雅樹はベンチから立ち上がる事が出来なかった。手元に戻って来た深紅の指輪、その感触に胸が締め付けられた。
(..............一旦白紙に戻して下さい、お願いします)
あれはもう二度と 叶 木蓮 と会わない、叶家との縁を断ち切る事を意味していた。睡蓮と結婚すれば木蓮とは生涯親戚付き合いを続ける事となり、やがて木蓮が見知らぬ男と結婚し家庭を築く姿を目の当たりにしなければならない。そんな事は耐えられなかった。
(なんでだよ)
それならばいっその事、他企業の子女と見合いをして和田の跡取りとして生きる道を選ぼうと両親に願い出たがそれは受け入れられなかった。
(分かってるよ)
県内で叶製薬株式会社ほど老舗で今後の発展が見込める企業はなく、和田医療事務機器株式会社にとってこの縁談を逃す手は無かった。
「おまえは和田の後継者なんだぞ」
「分かってるよ」 「頼んだぞ」 「分かってるよ」木蓮と出会う前は誰でも良かった。仲人が 叶睡蓮 と 叶木蓮 の見合い写真と釣り書きを持って来た時も「同じ顔じゃないか」「茶道に華道、こっちの方が和田に合いそうだな」と自身もそう思っていた。それは全くの見当違いだった。
ピッ
車のルームミラーを覗くと口元に赤い線が付いていた。木蓮に口付けた時の名残りだ。雅樹は口紅の跡を拭う事も惜しく、唇に触れた感触と温もりを反芻した。
(..............木蓮しか考えられない)
革のハンドルに額を預けた雅樹は物事が思うように進まない現状に苛立ちを感じた。フロントガラスに雨が打ち付け始めた
「ただいま帰りました」
玄関の扉を開けるとベージュ色のパンプスが揃えられていた。リビングから機嫌の良い父親の笑い声、普段よりも高い声色の母親の話し声が聞こえて来た。
(来客か...........えらい賑やかだな)
夕飯時に訪ねて来る客も珍しい。ビジネスバッグを階段に置き、扉を開けた雅樹は気が動転し一歩後ろに退いてしまった。
(........も、木蓮)
いや、違う。髪は亜麻色で仕草も柔らかく丁寧だ。
「睡蓮さん.........どうして」
「どうしたもこうしたも、婚約者が遊びに来たんだ嬉しいだろう」 「ちょ、父さん」こう度々睡蓮の前で「婚約者が」「婚約者だろう」と発言されると両家の親たちが睡蓮との結婚を外堀から埋めているようで雅樹は気が気では無かった。しかもそれを耳にする睡蓮の頬は赤らみとても嬉しそうだ。
(困ったな)
そこで雅次が木蓮の口紅に気が付いた。
「ん、なんだ。雅樹、おまえ口の周りが赤いぞ」
睡蓮の目の前で指摘され心臓が跳ね上がった。
「あ..........と、差し入れで食べた飴かな。顔洗って来る」
「そうしなさい」そう言って頭を掻く雅樹の仕草ひとつにも睡蓮は微笑んでいる。
「いやぁ睡蓮さん、幾つになっても子どもみたいでお恥ずかしい」
「いえ、そんな事はない.........です」その後、睡蓮が持参したロールキャベツが食卓に並んだ。確かに料理の腕は確かだ。母親の味付けより薄味だが素材の味が活きている。雅樹は素直に感嘆の声を上げた。
「うまい!」
「雅樹さん、美味しいと言いなさい。失礼でしょう」 「いえ、喜んで頂けて............嬉しいです」「睡蓮さん、本当に美味しいよ!お代わりある?」
「あー父さんの分をやるから、本当に子どもみたいだな!」
「また...........また作って来ます」 「ありがとう」お礼の言葉を口にした雅樹は我に帰った。これも両家の作戦だったのかも知れない。なにやら父親がほくそ笑んでいる様に見えた。
(あれか、先ずは胃袋を掴めって事か)
まんまと策にはまった雅樹は皿に並んだ湯気の上がるロールキャベツと睡蓮の面差しを見た。確かに似ている、瓜二つだ。
(木蓮が、ロールキャベツ)
あの木蓮がここ迄芸達者であるとは到底思えない。
(..............はぁ、勘弁してくれよ)
両家の両親は睡蓮推しでその勢いは止まらず睡蓮もその気になっている。このまま中途半端な付き合いを続ければいつか睡蓮を傷付けてしまう。
(木蓮の気持ちも分かんねえし)
雅樹は袋のネズミの心持になった。
「それでは失礼致します」
「また遊びに来てね」 「気を遣わなくても良いですから手ぶらでいらして下さい」 「ありがとうございます」バタン
食後の珈琲を飲み終える頃には21:00を過ぎていた。必然の流れで睡蓮は雅樹が運転する車の助手席に座った。雨は本降りでワイパーが激しく左右に動き、ボンネットで水煙を挙げる雨は煩かった。
(...............)
