冷酷御曹司は逃げた妻を愛してやまない

冷酷御曹司は逃げた妻を愛してやまない

last updateLast Updated : 2025-10-11
By:  結城 芙由奈Updated just now
Language: Japanese
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冷酷御曹司・天野司との契約結婚で、沙月は愛も尊厳も失った。子どもを望めない身体となり、夫からは冷たく突き放され、結婚式すら一人で迎えた彼女は、ついに離婚を決意して家を出る。だが、過去に封じた夢――記者としての人生を取り戻すため、沙月は再び立ち上がる。妨害、侮辱、嫉妬が渦巻く中、義妹・遥と司の元恋人・澪が仕掛ける罠にも、沙月は一歩も引かずに立ち向かう。誰にも媚びず、誰にも屈しないその姿は、周囲の視線を奪い、かつて彼女を見下していた者たちの心を揺るがせていく――

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Chapter 1

1-1 もし私が死んだら

視界が、ぐらりと揺れた。

何かが砕ける音。誰かの叫び声。

身体が宙を舞い、叩きつけられた。

途端に身体を引き裂かれるような痛みが全身を走る。

耳鳴りが酷くて、周りの音が何も聞き取れない。

空気が薄くなったかのように、息が苦しく呼吸ができない。

頭がズキズキと割れるような痛み。

一体何が起きたのか分からない。その時、自分のスマホが転がっているのが目に留まった。

「う……」

朦朧とする意識の中で沙月は夫――天野司の電話番号を振るえる指先でタップした。

トゥルルルル……

耳元で聞こえる呼び出し音が続く。

(お……願い……出て……)

しかし……。

プツッ!

通話が切れた……いや、切られてしまった。

「フ……」

沙月は小さく笑った。

馬鹿な話だ。彼は一度だって、沙月の電話に出たことは無い。いつも無情に切られてしまうのは分かり切っていたはずなのに。

急激に自分の意識が遠くなっていく。

(ひょっとして……これが死ぬということなのかも……)

もしこのまま死んだら、自分の遺体を引き取ってくれる人は、いるのだろうか?

誰か、泣いてくれるだろうか?

それとも身元不明の遺体として荼毘に付されてしまうのだろうか……?

そんなことを考えながら、沙月の意識は闇に沈んでいった――

****

沙月が次に目覚めた場所はベッドの上だった。

辺りには消毒液の匂いが漂い、廊下は騒がしく看護師の声が聞こえてきた。

「交通事故です。数十人の負傷者が出ています」

看護師の声が飛び交い、ストレッチャーが廊下を走る音が聞こえている。

「また……病院……?」

天井の白さが眩しく思わず目を細めたとき、看護師が現れて急ぎ足でベッドに近づいてきた。

「天野さん? 目が覚めたのですね? 良かった……あなたは交通事故に遭って病院に運ばれてきました。事故のことは覚えていらっしゃいますか?」

「……はい」

沙月の脳裏に事故に遭った瞬間の出来事が蘇る。

「天野さんは事故で脳震盪を起したので経過観察が必要です。原則としてご家族の付き添いをお願いしているのですが、連絡の取れるご親族はいらっしゃいますか?」

「家族……」

沙月には付き添ってくれるような家族はいなかった。

2年前――

あの強引な契約結婚以来、彼女は天野家から「家族の体面を守るため」、外部との連絡を絶たれていたのだ。

友人に連絡することも、実家に頼ることも許されなかった。

今、頼れるのは天野家だけ。

けれど、そこでも彼女の立場は弱かった。

仕事もなく、社会からも孤立している。彼女は、ただ「妻」という肩書きだけで天野家に縛られていた。

「では……連絡を入れてみます……廊下で……電話しても……いいでしょうか……」

看護師の前では司に電話をかけたくはなかった。彼が電話に出ることも無く一方的に切ることは分かり切っていたからだ。その姿を見られたくなかった。

「……ですが、脳震盪を起しているのに起き上がるのは無理です。もし、私がいることで電話をかけにくいなら席を外しますから、こちらでかけてください」

看護師は沙月の枕元にスマホを置くと、病室から去って行った。

「……」

繋がるはずのないスマホを握りしめたとき、廊下から会話が聞こえてきた。

「聞いた? 13号室の患者さん、朝霧澪さんらしいよ!」

(朝霧……澪?)

