夜が更けても灯りの絶えない、様々な屋台や店が立ち並ぶ賑やかな紅鏡の市井全体を見下ろせる丘に、金虎の一族やその親族、従者の住まういくつかの邸がある。
門下生や術士たちは、平地に用意された邸に数人ずつ均等に配属されていて、怪異を鎮めるのが日々の務めとされている。
民に依頼されて成功報酬を貰うか、宗主から直々の命令を受けるか、もしくは無償で修練の一環として退治するかである。
北側は夜になれば妖者が徘徊する暗く深い森が広がっており、森を抜けるとふたつの渓谷があった。手前にはただ深く底の見えない不気味な渓谷があり、吊り橋を越えた先に大きな滝が見えてくる。
そこからさらに北に進むと湖水の都、碧水である。紅鏡から西側に進み広い山間地帯に入ると、竹林に囲まれた古都、玉兎が見えてくる。
東側は整えられた道が続いていて、しばらく歩くと草原へと出る。そこから山を越え五日ほどで、豪華な楼閣が立ち並ぶ都、金華に辿り着く。南下し数日険しい道を歩けば、高い岩壁に囲まれた要塞、光焔がある。
東西南北に位置する四つの土地にそれぞれの一族が治める都があり、紅鏡はちょうどその真ん中に位置していた。
そして北東側は大小様々な岩場に囲まれた広大な土地で、数百年前の大きな争いの爪痕が今もなお残っており、その一帯だけは常に薄暗く、淀んだ空と草の一本も育たない穢れた地が広がっている。
「晦冥と紅鏡の境目のこの辺りに出没するらしいが、やけに静かだな?」
文には三、四体ほどの殭屍が彷徨っていて、紅鏡側に結界を越えて入ってきたのだという。
殭屍は陽の出ている間はのろのろと大人しく、同じ場所を動き回っているだけだが、夜になれば活動的になり、昼のそれとは比べ物にならないほど凶暴化する危険な存在なのだ。
特にこの場所は、かつて数千人の術士が無惨に命を落とした地であり、この土の下にはその亡骸が今も眠っているという。それが時を経て負の養分を吸い取り、殭屍となり彷徨っているのだとしたら報われない話だ。
広い範囲で境界に巡らされた結界は、こちら側に入って来れないように張られていたが、殭屍はただ喰らいたいという本能のまま歩き回る。身体がぼろぼろになってもなにも感じないため、結界に何度も体当たりをしてくるのだ。
塵も積もれば綻びも生まれてしまうのが現状で、宗主や兄たち、それに手練の術士たちが定期的に修復していた。
「竜虎兄様、見て! 月が····っ、」
暗闇の中に浮かんでいたのは、確かに青白い満月だった。しかし雲に隠れその姿を現した時、その色は奇妙な赤い月へと変わっていたのだ。毒々しい赤色に照らされていく月の周りの夜空には、星がまったく瞬いていなかった。
「なんだ、あの月······不吉すぎる」
怪訝そうに怪しげな月を見上げ、璃琳を守るように傍らに立つと、竜虎は一層辺りを警戒するように見渡した。
皮肉にも大きな赤い満月が辺りを照らしているおかげで、暗くてよく見えていなかった場所がゆっくりと、よりはっきり見え始める。
嘘だろ、と思わず言葉を吞み込む。
そこには、つい先ほどまで確かになにも存在していなかった。静寂と暗闇だけだった。
しかし一瞬にして十数体の殭屍がゆらりと身体を揺らし、次々に立ち上がって姿を現したのだ。
その光景はどこまでも悍ましく、恐怖を感じるには十分だった。
✿〜読み方参照〜✿
紅鏡(こうきょう)、玉兎(ぎょくと)、碧水(へきすい)、金華(きんか)、光焔(こうえん)、晦冥(かいめい)、殭屍(きょうし)
「おかしい······確かにもう一着分、替えの衣があったはずなのに」「もしかして置いてきちゃったのかな? 邸の中は何度も確認して忘れ物はないはずなんだけど、」「なにか探し物?」 無明は竜虎にくっついたまま、横でうんうん唸っているふたりに首を傾げる。同時に振り向いた双子に恥ずかしい姿を見られ、いい加減離れろ、と竜虎は無明の身体を押し退けた。「どうしたの? なにがないの?」 押し退けられた無明はそのまま地面に手を付き、荷物を漁っているふたりの間に顔を覗かせる。自分たちの間に割って入ってきた無明に気付いたふたりは、手を止めて同時にそれぞれ左右に顔を向けた。「白笶様の替えの衣が見当たらないんです」 雪鈴が困った顔で笑みを浮かべる。無明はそれに対して思い当たる出来事があった。 おそらくふたりが探しているのは、奉納舞の後、口紅の毒に侵され意識を失っている時に掛けてもらった衣のことだろう。