勇は、もはや以前のように星を挑発する勇気はなかった。下手に仕掛けて、彼女が乗らなければ困るからだ。だが、競売に参加すればするほど、積もり積もって大金になる。――さすがに影斗でも、いつまでも彼女に金を出し続けられるわけがない。そう信じて、勇は次々と入札を重ねた。結果、星は彼が札を入れた品を、ことごとく落札していく。最初のうち、勇は内心ほくそ笑んでいた。――今度こそ、星に大損をさせてやれる。だが、彼女が涼しい顔でカードを切り、品物を受け取る様子を見ていると、ふいに自分の方が妙に不安になってくる。彼女がここまでに使った金額は、すでに二十億を優に超えていた。勇の視線は、自然と影斗に向かう。影斗は一度も入札せず、薄い笑みを唇に浮かべたまま。その胸中は、まったく読めない。元々あまり回らない彼の頭は、ますます混乱していった。――いったいどういうことだ?星は本当に買いたいのか?それとも買いたくないのか?そう考えながらも、勇はまた彼女と張り合いを始める。自分が十八億まで値をつり上げたところで、星はまたもや急に沈黙した。――この女、いったい何を考えている?わけがわからないのは、勇だけではなかった。清子でさえ、星の意図を掴みかねていた。勇が高額を入れれば、星は退く。勇が退けば、星は落札しても眉ひとつ動かさない。いまや、この競売会場は星と勇、二人だけの舞台と化していた。周囲の客たちは、なんとも言えない目つきで二人を眺めている。まるで、金を惜しげもなく浪費する二人の「大馬鹿者」を観察しているかのように。――まあいい、勝手にやらせておこう。今日は、面白いものが見れそうだ。オークションが始まる前、出品物のリストはすでに予告されていた。勇にも、狙っている品がいくつかあったのだ。だが、星と意地を張って競り合っているうちに、まだ本命の品が出てもいないのに、彼の予算はすでに底をつきかけていた。計算してみれば、すでに四十億以上も使っている。しかも、祖父から渡されていた金――母親の誕生日プレゼントを選ぶための金まで、前倒しで費やしてしまったのだ。ようやく自分が役に立たない品を大量に落札してきたと気づいたその時。会場に現れたのは、一本の精緻なネックレスだった。海のように深
ところが――星は今回の競売に参加しなかった。勇は途端にどうしていいかわからなくなり、隣の雅臣に小声で尋ねた。「雅臣、星が入札してないんだ。俺も値を入れずに、あいつを揺さぶってやろうか?」雅臣は淡々と返す。「幼稚だな」「だって、星にひと泡吹かせてやりたいんだよ!なあ雅臣、ちょっとくらい助言してくれよ!」勇の頭では、星に敵うはずがない。普段なら、雅臣はこんな子供じみた戯れに耳を貸すことはなかった。だが彼はふと、先ほどの星の姿を思い出す。まばゆいほど自信に満ち、堂々としたあの表情。彼女は――自分を離れても、さほど困ってはいないように見えた。むしろ影斗と並んでこれほど堂々とオークション会場に姿を見せ、まるで順風満帆のようではないか。......ただ。そう考えた瞬間、雅臣の唇にかすかな冷笑が浮かぶ。もし本当に順調なら、わざわざ自分の前に現れて存在感を誇示する必要などないはずだ。彼は唇を開き、静かに助言を与える。「一度だけ入札してみろ。高額である必要はない。そのあと星が続けて入札するかどうかで、彼女が本当にお前を狙っているのかがわかる」勇の目がぱっと輝いた。――そうだ、なぜそれに気づかなかったんだ!彼は雅臣の言葉通り、控えめに値を入れた。額も大きくない。たとえ星が動かなくても、すぐ他の誰かが上をいくだろうから、落札の心配はない。すると――案の定、彼の入札直後に星が札を上げた。やはり彼女は、自分を狙っている!確信を得た瞬間、勇の目に愉快げな色が宿る。だったら徹底的に、彼女を追い込んでやればいい。今度は、勇も少しは学習したようだ。以前のようにいきなり数億ずつ釣り上げたりはしない。一度に上げる額は六千万以内。やがて競売価格が本来の価値の倍を超えたところで、勇はきっぱりと入札をやめた。結果、星が十二億で骨董品の花瓶を落札する。勇は胸の奥で密かにほくそ笑む。――どうせ後悔して泣き喚くに決まっている。だが、彼の予想は裏切られた。星は少しの未練も見せず、サービス係から花瓶を受け取ると、すっきりした顔でカードを切った。彩香が恐る恐る受け取りながら言う。「この花瓶......本当に十二億もするの?すごく高いわね......」星は落