その名前に沙月は反応した。視線を動かすと、2人の看護師が沙月の部屋の前で立ち話をしている。

「え? 朝霧澪? 最近ネットで話題のニュースキャスターでしょ? どうして入院してるの?」

「多重事故で、腕を怪我したのよ。大した怪我でもないのだけど、顔で食べてる人だから、やっぱり普通の人よりデリケートね。それに若い男性もいたのよ! 以前財経雑誌で見た天野グループの超イケメン御曹司にそっくりだったの! 絶対あの雰囲気だと恋人同士に違いないわよ」

興奮しているのか、看護師の声が大きくなる。

「その話、本当なの? だって噂じゃ、数年前に極秘結婚したって騒がれていたじゃない。……もしかして朝霧さんが相手だったの?」

(結婚相手……)

沙月の心臓の鼓動がドクドクと早まる。

その時。

「あなたたち! こんなところで患者さんの噂話をしているんじゃないの! 早く持ち場に戻りなさい!」

突如、2人を叱責する声が聞こえた。

「は、はい!」

「すみません! 師長!」

慌てた様子で謝罪し、足音が遠ざかっていった。

「朝霧……澪」

天井を見つめていた沙月はポツリと呟いた。

朝霧澪――天野司の初恋の相手。

彼女は海外にいるはずではなかっただろうか? しかも……司が一緒にいる?

沙月は痛む身体を何とか起こし、ベッドから降りた。

壁に手をつき、ふらつきながら廊下を歩き……気づけば13号室の前に立っていた。

扉は少し開いており、隙間から見えたのは――

司が病床のそばに座り、澪の手をそっと握る姿。沙月が今まで見たことのない優しい笑みを浮かべていた。

「!」

その瞬間、沙月は息が詰まりそうになった。

胸の中の感情を必死に押さえようとするが、澪の声が耳に飛び込んできた。

「良かったわ……子供は無事で」

澪が自分のお腹にそっと手を当てる様子を見てしまう。

ドクンッ!

世界が一瞬静まり返った。

(子供……? まさか……もう2人に子供がいた……?)

