「黒澤様、ご依頼どおり、あなたと瓜二つの遺体をご用意いたしました。十日後、賀川様とのご結婚式会場へお届けいたします」 受話器の向こうから静かに響いた担当者の声に、黒澤雨音(くろさわ・あまね)は、長らく張り詰めていた神経がふっと緩むのを感じた。 「ありがとうございます。よろしくお願いします」 「いえ、こちらこそ。私どもの責任です。ご安心ください。この遺体に疑念を抱く者は、一人として現れないはずです」 その言葉に背中を押されるように、雨音は小さく息を吐いた。 搬入当日の段取りを改めて念入りに確認した後、通話を終えて静かに個室の扉を開けた。 ついさきほどまで賑やかだった室内は、彼女の姿が現れた瞬間、嘘のように静まり返った。まるで空気そのものが凍りついたようだった。
View More尚弥の声には、かすかに震えが混じっていた。「雨音、本当にもう僕を許してくれないのか?」光希は一切の迷いもなく頷いた。「ええ。絶対に許さない」そう言い放つと、彼女は尚弥の反応など眼中にない様子で、くるりと背を向け、門の中へと消えていった。翌日、彼女は悠真とコンサートに行く約束をしていた。聴覚が正常に戻って以来、光希はあらゆる「音」に特別な愛情を抱くようになっていた。自然のささやき、楽器の音色、人の声——ちょうど悠真はクラシック音楽の愛好家であり、彼と一緒にコンサートへ行くたびに、新しい知識と感動に触れることができた。その頃、尚弥は邸宅の外で、一晩中じっと立ち尽くしていた。昨日、光希が言い放った言葉が、何度も何度も頭の中でリフレインしていた。瑶と初めて関係を持ったときの、あの満足。それは今や、自らに突き刺さる鋭いブーメランとなって返ってきた。それでも、彼はまだ諦めきれなかった。五年という時間を、光希がそう簡単に手放せるとは思えなかった。悠真からのメッセージを受け取ると、光希は小鳥のように軽やかな鼻歌を口ずさみながら階段を降りてきた。階下で食事をしていた美和が、その姿を見てからかうように声をかけた。「この前は『もう会いたくない』なんて言ってたのに、今じゃ毎日でも会いたそうな顔してるじゃない。あの子どもの頃の婚約、現実になる日も近いかもね」二人は明らかにただの友達でしかなかった。けれど、なぜかその一言に、光希の頬はふわりと赤く染まった。「ママ、私たちはただの友達よ!」そう言い残し、彼女は弾むように外へ駆け出していった。今日のコンサートはとても貴重なチケットで、しかも悠真が大好きなチェリストも出演するという。玄関を出たその瞬間、光希は傍らでじっと立ち尽くす尚弥の姿を認めた。だが、あたかも見なかったかのように、彼女はまっすぐ悠真のもとへと駆けていった。悠真は手に持っていたサンドイッチを、ごく自然な動作で彼女に差し出した。「うちの母が、君にってわざわざ作ってくれたんだ」光希はそれを受け取り、一口かじると目を輝かせた。「やっぱり瞳おばさんの味は最高!」「早く行こう。もうすぐ始まっちゃう」「ねぇ、今日の演奏者って、他に誰が出るの?」……尚弥は、ただその場に立ち尽くし、遠ざかって
