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第273話

Author: 風羽
京介はもう一度、舞に視線を向けた。

彼女が起き上がろうとするのを、そっと手で制した。

「ここで寝て。俺が子どもたちを見てくる。妊娠中なんだから、ちゃんと休まないと」

舞は何か言おうとしたが、京介は身を寄せ、優しく彼女に口づけた。

「じゃあ、俺、下で素麺食べてくる」

……

京介が階下に降りると、素麺はすでにのびてひと塊になっていた。

使用人が慌てて言った。

「旦那様、作り直しますね」

けれど京介は軽く首を振った。

「いいよ。肉味噌をもらえる?」

使用人は微笑んだ。

「やっぱり、奥様の手作り肉味噌は、旦那様のお気に入りですね。何年経っても変わらない」

京介も、ごく淡く微笑んだ。

やがて、肉味噌が運ばれてきた。彼は「もう休んで」と言い、使用人を下がらせた。

夜は、まるで墨を流したように深く静かだった。

京介はひとり、ダイニングに腰を下ろし、決して美味しいとは言えない素麺を、ゆっくりと食べ終えた。

そして、片手で煙草を取り出し、火をつけた。

静かに深く吸い込んだ。

体はもう限界を迎えつつあった。

妻と子どもたちのために、今できることを考えなければならない。

もし、運命がほんの少しでも味方してくれるなら——

願乃がこの世に生まれてくるその日まで、自分の命が持ちこたえてくれたら、それでいい。

栄光グループのことはすべて舞に託すつもりだ。

三人の子どもたちは、きっと家族に見守られながら、立派に育っていくのだろう。

成長した姿を思い浮かべるだけで胸が熱くなる。

きっとどの子も、若い頃の自分と舞のように整った顔立ちになるはずだ。

京介の目がじんわりと潤んだ。

——本当は、見届けたかった。

子どもたちが大きくなる姿も。舞が白髪になっていくその様も。

新たな命が生まれる前に、伝えなければならないことが山ほどある。

まずは栄恩グループの株式だ。

彼は自身が保有するすべての株を舞に譲る決意をした。

これから先、舞が実質的な経営権を握り、子どもたちが成長したら、舞の意思で分配すればいい。

だが、京介の心の中には澪安を後継にと考える気持ちが強くあった。

男の子は、妹たちを守るものだと信じていたから。

そして、実はもう一つ伝えなければならないことがある。

夜更け。

京介は静かに子ども部屋に入り、澪安と澄佳の様子を見に行った
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