窓の外は、昼の白さがゆっくりと薄れ、灰色を帯び始めていた。ビルの向こう側で沈みかけた陽が、街全体を淡く染めている。湊の部屋はまだカーテンを閉めていないせいで、その変化を直に取り込んでいた。壁にかけられた時計の針は五時を少し回っている。
ソファに座った湊は、手元の雑誌をめくるふりをしながら、視線だけをキッチンへ送った。そこでは瑛が外出の支度をしている。白いシャツの袖を軽く捲り、前のボタンを留めながら姿見を横目で確認する。肩の動きに合わせて、布が自然に形を変えるのが目に入る。その所作は落ち着いていて、急ぎの気配はない。
「何時に出るんだ?」
湊は何気ない調子で声を掛けた。「六時くらいかな」
瑛はネクタイを手に取り、結び目を作りながら応える。低い声が部屋に心地よく響く。湊は頷き、再び雑誌に目を落とす。だが、耳は瑛の立てる小さな物音を追っていた。シャツの布擦れ、ベルトの金具が鳴る音、香水ではなく整髪料の柑橘の香りがふっと漂ってくる。その匂いが、妙に鮮やかに鼻腔を満たした瞬間、昼間の会話の残響が蘇る。
瑛の年齢。曖昧な返事、途切れた言葉。その続きを今聞くべきかと、心が揺れる。
姿見の前で最後にネクタイを整えた瑛が、ふとこちらに視線を向ける。唇の端がわずかに上がり、意味ありげな笑みが浮かんだ。
「湊って、俺のこと同い年くらいやと思ってた?」
その言葉は、あまりにも自然に落とされた。問いというより雑談の延長のようで、しかし湊の心臓は一拍遅れて強く打った。
「……違うのか」
意識して抑えた声が、自分でも硬いと分かる。瑛はネクタイを軽く締め、視線を外すことなく「俺、二十四」とさらりと告げた。その瞬間、部屋の空気がひときわ鮮明になった気がした。
三歳下。数字は短いが、その意味は湊の予想を確かに崩す。背の高さも、落ち着いた物腰も、経験を感じさせる話し方も、すべて年上か同年代だと思わせてきた。それが、年下。
視線が瑛の指先に落ちる。ベルトを留め終えた手は大きく、動きは無駄なく正確だ。そこに年齢の軽さはないのに、告げられた数字は確かに若さを示している。
仕事終わりのオフィスを出た瞬間、夜の冷気が頬を刺した。湊は肩をすくめ、マフラーの端を無意識に握り込む。駅までの道を歩く足取りは、いつもよりわずかに重かった。街灯の下を通るたび、アスファルトに落ちる自分の影が揺れ、長く伸びたり縮んだりする。その動きに合わせて、胸の奥で凝り固まったものが微かに軋む。坂井の視線、同僚の曖昧な笑い、会議室での途切れた言葉。それらが一つに絡まり、脳裏を離れなかった。電車に揺られている間も、視線は窓の外に向いているのに、景色は何一つ入ってこない。窓に映る自分の顔が、どこか他人のように見えた。部屋のドアを開けると、ふわりと温かい匂いが迎える。煮込み料理の香り。リビングの奥から瑛の声が飛んできた。「おかえり。寒かったやろ?」湊は靴を脱ぎながら「うん」と短く答えた。それ以上の言葉は喉の奥で固まり、動かない。ダイニングテーブルには、湯気を立てる鍋と、色鮮やかな小鉢が並んでいる。瑛はエプロンを外しながら、湊の様子をちらりと見た。「今日は魚と根菜。あったまるで」「ありがとう」箸を手に取ったものの、湊は料理を口に運ぶ動作がぎこちない。味も温かさも感じるのに、喉の奥が拒むようだった。「どうしたん、口に合わん?」瑛の問いに、湊は首を横に振る。「違う。ただ…あんまり食欲なくて」それ以上は説明せず、みそ汁を一口すする。舌に広がる塩気と出汁の香りは確かに沁みるのに、胸の重さは減らない。食後、ソファに並んで座った二人の間に、テレビの音だけが流れていた。画面ではバラエティ番組の派手な笑い声が響くが、湊の耳には遠く、ぼやけた音として届く。視線は画面に向いていても、心は別の場所を彷徨っている。瑛がふと隣を見やり、軽く肩をつついた。「なんや、その顔。俺、なんかした?」「…別に」その一言が、やけに冷たく響いた。湊自身もわずかに眉をひそめる。返した声に棘があったことに気づいたが、引き返せなかった。瑛はそれ以上追及せず、背もたれに深く身を預けた。視線は
