Share

鈍い空の下の支社

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-06-23 19:56:34

古びた木造の階段を踏みしめながら、尾崎は今日もまたあの空気の中へ入っていく準備をしていた。京都支社のあるビルは築数十年の低層建築で、見上げればくすんだガラス窓と所々塗装の剥がれた白壁が、曇り空の下に静かにたたずんでいた。時計の針はまだ十時前。通勤時間を過ぎた町は、どこか間延びしたような静けさを保っている。

ガラス戸を引き開けると、すぐ目の前に開けるのは、十五人程度の社員が共有するフロア。木製の仕切りに囲まれたデスクがいくつか並び、その上にはまだ紙媒体が息をしていた。東京本社のようなフリーアドレス制でも、無機質な蛍光灯の明かりでもない。ふわりとコーヒーの香りが流れてくる。壁には近くの神社の祭りのポスターが貼られ、給湯室の前には観葉植物が置かれている。その一つひとつが、どこか人肌を感じさせるのに、尾崎の心には一向に入ってこなかった。

「おはようさんです」

入口近くのデスクに座っていた松尾が、こちらを見て軽く手を挙げた。尾崎は一拍置いてから、小さく会釈した。

「おはようございます」

声は喉からまっすぐには出なかった。感情を通さずに押し出すような音。挨拶というより、形式的な通過儀礼のような響きだった。

誰に咎められることもなく、尾崎は自分のデスクへと歩く。すれ違う社員たちは、やわらかな関西弁で、日常のやり取りを交わしていた。言葉の端にある丸さと、独特の抑揚が、まるで低い温度の湯のように、空間全体をぬるく包み込んでいる。それは、確かに人を拒まない空気だった。けれど、尾崎にはその温度が怖かった。

デスクに腰を下ろすと、椅子の足がわずかに軋む音を立てた。パソコンのスイッチを押し、モニターが立ち上がるまでの数秒間、無意識に自分の手元を見つめていた。ネクタイはきちんと締められ、シャツの袖口もきちんとボタンで留まっている。外見だけ見れば、どこに出しても違和感のない“会社員”だった。だが、自分でも気づかぬうちに眉間に寄った皺と、わずかに強張った口元が、すでにその内側の摩耗を物語っていた。

メールソフトが起動し、業務連絡がずらりと並んだ。ほとんどは定型的なものだった。東京にいた頃と比べれば、件数も内容も数段ライトだ。だが、尾崎の指はすぐには動かなかっ

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 十枚の未来(ケルトクロス)~視えない恋を、選んだ先に   ケルトの十字、痛みの現在

    佐野の指が、次のカードへと伸びた。畳の上に広がる十枚のケルト十字。その中央に重ね置かれた「剣の9」は、すでに尾崎の内側に静かな余韻を残していた。まるで、過去から流れ込んだ痛みの記憶を、視覚と共に胸の奥に刻みつけたような感覚。けれど、ここから先は、さらに深く、それでも静かに、自分というものの底に触れてくることになると尾崎はどこかで理解していた。佐野は何も言わず、三枚目のカードをめくった。横に並べられた一枚。過去を示す位置に、それは置かれた。「……“塔”やな」声が、畳に吸い込まれるように低く落ちた。その言葉に尾崎は無意識に眉を動かした。塔のカード。タロットに詳しくなくとも、その図柄は印象的だった。稲妻が走り、燃え落ちる石造りの塔。崩れ落ちる人々。絵柄は明確な破壊と衝撃を物語っていた。「こないなカードはな、普通、あんまり嬉しないもんやけどな」佐野の指が、塔の上部をなぞる。そこには真っ二つに割れた屋根と、そこから投げ出される人影。「でも、壊れたいうことは、それまでずっと無理して積み上げとったっちゅうことや。積んだもんがあかんかったんやない。ただ、あんさんがそのままやったら潰れてまうほど…ぎりぎりまで背負ろてたんやろな」尾崎の胸がきゅう、と締めつけられる。呼吸が少しだけ浅くなる。だが、それは不快なものではなかった。痛みそのものに対する抵抗ではなく、それを認めることへの戸惑いだった。「……そうかもしれません」絞るような声で、尾崎はそう言った。それは同意ではなく、確認のようだった。自分に、あるいは過去の自分に。佐野は頷き、次のカードに目を落とした。それは十字の左下、無意識の位置に置かれた一枚だった。「……“吊るされた男”や」尾崎の視線が自然とそこへ移る。逆さ吊りにされた男が、木の枝に両足を括り付けられたまま、微笑んでいる。その表情には、苦痛よりもどこか諦観と、静かな受容が感じられた。「無意識の底にこれがあるっちゅうことはな&h