沙月の全身から血の気が引いていった――

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1-1 もし私が死んだら
視界が、ぐらりと揺れた。何かが砕ける音。誰かの叫び声。身体が宙を舞い、叩きつけられた。途端に身体を引き裂かれるような痛みが全身を走る。耳鳴りが酷くて、周りの音が何も聞き取れない。空気が薄くなったかのように、息が苦しく呼吸ができない。頭がズキズキと割れるような痛み。一体何が起きたのか分からない。その時、自分のスマホが転がっているのが目に留まった。「う……」朦朧とする意識の中で沙月は夫――天野司の電話番号を振るえる指先でタップした。トゥルルルル……耳元で聞こえる呼び出し音が続く。(お……願い……出て……)しかし……。プツッ!通話が切れた……いや、切られてしまった。「フ……」沙月は小さく笑った。馬鹿な話だ。彼は一度だって、沙月の電話に出たことは無い。いつも無情に切られてしまうのは分かり切っていたはずなのに。急激に自分の意識が遠くなっていく。(ひょっとして……これが死ぬということなのかも……)もしこのまま死んだら、自分の遺体を引き取ってくれる人は、いるのだろうか?誰か、泣いてくれるだろうか?それとも身元不明の遺体として荼毘に付されてしまうのだろうか……?そんなことを考えながら、沙月の意識は闇に沈んでいった――****沙月が次に目覚めた場所はベッドの上だった。辺りには消毒液の匂いが漂い、廊下は騒がしく看護師の声が聞こえてきた。「交通事故です。数十人の負傷者が出ています」看護師の声が飛び交い、ストレッチャーが廊下を走る音が聞こえている。「また……病院……?」天井の白さが眩しく思わず目を細めたとき、看護師が現れて急ぎ足でベッドに近づいてきた。「天野さん? 目が覚めたのですね? 良かった……あなたは交通事故に遭って病院に運ばれてきました。事故のことは覚えていらっしゃいますか?」「……はい」沙月の脳裏に事故に遭った瞬間の出来事が蘇る。「天野さんは事故で脳震盪を起したので経過観察が必要です。原則としてご家族の付き添いをお願いしているのですが、連絡の取れるご親族はいらっしゃいますか?」「家族……」沙月には付き添ってくれるような家族はいなかった。2年前――あの強引な契約結婚以来、彼女は天野家から「家族の体面を守るため」、外部との連絡を絶たれていたのだ。友人に連絡することも、実家に頼ることも許されなかった。今、
last updateLast Updated : 2025-09-15
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1-2 彼女は妊娠していた
その瞬間、脳内に爆弾が投げ込まれたような衝撃を受けた。澪の笑い声、そして「子供は無事で」という言葉。血の気が逆流するように全身が冷え、手足は氷のように冷たくなった。呼吸すら忘れそうになり、心臓がキリキリと締め付けられるような痛みを伴う。「2人は……いつの間に……また一緒になっていたの……?」声を震わせながら呟く沙月。2人の結婚生活の間、彼らは本当に一度も離れていなかったのだろうか……?この2年間、沙月は「妻」として天野司の傍にいた。けれど彼の心には一度も触れることは出来なかった。触れようとするたび、冷たく拒絶されてきた。本当は知っていた。自分が天野司の「妻」であっても、立場などないことを――****あの晩餐会の夜。薬を盛られた沙月は、司と一夜を共にしてしまった。それは互いが望んだわけではなかった。けれどその一夜が全てを決め、天野家の体面を守るために2人は結婚することになったのだった。司はこの結婚を露骨にイヤそうな態度で承諾したが、沙月は天にも昇るほど嬉しい気持ちで一杯だった。何故なら沙月は誰にも告げていなかったが、ずっと司に恋焦がれていたからだ。自分の手に届かない憧れの存在……それが司。その相手と結婚できるのだ。まるで夢のように幸せだった。今は自分に冷たい態度しか見せないが、誠心誠意をもって彼に尽くせば、いつかきっと2人は良い夫婦になれるだろう。沙月はそう信じて疑わなかった。けれど、その希望は結婚式の日に無残にも打ち砕かれることになる。結婚式当日、あろうことか司は式場に現れなかったのだ。