* * *
紅薔薇宮は皇宮内の中央に位置する五宮二塔一神殿のなかで最も広大な敷地を持つかの国でも珍しい二階建ての石造りの建物である。外壁に使われている石が真紅の薔薇のように赤みがかっているから紅薔薇宮という名称がついたという。 一階部分には百人程度が収容できる円形状の議会があり、一階部分よりも若干狭い二階部分が円卓と椅子の並ぶ食堂兼宴会場になっている。 悠凛に案内され、螺旋状の階段をのぼった道花とカイジールは互いに顔を見合わせてはぁと感嘆の声を漏らす。「初めて螺旋階段のぼった!」
「同感」道花の幼さの残る声に会場内で座っていた賓客が顔を顰めるが、それがセイレーンの女王の娘に仕える侍女だと知り、関わりたくなさそうに顔を背け、わざとらしい談笑を再開する。カイジールはそれを見てムッとするが道花は平然とした態度で両手の指を交差させ、蝶が舞うように優雅に一礼をして通り過ぎる。その完璧な動きに一瞬だけざわめきが止まる。
「……あれ? あたし何か間違えちゃった?」
「いんや、逆に完璧すぎて驚かれてる」 「そか」リョーメイが道花に教えた礼儀作法はかの国式のものだ。まさかここまで完璧に身につけてくるとは思わなかったカイジールは、ここで神皇華族と呼ばれる王侯貴族たちを瞬時に黙らせるだけの作法を身につけた道花に目を瞬かせる。
「慈流さま、慈流さまのお席はこちらになります」
と、そこへ悠凛の声が響く。椅子を引かれてそこへ腰を下ろすと、隣にカイジールよりもすこし年齢が上の青年が座っていた。
「狗飼どの」
「またお逢いしましたね、慈流さま」舶来品と思しき皺ひとつない白のシャツに黒い上下。外つ国の洋装を着こなした青年は慈流の前に立ち、慇懃に礼をする。
さらりと赤みがかった黒い髪が揺れ、灰褐色の瞳がきらりと光る。「できれば仙哉とお呼びください、麗しの姫君。なんて素敵な黄金色の髪に海の色の双眸、さすが人魚の女王の娘……」
白魚のような指先がカイジールを捕え、撫ぜるように上下に動く。
* * * さっきから不穏な会話ばかり耳にしている。人魚の五感は人間のそれよりもはるかに有能だから人間が秘密裏に語り合っている話や聞く必要のない余計な話まで耳に入ってきてしまう。カイジールは道花の様子を気にするが、彼女は半分人間だからか聴覚は常人と変わらないようで、特に苦痛そうな表情は浮かべていない。「どうされました?」 むしろ隣で歓談してくれている仙哉の方がカイジールの苦虫を噛んだ表情に感づいて困惑顔を見せている。「……ちょっとひとにあたっただけです」 遠くの円卓であなたの母親らしき方が人魚の心臓を食べたがっているようです、とはとても口にできない。口にしても冗談にならないところが恐ろしい。 現にカイジールを育ててくれた女王の両親は九十八代神皇帝哉登に心臓を抉られ、生のまま食い殺されている。人魚が死ぬと生命活動を司っていた心臓は時間を巻き戻すように急速に縮むのだ。それを体内で吸収すれば、心臓を縮ませる成分も身体中に循環し、肉体を若返らせることが可能になる。食べ過ぎると毒だが、心臓ふたつを食べた哉登は五十代の見目から一気に二十歳ほど若がえり三十代の姿を取り戻している。きっと心臓ひとつにつき十年若返らせることができるのだろう。だからといってカイジールは自分の心臓を人間に与えるつもりは毛頭ない。「そうか、ならいいのだが」 仙哉は穏やかな表情で卓に並ぶ前菜に手をつけている。現神皇帝の曽祖父の頃より活発になった外つ国との積極外交によって、かの国の衣食住は多様化してきている。装束や建造物だけでなく、さりげなく食事のなかにも珍しい野菜が使われていたり、甘い香りの酒が並んでいたりとセイレーンでは見ない物も多く、つい手を伸ばしてしまうようだ。 ――特に道花が。「おいしぃですね! この揚げ物。珍しいお野菜なんですか?」 「こちらは北海大陸の多雪山系(たせつさんけい)より取り寄せました山菜が主の天麩羅となっております。お隣の皿に盛られておりますのが隣国潮善(ちょうぜん)より獲ってきた藻屑蟹(もくずがに)の蒸し物です」 「これが蒸蟹(むしがに)ね