たとえどれほど血気にはやっていたとしても、勇にはわかっていた。この翡翠のブレスレットは、すでに相場を大きく超えていると。競売人の顔からは笑みが溢れていた。必死に抑え込んでいるのが見て取れるが、内心では嬉しくて仕方がないのだろう。彼らの給料は、競売品の落札額に応じた歩合制だ。品物の価値はもとより安くはないが、もし底値の範囲内で収まってしまえば、得られる手数料は限られる。だが値が釣り上がれば釣り上がるほど、彼らの取り分も増える。つまりカモが多ければ多いほど、彼らは笑いが止まらないのだ。星は勇がこれ以上値を上げないのを見て、口を開いた。「山田さん、もう上げないの?それならこのブレスレットは......私のものになっちゃうわよ?」競売人もすかさず声を張る。「十六億。他に入札はございませんか?十六億、いかがですか?十六億、一度」星が黙っていればいいものを、その一言が勇の目を真っ赤にさせた。彼は即座に札を掲げる。「十八億!」星はふっと微笑み、それ以上は上げなかった。競売人が数度確認したあと、満面の笑みで告げる。「十八億で落札です!」勇の表情は固まった。彼女はなぜ値を上げなかったのか?視線がぶつかると、星は困ったように微笑んだ。「さすが山田さん、お金持ちですね。私なんて到底かなわないわ。最高でもここまでが精一杯よ」勇の胸に奇妙な違和感がよぎった。だが口では嘲りを隠さない。「その程度の甲斐性なら、こんな場に来るな。ここはお前みたいな貧乏人の来る場所じゃないんだよ」星はまるで気にするふうもなく、ただ静かに笑っただけで何も言わなかった。清子の目がわずかに揺れ、すぐに事情を察した。雅臣の声が低く響く。「勇、それ以上星に張り合うな。彼女はわざとお前を挑発している」勇は衝動的な性格ではあるが、決して頭が回らないわけではない。薄々その違和感には気づいていた。ただ、口先だけは負けを認めようとしないのだ。「わざと挑発だと?なら俺だって、わざと挑発してやればいい。雅臣、清子、見てろよ――値を吊り上げておいて、最後に手を引いてやる。あいつの顔、見ものだぜ」雅臣が何か言おうとしたが、新しい競売が始まった。今回の品は、一幅の古代壁画
この王冠は、目測でも最低二億は下らないだろう。誰かが競り合いに加わるのは珍しいことではない。だが、勇はその女の声を耳にした瞬間、逆立った鶏のように怒りをあらわにした。「ちっ、星のあの女......まさか俺と競り合う気か!」彼は再び札を掲げた。「一億!」同時に、星を鋭く睨みつける。だが星は全く意に介さず、淡々と再び札を上げた。「二億」ものの一分足らずで、この王冠の値はあっという間に二億へと跳ね上がった。周囲の人々は思わず星に目を向け、どこの名家のお嬢様なのかとひそひそと憶測を飛ばした。勇の目に、獰猛な光が宿る。「三億!」その声にかぶさるように、星の澄んだ声が響く。「四億」勇は裕福な家の御曹司だけに、物の値打ちは見抜ける。この王冠の予算は多く見積もっても三億。それ以上は出す気がなかった。金がないわけではなく、単にその値には見合わないからだ。だが今、星が値を吊り上げていくのを目の当たりにし、全身が熱に浮かされたように逆上していた。くそ、あの女は以前まで雅臣の妻だったから、多少は遠慮してやった。だが今やただの離婚女、俺が負ける理由はない。勇は歯ぎしりしながら札を掲げる。「五億!」雅臣が静かに口を開いた。「勇、この王冠は高くても二億六千万が相場だ。多少の上乗せならともかく、一倍近く膨らませるのは損だ」清子はわざとらしく声を潜めた。「勇、星野さんがそこまで欲しいなら、譲ってあげたら?」普段なら、不相応に値の張るものを取ろうとは思わない。だが今日ばかりは違った。星が欲しいと言うなら、必ず奪い取ってみせる。勇は鼻息荒く言い放った。「彼女が欲しがれば欲しがるほど、渡すものか!資本の力を思い知らせてやる!」結局、値は十億に達したところで星は札を下ろした。勇は勝ち誇った鶏のように胸を張り、星に挑発的な視線を投げる。星は淡々とした表情を崩さず、動じる様子もなかった。やがて係員がトレイに載せた王冠を持ってきて、勇の前に恭しく差し出した。勇は自ら手を伸ばし、王冠を清子の頭に載せてやる。――三品目は玉のブレスレットだった。勇は最近、資金が回収できて手元に少し余裕ができたとはいえ、王冠一つに十億を費やしたばかりで、さすがに気が引けていた