結婚式場には多くの報道陣と参列者が出席していた。新郎のいない隣の席。彼女は独りで報道陣と参列者の好奇な視線に晒された。あの時の恥ずかしさと悲しみは今も心の傷として、決して忘れることが出来ない。悲しみに打ちひしがれていたその夜――宿泊先のホテルに司はフラリと現れた。冷たい眼差しで睨みつけてくる司に、沙月は「何故結婚式に現れなかったのか」と尋ねることは出来なかった。司は無表情で契約書を差し出し、告げた。『結婚は三年。子供は作らない。それが条件だ』感情を伴わない言葉に、沙月は何も言えなかった。第一、拒否する権利など最初からなかった。そして、この夜。司が沙月に触れてくることは無かった――2人の結婚生活は本当に冷え切っていた。触れて
last updateLast Updated : 2025-09-15
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1-3 離婚しましょう
朝の病室は静かだった。風で揺れるカーテンの隙間からは、雲一つない澄み切った青空が見える。今日は沙月の退院の日。けれど、心は少しも晴れなかった。荷物をまとめながら、沙月はスマホを確認した。親友・真琴からのメッセージには『ごめんね、急な仕事で病院に迎えに行けなくなって』とある。『私のことは大丈夫。気にしないで仕事頑張ってね』メッセージを打ち込む指先は、どこか力なく震えていた。真琴に返信すると、沙月は病室を後にした。****「どうもありがとうございました」窓口で退院手続きを済ませて玄関へ向かう途中、聞き慣れた声が廊下の奥から聞こえてきた。「それにしても彼女に子供がいなくて良かったわよね。もし妊娠していたら、もっと面倒なことになっていたもの」その声に沙月の足が止まる。背筋が凍りそうになり、慌てて柱の陰に身を寄せると顔を覗かせた。すると澪が司の腕に触れながら笑っている姿が見えた。2人はこちらに向かって歩いてくる。そこで沙月は背を向けるように隠れた。すると、とんでもない会話を耳にした。「実はね……事故のとき、私見たの。沙月さんが現場にいたのよ? あの時の彼女の表情……忘れられないわ。……もしかしてあれは、わざと彼女が起こした事故だったんじゃないかしら」「何だって? あいつが現場にいたっていうのか? それじゃ、本当に……沙月の仕業なのか?」澪の言葉を全く疑っていない司の言葉が、沙月の胸を締めつける。「ねぇ、そんなことよりも司。この子はあなたの子供なのだから……ちゃんと責任、取ってくれるわよね」司が何と答えたのか……沙月の耳には入ってこなかった。(もう……これ以上ここに居たくない!)沙月は荷物を抱えたまま、逃げるように裏口へと向かい病院を出た。陽射しが強く、目に染みた。けれど、それ以上に胸が痛かった。「……帰ろう」肩を落とし、沙月はトボトボとタクシー乗り場に向かった――****沙月が病院の裏口から外に出てすぐの出来事だった。正面玄関では、澪と司が記者たちに囲まれていた。「澪さん! 司さん! 少しだけお話を!」「この写真について説明をお願いします!」病院を出た二人を植え込みの陰から現れた記者たちは、一斉にスマホやマイクを突きつける。それは、まるで獲物を狙う獣のようだった。「病室でのこの写真、手を握っていたのは事実ですか?」
last updateLast Updated : 2025-09-15
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1-4 覚醒
 沙月の言葉に、少しの間司は驚いて目を見開いていたが……。「はっ! 離婚? 今度はまた何を企んでいるんだ!」沙月はため息をつくと首を振り、静かに答えた。「別に他意はないの。ただ疲れただけよ。でもこれであなたの望みも叶うでしょう?」すると司は嗤った。「俺と離婚して一人で生きていけると思っているのか? 世間から隔絶されたような生活を送っているお前に! 許しを請うつもりなら今のうちだぞ!?」「……」眉根を寄せる沙月。司の反応は何故か予想を超えたものだった。てっき素直に離婚に応じると思っていただけに、意外だった。(私と離婚したいはずじゃなかったの……? それとも何か理由があるのかしら?)