* * * カイジールたちが座る円卓よりすこし離れた場所で、葡萄色の裾の長いドレスを着た女性が黙って酒を飲みつづけている。紫がかった黒髪に、灰紫の瞳。紫は神皇帝にのみ許された禁色であるというのに、衣だけでなく容姿からして異様な年配の女性は、誓蓮よりやってきた人魚の女王を忌々しそうに睨みつけている。「そんなに凝視していると気づかれますよ」 「別によい。妾があの女を嫌悪しているのは事実じゃ」 「だけどそうするとぼくが彼女に近づけないじゃないですか」 外つ国から入ってきた硝子細工の杯に琥珀色の液体を注ぎながら、女性と同じ髪の色を持つ少年はくすくす笑う。はたから見るとあどけない表情だが、心の奥では蔑んでいるような、乾いた笑顔である。「お前が彼女に近づくとな? それは兄上を想うがゆえの行動かえ?」 「まさか」 銀に近い灰色の瞳がきらりと光る。鋭利な刃物を彷彿させる、冷たい双眸に女性も頷き返す。「くだらぬ野心か。まぁよい。あの慈流とかいう女、たいそうなちからを持っているようだしの。こちらにつけて玉座を引きずり落とす手伝いでもしてもらえばよい」 九十九が統治するいまのかの国は間違いだらけだ。なぜ始祖神の血を引き継ぎ『地』のちからを有するだけで彼ら皇一族は頂点に咲きつづけるのか。同じちからを持ちながらなぜ自分たちは彼らの眷属にしかなれないのか。誓蓮では眷属である人魚が国を治めていたというのに。「そのようなことをこの席で語られるのもどうかと思いますがね……人魚はひとと違って五感が鋭いですから」 「ほう、狗の嗅覚より鋭いとな? ならば余計欲しくなるの」 「ことが終われば活さまに差し上げますよ」 杯に注がれた酒をくいと飲みながら、少年は明るく告げる。「なんせ彼女は、人魚ですから」 人魚。それはかの国では見ることの叶わない美しき魔性。不老不死と噂され、神に近い存在として崇められているが、実際のところ不老であって不死ではない。人間より長い年月を生きるから不死と思われているだけだった。それを快く思っていなかった神が気まぐ
* * * 紅薔薇宮は皇宮内の中央に位置する五宮二塔一神殿のなかで最も広大な敷地を持つかの国でも珍しい二階建ての石造りの建物である。外壁に使われている石が真紅の薔薇のように赤みがかっているから紅薔薇宮という名称がついたという。 一階部分には百人程度が収容できる円形状の議会があり、一階部分よりも若干狭い二階部分が円卓と椅子の並ぶ食堂兼宴会場になっている。 悠凛に案内され、螺旋状の階段をのぼった道花とカイジールは互いに顔を見合わせてはぁと感嘆の声を漏らす。「初めて螺旋階段のぼった!」 「同感」 道花の幼さの残る声に会場内で座っていた賓客が顔を顰めるが、それがセイレーンの女王の娘に仕える侍女だと知り、関わりたくなさそうに顔を背け、わざとらしい談笑を再開する。カイジールはそれを見てムッとするが道花は平然とした態度で両手の指を交差させ、蝶が舞うように優雅に一礼をして通り過ぎる。その完璧な動きに一瞬だけざわめきが止まる。「……あれ? あたし何か間違えちゃった?」 「いんや、逆に完璧すぎて驚かれてる」 「そか」 リョーメイが道花に教えた礼儀作法はかの国式のものだ。