然し乍ら車内は静まり返っていた。
(.............なに話して良いか分かんねえ)
木蓮とは勝手が違う瓜二つの顔を持つ睡蓮。その対処に困った雅樹は思わずため息を漏らしてしまった。
「あ............すみません!今日は仕事が忙しくて!」
「そんな時に送って頂いて...........すみません」 「いえ」 「ありがとうございます」 「はい」そしてまた会話が途切れる。テールランプの流れに乗っている時は誤魔化せるが赤信号で停車した途端に気まずくなる。
(確かにそうかもしんねぇけど)
同僚は「見合い結婚なんてそんなもの」「条件が揃った相手を段々好きになるんだよ」と照れ臭い顔で笑った。それはそれで幸せなのだろう。
(そんなタイプの人間も居るよな)
睡蓮は如何にも見合いで結婚するタイプの女性だと思った。
(あいつは...........違うよな)
そこで視線に気が付いた。睡蓮の目がまるでお見通しと言わんばかりに雅樹の横顔を見つめていた。
「ど、どうしましたか」
「雅樹さん」それは今まで聞いた事の無い力強い声だった。
「私.........諦めませんから」
「なにをですか」 「私..........雅樹さんと結婚するつもりでいます」前言撤回、睡蓮も実は木蓮のように力強い側面を隠し持っていた。
「は、はい」
「私..........負けませんから」 「誰にですか」 「木蓮です」 「え」叶家の門構えが見えて来た。この坂は道幅が狭く車で上る事が出来ない。ブレーキペダルを踏んだ雅樹は睡蓮の予想外の言葉に焦りながら、後部座席から取り出した雨傘を広げた。助手席のドアを開けるとベージュのパンプスが車から降りた。
「今日はありがとうございました、ロールキャベツ美味しかったです」
「....................はい」 「送って行きます」その時、雅樹の背広を掴み爪先立ちをした睡蓮が、その唇を奪った。もしかしたら雅樹の唇に付いていた赤色が木蓮の口紅の跡だと気付いていたのかも知れない。
「..........えっ」
「私、負けませんから!」そう言うと睡蓮は雨の中を走り去った。雅樹は呆然としてその背中を見送った。
「勘弁してくれよ」
ただ大人しく両親の言いつけを守り、周囲に流されているだけだと思っていた睡蓮の豹変で見合い結婚がまるで恋愛の三角関係の程を成して来た。
睡蓮は雅樹を想い、雅樹は木蓮に恋焦がれ、木蓮は、木蓮は...............雅樹はアクセルペダルを踏んだ。荘厳なパイプオルガンが響きマホガニーの扉が大きく開いた。蓮二の肘にウェディンググローブの指を添えた木蓮が深紅のバージンロードを静々と進んで来た。胸元が大きく開いた白銀のウェディングドレスは腰から裾に掛けてリボンが折り重なり、ヘッドドレスにカサブランカの白い花弁が咲き乱れた。「汝、和田 雅樹は、この女、叶 木蓮を妻とし、良き時も悪き時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分つまで、愛を誓い、妻を思い、妻のみに添うことを、神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますか?」「誓います」「汝、叶 木蓮は、この男、和田 雅樹を夫とし、良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分つまで、愛を誓い、夫を思い、夫のみに添うことを、神聖なる婚姻のもとに、誓いますか?」「誓います」 左の薬指に輝くプラチナの結婚指輪。