だが、今の沙月にはそんなことはどうでもよかった。もうこれ以上司に振り回されるつもりは全くない。「許しを請うつもりはないし、離婚したい気持ちも変わりません」無表情で答える沙月。その淡々とした態度に、司の怒りはさらに増す。「勝手にしろ! 後で後悔して泣きながら謝りに来ても、俺はもう知らないからな!」司は吐き捨てるように言うと大股でリビングを出て行った。バンッ!!勢いよくドアが締められ、重い扉の音が空っぽのリビングに響き渡る。「……ついに言ったわ……」1人になった沙月はため息をついた。司の怒声も、冷たい視線も、もう何も感じなくなっていた。ただ唯一、胸にぽかりと穴があいたような虚無感だけが残った。「荷造りをしなくちゃ……」沙月は立ち上がると、自室へ向かった。****部屋に戻った沙月はウォークインクローゼットから大きなスーツケースを引っ張り出すと、荷造りを始めた。ドレッサーの引き出し、クローゼットの服、ベッド下の収納棚。この家で使っていた自分の持ち物を手に取るたび、胸が締めつけられる。それでも、手は止めなかった。司に離婚宣言をした以上、もうここには居られないこの部屋には、思い出らしい思い出は殆ど無かった。結婚してからというもの、司との会話は必要最低限だった。朝食の時間も、帰宅の挨拶も、互いに形式だけ。そして別々の寝室。夫婦というより、まるで同居人。互いに干渉しないことを暗黙の了解とする契約結婚……冷え切った関係だった――「あ……」アクセサリーを整理していた沙月の手が止まった。決して多くはないアクセサリーの中で、唯一ケースに収められ
last updateLast Updated : 2025-09-16
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1-5 初めての迷い
 沙月が家を出て行き、10日が経過していた。――金曜の夜司は、藤井蓮と都内のバーに来ていた。――カラングラスの中で氷が音を立てた。琥珀色の液体が揺れ、天野司は無言でそれを喉に流し込む。バーの照明は薄暗く、周囲の喧騒は遠く、静かな時間が流れていた。「……で、結局どうするつもりなんだよ。奥さん、離婚するって言ってきたんだろう?」向かいの席で、藤井蓮が笑いながらグラスを傾ける。彼は司の高校時代からの友人で、父親は大学病院の院長。そして彼自身も現在内科医として大学病院に勤務している。女の扱いに長けた軽薄な男で、妙な勘の鋭さを持っていた。「沙月が離婚を口にしたのは初めてだ。あいつ、今まで何があっても黙っていたのに」司は低く呟き、蓮は眉をひそめた。「それって逆に怖くないか? 今まで我慢してた女が、急に離婚を口にして出ていくってさ。何か爆弾でも抱えているんじゃないのか?」「はぁ? 爆弾? お前、一体何を……」司は口にしかけ、ふと沙月の姿を思い出した。チラリと見えた沙月の袖下からは手首に包帯が巻かれていた。(澪の話では沙月は現場にいて、わざとあの事故を引き起こしたのではないかと言っていたが、あの傷は……? もしかして、沙月は単に居合わせて事故に巻き込まれただけなのでは……?)澪は沙月が現場にいたと言い、あの事故は彼女の故意だったのではないかとほのめかしていた……。しかし、あのときは気にも留めずにいた包帯で覆われた沙月の手首。そして額に貼られていたガーゼを思い出した瞬間、司の頭はガンと衝撃を受けた。(自分が怪我をしてまで、あんな事故を意図的に起こすだろうか? まさか……本当はただ偶然その場に居合わせて、事故に巻き込まれただけなのでは……?)胸の奥に複雑な動悸が湧き上がる。沙月の無実を信じたい一方で、真実がこれまでの自分の認識を根底から覆すのではないかという恐怖もあった。このとき、司は初めて気付いた。自分は沙月のことも、そして澪のことすら、まだ十分に理解していないのではないかと――「おい、どうしたんだ? 司」蓮に声をかけられ、司は顔を上げた。「蓮、お前……医者だろう? あの多重事故のことで何か表に出ていない情報を知らないか?」「いや、詳しいことは何も知らないぞ? あれだけの多重事故で澪さんも巻き込まれてたんだろ? でもSNSで流
last updateLast Updated : 2025-09-17
