電話が切れると同時に、澤村は心のどこかで安堵したような気がした。「で、これからどうする?」車内の沈黙を破ったのは彼だった。唯はうんざりした表情で答える。「近くのショッピングモールでいいでしょ。食事もできるし、座れるし。おじいちゃんには『映画観た』って報告しとけばいいわ」澤村はあまり乗り気ではなかったが、唯の機嫌を考えてうなずいた。モールは休日らしく、混雑していた。人波に押され、唯は何度かバランスを崩して澤村の胸元にぶつかった。澤村はため息をついて、無言で彼女の肩に手を回し、庇うように進んだ。「こんなところ、何が楽しいんだか」彼がぼやくと、唯も言葉に詰まり、黙ったまま周囲を見渡した。ふと、遠くに空席の目立つ和食店が目に入った。「あそこ、先にご飯にしない?」唯はそう言ってそちらへ向かおうとし、足元を見ずに前方の人とぶつかりそうになった。「前を見て歩けないのか?妻が妊娠中なんだ」低く鋭い声――どこか聞き覚えのある声だった。唯が顔を上げると、そこには花城がいた。柔らかい雰囲気の妊婦を気遣うように支え、その女性の腹部はすでにふくらみ始めていた。一瞬、時が止まったようだった。分かれてまだそれほど時間も経っていないのに、花城が今や父親になろうとしている――唯の胸の奥がずきんと痛んだ。花城も唯に気づき、わずかに顔をこわばらせたが、すぐに平静を装った。「君か......相変わらずそそっかしいな」唯は唇を引き結び、視線をそらして一歩下がった。「すみません。わざとじゃありません」そんな唯が頭を下げたのを見て、澤村の中で何かが弾けた。ぐっと彼女を引き寄せ、その肩を抱きながら、花城を真っすぐ睨みつけた。「こっちだって妊婦だ。唯も、俺の子を妊娠してる」一瞬、花城の目に動揺が走った。瞳孔がきゅっと縮み、口元がわずかに歪む。明らかに、予想外だった。だが澤村はさらに畳みかけるように言った。「もし俺の息子に何かあったら、あんたにその責任が取れるのか?」花城が何かを言い返そうとしたそのとき、妻がそっと彼の袖を引いた。「実言さん......もういいよ。私も赤ちゃんもお腹すいちゃった」その言葉に、花城は何も言えなくなり、妻の背を軽く押しながらその場を離れた。唯は、遠ざかる二人の
ただの伝言役だったのか。紗枝はそれを聞いて淡々と告げた。「それなら、自分で啓司に伝えて」鈴は唇を噛み、壁にすがりながら一歩ずつ病室に入っていった。数分後、さらに青ざめた顔で出てくると、そのまま黙って去っていった。病室の中では、逸之が退屈そうに足をぶらぶらさせていた。「逸ちゃん、帰りましょ。パパの邪魔しないようにね?」「はーい」逸之はもともと、パパが無事かどうか確かめるために来ただけだった。目的は果たしたし、病室に残っても退屈なだけ。正直、家に帰って配信でもしたいと思っていた。母子が帰ろうとしたとき、啓司が口を開いた。「今夜、俺も帰る」傷はすでに縫合されており、激しい運動さえ避ければ問題ない。「でも、まだ完治してないのに......」紗枝は心配そうに振り返った。「澤村が、危険な状態は脱したって言ってた。心配いらない」啓司は一呼吸置いて続けた。「夜、本家に戻る。拓司に話がある」牧野の調査によれば、拓司は最近、陽翔と頻繁に接触しているという。今回の事件に拓司が関与している可能性を、直接確かめる必要があった。それに、黒木家の集まりには取引先の関係者も多数出席する。紗枝と子供たちを守るには、今のうちに資本を蓄えておかなくてはならない。「じゃあ、私たちも一緒に行く」啓司が本家に戻ると聞き、紗枝は自らそう申し出た。「無理しなくていい。行きたくないなら......」啓司は、彼女が黒木家に戻ることを最も恐れているのを知っていた。しかし、紗枝は静かに首を振った。「昔は嫌だったけど、今は違う。行きたいの」あの頃は、冷たい視線に耐えるしかなかった。でも今は、そばにいてくれる人がいる。それだけで、世界は変わる。「......わかった」二人のやり取りを見ていた逸之が、にやりと笑った。「ママ、お兄ちゃんも呼んだら?」ママがバカパパに完全に落ちたとこ、見せてあげたい。「後で聞いてみるわね」紗枝は笑って答えた。母子は啓司に別れを告げ、車に乗り込んだ。車中、紗枝は唯に電話をかけた。「唯、景ちゃんは今どこ?」電話の向こうで、唯はちょうど仮眠から目を覚ましたところだった。「景ちゃん?澤村じいちゃんが連れてっちゃった。友達に自慢したいんだって」紗枝は思わず吹