荘厳なパイプオルガンが2人の門出を祝う。雅樹の離婚から3ヶ月という事もあり結婚式は近しい身内だけで挙げた。「返して」 木蓮が新居のマンションに移り住む荷造りをしていると部屋の扉が音を立てた。その声は睡蓮、扉を開けると仁王立ちでこちらを睨んでいる。木蓮が何事かと怯んでいると睡蓮は無言で手を差し出した。「な、なによ」 「返して」 「なにを」 睡蓮は段ボール箱から顔を出した焦茶のティディベアを指差した。「なに、あんたもう要らないって投げ付けたじゃない」 「九州に連れて行くから返して」 「分かったわよ、ちょっと待ってなさいよ」 木蓮が後ろを向いてしゃがみ込むと背中に温かいものを感じた。「ありがとう」 睡蓮が木蓮の背中を抱きしめていた。「ちょっ.......ちょっとやめてよ、恥ずかしい!」 「ありがとう」 「なんの事か分かんないけれど........どーいたしまして」 涙が背中を伝いしんみりしていると睡蓮は突然立ち上がった。「.......返して」 「なに、まだなんかあるの」 「そのくま、返して」 その指はベージュのティディベアを差していた。「なに、あんた執念深いわね」 「それは私のティディベアなの」 「はいはい、ベージュと焦茶抱えて九州に行きなさい」 木蓮はダンボールの奥からベージュのティディベアを取り出すとポンポンと形を
睡蓮と雅樹は菓子折りと離婚届を手に車を降りた。雅樹の顔は強張り無表情、足の動きも不自然で右手と右脚が同時に動いた。駐車スペースには伊月のBMWが駐車していた。「雅樹さん、そんなに緊張しないで」「そうだけど」「もうお父さんとお母さんには話してあるから」「そうなんだ」「さっきも言ったでしょう、聞いていなかったの!?」 離婚を決めた女は強い。すっかり形勢逆転で睡蓮は虎の威厳、雅樹は借りてきた猫状態だった。「ただいま!」「あらまぁ、睡蓮さんお久しぶりです。さぁさ、和田さんもお入り下さい」 お手伝いの田上さんがスリッパを並べてくれたが雅樹は緊張のあまり足を引っ掛け床に倒れ込んだ。その音に驚いた木蓮が顔を出した。「あんた、なにやってんの!」「お邪魔します」「雅樹さん、先に行きますね」 睡蓮は雅樹に手を貸す事も無く廊下を歩いて行った。玄関の上り口で膝を強打した雅樹は痛みに顔を顰めている。それを仁王立ちで見ていた木蓮は右手を差し出し「掴まって」と眉間に皺を寄せた。「ありがとう」「なにあんた、2ヶ月で離婚とか甲斐性無しね」「誰のせいだと」「誰のせいよ」「......俺のせいだよ」「ほら、行きなさいよ!」「お、おう」 立ち上がった雅樹はリビングに進み土下座をして「申し訳ございませんでした!」とペルシャ絨毯に頭を減り込ませた。「まぁまぁ、雅樹くん、顔を挙げてほら、座りなさい」 穏やかな声に安堵して見回すと、蓮二、美咲、木蓮、伊月がソファに座っていた。気が付くと睡蓮も雅樹の隣で正座し深々と頭を下げていた。「お父さん、お母さん、この度はご心配ご迷惑をお掛け致しました」「なにを言っているんだ」「そうよ、私たちが結婚を急かせたのが悪かったのよ」 蓮二と美咲は頷き、2人にソファに座るように手招きをした 雅樹はソファに腰掛けたもののその居心地の悪さに尻が落ち着かなかった。気配を察知した睡蓮がテーブルの下でその手
