結婚記念日の朝、松澤安信(まつざわ やすのぶ)は高級ブランド店でピンクダイヤを購入した。
私--山崎紅葉(やまざき もみじ)の胸が高鳴りながら箱を開けると、そこには今シーズンの特典品である真珠のイヤリングが入っていた。
その夜、安信の秘書である林麗奈(はやし れいな)がSNSを更新した。
細い薬指に輝くピンクダイヤの写真。
添えられた文章が目に刺さった。
【最高の運命はあなたとの出会いです】
祝福のコメントが次々と並ぶ。
【麗奈さん、彼氏さんが羨ましい!】
【まさかピンクダイヤなんて!幸せすぎます】
【私もいつかこんな贈り物が欲しい】
箱の中には、ありふれた真珠のイヤリングが一組。まさに今季のトップブランドの購入特典だ。
鮮やかな対照に胸が切り裂かれるような痛みが走った。
クローゼットでシャツを着替える安信が満足げに話しかけてくる。
「紅葉、気に入った?粒揃いの真珠を選ぶのに随分時間かけたんだよ」
スマホ画面に張り付いた視線が震える。指先が冷たくなっていくのを感じた。
返事がないことに気づいた安信が顔を覗き込む。「どうした?好みじゃない?」
七年間共に寝食を共にしたはずの顔が、突然見知らぬ男のように感じられた。
彼は自然な動作で私のスマホを閉じ、イヤリングを手に取ると私の耳元に近寄った。
人形のように無抵抗な私に、彼は満足そうに頷いた。「似合うよ。君にぴったりだ」
「……似合う?」
目を閉じると、喉の奥に鈍い痛みがこみ上げた。「ダイヤの方が良かった」
安信は苦笑いで応じた。「ダイヤなんて贅沢すぎるよ。会社を回すのに精一杯なんだ。次こそ買うから、もう少し我慢してくれないか」
言葉の端々に隙がない。
林麗奈のSNS投稿をふと思い出した。心臓に突然氷水を浴びせられたように、凍りつくほど冷え切っていた。
私への贈り物は粗品で、彼女へは高額なダイヤを。この真珠のように、私たちの絆も色褪せた安物だったのだ。
安信は薄れた期待を瞳に浮かべていた。私は騒ぎ立てるでもなく、ただ淡々と答えた。「ありがとう」
彼はそれだけで満足して寝室を出ていった。
かつてなら、彼は真っ先に私の表情の異変に気づいたはず。なのに今回は、義務を果たすように冷たく距離を取っていった。
震える指でそのSNSのスクリーンショットを保存し、弁護士の番号を押した。
「橋本先生、離婚協議書の作成をお願いできますか」
……
気持ちを整え、着替えて安信と食事に出かける準備をした。
記念日ごとに、彼はロマンチックなディナーを用意してくれる。
まだ出発前なのに、彼の携帯が鳴り始めた。
安信は眉をひそめ、即座に切った。
だが、電話は執拗に続く。
ちらりと見えた発信者名は「林麗奈」——彼の秘書だ。
「出たら?」私が淡々と言うと、「食事中の邪魔はするなって言ったはずだ。麗奈は本当に配慮が足りない」と彼は不機嫌になった。
しかし、彼が麗奈を責めても、私の心は晴れない。
これも私への演技だと分かっているからだ。
「会社の大事かもよ?」
促されるままに彼は電話に出たが、声は険しい。「何度も言っただろう--」
言葉が途切れた。受話器から漏れる嗚咽が、こちらの耳にも届いた。
「安信さん……私、出血して……怖くて……」
瞳が一瞬、揺れた。すぐに平静を取り戻す。
安信の表情が緊張に歪む。ちらりと私の顔色を窺い、厳しく叱責した。
「今日はどんな日か分かってるのか!こんな小事も処理できないなら、お前なんかいらないんだ!また失敗したらクビだ!」
「……今から行く」
罵倒の数々より、最後の一言が本音だった。
電話を切った彼は申し訳なさそうに言った。
「ごめん、紅葉。急な仕事が入って……今夜は無理みたいだ」
食事なんて、どうでもいい。私は軽く頷き、家政婦の山田さんに夕食の支度を頼んだ。
「怒ってるのか?」彼は焦ったように続ける。
「社員の教育がなってない!明日、必ず埋め合わせするから」
嘘をつく顔の皺までが計算ずくに見える。昔はなぜ気づかなかったのか。
彼の献身ぶりに惚れ、実家と喧嘩までして結婚した過去が胸を締めつける。
気づいてしまった真実が、脳裏を殴りつけた。
言葉を返す間もなく、再び鳴り響く着信音。安信は慌てて外へ駆け出した。
ドアがバタンと閉まり、ようやく現実に戻る。
ソファに深く腰を下ろし、記憶を辿った。
林麗奈が秘書になったのは三年前。
あの日から、彼の残業は増えていった。