昼休み前の会議室は、空調の風が微かに唸り、紙をめくる音やボールペンのノックが断続的に響いていた。湊は配られた資料に目を通し、意見を求められたタイミングで口を開く。「この件は、現行の進行表だと三日ほど遅延が出る可能性がありますので…」そこまで言った瞬間、向かいの席の課長が軽く手を上げた。「はいはい、それは後で調整しよう。次、坂井さん」湊の声は、まるで空気に吸い込まれるように途切れた。課長は目も合わせず、すぐ隣の坂井に発言を促す。坂井は愛想の良い笑みを浮かべ、澱みなく話し始める。その横顔を見つめながら、湊は言葉を失った自分の唇を閉じた。会議が終わる頃には、胸の奥に小さな棘のような痛みが刺さっていた。以前はこうではなかった。発言すれば必ず何かしらの返答があったはずだ。昼休みになると、同僚たちは自然と小さな輪を作り、ランチの相談を始める。湊は自分のデスクで資料を整理するふりをしながら、その声を聞いていた。「じゃあ今日は駅前のあそこにしようか」「いいね、行こう行こう」誰も湊を誘わない。以前は、たとえ形だけでも「湊さんも行きます?」と声をかけられた。それすらも消えた今、机の上の書類が白く浮かび上がって見える。仕方なく、コンビニで買ったパンとコーヒーを持って給湯室に向かうと、そこには坂井がいた。冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、振り返った彼女は、柔らかな笑みを浮かべる。「湊さん、お昼ですか?」表情だけは以前と変わらない。だが、その瞳の奥には何か湿ったものが潜んでいる気がした。湊が軽く会釈を返すと、彼女はペットボトルのキャップを開ける音と共に、小さく鼻で笑った。その笑いが湊に向けられたものかどうかは分からない。だが、背中に薄い冷気が走る。午後の業務に戻っても、微妙な変化は続く。資料を手渡す時に視線を合わせない同僚、コピー機の前で無言ですれ違う瞬間の距離感。何か透明な壁が、湊と彼らの間に立ちはだかっている。夕方、電話を取り次いだ後に顔を上げると、少し離れた席で坂井と別の女性社員が目を合わせ、口元を押さえていた。笑っているのか、何かを囁いてい
午後三時を過ぎたオフィスは、昼の喧騒が少し落ち着き、電話のコール音やプリンターの稼働音が遠くに響く程度だった。湊は机に向かい、資料の修正を進めていたが、プリントアウトの必要があり、席を立つ。複合機は給湯室の奥にある。給湯室の前に差しかかると、かすかな囁き声が耳に触れた。扉は半分ほど開いており、中から女性二人の会話が漏れている。「…だから、怖くて…」「本当に?あの人が?」聞き慣れない緊張を帯びた声。次の瞬間、湊の名前が囁かれる。心臓が一拍遅れて脈打った。足を止めたまま、耳が勝手に言葉を拾う。「…坂井さん、泣きながら言ってたのよ。残業の帰りに、襲われかけたって…」湊の背筋を冷たいものが這い上がった。意味が分からない。耳に入った単語と、自分の知っている現実がかけ離れていて、頭が拒絶する。「でも、普段あんなに仲良さそうじゃない?」「だから余計に…じゃない?」笑い声ともため息ともつかない小さな音が混じる。湊はその場に立ち尽くしたまま、指先に冷たい汗が滲むのを感じた。