さんの走らせる車の助手席に乗せられて、どこかを目指していた。俺の腕にはインベントリの腕輪がまだついている。その腕輪の銀色の曲面が映し出す俺の顔は、相変わらずしけた面だった。 鹿間さんはハンドルをさばきながら、俺の言葉に答える。「今向かっているのは……京都、つまり……新首都だ。ボクたちが普段通い詰めている協会は飽くまで支部、本部があるのは京都だ。水瀬君の状況は……少し特殊だからね、ちょっとしたテストみたいのものをしに行くんだ」「テスト……ですか?」 再び俺に訪れる”試される”瞬間。あの後、病棟で鹿間さんとあの謎の二振りの剣について話していた時に分かったことなのだが、俺は……スキルには覚醒していなかった。順当に考えれば、あれらの剣は俺のスキルによって呼び出されたもの……というのが最も自然だったのだが……現実はそう簡単に真相に至らせてくれないらしい。そうして、俺がスキル覚醒していないとなるとどうなるかというと……つまり、俺はクリーナーとしての資格がないということになる。それは同時に”普通の人間に戻る余地がまだある”ということでもあるが、そっちは俺にはあまり関係ない。 夏山さんやみんなの無念を背負って……というわけではないけれど、俺はもう今更またあの何者でもない、人間の失敗作みたいな奴に戻って姉さんに甘えて生きていくつもりは無いのだ。だから、あの死線を超えてきて尚……この状況に緊張感を抱いている。色々と言葉で取り繕うのをやめて、バカ正直に言ってしまえば……俺はクリーナーになりたいんだ。「……」 膝の上で握っていた手のひらに力がこもる。熱のこもった手のひらのうちにはじっとりと汗がにじんでいた。「まあ、そう緊張する必要は無いさ。君はあの晩……確かな戦闘能力を見せたんだ。ボクが直接見たわけではないけど……君のインベントリの記録と、いくつかの目撃情報がそれを裏付けている。結局……あの剣の出どころもはっきりしないと、君を”普通の人間”として解き放っていいのかも分からないしね。何をどう心配しているのかは君の顔を見ればわかる。確かなことは言えないが……現段階では君は特例的にクリーナーになってもらう可能性の方が高いよ」「そう、ですか……」 そう
ビルの隙間を生暖かい風が吹き抜ける。相対するのは真っ黒な体表をしたトカゲのような魔物。唾液まみれの白い牙は、鋭く凶悪な形に湾曲している。肉を切り裂く形の牙だ。 その顔つきも残忍そのもので、黄色く濁った小さな瞳にはその攻撃性がありありと浮かんでいる。やや骨ばったやせた体格に、細長い尾。喉元には吐く炎と同じ青白い光が宿っていた。 剣を構えて、モンスターの出方を窺う。A級ダンジョンではありふれた敵なのかもしれないが、俺からすれば見たこともない未知の敵だ。ただ最初の噛みつきを何とかしのいでしまっているせいか、七日目のボスモンスターほどの絶望感もない。あれより格上の敵とまみえているはずなのに、不思議な感覚だ。 魔物自身もさっきの一撃が対処されたことで見方を変えたのか、むやみやたらに突撃してくるのでなく、俺から視線を外さないままゆっくりと歩いていた。「……」「……」 先ほどまで俺の身を案じて騒がしかったクリーナーたちも、今では事態を静観している。ただあの一撃を耐え抜けるタフさと俺の慣れてなさに乖離を感じているのか、いまいち疑心暗鬼なまなざしだ。 勝てないつもりで顔を出した戦いなのに、勝機が顔をのぞかせてきて心が混乱する。俺はここまで来て何をやってるんだ。何がしたいんだ。いったいここからどうしろというのか。けれども、もうどこか遠くに行ってしまったように感じていたあの七日間が。夏山さんたちと過ごした特別な日々が、俺の中で小さな芽をのぞかせていた。 この期に及んで、やっと心が追いついたのかもしれない。あれ以来ずっと口にするのを忌避していた名をつぶやく。「夏山さん……」 それは驚くほどするりと俺の口から出てきた。胸中に浮かび上がる、夏山さんの顔、声……。全部奪われてしまったかのように思っていたけれど、ちゃんとあの日々は俺の中に残っていた。 剣を握る手に力を籠める。本当はただの偶然なのかもしれない。けど、人間は偶然にだって意味を見出す。 正体の分からない剣。お前がどうしてか俺のインベントリに入っていて、そして今日偶然それに気づいた俺がいた。 膠着状態のにらみ合いを、こちらの手で終わらせる。相手の出方を窺ってなんて、そんなに俺は賢くない。ずっとそう、俺は生涯を通して賢く戦えてきたことなどない。ただ愚直に、ストレート