まさかここまで完璧に身につけてくるとは思わなかったカイジールは、ここで神皇華族と呼ばれる王侯貴族たちを瞬時に黙らせるだけの作法を身につけた道花に目を瞬かせる。「慈流さま、慈流さまのお席はこちらになります」 と、そこへ悠凛の声が響く。椅子を引かれてそこへ腰を下ろすと、隣にカイジールよりもすこし年齢が上の青年が座っていた。「狗飼どの」 「またお逢いしましたね、慈流さま」 舶来品と思しき皺ひとつない白のシャツに黒い上下。外つ国の洋装を着こなした青年は慈流の前に立ち、慇懃に礼をする。 さらりと赤みがかった黒い髪が揺れ、灰褐色の瞳がきらりと光る。「できれば仙哉とお呼びください、麗しの姫君。なんて素敵な黄金色の髪に海の色の双眸、さすが人魚の女王の娘……」 白魚のような指先がカイジールを捕え、撫ぜるように上下に動く。
そして道花は躊躇うことなく着ていた長衣を脱ぎ、カイジールの前で恥じらうことなく着替えをはじめる。幼いころはリョーメイに一緒に風呂に入れられたこともあるカイジールが男の姿でいようがいまさら問題ないと道花は考えているようだが、カイジールは慌ててそっぽを向いて苦言する。「男の前でそんなことするなよ」 「いまは男じゃないからいいでしょう?」 くすくす笑いながら下着をつけ、小豆色の袴を穿いてから薄い石竹色の袿を羽織り、背中へ羽のように拡がる半透明の組み紐のひとつを背後で結び、余った組紐をみつあみの先に飾りつけて、道花は満足そうに鏡の前でくるりと回る。「うん、こんなもんかな」 「悪くない」 ちゃんとした着方がわからないのでほぼ自己流だが、道花の着こなしはセイレーンでもかの国でも受け入れられる嫌味のないものに落ち着いている。袴の色が他の宮女と異なるのはかの国の配慮か、嫌がらせか……どっちにしろ、道花は気にしないで与えられた衣装を着つづけるだろう。もともとそういう事象に疎い娘だ、だが、彼女は彼女で対処するちからを持っている。似合っているし、カイジールが文句を言う筋合いはない。「慈流も似合ってるよ。こういう服なら女体化しなくても女に見えるね」 セイレーンを出る前から自分自身に術をかけて性別を曖昧にしていたカイジールは道花の言葉に満足そうに頷く。「やむおえない状態にならない限りはこの姿を貫くよ。結婚式を終えて初夜の床に入らなくちゃいけなくなったらとかね」 男にも女にも姿を変えられるカイジールだが、男性として生きることを選んでここ数年女体化していなかったため、かの国へ向かう際に完全な女性体に変化することができず、男性機能と女性機能のどちらもついている中性体で赴くことになってしまったのだ。 もともと筋肉量が少ないので、男の身体でも女に姿を変えることはできたが、かの国の少年王の妃になるとなれば話は別だ。リョーメイはカイジールを完全に女体化させてかの国へ送り出したがっていたが、時間がなかったため那沙が幻術をかけてごまかしたのだ。「それまでにはちからが戻っているといいわね」 「
セイレーンとは異なり、国土のひろいかの国は『地』のちからひとつで統治をすることが叶わず、幽鬼によって民草を傷つけられ多くの集落を滅ぼされた陰惨な過去を持つ。それを嘆いた至高神が、自分の息子たちを北方へ置き、かの国の始祖神の『地』のちからを補うよう助けたのだ。 おかげでここ数十年、かの国における幽鬼による被害は減少し、いまも北の北海から東の帝都、西の西城(さいじょう)、南の南空(なんくう)に至るまで常に強い結界が張られているという。だが、幽鬼を退けられる結界を過信した前神皇帝がセイレーンの女王と宝石が溢れる迎果七島を自分のものにしようとしたがために闇鬼に憑かれてしまったのも皮肉な話ながら、事実である。 