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1-6 初めての違和感
***澪に指定された場所は都内にある高級ホテルの一室だった。「……ここか」宿泊している部屋の前に到着すると、司はインターホンを押した。――ピンポーンするとすぐに扉が開かれ、笑顔の澪が出迎えた。「いらっしゃい、司。待っていたわ。入って」司は無言で部屋に入ると、澪は扉を閉めて鍵をかけた。部屋に行くと既に司はソファに座っていたので、澪はその隣に座ると笑顔を向けた。「司、今夜は来てくれて嬉しいわ。あなたの好きなワインも用意してあるのよ?」「用件は?」無表情で司は尋ね、澪は少しだけ唇を尖らせた。「そんな言い方しなくてもいいじゃない……。ただ、あなたと少し話がしたかっただけよ。最近忙しくて中々会えなかったでしょう?」「忙しいのは澪だって同じだろう? キャスター復帰の話、進んでるんじゃないのか?」「ええ。でも……あなたのそばにいる時間の方が、私には大事なの」甘えた声を出す澪。しかし司は妙な違和感を抱いていた。澪はワインを注ぎ、少し上を向くようにゆっくり飲んでいく。すると白く細い首筋から小さく喉を鳴らす音が聞こえてくる。それはまるで男を誘惑するかのような仕草だ。今までの司なら澪の誘惑に負けていたが、今は違う。何故か嫌悪感を抱いてしまう。(なんて女だ。沙月は俺の前では酒も飲んだことが無く、控えめな女だったのに)「ねえ、仕事のことは今は忘れて。私たちの今後のことを話し合わない?」今後のこと……その言葉に、司はふと違和感を覚えた。笑顔も声も、どこか演じているように感じられる。澪の“今後”という言葉が、妙に空々しく響いた。(沙月は……こんな言葉を一度も口にしたことはなかったな……いつだってあいつは俺の手を煩わせるような真似は……)司はふと、沙月が自分のスケジュールに合わせて朝食を用意していたことを思い出す。自分の誕生日には手作りのケーキを焼いていた。結婚記念日には特別な食事と、ワインを用意して待っていた。風邪を引いたとき、何も言わずに部屋の前に置かれていた薬と経口補水液に小さな土鍋に入ったおかゆ。(……沙月は、何の要求をすることもなく……俺のことをきにかけていた)「司?」澪の声に、司は我に返った。「……悪い。少し考え事をしていた」「もしかして沙月さんのこと?」「いや、仕事のことだ」心の内を見透かされたような気持になり、
last updateLast Updated : 2025-09-18
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1-7 対峙  1
――15時都内の小さな宝石店の前に沙月は立っていた。「この店ならちょうどいいかも……」自分に言い聞かせると、沙月は店内へ足を踏み入れた。店内を見渡すとショーケースの中には、光を受けて輝く指輪やネックレスが整然と並んでいる。「いらっしゃいませ。どのような商品をお求めでしょうか?」沙月の姿を認めた女性店員が近づき、声をかけてきた。「いえ。買い物に来たわけではなく、買取をしていただけないかと思って来店しました」沙月はショルダーバッグから指輪ケースを取り出し、店員に渡した。「こちらの鑑定をお願いしたいのですが……」「では拝見させていただきます」店員は丁寧に微笑みながらケースを開け、指輪を手に取る。「かしこまりました。鑑定に少々お時間をいただきますが、明日には結果をご連絡できます」その話に焦る沙月。「急いでいるんです。今日中に処理できませんか?」クレジットカードを全て凍結されていた沙月は現在、お金に困っていた。司から必要な物はカードで買えと言われていたので当然現金は持たされていない。自宅を出る時にジュエリーは全て置いてきている。換金できるものは結婚指輪だけ。今は親友の家で同居しているが、いつまでも彼女の世話になるわけにはいかない。生活を立て直すためにはどうしても現金が必要だったのだ。沙月の切羽詰まった様子に店員は頷いた。「では、できるだけ急ぎますので、少々お待ちいただけますか」その時――「その指輪、素敵ですね。私に買い取らせていただけますか?」突然沙月の背後から声が聞こえ、振り向くとサングラスをかけた朝霧澪が立っていた。「!」