「雅臣、オークションが始まるわ。何か話があるなら、終わってからにしましょう」雅臣は、影斗と腕を組んで去っていく星の後ろ姿をじっと見つめ、薄い唇を硬く結んだ。瞳の奥には冷ややかな光が一閃する。会場内。彩香は、星と影斗が入ってくるのを見つけ、手を振った。「星、榊さん、こっちよ」星は歩み寄りながら言った。「せっかく一緒に来ようって言ったのに、あなたったら自分で来るんだから」「だって二人並んだら絵になるでしょう?美男美女で舞台に登場って感じ。私が一緒に並んだら、注目度を下げちゃうもの」そう言って胸を張る彩香は得意げな笑みを浮かべる。「さっきの清子と雅臣、いかにも得意満面って顔してたわ。特にあの清子、まるで孔雀の羽を広げるみたいに必死で自分を見せびらかして」「しかも周りの人間もおかしいのよ。清子をやたらと持ち上げて、天にも地にも並ぶ者なしって調子で」彩香は鼻で笑い、軽蔑を隠そうともしなかった。「あの程度の実績、星と比べたら取るに足らないわ。どうしてあんなに大げさに騒ぐのかしら」影斗が口を開く。「清子は、雅臣をいまだに惹きつけて、勇にまで夢中にさせている。やはりそれだけの力はある。調べた限りでは、子どもの頃からずっと学業優秀で、学校では常に憧れの的。映画監督から芸能界に誘われても断ったそうだ」「楽器も多才だが、一番の強みはヴァイオリン。だからこそA大に合格できた。雅臣と別れたあの五年も、ただ過ごしていたわけじゃない。国際コンクールに出場し続け、数え切れないほどの賞を手にした。聞いた話では、有望視されていた天才ヴァイオリニストを打ち破ったこともある。その相手は、それ以来立ち直れなかったらしい」星は静かに答える。「この世界には天才なんて山ほどいるわ。でも最後まで残って成果を上げられる天才は、ほんの一握り。清子......確かに実力はある」彼女自身が、いまはその反例でしかなかった。もし離婚しなければ、ヴァイオリンを再び手に取ることができたかどうか――それはまだ分からない。三人が話しているうちに、オークションが幕を開けた。影斗はこの手の催しに興味が薄く、これまでほとんど足を運んだことがなかった。だが今回は特別にチケットを手配し、星と
そのうちの一人の警備員が冷たく口を開いた。「お嬢様、招待状をご提示ください」一年に一度のオークション、その重要性は言うまでもない。参加できるのは富豪か名士ばかりで、会場には数えきれないほどの至宝が並ぶ。もし不審者が入り込み、要人を傷つけたり宝物を盗んだりすれば、誰も責任を負いきれない。疑わしい者は、厳正に扱うしかなかった。勇は星を指差して叫んだ。「早くこいつを捕まえて取り調べろ!口を割らなければ少しくらい手荒にしても構わない!」周囲の人々は思わず顔を見合わせた。どういうことだ?棄てられた妻?金持ち狙い?この女は榊影斗の妻じゃなかったのか?周囲の好奇と疑念が入り混じる視線や、警備員たちの険しい目つきにも、星の表情には微塵の動揺もなかった。彼女は落ち着き払ってバッグから招待状を取り出すと、指先一つ震わせず差し出した。「これが私の招待状です」勇は一瞬言葉を失い、すぐさま声を荒げた。「偽物だ!そんなのは偽造に決まってる!」警備員が招待状を受け取り、検査機にかけると、「ピッ」と音が鳴り、認証はすぐに通った。警備員たちの表情が和らぐ。勇は息を詰まらせ、必死に叫んだ。「ば、馬鹿な!ありえない!絶対にありえない!」すぐにまた別の言い訳を思いつき、星を指差した。「そうだ、きっと誰かの招待状を盗んだんだ!」その時、低く気怠げな声が割って入った。「山田さん、それはあまりにも見苦しいのでは?」勇が振り返ると、影斗の薄笑を含んだ視線と正面からぶつかった。「俺の友人が、ここに来る資格もないとでも?招待状を盗んだ?あなたは誰を侮辱している?」影斗の声は大きくも小さくもなく、しかし周囲にいた人々の耳に余すことなく届いた。人々は意味ありげに視線を交わし合う。――友人?なるほど、妻ではなかったのか。だが影斗が自ら女性を伴い、しかも公の場に姿を見せたということは、この女性を庇護下に置くと明言したも同然。人々が星を見る眼差しに、微妙な色合いが混じり始めた。星は招待状を受け取り、淡々と言葉を続ける。「こうした場で厳格なのは当然です。ただし、人の噂に流されて偏った判断をしてはいけない。招待状を持つ者だからといって、必ずしも心が正しいとは限りません」