その一言で、尚弥の世界は音もなく崩れた。たった一言。けれど、それは鋭く心を貫き、血の気を奪うのに十分すぎた。彼には、理解できなかった。五年間、あれほど深く愛し合い、笑い合い、寄り添ってきたのに。なぜ彼女は「後悔している」と口にしたのか。そして、あの過去形——「愛していた」それはつまり、もう愛していないという意味なのか?そんなはずはない。いや、あってはならない。まだたったの一ヶ月しか経っていない。彼女の愛が、こんなにも簡単に消えるはずがない。きっとまだ怒っているだけ。まだ彼を許していないだけ——そう思いたかった。尚弥はわずかな望みにすがるように、そっと彼女に近づき、その手を取ろうとした。しかし——光希は、瞬時に一歩引き、彼との間に確かな距離を取った。拒絶の意志が、その動作ひとつに宿っていた。その冷たい反応に、尚弥はわずかに顔を歪めたが、すぐに懇願するように言葉を継いだ。「光希……違うんだ。本当に、誤解なんだ。説明させてくれ、お願いだ。信じてほしい。俺の心は最初から、今もずっと……君だけを愛してる。桐谷には、本気なんて一度もなかった頼む……俺と一緒に戻ってきてほしい。もう絶対に他の女なんて近づけない、誓う。君だけを愛する。そして……今度こそ、君のために盛大な結婚式を挙げよう。世界中に、君への愛を誓うよ」その目に浮かんだ光は、希望か、救いか、それとも最後の足掻きか。だが光希は、まるで何も聞こえなかったかのように、表情ひとつ変えず、ただ冷たく見下ろした。「五年前、あなたも同じことを言ってたわね。私だけを愛するって。でも現実はどう?裏切って、他の女を選んだじゃない?もう、あなたの言葉を信じない。そして、決して許さない!……帰って。もう、二度と私の前に現れないで」最初に彼の裏切りを知ったとき、彼女は本当に苦しかった。心が千切れるほど、痛かった。けれどその後も、変わらぬ態度で彼が優しく接してくるたび、一瞬だけ、心が揺れたこともあった。もし見なかったことにして、このまま結婚すれば、少なくとも表面上は、幸せなままいられるかもしれない。だが。重ねられる嘘、幾度も目にした、瑶との密会——彼女の心は、決定的に折れた。もう、無理だった。何もなかったふりなんて、できなかった。見な
ニュース画面の中に、その面影を見つけた瞬間——尚弥の心臓は、一気に高鳴った。それは、死んだはずの人だった。彼は迷うことなく、すぐに人脈を総動員した。あの人物が、誰なのか。どこにいるのか。どうして生きているのか。朝倉家は海外を拠点とする名門。情報の壁は厚く、国内からではなかなか核心にたどり着けなかった。そして半月後。彼はようやく一つの名前に辿り着く。——朝倉光希。その名前を資料の中で見た瞬間、彼の目が止まった。発表パーティーの写真に写る女性。その姿を見た瞬間、尚弥は確信した。たとえ名前が変わろうと、身分が変わろうと、それが雨音であることに、一片の疑いもなかった。彼はすぐに朝倉家の住所を突き止め、航空便を最短で手配し、一路イギリスへ。機内で彼は、何度も彼女との再会を想像した。きっと彼女は怒っているだろう。口をきいてくれないかもしれない。——それでもいい。生きてさえいてくれれば、それだけで。あの日、彼女が棺の中にいた「死体」だったと信じた瞬間、彼の世界はすべて崩れ落ちた。今ならわかる。自分の人生には、雨音が必要不可欠だったのだと。謝罪しよう。誠意を込めて、過ちを認めよう。もう二度と、他の誰にも心を奪われたりしない。許してくれるなら、今度こそ世界一の結婚式を挙げよう。全てを取り戻そう。だが、現実は——それ以上に残酷だった。彼が庭園の影から目にしたのは、彼女の隣で楽しそうに談笑する、見知らぬ男の姿。二人は笑い合い、肩を並べて語り合い、時が経つのも忘れているようだった。尚弥は、壁の陰からそっとそれを見ていた。まるで、誰かの幸福を盗み見している卑怯な盗人のように。けれど、背中だけでもわかる。それは、どれだけ年月が過ぎようとも、自分が追い続けた人の姿だった。その想いが胸を圧し潰す直前、彼の喉から、ずっと呼びたかった名前がこぼれた。「雨音……!」声は震えていた。涙が滲み、視界が揺れる。「雨音、生きてたんだ……!やっと、やっと会えた、夢じゃない。君は本当にここにいる……!」彼は、その隣に立つ男の存在すら、視界に入れていなかった。その声を聞いた瞬間、光希は静かに、深く、息を吐いた。——いつか、この瞬間は来ると分かっていた。棺に偽装した亡骸では、永遠に彼を