まさか澪がここに現れるとは思わず、沙月は息が止まりそうになった。高級感のあるワンピースを身にまとった澪。首にかけたネックレスにイヤリングを合わせるだけで数百万円の価値はあるだろう。表面上は完璧な笑顔を浮かべているが、目の奥には得意げな光が宿っている。「……朝霧さん……」沙月は声を震わせながら、澪を見つめた。すると、澪は怪訝そうな表情を浮かべた。「あら……? まぁ! どうして私のことを知ってるのかと思えば……ひょっとして沙月さん? あまりにも貧相な姿をしているから、全く分からなかったわ! それにしても……その服装で宝石店に来るには、お店に対してちょっと失礼じゃないかしら?」「……っ!」それはあま
last updateLast Updated : 2025-09-19
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1-8 疑惑
 宝石店の窓際から沙月の背中が遠ざかっていく姿を、司は無言で見送っていた。澪が腕を絡めている感触が、妙に鬱陶しく感じられる。「ねえ司、これなんか素敵じゃない?」澪がショーケースのイヤリングを指差すも、司の視線は窓の外に釘付けだった。(……沙月)「ねぇ? 聞いてるの? 司」澪に強く腕を引かれ、司は我に返った。「あ……すまない。どのアクセサリーも澪に良く似合うよ」「そう? なら好きなものを選ばせて貰うわ」「ああ。そうするといい」作り笑いを浮かべながらも先ほどの沙月の様子を思い出す。痩せた背中。指輪をしまう手の震え。何も言わず、ただ静かに去っていった彼女の姿が何故か脳裏に焼き付いて離れない。(何故、今頃になって沙月のことが気になるんだ? 生意気にもこの俺に離婚を切り出すような女だと言うのに……)その時、司のスマートフォンが着信を知らせた。画面には秘書――佐野からのメッセージが表示されており、司の眉がわずかに動く。澪はそのことに気づかず、別のアクセサリーを手に取ると笑顔で振り返った。「ねえ司、これなんか素敵じゃない? 私の肌に似合うと思うの」しかし、司はスマホを見つめたまま低い声で返事をした。「……すまない。会社から緊急の連絡が入った。少し外す」「え? でも、あなたは今日の午後、一緒にアクセサリーを見に行くって約束してくれたのに」司は澪の不満を無視し、店員にブラックカードを差し出した。「支払いの際は、このカードでお願いします」すると澪の顔がわずかに歪む。「……まさか、沙月さんのことじゃないでしょうね?」その言葉に、司の表情が一瞬だけ強張った。……だがすぐに、冷たい目で澪を見る。「君には関係ない」それだけ告げると司は背を向けた。「ちょっと待ってよ!澪は勢いよく手を伸ばし、司の袖口を力いっぱい掴んだ。指先が強く握りしめたせいで、白くなっていく。しかし司はただ視線を落とし、冷たく一瞥をくれただけだった。その無情な表情に、澪の身体に背筋が凍るほどの寒気が走る。「朝霧さんが、いつから天野グループの案件にそんなに興味を持つようになったのか、実に興味深いな」澪はハッと息を呑み、顔色が一瞬で凍りついた。喉が何かで塞がれたように、言葉が出てこない。司はそれ以上澪を見ることなく、無理やり手を振りほどくと大股で宝石店を後に
last updateLast Updated : 2025-09-20
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2-1 沙月の決意と、司の喪失感
 広々とした2LDKのタワーマンションの一室に、朝の光が明るく差し込んでいた。ダイニングルームに沙月の姿があり、湯気の立つ紅茶をじっと見つめていた。その向かい側に座るのは沙月の親友――中野真琴。この部屋は彼女が暮らすマンションで、現在沙月は彼女の世話になっていたのだ。「……沙月。本当に、あの人たちが夫婦みたいに振る舞ってたの?」尋ねる真琴の声は、驚きと怒りを含んでいた。沙月は頷きながら、唇を噛みしめる。「うん……。ジュエリーショップで……澪さんが司の腕に絡んで、店員から『ご夫婦ですか?』って聞かれていたの。司は否定しなかったわ」「最低ね。まだ離婚してないのに、堂々と不倫するなんて……絶対に許せないわ」悔しそうに拳を握りしめる真琴。その仕草は正義感が滲み出ていた。