私は自分が何をためらっているのか、よくわからなかった。恋愛に関しては、私はいつだって素直に認めてきたつもりだ。長い間、慎一を想い続けてきたことも、ちゃんと認めてきた。けれど今、自分にまた誰かを好きになる力が残っているかどうか、それだけは認めるのが怖かった。ため息をついて、「もう少しだけ、時間が欲しい」と呟く。康平は、ぎゅっと私を抱きしめた。「俺が焦りすぎてたかも」と、少し照れくさそうに呟くと、すぐにその腕をほどいた。伏せたままの瞳は、隠しきれない寂しさを滲ませている。彼は指先でホテルの扉をそっとなぞりながら、小さな声で聞いてきた。「今日、ここ泊まってもいい?」思わず顔を上げて彼を見る。「え?」「ソファで寝るだけでいいんだ。明日、お前が出発する時にまた来るのは大変だからさ」「いや、自分で行くから大丈夫。あなたは帰ってゆっくり休んで」「うん」彼はズボンのポケットに手を突っ込み、淡々とうなずいた。扉のそばに立ち尽くす彼。私が一言、「もう帰っていいよ」と言えば、素直にこの場を離れるだろう。でも、どこか寂しそうなその姿を見ると、その一言がどうしても言えなかった。特に何も言わないけれど、不機嫌そうな表情がずっと消えない。今日は、彼の誕生日だ。私は何かサプライズを用意したわけでもなく、むしろ彼をがっかりさせてしまったのかもしれない。「じゃあ、帰るぞ」と彼は私の反応を見て、静かに背を向けた。背の高い彼の後ろ姿が、ゆっくりと扉の向こうに消えてゆく様子は、どこか切なくて胸が痛んだ。その瞬間、何を考えたのか、自分でもよくわからないまま言葉がこぼれた。「やっぱり、ここにいて」静かな夜。背が高すぎて、部屋の外のソファでは落ち着かず、もぞもぞと寝返りを打つ康平の気配。私もなかなか寝付けなかった……やがて彼が、そっと探るような声で言う。「中に入って、床に布団敷いてもいいかな?外、寒いし、ソファも狭くて、足が全然伸ばせないんだ」寝室の扉が少しだけ開いて、彼の手が扉の縁にかかる。ふわふわの頭がそっと覗いて、暗闇の中で真っ白な歯がやけに目立つ。「佳奈、ほんとに辛くて、寝られないよ」三本指を扉の隙間から差し入れて、まるで誓うような、子供みたいに甘える仕草がずるい。私は仕方なく、布団を抱えて起き上がる。「じゃあ
康平の体はまるで骨が抜けたみたいに、私の肩にもたれかかってきた。今回は、私は彼を突き放さなかった。「男の頭なんて、誰でも触れるもんじゃないんだぞ」康平はそんなツンデレな顔で言う。彼の髪は驚くほど柔らかくて、寝起きのせいか何も整えていない後頭部の一部が、ぴょこんとはねていた。私は思わず手で押さえてみる。すると彼は勢いよく体を起こし、「やばっ。今日、髪セットしてねぇ!」と慌てた。彼は私の顔をじっと見つめながら、ぱちぱちと瞬きをする。それから、突然ぐっと距離を詰めてきた。爽やかなボディソープの香りが一気に鼻をつき、心臓が勝手に早鐘を打ち始める。彼は伏し目がちに私の瞳を覗き込み、首をかしげると、そっと私の顎を固定した。私と彼の距離はどんどん近くなって……私は息をするのも忘れ、無意識に体を車のドア側へと寄せていく……「お坊ちゃま、到着しました!」運転手が前の座席から大きな声で知らせた。私は慌てて彼を押しのけ、何食わぬ顔で降りる準備をした。康平はいたずらっぽく笑い、「緊張してた?まあ、仕方ないよな。お前の目に映る俺は、世界一イケてるんだろ?」とからかってくる。私はほっと息をつきながらも、「調子に乗らないでよ!」と笑って返した。今夜のレストランは、私が急に決めた普通のお店だった。でも彼はずっとうまいと褒めてくれる。食事も半ばを過ぎたころ、彼がふと尋ねてきた。「明日、帰っちゃうの?」「うん、一泊したらすぐ戻るつもり」「そっか……」さっきまで温まっていた空気が、急に氷のように冷たくなった。彼はフォークを握ったまま、食事の味も分からない様子で、「うちに泊まれば?」とぽつり。私は首を振って、「ホテル、もう予約しちゃったし。そもそも、今日ってあなたの誕生日じゃない?夜中の十二時を過ぎたら、ちゃんとバイバイするのが筋かなって思って」と説明した。普段は礼儀正しい彼なのに、今は子どものようにナイフとフォークをいじり、皿の上でキィキィと音を立てる。「お前って、優しいよな。まるでシンデレラかよ。時間限定の」彼はじっと私を見つめる。「シンデレラは王子様の舞踏会に行ったけど、お前は?何のために俺に会いに来た?」私は言葉に詰まった。冗談めいた口ぶりなのに、どうしてこんなに真剣に聞こえるんだろう。彼の誕生日を祝うために来たのは間違いない。で