光希は、美和の手に優しく包まれながらも、どこか浮かない顔をしていた。母の声は優しくもあり、少しばかり強引でもある。「光希、ママが保証するわ。本当に素敵な子なの。一度だけでいいから会ってみて。もし合わなかったら、そのときはちゃんとママが断るから。ね?」実家に戻ってきて、最初に直面したのが「赤ちゃんの頃の婚約」だったとは。光希は思わず苦笑するしかなかった。それは、彼女がまだ生まれる前の話。美和とその親友が同じ時期に妊娠し、もし一人が男の子で、もう一人が女の子だったら将来結婚させよう。同性なら兄妹のように育てよう——そんな微笑ましい約束から始まった縁。やがて二人の子どもは見事に男女で生まれ、「これで私たち、親友から親戚になれるのね」と、二人は胸を躍らせていた。しかし、運命のいたずらで光希は誘拐され、この約束は自然と消えてしまった。それが今になって再び、母たちの間で持ち上がったという。相手の男性も独身、ならば一度再会の場を——と、ふたりの母親は再びその「約束」に夢を馳せたのだ。だが、光希にとって恋愛はまだ遠い存在だった。五年続いた苦く重い恋が、心の奥に残した傷はまだ癒えていない。それを母に話すつもりはなかった。余計な心配をかけたくなかったし、あの頃の記憶を、家族の中に持ち込みたくなかった。だから、一度だけなら——と、彼女は小さく頷いた。「会うだけなら……」それで納得した母は、早速スケジュールを組み始め、あれよあれよという間に、当日の夕方、朝倉家の別荘でディナーが決まった。さらには専属のメイクアップアーティストまで呼んで、髪も服もばっちり整えられる。光希は、ただされるがままに鏡の前に座っていた。だが、まさか。「……あなた?」「……君!?」顔を合わせた瞬間、互いに驚きの声を上げた。視線の先にいたのは、まぎれもなく―佐久間悠真(さくま・ゆうま)。目が合ったその瞬間、時間が止まったようだった。お互いの記憶の中にある姿が、現実と重なる。二人の様子を見た美和と悠真の母親の佐久間瞳(さくま・ひとみ)は、すぐに察したように視線を交わし、「ちょっとお茶を入れてくるわね」と、さりげなくその場を離れていった。残された広い庭には、微妙な空気が流れる。その沈黙を破ったのは、悠真だった。「黒澤さん……いや、朝倉
綾乃は、やつれきった尚弥の姿を見つめ、胸が締めつけられるような思いだった。頬はこけ、目には生気がなく、まるで魂が抜け落ちてしまったかのよう——そんな息子の姿に、ただただ心を痛めるしかなかった。「尚弥、お願いだから、少しでもいいから、何か口にしてちょうだい……」けれど彼は、まるでこの世の音が届いていないかのように、じっと黙ったまま、自分だけの世界に閉じこもっていた。本音を言えば、綾乃は耳の聞こえない雨音を息子の嫁として受け入れることに、最後まで納得していなかった。だが、息子がそこまで惚れているのなら……と、仕方なく頭を下げた。上流階級の夫人たちに、「嫁が聾だなんて」と陰で笑われるのは、絶対に嫌だった。それが理由で、夫と共に「出張」という建前で、結婚式への出席を回避した。けれど……たった二日家を空けただけで、賀川家は音を立てて崩れ始めた。雨音の突然の自殺、式場に届けられた棺。息子の不倫スキャンダルが一気に広まり、株価は暴落。そして今、息子は抜け殻のように、ただ座っているだけ。