ほんの数秒の出来事なのに、時間が引き伸ばされたように長く感じられる。やがて中の二人は気配を察したのか、急に声を潜めた。湊は咄嗟に足を動かし、何事もなかったように複合機に向かう。だが、胸の鼓動は収まらない。プリンターから吐き出される紙の音がやけに大きく響き、その間も背後からの視線を感じる気がした。数日後、その違和感は確信に変わる。オフィス内での空気が目に見えて変わっていた。廊下ですれ違う同僚の視線が、以前よりも長く、重い。会話が途切れるタイミングが不自然で、笑顔の裏に探るような色が混ざる。書類を受け取りに行った先でも、女性社員がひそひそと話し合い、湊に気づくと声を止めた。その沈黙が、かえって内容を物語っているようで、胃の奥がひやりと冷える。昼休みに一人で弁当を食べていると、遠くのテーブルで誰かが笑い声を上げた。何でもない笑いなのに、自分が笑われているのではないかという錯覚がつきまとう。箸を持つ手が知らぬ間に力んでいた。帰宅
蛍光灯の白い光が一様にデスクを照らし、パソコンのモニター越しに湊の視界は淡々とした色をしていた。午前中のメール処理と書類整理を終え、次の案件に取り掛かろうとする。電話のコール音とキーボードを叩く音が、背景のBGMのように耳に馴染んでいる。京都支社に異動してから数か月、この一定のリズムが湊の日常になっていた。「大塚さん、このあとお昼どうします?」背後から掛けられた声に、湊は手を止めて振り返る。坂井がそこに立っていた。肩までの髪を軽く巻き、控えめな笑みを浮かべている。社内では柔らかな印象で通っている彼女だが、視線の向け方が妙に近い。「まだ決めてませんけど…」返事を濁すと、坂井は一歩踏み込むように机に手をかけた。「近くに美味しいパスタのお店があるんですよ。今度一緒に行きません?」軽く笑って断ろうとした湊は、その言葉の「今度」という曖昧さに引っかかる。今日ではないが、予定を作ろうとしている…そう感じた。「そうですね…また時間が合えば」努めて柔らかく返すと、坂井は「じゃあ楽しみにしてますね」と言い、ゆっくりと離れていった。その背中を目で追いながら、湊は首筋に残る微かな緊張を振り払う。午後の会議までの間、彼女は何度か湊の席を訪れた。資料の確認や進捗の共有といった理由はあるものの、わざわざ自席から歩いてくるほどの用件ではない気がする。彼女の声が耳に近づくたび、机に影が落ちるたび、心の奥でわずかな波紋が広がる。会議室への移動のときも、廊下で並んで歩く距離が妙に近い。袖口がかすかに触れた瞬間、湊は反射的に半歩退いた。坂井は何事もなかったように話を続けるが、その目元には一瞬だけ、愉しげな色が差した気がした。昼休み、湊は別の男性社員と外に出るつもりだったが、エレベーター前で再び坂井と鉢合わせる。「奇遇ですね、一緒に行きましょうか」その誘いを笑顔でかわしながら、心の中で小さな棘のような感覚が残る。断るたびに、相手の笑顔がほんの僅か固くなるのを見逃さない。午後のデスクワークに戻ると、坂井は自席で電話をしていた。ふと視線を感じ
部屋の灯りを落とすと、寝室は街灯の淡い光だけがカーテンの隙間から差し込み、輪郭をぼんやりと浮かび上がらせた。外の冷たい空気を感じさせる冬の夜、布団の中の温もりはその分だけ際立っている。湊はベッドの片側に腰を下ろし、シーツの感触を掌で確かめながら、ぼんやりと自分の呼吸を数えていた。瑛は隣でシャツのボタンを外し、脱ぎ捨てたそれを椅子の背に掛ける。暗がりの中、動くたびに布地が擦れる音が小さく響く。その音は不思議と耳に残り、湊の胸の奥をじわりと満たしていく。ベッドに潜り込んだ瑛は、自然な流れで湊の肩を引き寄せた。