遥か遠くから、誰かがこちらに向かって駆けてくるのが見えた。康平が車のドアを勢いよく開けて、すごい速さで走ってくる。私は手に持っていたケーキを高く掲げて、思いっきり声を張り上げた。「誕生日おめでとう!」彼は唇の端を少しだけ吊り上げた。まるで古い豪邸に住むお坊ちゃんのような、とぼけた顔つきで。さっきまでは眠たそうだったくせに、私の姿を見るや、まるで興奮した猿みたいに元気ハツラツ。私の目の前まで来ると、彼はぎゅっと私を抱きしめた。「昨日、接待で遅くまで飲んじゃってさ。今日、もう少しで起きられなかったよ。なんか夢を見てるのかと思った!」「夢で私に会えるなんて、ずいぶん都合いいこと考えてるじゃん?」そう言われて、ふと胸がきゅっと痛くなった。この御曹司が、こんなに一生懸命になったこと、人生で初めてなんじゃないかな。今までは飲みたいときにだけ飲みに行って、接待で無理するなんて絶対なかったはずなのに、今回は限界まで頑張ったんだ。「夢じゃなくてよかったな。もし夢だったら、目が覚めたとき絶対泣くぞ」彼はバカみたいに笑いながら、白い歯を見せた。「あ、そうだ。自分の誕生日なの、すっかり忘れてた」そう言い終えたとき、彼の瞳の奥に、ほんの少しだけ涙がにじんでいるのに気付いた。今までの誕生日は家族や友達に囲まれていたのに、今年は一人ぼっち。きっと寂しかっただろう。彼はちょっと照れくさそうに、私の手からケーキを受け取った。「こんなの買ってきてどうするのさ、もう子供じゃないんだから。お前が来てくれるだけで、最高の誕生日プレゼントだ」「ふーん、好きじゃないんだ?じゃあ捨てちゃおうかな」わざとケーキを取ろうとすると、康平は慌ててケーキを抱きしめた。「ちょ、ちょっと!買ったのに捨てるとか、もったいないだろ!」私は口を尖らせて、わざと彼の真似をして首を振る。「さっき自分で言ってたじゃん。こんなの買ってきてどうするのさ、もう子供じゃないんだからって」次の瞬間、私の頭の上に彼の大きな手がポンと乗っかって、せっかくセットした髪がぐちゃぐちゃにされた。私の誕生日には、彼がわざわざ来てくれた。だから、今度は彼のために、見知らぬこの街で一人ぼっちの誕生日を過ごすなんて、絶対にさせたくなかった。彼と一緒にいると、どこにいても、いつまでも子供のままでいられる気
真思が、そっと指を伸ばし、恥じらうように慎一の前で待っていた。彼女の指先には、これから彼に指輪をはめてもらうという期待がにじんでいる。だけど、その指輪……なんて皮肉だろう。私が海苑の別荘に残してきた、あの指輪以外に何があるっていうの。まさか、あの結婚指輪を持ち出して、真思との婚約に使うなんて思わなかった。それが私のものだと真思が気づいているのか、それとも知っていても気にしないのか、私には分からない。私はその場に立ち尽くし、まるで根が生えたみたいに動けなかった。目の前で突然片膝をついた慎一を見つめ、心臓が不規則に脈打つのを感じていた。指先が痺れて、感覚がない。慎一の姿勢は凛としていて、礼儀作法も完璧、膝をつくその姿さえも絵になるほどだ。真思は口元を押さえ、今にも叫びそうなほど感激し、その大きな瞳には涙がきらりと溢れていた。「はい、私、はい!」彼女は待ちきれない様子だった。だが、慎一は焦ることなく、ゆっくりと指輪ケースから男物の指輪を取り出し、自分の指にはめる。黒い瞳でじっと自分の指を見つめている彼が、今何を考えているのか私には分からない。ただ、隣で一人の女性が焦がれるように待っているのだけは分かっていた。最初に動いたのは雲香だった。彼女は小走りで慎一の元へ駆け寄り、真思の前から彼を引き離そうとした。でも、プロポーズを決意した慎一を、あんなに華奢な彼女が動かせるはずもない。結局、引き離すのを諦めた雲香は、口をきゅっと結び、薄い唇に危険な笑みを浮かべた。「お兄ちゃん、こんな冗談、通じないよ。本気なの?」慎一はうなずき、興奮のあまり声がかすれていた。「この指輪をはめる女性こそ、俺の妻であり、霍田家の嫁、未来の女主人だ」「慎一、まさか本当にプロポーズしてくれるなんて思わなかった。どうして私なんかが、あなたに出会えたのか、今でも信じられない。あなたといると、初めて家族の温かさを感じた。世界一幸せな女にしてくれるって、言ってくれたよね。本当に、あなたは約束を守ってくれた!」真思はもう一度、指を慎一の前に差し出し、涙ながらに言った。「慎一、愛してるよ」その時だった。ガシャン、と茶器が床に叩きつけられ、真思の足元で粉々に砕けた。破片が四方に飛び散り、慎一の指輪を持つ手も切りつけてしまった。「馬鹿者が!馬鹿