思い出すだけで腹が立つとカイジールは唇を噛むが、道花は彼のそんな仕草に気づくことなくのほほんとした口調で応える。「うん。北方は異形が舞い込む冥穴(めいけつ)が多いから、『地』のちからだけで護りきるのは難しいんだよね。人間と婚姻し寿命を全うされた佳国さまの子孫が神皇帝の系譜に連なる限り、『地』のちからは安泰だけど……」 「国土すべてを守護するとなると、それは厳しいものがある。だから神皇帝は独自の術式を持ちながら神と対等の術者になった逆斎(さかさい)の一族……道花には逆さ斎って説明した方がいいかな……を重用しはじめたんだ。セイレーンでいう御遣いのようなものさ」 「そっか。かの国でいう御遣いはセイレーンの御遣いとは意味が違うんだっけ」 ナターシャに仕えているリョーメイは御遣いという称号を持ってはいるが、神と一対一の契約を結んだわけではない。カイジールも神殿内ではナターシャの御遣い候補とされていたし、他にも御遣いと呼ばれる術者たちはいた。仕事上の上司と部下、もしくは同僚のような間柄ともいえる。 逆に、かの国の神は基本的に生身の人間ではなく死んだ人間の魂が人間以外の器を与えて自分だけの御遣いとするとされている。一対一で神が寿命を全うするまでその契約を違えることは叶わないのが一般的で、神殿に仕える人間は神と御遣いの両方に敬意を捧げている。かの国の御遣いはどちらかといえばセイレーンでいう眷属に近いものがあるのだろう、道花は「ふぅん」と頷き、カイジールに質問する。
* * * 北から南へ縦に長い東西南北に連なる四つの小大陸を統べ、始祖神の子孫である神皇帝を頂に置きつづける賀陽成佳国。横に長い東都大陸に位置する帝都が、神皇帝とその一族である皇家の庭で、五つの宮殿と一つの神殿が一か所に集められている。「とても涼しい場所ね」 「そりゃあ、セイレーンよりも北に位置するからな」 真珠島から船に乗って三日。天候は海神と至高神の加護のおかげか、穏やかで、とても心地よい時間を過ごすことができた。 そして今朝がた、司馬浦(しばうら)の港へ到着し、道花とカイジールは馬車に揺られて神皇帝と皇一族が暮らす帝都に入ることとなった。 いま、道花とカイジールは晩餐前の休息と称して桃花桜宮(ももはなさくらのみや)に与えられた客室でかの国の名産といわれる緑色のお茶を飲んでいるところである。「それにしても面倒くさいわね」 道花たちが滞在する桃花桜宮をはじめとする五つの宮殿には花の名がつけられており、議会を行う施設を持つ紅薔薇宮(くれないそうびのみや)、神皇帝の親族が暮らす黄金水仙宮(くがねすいせんのみや)、神皇帝と彼に許された者だけが入れる紫紺躑躅宮(しこんつつじのみや)、皇一族に仕える人間が暮らす青藍菖蒲宮(せいらんあやめのみや)……と、どれも仰々しい。「神殿も正式名称が秘色香椎神殿(ひそくかしいしんでん)って……すっごく偉そう」 そもそも秘色ってどんな色だ? かの国は色彩感覚に優れた華やかで雅な場所だと那沙も言っていたが、ここまで徹底されていると唖然としてしまう。「でもかの国の人間からすれば、宝石神が興したセイレーンの島々の方が仰々しいのかもしれないぞ?」 セイレーンの迎果七島と周辺の島々はすべて宝玉の名で統一されているため、かの国の領土となってからも地名を変える必要がなかった。古来は似た言語を使う同じ民族だったのだ、無理に地名を改めて民の反感を招くことを避けただけなのかもしれない。「それもそうね……」 道花は苦笑しながらカイジールの言葉に頷く。どっちもどっちと言われてしまえばそう、な