  • 十枚の未来(ケルトクロス)~視えない恋を、選んだ先に   静かな声の占い師

    「こんにちは、お客さん」その声は、畳に座った尾崎の肩をそっと撫でるように届いた。深すぎず浅すぎず、どこか水面に落ちた一滴のような音だった。目を向けると、格子の向こうの仕切られた空間に、ひとりの男が静かに座っていた。柔らかく光の入る障子越しの明るさに、輪郭が滲んで見えるほどに、その佇まいは風景に溶け込んでいた。作務衣に似た和風の上下を身にまとい、藍色の布地がその細身の体にしなやかに馴染んでいる。髪は黒に近い焦茶で、軽くうねる毛先が頬にかかっていた。白すぎない肌に、わずかに伏せられた睫毛の影が落ち、唇はかすかに笑んでいた。美しい、という言葉だけでは足りなかった。だがそれ以上の言葉を、尾崎は持ち合わせていなかった。「…よかったら、ひとつ占わせてもろてもええ?」声の響きは、どこまでも静かだった。京都特有の語尾の丸みが、まるで風が簾を揺らすように尾崎の心の膜をさわり、染み込んでくる。断るという選択肢があったはずなのに、その声を聞いた瞬間、尾崎は小さく頷いていた。無意識だった。だが、それを後悔する気配はなかった。佐野、と名乗った男は、座卓の上に置かれた木箱をそっと開けた。中から取り出されたのは、少し使い込まれたタロットカードの束だった。エッジがわずかに摩耗し、しかしそれが不思議と“柔らかさ”を纏わせている。シャッフルの動作は実に静かで、佐野の指先は水面を撫でるように軽やかだった。「ゆっくりで、かまへん」そう言って差し出されたカードの束に、尾崎はおそるおそる右手を伸ばした。触れると、紙の温度が指先をかすめた。冷たくもなく、あたたかくもない。まるで何かの記憶を思い出す直前のような、ひやりとした感触があった。「ほな、切らせてもらいますな」佐野の手元で、カードがふたたび動き出す。手つきは熟練のものだったが、どこにも誇示はなかった。彼の動作はすべてが“静”に向かっていて、見る者の内側まで同じ静けさを呼び起こしていく。テーブルの上に、一枚ずつ、カードがめくられていく。最初に置かれたのは、中央に横たわる一枚。続いて、それを縦に横切るように重ねるもう一枚。

  • 十枚の未来(ケルトクロス)~視えない恋を、選んだ先に   迷い道と町家カフェ

    休日の午後。薄く雲がかかった空は、時間の輪郭を曖昧にしていた。太陽の気配はあるのに、陰影のない光が町全体を包み込み、まるで記憶の中の風景のように現実味を失わせていた。尾崎は、ただ歩いていた。目的地はなかった。カレンダーの空白に押し出されるようにして部屋を出てから、もうどれほどの時間が過ぎたのか分からない。観光客で賑わう四条通を避け、気づけば住宅街の奥、細い路地に迷い込んでいた。石畳に覆われた通りは、人ひとりがようやくすれ違えるほどの幅しかなく、両脇には木造の町家が連なっていた。格子戸の内側からは何かの煮物の香りが漂い、どこかの家の風鈴が、風に乗ってかすかに鳴った。耳に届く音すべてが柔らかく、そこには“声”というものが存在していなかった。都会の喧騒とはまったく異なる密度の空気に、尾崎の呼吸もわずかに変化していた。左手のポケットに差し込んだ手が、わずかに湿っていることに気づく。歩いてきた距離がそれなりにあるのだと、ようやく実感した。引っ越してきてからというもの、週末にこうして外へ出ることすら稀だった。理由を探せばいくらでもある。疲労、人目、土地勘のなさ、無気力。だがそれらすべてを並べても、尾崎自身を納得させられるものはひとつもなかった。単に、何もしたくなかったのだ。ただ今日だけは、なぜか足が自然に動いた。路地の奥、ふいに視界の先に揺れる布があった。暖簾だった。白地に、うすく滲むような筆文字で「結」とだけ書かれている。風に吹かれて揺れるその布の下、奥まった場所に静かに建つ町家があった。通りに面した部分は一見何の変哲もない民家のようで、木製の引き戸が閉じられている。だがその上には、小さな看板が釘で留められていた。《茶庭 結》小さく、控えめな金文字がそこにあった。目立たない。けれど、視線を引く。気取らないが、品がある。尾崎はその佇まいに、ふと足を止めた。引き寄せられた、というより、流れ着いたという感覚のほうが近かった。行き先も意味もなく、ただここに立ち止まったという事実だけが、彼の背中を軽く押した。引き戸に手をかけると、木がわずかに軋む音を立てた。思ったよりも軽く、扉は内側へと滑り込んだ。中は思いのほか明るかった。玄関の土間には藍色の敷物が丁寧に敷かれ