雲香が突然立ち上がった。胸は激しく波打ち、まるで世界一の理不尽な仕打ちを受けたかのようだった。涙で真っ赤に染まった瞳は、いかにも私が見慣れた「守ってあげたくなる」あの表情だ。彼女がこんな顔を見せるたび、霍田夫人の心はすぐにぐにゃぐにゃに溶けてしまう。私を見つめるその目には、憎しみすら滲んでいた。「佳奈、あなたと雲香の間に一体何があったの?どうしてそんなに意地悪するの?彼女はまだ子供なのよ、ほら、こんなに泣いて、苦しくて息もできないくらいじゃない」私は心の中で思いっきり白目をむいた。そんなに苦しいなら、いっそ気絶でもしてしまえばいいのに。私は立ち上がり、ホールの奥にいる霍田当主を見た。この家で、私がまだ多少の建前を保てるのは霍田当主くらいだ。「私は慎一と仲直りしたわけじゃないし、今日ここに来たのも間違いだったみたい。皆さんの邪魔はしないから、お先に」私の言葉が終わるか終わらないかのうちに、宴会場の扉が外から押し開けられた。吹き込む風に思わず肩をすくめる。まるで一瞬で気温が数度下がったようだった。真思が慎一の腕にしっかりと手を絡め、二人で堂々と入ってきた。彼女はまるで春の蝶のように、皆の間を飛び回っては挨拶し、まるで自分が既に霍田家の嫁になったかのような振る舞いだった。驚いたのは、あれほど雲香とぎくしゃくしていたのに、今は親しげに彼女の涙を拭ってあげていることだった。だが、雲香はほとんど相手にしない。三人がかりで冷たくされた彼女の温かい笑顔は、まるで空振りだ。私だったら、きっとその場にいたたまれなくなってしまっただろう。ようやく、私は自分が霍田家の奥様になれない理由が分かった気がした。私は彼女ほど大らかでもなければ、あんなに演技もできない。慎一は入ってきた時から、じっと私を見つめていた。一言も発することなく、鋭く整った横顔は淡い距離感と冷たさを纏っている。あの漆黒の瞳には何の感情も映らず、まるで初対面の他人を見るようだった。私たちの関係なんて、他人と何も変わらないのだろう。私はバッグからご祝儀袋を取り出し、そっとテーブルの上に置いた。「お二人のご婚約、おめでとう。これで顔も見たし、もう邪魔はしない。だから、これから先も私の人生に関わらないで」「な、なんだって?誰が婚約だと?」長らく病床にあった霍田当
もう二度と会うことはないだろう――そう覚悟していたのに、今、私はただただ嘆息するしかなかった。あの人たちは、かつては私が誰よりも愛した家族だったのに。いったい何があったというのか、一夜のうちに、家族が仇敵に変わってしまったのだ。そして私は、ひとりぼっちになった。「ガシャーン!」霍田当主が茶碗を机に叩きつけた。その音に、雲香はまるで猫に怯える鼠のように、霍田夫人の腕の中にすっぽりと隠れてしまった。ついさっきまで、私を見下ろすあの傲慢な態度は、どこへ消えてしまったのか。「跪きなさい!」霍田当主の一喝には、怒りを込めずとも自然と威厳があった。雲香は霍田夫人の腰にしがみつき、甘え声で「お母さん」とすがる。霍田夫人は娘をかばいたげだったが、霍田当主の厳しい表情を見て、しぶしぶ肘で娘の背中を押した。「ほら、さっさと跪きなさい」雲香は私を憎々しげに睨みつけ、まるで私の前で恥をかかされたことが何より許せないといった様子だ。やがて彼女は机のクロスの下にでも潜り込む勢いで、私から姿を隠そうとする。ふん、まるで子供だ。怒り方まで幼稚で、呆れてしまう。私は眉をひそめながら、この家族は一体何の茶番を演じているのだろうと思った。霍田当主は、さっきまでの厳しい顔つきを一変させ、私に手を差し伸べてきた。その目には慈しみが満ちている。「慎一のやつが、サプライズがあるなんて言ってたが、本当に驚いたよ。佳奈の顔を見たら、なんだか体調まで良くなってきた気がする!こっちおいで、顔をよく見せてくれ」私は霍田当主を静かに見つめ返すしかなかった。冷めきった関係は、もう元には戻らないのだ。私は雲香の前へ歩み寄り、彼女が跪くその向かいに腰を下ろした。雲香はすぐに体をそむけ、私に背を向ける。これはわざとだったが、霍田夫人も霍田当主も、彼女をかばう素振りは見せなかった。霍田当主は差し伸べた手を気まずそうに引っ込め、私のお腹に視線を落とした。「まだ生まれてもいない孫が、可哀想でならん!佳奈、お前の妹には、もうきつく叱っておいた。慎一とはもう仲直りしたんだろう?あいつは今宥めてる最中だなんて言ってたぞ。子供のことで揉めるな。子どもはまたできる。佳奈は、俺が認めた唯一の嫁なんだから!」宥める?誰が?どうりで慎一と真思がネットであんなに騒ぎに