結局その後に返しそびれてしまい、碧水に着いて落ち着いてから返そうと思っていた。「清婉、俺の荷物はどこにある?」「あ、はい、ここに。どうしたんですか、急に」 ふたりの後ろで地面に座り込んだ無明に袋を渡し、清婉は不思議そうにその様子を眺めている。「······あった。この衣、公子様に借りてたんだ。俺が直接返してくる」「え? あ、はい······なぜ?」 混乱して、雪鈴は最終的に首を傾げた。(あいつ······またなんかやらかしたのか? 嫌な予感しかしない) 竜虎は中心にいる無明の姿に、眉を顰める。そしてその腕の中にある薄青の衣を見るなり、あの時の光景を思い出す。 白笶が膝の上で眠っている無明の唇を拭っていた、あの光景を。そして後悔する。真っ赤になった顔が真っ青になり、あの恥知らず! と怒りが込み上げてくる。 それぞれに疑問符を浮かべている者たちをよそに、無明はまっすぐに白笶に駆け寄る。白冰や白漣はその姿を見るなり気を利かせたのか、そそくさとその場から離れていった。「はい、これ。やっと返せて良かった。俺が着させてあげるね」「いや、そんなことはさせられない」 いいから、いいから、と無明は持っていた衣を左腕に掛けて背中に回ると、血で汚れた無残な状態となっている衣に手をかける。皆が各々の気持ちで見守る中、ひとり楽しそうに無明が白笶の衣を脱がせ、新しい衣を着せ替える
竜虎は青空を見上げた時、ふたつの影が目に入った。途中からひとつの影だけどんどん近づいて来て、それがなにかわかった途端、呆けていた顔がさあぁあとわかりやすく青ざめていった。「ちょ····っ!? あの馬鹿! なにを考えてるんだ!」「竜虎様どうし····ええーーーっ!? 無明様!?」 清婉は突然声を上げた竜虎に驚き、その視線の先を見上げてさらに驚愕する。「ぎゃーーーなにしてるんですかっ!!」「嘘だろ····、ま、待った! さすがに無理!」 無理と言いつつも、落ちてくるものをなんとか受け止めるために手を広げ、顔を上にしたまま慌てて後ろへ前へと足を右往左往させて叫ぶ。「あ、あぶな·····うぐっ!? 」 強い衝撃で一瞬目の前が真っ暗になり、そのまま後ろによろめき大きく尻もちをついて座り込むと同時に、首に抱きついているその重さとぬくもりに安堵する。「いてて······お前、空から落ちてくるとか······馬鹿なのか」「へへ。竜虎、清婉、ただいまっ」「ただいま、じゃない! 何回攫われたら気が済むんだっ! っていうか、これから助けに行くって時に自力で戻ってくるなっ」「こちらも大変だったんですよ! 恐ろしい蟷螂の妖獣が村をこんな状態にしてしまったんです! 竜虎様は身を挺して私を守ってくださったり! 白群の皆さまがすごいのなんのっ」 ふたりの横で清婉が涙目で昨夜の説明をするが、早口すぎてまったく内容が入ってこなかった。「遠くから見えた村の様子を見て不安になったよ。ふたりとも、怪我はしてない?」「お前こそよく無事に戻れたな。ああ、まあそうだよな、白笶公子が一緒だったんだもんな、無事に決まってるか······」 抱きついたまま離れない無明を無理に剥がすこともなく、竜虎はその細い身体に腕を回したままいつものように愚痴を言う。 横にあるはずの顔を見ることができない。今、自分はどんな顔をしているのだろう。春の匂いの残る風が舞い、葉っぱが浮き上がった快晴の空を見上げたまま顔を歪める。(ほら、言ってるそばからやってきたぞ) 視線の先にもうひとつの影が慌てて地面に降りてきた。まさかあの高さから飛び降りるとは思いもよらなかったのだろう。 白笶は見たこともないくらい青ざめた顔でこちらの様子を遠くから窺ってきた。そして怪我をしていないのを目視で確認すると、すっとい