  • 十枚の未来(ケルトクロス)~視えない恋を、選んだ先に   鈍い空の下の支社

    古びた木造の階段を踏みしめながら、尾崎は今日もまたあの空気の中へ入っていく準備をしていた。京都支社のあるビルは築数十年の低層建築で、見上げればくすんだガラス窓と所々塗装の剥がれた白壁が、曇り空の下に静かにたたずんでいた。時計の針はまだ十時前。通勤時間を過ぎた町は、どこか間延びしたような静けさを保っている。ガラス戸を引き開けると、すぐ目の前に開けるのは、十五人程度の社員が共有するフロア。木製の仕切りに囲まれたデスクがいくつか並び、その上にはまだ紙媒体が息をしていた。東京本社のようなフリーアドレス制でも、無機質な蛍光灯の明かりでもない。ふわりとコーヒーの香りが流れてくる。壁には近くの神社の祭りのポスターが貼られ、給湯室の前には観葉植物が置かれている。その一つひとつが、どこか人肌を感じさせるのに、尾崎の心には一向に入ってこなかった。「おはようさんです」入口近くのデスクに座っていた松尾が、こちらを見て軽く手を挙げた。尾崎は一拍置いてから、小さく会釈した。「おはようございます」声は喉からまっすぐには出なかった。感情を通さずに押し出すような音。挨拶というより、形式的な通過儀礼のような響きだった。誰に咎められることもなく、尾崎は自分のデスクへと歩く。すれ違う社員たちは、やわらかな関西弁で、日常のやり取りを交わしていた。言葉の端にある丸さと、独特の抑揚が、まるで低い温度の湯のように、空間全体をぬるく包み込んでいる。それは、確かに人を拒まない空気だった。けれど、尾崎にはその温度が怖かった。デスクに腰を下ろすと、椅子の足がわずかに軋む音を立てた。パソコンのスイッチを押し、モニターが立ち上がるまでの数秒間、無意識に自分の手元を見つめていた。ネクタイはきちんと締められ、シャツの袖口もきちんとボタンで留まっている。外見だけ見れば、どこに出しても違和感のない“会社員”だった。だが、自分でも気づかぬうちに眉間に寄った皺と、わずかに強張った口元が、すでにその内側の摩耗を物語っていた。メールソフトが起動し、業務連絡がずらりと並んだ。ほとんどは定型的なものだった。東京にいた頃と比べれば、件数も内容も数段ライトだ。だが、尾崎の指はすぐには動かなかっ