静かな病室。啓司がそっと手を差し出すと、紗枝は迷いもなくその掌に自分の手を重ねた。「頭......まだ痛むの?」「いや、もう平気だ」啓司は低く、どこか甘えるような声で言う。「でも......抱っこしてもらわないと、だめかもしれない」その一言に、紗枝はふっと笑って、ベッドに腰を下ろした。そっと、彼の上半身を優しく抱きしめた。「傷に触れたらすぐ言ってね。遠慮しないで」「バカじゃないんだから」啓司は照れ隠しのように言ったが、口元は確かに緩んでいた。久しぶりの、平穏。互いのぬくもりの中に、言葉にできない安らぎがあった。どれだけの時が過ぎたのか、二人はもう忘れていた。そのとき、病室の入り口から小さな声が響いた。「パパ、もう大人なのに、まだママに抱っこしてもらってるの?」はっとして振り返ると、雷七が逸之の手を引いて立っていた。小さな体で憤慨したように、逸之が言う。「ママずるい!休みなのに僕は学校に行かされて、ママたちは病院でこっそりいちゃいちゃしてたなんて!」紗枝は慌てて啓司の腕から離れた。「あのね......それはちょっと違うのよ、逸ちゃん......」黒曜石のような澄んだ目で見上げる息子に、うまい言い訳が出てこない。逸之はわざと鼻をすすり上げた。「僕なんて......どうせいらない子なんだ、うう......」紗枝はすぐに彼の前にしゃがみ込み、強く抱きしめた。「そんなこと言わないの。逸ちゃんはママの宝物よ。ごめんね。ママが悪かった」啓司は横で眉をひそめた。ぬくもりが突然奪われたような喪失感に、内心毒づく。このタイミングで入ってくるなんて......このガキ、わざとじゃないだろうな。満足げにニコッと笑った逸之が、得意げに言った。「これからママ、僕をだましちゃダメだからね!」「はい、はい。わかった」紗枝は思わず笑いながら応じた。それから逸之はベッドのそばに回り込み、つま先立ちで啓司を見上げた。「パパ、具合よくなった?」「おかげさまで、だいぶな」「じゃあ......僕、ふーってしてあげる。ママが前に僕にやってくれて、すっごく痛くなくなったの」その言葉に、啓司は目を細めた。胸の奥に、じんわりとした温かさが広がる。「ありがとう。でも、もう大丈夫だよ。パパは
「昔のやり方なら......あいつを二度と桃洲に戻れなくする。それが決まりだった」啓司の言葉は淡々としていた。だが、その裏にあるものを紗枝は敏感に察知する。彼は、彼女を怯えさせまいと、あえて柔らかく言葉を包んだ。紗枝もそれを感じ取ったのか、ただ静かにうなずいた。「うん、わかった」そのとき、ドアの向こうからノック音が響いた。「啓司様、鈴さんが......お見舞いにいらしています」ボディーガードの声には、微かに困惑の色があった。啓司の眉がわずかに寄った。鈴。昔から相性の悪い従妹だ。見舞いに来る理由は、どうせ下心と詮索だろう。啓司が口を開くよりも早く、鈴が杖をついてずかずかと病室に突入してきた。「啓司さん、大丈夫なの!?」目を潤ませ、駆け寄る鈴。だが、その視線の先は紗枝だった。鋭く、突き刺すように。「よくも、こんなところに平然と座っていられるわね!」ボディーガードが止めようとしたが、親戚関係を気にして手を引っ込めた。紗枝はため息をひとつつき、淡々と言った。「入れてあげて」ドアが開き、鈴が足を引きずりながらベッドへ近づく。杖も持ったまま、紗枝に詰め寄った。「他人の子供を妊娠しておいて、どうして夫婦なんて顔していられるの!?早く啓司さんと離婚しなさい!」その言葉に、啓司はまぶた一つ動かさなかった。むしろ、心底どうでもよさそうに、目を閉じたままだ。紗枝は穏やかな笑みで啓司の腕を取った。「本人が気にしていないのに、あなたが何を騒いでるの?他人の家庭に口出すって、ずいぶん暇なのね」啓司は内心、吹き出しそうだった。気にしていない、だと?もし本当に他人の子だったら、今ごろこの病院を丸ごと燃やしていただろう。鈴は怒りで唇を震わせながら言葉を探していた。だが、紗枝は構わず、追い打ちをかけるように続けた。「どうしたの?羨ましいの?鈴さんも年頃でしょう?いい男、紹介してあげようか。従兄ばかり見てないで、啓司にはもう私って妻がいるのよ?」鈴の顔が見る見る赤くなった。「わ、私は......啓司さんのことをただの兄だと思ってるだけよ!」「へえ?」紗枝はゆったりとした口調で、あからさまに信じていない態度を見せた。鈴は追い詰められ、病室の足元に移動し、啓司のズボンの裾をつかんだ。「