「······消えちゃった?」 本当ならあの少年を捕まえて、事の次第を知る必要があった。それに、なぜあの少年はわざわざ自分の目的を話したのか。宝玉を狙っていることを口にすれば、それ以降手に入れるのが難しくなるだろう。それでも奪えるとという自信があるのか、それとも他になにか理由があるのか。 無明は顎に手を当ててうーんと思考を巡らせていると、それを遮るように頭の上に手が置かれた。「君のおかげで助かった」 いつの間にか傍らに控えていた白笶が、小さい子どもにするように頭を撫でて褒めてくれたので、無明はなんだか嬉しくなって、自然と笑顔がこぼれた。「公子様も格好良かったよ?」「君の方がすごい」「う、うん、ありがと。それにしても、あっさり逃げていったのが気になるよね····」 結局、あの少年がなぜ玄武の宝玉を狙っていたのか。村の人たちをあんな目に遭わせたのか、なにひとつわからないままだ。「あの子は、何者だったんだろう」「宝玉を狙うなら、いずれまた会うことになる」 無明は頷きそれから鬼蜘蛛の方に視線を向けた。鬼蜘蛛は大人しく糸の結界の内側でお辞儀をするかのように頭をさげ、そしてなにかを訴えるようにキュウキュウと独特な声を出した。「君は罪を犯したけど、あの子が操らなければ静かに暮らしていたんでしょう? 碧水の人たちや白群の術士の人たちには申し訳ないけど、見逃してあげることはできないかな?」 このまま洞窟を出てみんなと合流すれば疑われることはないはず。何年、何十年、もしかしたら何百年と人を襲わずに生きてきたかもしれない妖獣が、操られることでその力を使われ、利用されるなんてなんだか可哀想だし理不尽だと思った。 もちろんその手にかかってしまった人たちのことを想えば、それこそ理不尽であったと言わざるを得ないが。「君の想うままに、」 白笶は目を細めて、笛を握っている無明の右手を取る。そこに付いている赤い紐飾りが気になっているようだった。 鬼蜘蛛はふたりに頭を下げ、そのまま洞窟のさらに暗い奥の方へと消えていった。それを確かめてから、白笶は改めて無明を見つめる。「夜が明ける前に、ここを出よう」「うん。そうだね、早くみんなの所に戻ろう」 朝になれば自分たちを皆が捜し回るだろう。そうなれば色々と言い訳を考えるのが面倒になる。「足元に気を付けて」 手を握った
無明は唇に笛をそっとあてて息を吹き込む。そこから奏でられる音は低くも高くもなく、心地よい音色。優しく穏やかなその曲調の中に、ひらひらと舞う花びらのように目まぐるしく音が行き交う。 しばらく吹いていると繭の上の方から外の空気か流れ込んできた。見上げてみればあの鬼蜘蛛の鋭い脚の爪の先が繭に突き刺さり、びりびりと破いているのが見えた。 外に灯りがあるわけでもなく、その割れ目から見えたのは、ごつごつした鍾乳洞でできた天井と仄かに光る蘚と張り巡らされた白い糸、そしてあの鬼蜘蛛の姿だった。無明は笛を奏でたまま、繭が完全に破かれるのを待つ。その後ろで片膝を立て、いつでも動ける体勢で白笶が控えていた。「どういうこと?」 呆れたような少年の声は信じられないという戸惑いも含んでおり、それは目の前で起こっている事と、外で起こっている事に対して同時に発せられていた。他の連中を始末するために送った黒蟷螂の気配が途絶え、目の前では言うことを聞かない無能な鬼蜘蛛が、笛の音が響いた途端動き出し、繭をその爪で裂き始めたのだ。「なんでその笛でお前が言うこと聞くんだよ」 文句を吐き捨て、繭が割れた先に現れたふたつの影を睨みつける。傀儡の妖獣は鬼蜘蛛だけで他に手元にはおらず、どう考えてもこちらが不利だ。 ふたりは糸の結界の先に黒衣を纏った背の低い者の存在を見つけ、それが一連の元凶だろうと悟る。声を聞く限り少年のようだ。首には奇妙な形の笛を下げており、それが鬼蜘蛛を凶暴化させた蟲笛だろうと推測する。「君は······なに?」 その気配は異様で今まで遭ったことのないものだった。人でもなく、妖者でもなく、生きてもいないし死んでもいない。思わず口に出た言葉に、無明は自分でも驚いていた。「お前なんかに教えてやる義理は、」 途中まで口にして、黒い衣を頭から被っている少年は言葉の勢いを失速させた。三人の間に微妙な緊張感が生まれる。我に返るようにその空気を破ったのは、目の前の黒衣の少年だった。「あははっ! そうか、あんただったのかっ!」 突然笑い出したかと思えば、片手で顔を覆って叫びだしたのだ。それはどこか怒りを帯びており、自分に向けられているものだと無明はなんとなく理解する。「鬼蜘蛛があんたに従ったのは、あんたが、」「関係ない」「は? 勝手に俺の台詞を遮るなよ、白群のお坊ちゃん。まあ