綾乃にとって、そのすべての責任は雨音にあった。——この世界で、外に愛人の一人や二人持っていない男なんている?どうしてあの子だけが、それを受け入れられなかったの?苛立ちが声に滲み出る。「尚弥……雨音さんの死は、あなたのせいじゃないのよ。もし、もう少し大人だったら、こうはならなかったはずよ」その名前にだけ、尚弥の身体が微かに反応した。そして、かすれた声が、ぽつりと漏れる。「母さん、俺が裏切ったんだ。約束を破った。雨音を、俺が……殺したんだ。だから、俺は償わなきゃ……」久しぶりに対面した息子の姿に、博文の眉間がぎゅっと寄った。荒れ果てた精神、沈み切った気力。そして、刻一刻と迫る会社の危機。抑えていた怒りが、ついに爆発する。破れたままのウェディングドレスをつかみ、ゴミ箱に投げ入れる。そして、拳を振り上げる代わりに、指先で息子を激しくなじった。「雨音と結婚するって言い出したのは、お前だろ!愛人を囲ったのも、お前の意思だ!誰に強制されたわけでもない!その結果がこれか?自分で選んだ道に、自分で潰れて、今さら何を見せてるつもりだ!」父が叱る理由を、尚弥もわかっていた。ただ、彼にはもう、何も響かなかった。——あ
イギリス。光希——いや、これからは「朝倉光希(あさくら・みつき)」。彼女は目の前にそびえるお城のような邸宅を見つめながら、まるで夢の中にいるかのような気分だった。まさか、ただの海外旅行のつもりだったのに自分の「本当の両親」と、こんな形で再会するなんて。飛行機の中、隣に座っていた貴婦人が、なぜか何度も彼女の顔を見ていた。礼儀として挨拶を交わすと、自然に会話が始まった。貴婦人はイギリスに住む日本人で、今回の帰国は、26年前に行方不明になった娘を探すためだと語った。長年、夫婦で海外に住みながら事業をしており、次女が生まれたのはちょうど正月で日本滞在中のこと。1ヶ月経ったらイギリスに戻るつもりでいたが、出発前日、娘が忽然と姿を消した。すぐに警察に届け出て、友人にも捜索を依頼したが、1ヶ月探しても手がかりはなかった。警察からは「誘拐の可能性が高く、発見の見込みは極めて低い」と通告された。滞在期限も迫っており、夫婦は涙を飲んでイギリスへ帰国せざるを得なかった。けれども、二人はあきらめなかった。それから毎年、同じ街に1ヶ月滞在し、情報を集め続けた。国内の友人にも捜索を依頼し、今年で26年目になる。周囲の人々から「もう諦めるべき」と何度も言われたが、それでも希望の灯は消さなかった。今回も何の手がかりもなく帰国するところだった―ただ、光希を見た瞬間、不思議と心が揺れた。光希も、その貴婦人にどこか懐かしい温もりを感じ、思わず自分の身の上を語ってしまった。彼女が孤児であり、しかも行方不明の娘と同じ都市の出身だと知った瞬間、貴婦人の目に光が宿った。手を取って「もしよければ、下りたらDNA鑑定をお願いできませんか」と言われ、隣にいた夫の真剣な眼差しにも背を押され、光希は自然と頷いていた。空港に着くや否や、二人は一番早く結果が出る機関へと車を走らせた。不安に包まれながら結果が出るまで待った。光希は、まさしく、彼らが26年間探し続けてきた娘だった。その瞬間、夫婦は彼女を力いっぱい抱きしめ、こらえきれないほど泣き崩れた。そして光希も、ようやく知ったのだ。自分は、誰にも望まれなかった存在なんかじゃなかった。自分を、ずっと、ずっと愛して、探し続けてくれた人たちがいたのだ。両親は彼女に尋ねたうえで
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