明日、和田家で離婚に至った経緯や財産分与について話し合う事になった。次に実家の両親に離婚の理由を納得して貰う為、なにひとつ隠す事なく洗いざらい打ち明けなければならない。(.......恥ずかしい) 確かに見合いの席で雅樹に心を奪われたが真剣に結婚を望んだ訳では無かった。(どうかしていたわ) 雅樹が木蓮を選んだと知った時、激しい嫉妬心が芽生えた。(愚かすぎるわ) 結婚前、いや結納前から雅樹とは性が合わない事を肌で感じていた。それにも関わらず木蓮に負けたくない一心で縁談を進めた。(馬鹿じゃないの) 雅樹は睡蓮を気遣い優しい言葉で話し掛けてくれた。ところが睡蓮はいつもそこに木蓮の気配を感じ刺々しい言葉遣いや態度を取ってばかりいた。(勝手よね) そして木蓮への当て付けの様に結ばれた雅樹との夫婦生活は2ヶ月程度で破綻、しかも離婚届を雅樹に叩き付けたのは睡蓮自身からだった。(都合良すぎるわ) ただそこに伊月が現れなければ睡蓮は苦虫を潰した様な面持ちで、雅樹と殺伐とした結婚生活を送っていたに違いなかった。(軽蔑されるわ) 伊月の背中を追って九州に行きたいと言い出したら両親は嘆き悲しみ、木蓮には蔑まれるに違いなかった。(最低だわ) 睡蓮は自分の身勝手さがどれ程の人間を傷付け、これからも傷付けてゆくのかと自分自身を責めながら夜明けを迎えた。 睡蓮と雅樹の名前が並んだ離婚届を見た雅次と百合は言葉を失った。睡蓮の左の薬指に結婚指輪は無く、目の前の出来事が事実である事を示していた。「雅樹、これは如何いう事なの」 「それが、俺も昨日突然」 「私たちが跡継ぎの事を言ったからか?」 睡蓮は深々と頭を下げ違うとだけ答えた。「雅樹.......睡蓮さんと.......あの」 「睡蓮さんと関係が無いというのは本当なのか」 雅樹は視線をテーブルに落とし小さく頷いた。「なんで、なんでこんな事に!叶さんとの約束が反故になるじ
睡蓮は出勤する伊月の車に同乗し金沢大学病院を受診した。ピンポーン 「115番の方6番診察室までお入り下さい」 睡蓮の足は震えていた。伊月の書いた紹介状は女医の手に渡った。「えーー、叶 睡蓮 さん」 「はい」 「呼吸器内科の田上医師からの紹介状を頂きました、産科婦人科の森田です。以降担当させて頂きます」 生まれて初めて座る産科婦人科の椅子には程よい硬さのドーナツ型クッションが置かれていた。「よろしくお願い致します」 「はい、よろしくお願い致します」 ベリーショートヘアの溌剌とした雰囲気は木蓮を連想させた。「今回はどうされましたか」 「難病性気管支喘息患者の妊娠出産についてです」 「叶さんも、あぁ.......そうですね」 「はい」 元町はパソコンモニターの前でマウスをクリックした。程なくして睡蓮の通院履歴と病状、処方箋の一覧が表示された。「通院歴は...........長いですね」 「大丈夫でしょうか」 「発作も頻繁に起きていますね」 「はい」 規則的にリズムを刻む機械音、白い壁、行き交う看護師、医師の白衣。睡蓮にとって見慣れたはずの光景が全く違って見えた。「そうですか」 「内診致します。専用の下着を履いてお掛け下さい」 「はい」 壁一枚隔てた隣の診察室からは胎児が順調に育っていると診断され安堵する妊婦の声が聞こえて来た。背後に感じていた待合室の音が消えた 何処までも青い空、白い雲、睡蓮は大きく息を吸い込み和田家母屋のインターフォンを鳴らした。睡蓮の目の前には職務を切り上げた雅次がソファーに浅く腰掛け、震える指でカップソーサーをテーブルに置く百合の姿があった。「ブライダルチェックを行わなかった私の不注意でした」 「そんな..........ちゃんと調べたの」 睡蓮は深々と頭を下げたまま微動だにしなかった。「うちの跡継ぎはどうなるんだ」 「申し訳ございません」 「この事は雅