当初は「人事部の採用ミスだ」と愚痴り、「書類もろくにまとめられない。すぐクビにする」と豪語していたくせに。
三年経った今も、彼女は「首席秘書」の座にいる。
「社会に出たばかりの娘だ。紅葉みたいに恵まれてないんだから」
最近では、私の心配さえ煩わしげに遮られる。
いつの間にか、私が悪者になった。
スマホを開くと、麗奈のSNSに投稿された写真--薬局の男性の後ろ姿。
添えられた文字は【パパと一緒で幸せ】と。
そのフランス仕立てのスーツは、私が選んだものだ。
挑発に反応せずスクショを保存する。
キッチンから山田さんの手料理の香り--今夜はピリ辛風の魚鍋らしい。
なぜか食欲が湧いて、久しぶりに箸を進めた。
翌朝早く、安信が寝室に忍び込むようにして私を起こしに来た。
彼の身にまとった昨日と同じスーツと、安っぽい香水の匂いが鼻を刺す。眉をひそめながら、私は悟った。
徹夜で帰宅しなかったのだ。
今までこんなこと一度もなかった。深夜まで仕事しても必ず帰宅する男だった。
「紅葉がいないと眠れない」と口癖のように言っていたくせに。
自嘲的な笑みが唇に浮かぶ。彼への信頼が揺らぎ始めた。
反応のない私を見て、安信はベッドに腰を下ろす。親しげに私の鼻先を指でつついた。
「ぐうたらちゃん、まだ寝てるの?」
思わず目を見開いた。結婚して三年。この愛称を聞くのは初めてだ。
麗奈専用の呼び名に違いない。
自分でもまずいと思ったのか、安信は慌てて話題を変えた。
「紅葉、君の大好きな海鮮入りの粥を買ってきたぞ。冷める前に食べろ」
食卓に引っ張られると、海鮮入りの粥だけでなく、シュウマイや肉団子、鶏の串焼きにケーキまで並んでいた。
学生時代、彼は毎朝私の寮まで朝食を届けてくれた。寒い日はジャケットの内ポケットで温めてくれるほどで、周囲の女子から羨望の的になったものだ。
いつの間にか、朝食テーブルには私一人の箸音しか響かなくなっていた。
シュウマイを箸で突っつきながら呟く。「鮮度落ちてるみたい。私お腹弱いから……」
安信は焦りを隠し、ケーキを差し出した。「じゃあこれを」
一口かじって顔をしかめる。「甘すぎ。最近糖質制限してるの知ってるでしょ?」
額に青筋が浮かんだが、彼は辛抱強く粥の椀を差し出した。口に含んだ瞬間、吐き出さずにはいられなかった。
「生臭い!」
ついに安信の堪忍袋の緒が切れた。「山崎紅葉!君のわがままにも程がある!朝っぱらから行列に並んで買ってきたものを、これっぽっちもありがたがらないのか!」
「たかが一晩帰らなかっただけだろう?朝からずっと不機嫌な顔して……」
「こっちだって疲れてんだ!家に帰ってまでお前の機嫌を伺うのか!」
激情に震える彼を見て、ふと記憶が蘇る。
先月、麗奈が「社食まずい」と愚痴ったら、安信が即座にシェフを解雇した話。ミシュラン三つ星の料理人を引っ張ってきた時は、彼女がSNSに「社長最高」と投稿していたっけ。
私が尋ねた時は「社員の士気向上のため」と曖昧に誤魔化されたものだ。
確かに人件費はかさむが、社員の定着には役立つだろうと思い、それ以上は問わなかった。
幽霊の存在を信じる方がましだと思ってた。安信が浮気するなんて。
今にして思えば、私は完全に間違っていた。
松澤安信という男は、林麗奈にここまで尽くすのか。
ミシュラン三ツ星のシェフですら、彼女の好みに合わせて料理を作ると聞いた。
安信は麗奈という女に、この世のすべてを捧げるつもりなのだろう。
対して私への扱いはと言えば--
真珠のイヤリングも路地裏の粥も、全て彼なりの「適当」の証し。
安信の怒号を無視し、私は淡々と家政婦の山田さんに言い渡した。
「おかゆを炊き直してちょうだい」
「紅葉は生まれながらのお嬢様で、何でも上から目線だ」
安信が食卓を叩きつける音で思考が遮られた。皿が床に散乱し、粥の汁が絨毯に滲む。
「麗奈のように下積み経験がある人間の価値がわからないのか?屋台の飯がそんなに恥ずかしいか!」
昔なら「まずい」と言えば、彼はすぐに新しい料理を探しに行った。今や私の不満は罵声しか生まない。
差別もここまで露骨か、と眉を吊り上げる。
安信は椅子に押しつけるようにして、充血した目で詰め寄ってきた。
「君、俺のこと……本当に愛してたのか?」
嘲笑が喉元まで込み上げる。
愛してない?実家と縁を切りかけたのは誰のため?