  • 十枚の未来(ケルトクロス)~視えない恋を、選んだ先に   雨の匂いの部屋

    薄曇りの朝。窓の向こうに広がる京都の街並みは、夜の雨に濡れたまま静かに目を覚まそうとしていた。瓦屋根の家々の上を、まだどこか湿った空気が覆っている。遠くの寺の鐘の音がかすかに届いたが、それもすぐに雨粒の記憶に吸い込まれて消えていく。尾崎の部屋は、その外の静けさとよく似ていた。ワンルームの空間は、引っ越してきたばかりの段ボールがまだ半ばほど開けられたまま積み重なっており、家具も最小限しか置かれていなかった。ベッド、ローテーブル、ハンガーラック、そして小さな冷蔵庫。そのすべてが必要最低限で、生活の匂いよりも、まだどこか借り物のような気配を纏っていた。午前七時過ぎ。アラームの鳴る前に、尾崎は目を覚ましていた。眠ったというより、ただ目を閉じていただけのような感覚だった。ベッドから起き上がる動作ひとつにも、力がいる。だが、その力を使い慣れてしまったせいで、自分の内側がどれだけ疲れているかにも、もう鈍くなっていた。薄手のシャツを取り出し、シワを指先で伸ばす。アイロンなどかける気力はないが、皺の目立つ部分だけを丁寧に撫でていく。白いシャツに触れるたび、指先が冷えていくようだった。ジャケットは昨日と同じもの。ネクタイも同じ。組み合わせに意味はない。ただ、それが“仕事に行く”という形に見えればいい。キッチンの隅で、電気ケトルが低い音を立てて湯を沸かしている。その音だけが、今この部屋で生きているものの証のように響いていた。湯が沸き、インスタントのコーヒーをカップに落とす。香りは薄く、色も浅い。だが、そのぬるい苦味が喉を通ることで、ようやく自分が今朝も“ここ”にいるという実感が、かろうじて得られる。洗面所の鏡の前に立つ。蛍光灯の白い光が顔に落ち、くっきりと目の下の影を浮かび上がらせた。髭を剃る手を止め、ふと鏡の中の自分を見つめる。だが、その視線はほんの一瞬で逸れてしまった。鏡の中の顔は、自分であって自分ではないようだった。生気を失った目、乾いた唇、わずかに窪んだ頬。何かを語りかけてくるようなその顔に、耐えられなかった。指先で唇を軽く拭い、髪を整える。コームがすべる音だけが、水の滴る洗面台に交じって消えていく。一言、何か独り言を呟こうとしたが

  • 十枚の未来(ケルトクロス)~視えない恋を、選んだ先に   出発

    エレベーターのドアが無音で閉じる。重なり合う金属の線が、わずかに軋んだように感じられたが、耳を澄ませなければ聞き取れないほどだった。照明の落ちた小さな空間に、機械の駆動音がかすかに響く。尾崎は、壁一面の鏡に映る自分の顔を見つめた。無意識に、だ。目がそこに吸い寄せられていた。誰だろう、これ――そんな言葉が脳裏を過った。映っていたのは、スーツ姿の男だった。濃紺のジャケットにしわはない。ネクタイも正しく締められている。だが、その整った外見の中にある顔は、どこか他人のようだった。頬はうっすらと痩せ、目の下にはくっきりとした影が残っている。額の横に、うっすらと白いものが混じった髪が見えた。その影を見つめると、ようやく自分が今三十七歳であるという事実を、久しぶりに意識した。年齢というものを、数字として持っていたのではなく、ただ過ぎていった日々の堆積として纏っていたような気がした。三十七という数字は、何かを成し遂げた証にも、何かを守り抜いた重みとも感じられなかった。ただ、生き延びてきた年数だった。それ以上の意味を探そうとしても、今の自分には荷が重かった。鏡の中の視線と、短く目が合う。だが、すぐに逸らした。見続けていれば、何かがばれてしまう気がしたからだった。エレベーターが一階に到達する小さな振動が、足の裏に伝わった。ドアが静かに開き、朝の光が薄く差し込むロビーが現れた。チェックアウトの客もまだ少ない時間帯だった。誰にも声をかけられることはなく、尾崎はフロント脇の柱を抜けてそのまま出口へと向かった。自動ドアが開き、朝の風が頬に触れた。肌を撫でる風は、まだ夜の冷たさをいくらか引きずっていた。けれど、それは心地よかった。ひと晩中閉じていた肺が、ようやく空気を受け入れた気がした。吸い込んだ空気には、ビルのガラスに染み込んだ雨の匂いと、濡れたアスファルトのにおいが混じっていた。車通りは少なく、人影もまばらだった。街はまだ目を覚ましかけの途中だった。尾崎は、ホテルの脇に置かれていたベンチに腰を下ろすことなく、そのまま歩き出した。新幹線の発車時刻まではまだ一時間以上あった。焦る理由も、急ぐ必要もないはずだった。だが、どうしてもじっとしていられる気がしなかった。体の奥が、どこかそわそわとざわめい

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status