暗闇でタクシーのハザードランプが点滅する。「ありがとう」 12階建のマンションを仰ぎ見る木蓮のショルダーバッグには810号室の鍵が入っていた。正面玄関エントランスで「8、1、0」のボタンを押すと雅樹の声がしてガラス扉が左右に開いた。(後悔はない) エレベーターホールに立つ木蓮の脚は震えていた。 街灯の灯りの下でタクシーのハザードランプが点滅する。「ありがとうございました」 山茶花の垣根を折れると5階建のマンションが小高い丘の上に建っていた。睡蓮の手には一泊分の旅行鞄、505号室のカーテンは開き逆光の中で伊月が睡蓮を待っていた。「5、0、5」のボタンを押すとガラスの扉が左右に開いた。(後悔はしない) エレベーターホールに立つ睡蓮はその箱の中に足を踏み入れた。 810号室、見上げたネームプレートにはWADAの4文字、最初に来た時には気付かなかったが木製のプレートにはヨットの模様が彫られていた。(.........セーリングが趣味だとか言っていたわね) 重い音が解錠を知らせ木蓮の心臓が跳ね上がった。「.......よう、久しぶり」「........よう、久しぶり」 雅樹の首元に残る柑橘系の爽やかな香りが木蓮を包み込み胸が締め付けられた。あの情熱的な夜を思い出す悲しさ。「入らないのか」「これ..........返しに来ただけだから」「そうか」 木蓮はショルダーバッグから810号室の鍵を取り出すと差し出された雅樹の手のひらに置いた。心許ない金属音が耳に残った。「じゃあ」「じゃあ」 木蓮は雅樹を振り返る事もなく背を向けた。愛おしい女性の後ろ姿を見送った雅樹は音もなく玄関扉を閉めた。力が抜けその場に座り込むとハタハタと涙が溢れて落ちた。カツカツカツと遠ざかるパンプスの足音。(..........木蓮) 耳を澄ませばエレベーターの扉が閉まるベルまで聞こえるような絶望感に襲われた。
白い部屋、眩しいLEDの蛍光灯、注射台の上に肘を着けた睡蓮は思わず顔を背けた。その苦々しい面持ちに注射針を腕に刺しながら看護師が笑った。「睡蓮ちゃんは本当に採血が苦手なのね」「血を見たく無いんです」「ほーら、どんどん採っちゃうわよ」「やめて下さい」「ほーら」「やめて下さい」 睡蓮と看護師が遠慮なく遣り取り出来るのは、睡蓮が如何に長期間この呼吸器内科に通院しているかを物語っていた。物心ついた頃にはこの部屋で吸入器を口に当て、レントゲン室の待合の椅子に座り、泣きながら採血を受けた。「あれ?おじいちゃん先生は?」 高齢の主治医は大学の教授になり目の前の椅子には幼馴染の《伊月ちゃん》が座り聴診器を胸に当てていた。「睡蓮さん、今日から私が睡蓮ちゃんの主治医ですよ」 伊月は喘息を患う睡蓮を助けたいが為に金沢大学医学部を目指し医師の資格を取得した。睡蓮が高等学校を卒業して以来の6年間を伊月は睡蓮の主治医、家庭医として寄り添って来た。「でも睡蓮ちゃん、残念よね」「......え、なにが残念なんですか」「田上先生、九州の大学に転勤になるんですよ」「.....転勤、転勤ですか!?」「そう、九州大学、栄転ね」 睡蓮は隣室で診察をしている伊月に向き直り、カーテンを思い切り開けてそれが事実なのかと問いただしたい感情に駆られた。「あっ!」 気が付けば椅子から立ち上がり、血管の壁を注射針が突いていた。「イタっ!」「あっ!駄目ですよ!動かないで!」「ごめんなさい」「痛かった?ごめんね、内出血するかもしれないわ、ごめんね」「いえ、私が悪いんです」 そしてこの突然の転勤については叶家でも頭痛の種となっていた。「まさかこんな早くに転勤になるなんて」「木蓮、伊月くんからなにか聞いていたのか?」「.......聞いて、ない」 木蓮も予想外の出来事に戸惑った。