無明は笛を手に取りきゅっと握りしめ、その先に揺れる赤い紐飾りを見つめた。「うん、俺も同じことを考えてた」 あの時途中で蟲笛が鳴り響かなかったら、おそらく鬼蜘蛛は制御できていた。自分の力を過信していたせいで油断したが、ちゃんと集中していたらこんなことにはならなかっただろうし、白笶が自分を庇って怪我をすることもなかった。「少しの時間でも鎮めることはできたから、もしかしたらお願いを聞いてくれるかもしれないもんね」「君に負担をかける」「大丈夫。任せて!」 笛を掲げて、にっと口元を緩める。白笶は目に留まった赤い紐飾りに思わず無明の手首を掴んだ。さすがに唐突すぎる行動に驚き、無明は掴まれた手首に視線を移す。「······どうしたの? この笛がなにか気になる?」 今まで何度かこの笛を吹いているのに、急にどうしたのだろうか? と無明は首を傾げて戸惑いつつも、それとなく訊ねてみた。「····誰からこの笛を?」「えっと、よく、憶えてないんだ。小さい頃に誰かに貰ったんだと、思う」 いつの間にか傍にあって、それからずっと肌身離さず持っているお気に入りの横笛なのだ。曖昧な記憶はいつの間にかすっかり忘却し、最終的にはどこで貰ったのかなどどうでもよくなっていた。「あの渓谷の鬼には初めて会った?」「たぶん? でも彼は俺を知ってるみたいで。でも五百年ぶりとかよくわからない冗談も言ってたような? そういえば、あの鬼も笛を持ってたよ? 黒竹の立派な横笛だった。紐飾りも繊細で、綺麗な琥珀の玉が付いてたから、はっきりと憶えてる」 白笶はそれから無言になり、しかし手は放してくれず。無明はますます首を傾げざるを得ない。あの言葉の通り、自分には話せないことがたくさんあるのだろう。訊いたところで答えられないことなのだと悟る。「とりあえず、まずはここから出るのが先だよ。ええっと····手を放してくれると嬉しいな〜?」「すまない、痛くなかったか?」 思い出したかのようにぱっと手を放し、白笶は申し訳なさそうな表情で見下ろしてくる。それに対して、大丈夫だよ、と無明はへらへらと笑って誤魔化す。本当は痺れるくらい強く握られていて、くっきりと指の痕が残っていたのだが、袖で上手く隠した。「じゃあやってみるね。上手くいったら褒めてね、公子様?」✿〜読み方参照〜✿無明《むみょう》、白笶《びゃ
目を覚ますと、自分の失態に血の気が引いた。 薄暗いがお互いの顔や姿はなんとなく解る仄かな明るさの中、腕の中で眠る無明の姿があった。 腰と肩に回していた手を思わず放すと、凭れていた無明の華奢な身体がぐらりと傾ぐ。冷静を取り戻して身体を受け止め、そのまま膝の上に頭を乗せて仰向けに寝かせた。 状況を把握するために辺りを見回す。繭のような壁に包まれており、自由に身動きは取れないが大人ふたりが足を延ばせるくらいの広さはあるようだ。 あの時、負傷した右肩は衣が破れて濡れているが傷は塞がっていた。口から顎にかけて水が零れたような痕があり、袖で拭う。反射的に無明に視線を落とすと、同じように唇が濡れていた。 思考をしばし停止して、無言で無明の唇を袖で拭う。横に竹筒が転がっていること、傷が癒えていること、霊力が満ちていることを考えると、無明が水を通して霊力を注いでくれたのだろうということがすぐにわかった。「······君に、話したいことがたくさんあるのに、」 普段あまり表情の変わらない白笶の眼差しが、まるで雪を解かす春の日差しのように穏やかで優しいものへと変わる。無明の冷たい頬に触れて、それから前髪をそっと指で整えた。「私は、なにも伝えることができない。だからどうか、思い出さないで欲しい。なにひとつ思い出さず、今のまま····どうか、」 祈るように、自分より小さく細い手を握り締める。どうか思い出さないで欲しい。そうすればこれ以上不幸なことは起こらないだろう。ずっと傍にいて、そのたくさんの表情を見ていられたら、それだけで。「君の傍にいさせて欲しい」 右の手を取り、そのまま手の甲に口付けをした。あの時。渓谷の鬼が口付けた場所と同じ場所にそれは落とされる。触れた唇は少しだけ震えていた。 無明は目を開けるのを躊躇う。実は唇を拭われた時に意識が戻っていたのだが、目を開けようと思った時に白笶が急に話し出したので、機会を逃したのだった。しかしそれが幸いして、いつも口にすることのない気持ちを盗み聞いてしまった。(心臓が飛び出そう、) その行為も言葉も誠実さしかなく、それが彼の真実であることに心臓が煩いくらいばくばくと鳴っている。ようやく指から唇が離れ、今だとばかりに無明は知らないふりをして目を開けた。「······平気?」「俺は、大丈夫。眠ったら回復したみたい。公子