愛してない?コネを総動員してあなたの会社をここまで育てたのは?
口先だけの愛の確認はもうたくさんだ。
彼の問いに無視し、私は冷たい目で彼を見つめながら問い返した。
「あなたに後ろめたいことはないの?」
一瞬、彼の瞳が泳いだ。すぐに高笑いでごまかす。「話が通じねえ……!」
ドアを蹴破るような音が家中に響き渡った。崩れ落ちた朝食の残骸を見下ろしながら呟く。
「チャンスはあげたわ。後悔しないようにね」
安信が立ち去るとすぐに、弁護士の橋本先生から電話がかかってきた。
離婚協議書の準備が整ったとのことだった。私は軽く「うん」とだけ返事をして切った。
かつての結婚式の誓いを思い出す。「もし私が山崎紅葉を裏切ったら、雷に打たれて死ぬ」--今となっては全てが笑い話だ。
以前、私たちが喧嘩をすると、安信はいつもあの手この手で機嫌を取ってくれた。
腹話術の人形を使い、わざと甲高い声で謝罪して笑わせたり、寮の下でギターを抱え、許しを請う歌を延々と歌い続けたり。
そうして私は次第に深みにはまっていったのだろう。
だが今の安信は丸一日消えたきり。
期待しなければ、失望もない。
壁の時計を見上げると、もうすぐ深夜11時。寝支度をしていた時、安信からのメールが届いた。住所だけが書かれている。彼が酔っぱらったのは明らかだった。
一呼吸置いて、車のキーを握りしめ向かうことにした。
だが、バーには予想以上に人がいた。
麗奈は私を見るや、安信から離れるどころか、逆に彼の胸にすり寄った。
「松澤社長、奥様が愛してないなんて嘘でしたわ。電話一本で20分で駆けつけるなんて!」
安信は私に気づいていない。周りの友人たちは私を見て野次を飛ばし始めた。
「山崎さん、社長と結婚する時は泣き喚いて騒ぎ立て、首を吊る真似までしたって話だよ!実家とも絶縁するはめになったのに、『安信以外は絶対嫌だ』って押し通したんだってな!」
「どうやったらお嬢様をここまで惚れさせるんだ?俺にもコツを教えてくれよ!」
「金持ちの恋愛脳、俺も探そうかなあ」
安信は顔を赤くし、麗奈の体に寄りかかって得意げに言い放った。
「あいつが何だ?金があるだけの女だ。しつこく付きまとうストーカーみたいな真似しなけりゃ、誰が相手にするもんか」
「金がなきゃ結婚なんてするか!子供も産めない癖に!」
周囲の嘲笑の視線が私に集中する。彼らが慣れた様子なのが、全てを物語っていた。
私は唇を噛み、拳を固く握りしめて安信を睨んだ。
……本当によくやったわね。
麗奈は挑発的な目で私を見下ろし、安信の耳元で囁くふりをした。
「社長は私の方が好き?それとも奥様?」
安信は人目も憚らず、麗奈の腰を揉み上げ、嬌声を引き出す。
さらに頬にチュッとキスしながら言った。「お前が俺の女だ。紅葉なんてクソ食らえ!」
麗奈の笑い声が高らかに響く。
私は安信の仲間たちの悪口を無視し、彼の前に立ちはだかった。「帰る?」
安信は朦朧とした目で私を見て不機嫌に呟いた。
「紅葉……?男の談合に女が来るなよ。さっさと帰れ……」
今日はいい勉強になった。
麗奈がすかさず声をかける。「社長、こんな時間に女の子一人で帰るなんて危ないです。送ってくださいよ!」
安信は即座に頷いた。麗奈は勝ち誇ったように言う。「紅葉さん、お手数かけますわ」
私は振り返らずに外へ出た。
麗奈は安信を車に乗せ、自分も後部座席に滑り込む。慣れた手つきで安信の頭を自分の肩に預けた。
まるで私を運転手扱いだ。
一連の動作を終え、麗奈はようやく説明を付け加えた。
「紅葉さん、気にしませんよね?社長はお酒を飲むとすぐ酔うんです。私に寄りかかると楽になるから、いつもこうしてるの」
挑発の色が濃い。
ルームミラーに映る麗奈の得意顔を見ながら、私は淡々と言った。
「構わないよ」
そう、気にする必要もない。浮気の証拠なんて、こんなに簡単に手に入るんだから。
安信は肩だけでは物足りないらしく、麗奈の膝枕に体を横たえた。
彼女の手を自分のこめかみに当てながら呟く。
「麗奈は本当に心遣いができる……あの紅葉なんて、金があるから我慢してるだけだ。さっさと捨ててやりたいよ」
ハンドルを握る手が一瞬固まった。
答えはもう分かっていたからか、心は妙に平静だった。
ルームミラーには、麗奈の嘲笑いがくっきりと映し出されていた--
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