抵抗する隙もなく、片腕が背中に回り、身体ごと包まれる。湊は一瞬息を止める。「年下」という言葉が頭の中で浮かび、そのまま何度も反響した。三歳という差が、こんなにも距離感を揺らすものなのかと、改めて思い知らされる。だが、その理屈を押し返すように、瑛の身体から伝わる熱がじわじわと広がる。胸板に頬が触れると、わずかな鼓動が耳に届き、同じリズムで自分の心臓も動き出す。鼻先には、風呂上がりの石鹸の香りと、瑛特有の体温を帯びた匂いが混ざっていた。「…湊」低い声が耳元で落ちる。短く呼ばれただけなのに、心の奥にまで届いてくる。応えたい衝動が喉元までせり上がるが、唇は動かない。もし返事をすれば、このまま理性の最後の線を越えてしまう気がした。瑛の指先が背中をゆっくりと撫でる。その動きは優しく、けれど確かに存在を主張している。湊は目を閉じ、逃げ場を探そうとするが、見つかるのは温もりだけだ。距離を取るべきだという理性は、布団の中の心地よさと瑛の呼吸の間で、ゆっくりと力を失っていく。「もう寝よ」瑛の声は、まるで子どもをあやすような柔らかさを帯びていた。湊は何も言わず、浅く頷く。瞼の裏に暗闇が広がり、耳元の呼吸が規則的になっていくのを感じる。年齢差は確かにそこにあるはずなのに、この密着した瞬間には何の意味も持たない。ただの数字でしかなく、むしろその数字が今は心地よい重みとして胸に沈んでいく。意識が薄れていく中、瑛の腕の力が少しだけ強まった。その締め付けに似た抱擁が、湊に諦めに似た安らぎを与える。年下だと分かっても、距離を置こうとしても
外が完全に夜の色に沈み、窓の外の景色は街灯とビルの明かりに縁取られていた。リビングの照明は柔らかな白色で、テーブルやソファの影が床に長く伸びている。湊はテーブルの端に置いたグラスの水面をぼんやり見つめていた。先ほど瑛が出かける準備をしながら告げた「二十四」という数字が、まだ耳の奥に残っている。三歳下。たったそれだけの差なのに、頭の中では距離が広がったような錯覚があった。今まで無意識に「同年代」として作ってきたバランスが崩れ、視界が少し揺らぐ。瑛の落ち着きや振る舞いが年齢を感じさせなかった分、その差は余計に不意打ちだった。キッチンから物音がした。玄関に向かったと思っていた瑛が、いつの間にか戻ってきている。「水だけじゃ足りひんやろ。何か食う?」湊は反射的に視線を逸らした。「いや、いい」その声が自分でもよそよそしいと分かる。距離を置くつもりで口にしたのに、心の奥ではそれが瑛にどう受け取られるかを気にしている。瑛は何事もなかったように冷蔵庫を開け、中をのぞき込む。その背中はゆったりとしていて、動作に焦りがない。シャツの裾から覗く腰のラインや、袖口から見える手首の骨ばった形が目に入ると、年齢の数字はかえって意味を失っていく。「ほら、これ賞味期限今日までやし食べよ」瑛が小さなパックのデザートを二つ持ってテーブルに置く。「……お前、出かけるんじゃなかったのか」「まだちょっと時間ある」瑛はにやりと笑い、スプーンを二本テーブルに置いた。「湊がそんな顔してたら、置いて行かれへんやろ」そんな顔、と言われて湊はわずかに眉を寄せた。何を見透かされたのかと思うと、余計に視線を合わせづらくなる。それでも手元に置かれたスプーンを受け取り、パックの蓋を開ける。甘い匂いがふわりと漂った。一口すくって口に入れると、冷たさと柔らかな甘味が舌に広がる。その感覚に集中しようとしても、視線の端で瑛の動きを捉えてしまう。向かいに座る彼は、肘をテーブルにつき、頬杖をつきながらこちらをじっと見ていた。「そんな警戒せんでええやん」「警戒なんかしてない」「ほんま?距離、取