拓司の目尻に、鋭く冷たい光が走った。だが、彼は何も言わず、数口だけ食事をとると静かに立ち上がった。「母さん、もう出る。先に会社行く」綾子が驚いたように顔を上げた。「今日は休みでしょ?」「家にいても、足を引っ張るだけだ」淡々とした声。それは母親を責めるでもなく、ただ事実を述べたにすぎなかった。拓司は昭子に目を向けた。「今日は親戚の集まりだろ。母さんの手伝いをして。特に理由がなければ、外に出るな」最後の一言には、明らかに釘を刺す色があった。ネットで騒がれている「紗枝の盗作疑惑」、仕掛けたのは昭子自身だった。だが、嘘はすでに暴かれ、火種はまだくすぶっている。昭子は唇を噛み、小さくうなずいた。「わかったわ」拓司はそれ以上言わずに家を出ると、車に乗り込んだ。運転席でスマホを開くと、いくつかの不在着信が並んでいた。すべて風征からだった。彼は無表情のまま折り返した。数秒後、電話がつながる。受話口から飛び出してきたのは、震える声だった。「拓司様......!陽翔兄さんが......啓司さんの部下に、連れて行かれました!」拓司の眉は動かなかった。「自業自得だ」その一言は冷たく、無関心ですらあった。彼は誰よりも、啓司の怒りの本質を知っていた。誰かが本気で手を出せるような相手ではない。風征は取り乱した様子で、なおも懇願した。「お願いです......陽翔兄さんまでいなくなったら、俺......もう誰も......!」彼自身は今、身を隠すように暮らしていた。武田家に戻る勇気などない。そして、陽翔がいなくなれば、自分を守る盾すら消えてしまう。拓司は、窓の外を流れる風景を眺めながら、冷たく言った。「僕は聖人じゃない。それに、啓司とは距離感を弁えてる。僕が口を出したところで、彼が手を緩めると思うか?」言葉に感情はなかった。むしろ突き放しそのものだった。風征はついに、最後の切り札を出した。「今回は俺、ただ陽翔兄さんの指示に従っただけなんです!本当に啓司さんを傷つけるつもりなんてなくて......紗枝さんと鈴さんを誘拐したのも、全部、陽翔兄さんが......!」その瞬間、拓司の表情が初めてわずかに動いた。「紗枝を、誘拐した?」「は、はい......陽翔兄さんが言ってま
紗枝はまだ、啓司が何度も自分をかばってくれた場面の余韻に浸っていた。だが、彼の突然の問いかけに、思わず彼の腕を軽くひねった。「バカみたいなこと聞かないで」けれど、その言葉が終わらぬうちに、スマートフォンの着信音が、二人の甘い空気を断ち切った。「誰だ?」啓司が反射的に尋ねると、紗枝は画面をちらりと見て小さく答えた。「辰夫」その名を聞いた瞬間、啓司の表情が少年のように曇った。「スピーカーで出ろ。何を話すのか、聞かせてもらおうか」昨夜の「芝居」――自分をかばいながら辰夫にすがるように泣いた紗枝の姿が、今も彼の胸に棘のように刺さっていた。紗枝はしぶしぶ、スピーカーモードで通話を取った。「もしもし、辰夫?」「雷七から昨夜のことを聞いた。大丈夫か?」「うん、もう平気。心配かけてごめんね」「そうか。昨日言ったことは、今も変わらない。望めばすぐに迎えに行かせる。俺のところなら、誰にもお前を傷つけさせない」その言葉に、啓司の目が鋭く細められた。紗枝が口を挟もうとしたが、それより早く啓司が声を発した。「池田さん、俺の妻のことはご心配なく」辰夫は、啓司が傍にいるとは思っていなかったらしく、一瞬だけ沈黙した。だが、すぐに言葉を返した。「啓司さんが本当に彼女を守れるなら、俺は口出ししない。だが、守れないなら、早々に彼女を返してもらいたい」その声音は冷たく、明確だった。「妹と、俺の子供を......これ以上、傷つけさせるつもりはない」啓司の拳がベッドの上で静かに握り締められた。だが、反論はしなかった。できなかった。紗枝が傷ついたのは事実だった。紗枝が慌てて声をかけた。「辰夫、本当に大丈夫。啓司も元気になってきたし......そのうち、エイリーに会いに行くね」そう言って、通話を切った。電話の向こうで、辰夫は真っ暗になった画面を見つめたまま、唇を強く噛んだ。そして、感情のやり場を失った拳で、そばの壁を叩いた。桃洲にもっと早く来ていれば。この結婚を、止めていれば――後悔ばかりが胸を満たしていた。病室では、啓司の頭の中に、辰夫の言葉が繰り返し響いていた。「妹と子供を、傷つけさせない」狙われたのは自分だった。だが、実際に傷を負ったのは紗枝だった。視力を失った自分に、彼女が時間を