真琴は都内でも名の知れた弁護士で、企業案件から刑事事件まで幅広く扱っている。真琴に弁護を依頼したいと願う人々は数多くいて、忙しい日々を送っているのだ。その彼女が、今はただ親友として、正義感に燃えている。「カードも凍結されてたの。だから、指輪を売りに出すしかなかったのに……。まさか偶然会うなんて思わなかったわ。でもこれではっきり分かった。あの人にとって、私はもう完全に邪魔者なのよ」「……」真琴はしばらく黙っていたが、やがて立ち上がり、書類の束を持ってくると沙月の前に置いた。「これ、テレビ局の記者職の応募書類。応募してみたら?」沙月は驚いたように目を見開いた。「私が……記者に?」「忘れたの? 沙月はX大学を首席で卒業してるじゃない。学生時代は教授たちが“将来の報道界の星”って言ってたでしょう? あなたには、あの人たちに負けない力がある」「でも……今の私は何も持ってないのに……」「持ってるじゃない。知識も、分析力も、言葉の力も。沙月の卒業論文は本当に素晴らしかったのを今でも忘れないわ。弁護士の私が言ってるんだから信じなさいよ」沙月は封筒を受け取り、応募要項を読んだ。光り輝いていた過去の自分が、今はもう遠い幻のように思えた。けれど真琴の言葉で勇気を貰えた。「……ありがとう。私……やってみる。応募してみるね」「良かった。沙月ならきっとそう言うと思ってた。私も全力で応援するから、頑張ってね」真琴は沙月の両手を握りしめた――****――同日、19時過ぎ。司が仕事から帰
last updateLast Updated : 2025-09-21
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2-2 固い決意
 沙月が真琴のマンションで暮らし始めて、早いもので1週間が経過していた。――午前8時。「それじゃ仕事に行ってくるわね。マンションの合鍵は自由に使ってちょうだい」朝食後のコーヒーを飲み終えた真琴が椅子から立ち上がった。真琴はキャリア弁護士らしく、スーツ姿が決まっている。「うん、行ってらっしゃい。……ごめんね。真琴、お世話になっちゃって」沙月が目を伏せて謝ると、真琴は笑った。「何言ってるのよ。私たち、親友でしょう? それに正直助かっているのよ? だって豪華な夕食に栄養バランスが取れた朝食、それに掃除洗濯まで沙月にしてもらってるんだから」「でも、それは居候として当然……」「居候じゃなくて、同居人でしょ?」「え……?」「沙月は私の大切な同居人。だから迷惑なんて考えないことよ。それじゃ、行ってくるわね」「……うん、行ってらっしゃい」真琴は笑顔で手を振ると、さっそうとマンションを出て行った。――バタン扉が閉じられ、沙月は一人になった。「私も真琴を見習って頑張らないと。それに……今日は大事な面接の日だし」テーブルに置かれた自分の履歴書を手に取ったとき。――トゥルルルルル……突然スマホに電話がかかってきた。着信相手は節子――天野家に出入りしている家政婦だ。イヤな予感がしたが、沙月は電話に出ることにした。「……もしもし?」『あ、奥様。おはようございます。家政婦の節子です。あの……本日司様は投資家向け説明会で壇上に立たれてお話をされるのですが……そのような場面で着用されるスーツを探しています。ですが私ではどこに置いてあるのか、分かりかねるので教えていただけないでしょうか?』節子の態度が何処かぎこちないとは思いつつ、沙月は答えた。「ダークスーツなら、彼の寝室の一番左側のクローゼットにかけてあります。そちらを探してみてください」『それが、先ほど探してみたのですが私では無理でした。あ、あの……奥様。もうしわけございませんが、御自宅に戻ってきて場所を教えていただけないでしょうか?』その態度に沙月はピンときた。(これは……きっと、司の指示ね。長年家政婦をしている節子さんがスーツの場所を知らないはずないし。恐らく近くにいるに違いないわ)それはあまりに白々しいセリフに聞こえた。「司さんを電話に出して」冷静な声で言う。『はい、かしこまりまし
last updateLast Updated : 2025-09-22
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