ナフィーラは静かにエイルの手を取った。その手は冷たく震えていたが、確かに“希望”を握って戻ってきたのだ。「ありがとう、エイル。……あなたでなければ、見つけられなかった光です」ナフィーラの声は凛としていた。だが、その瞳の奥には、深い哀しみと、それを上回るほどの決意が宿っていた。彼女は立ち上がると、祈りの間の奥へと歩を進める。そこには、歴代の巫女でさえ、生涯で一度触れるかどうかも分からない、禁断の「観月の祭壇」へと続く封印の扉があった。「……ナフィーラ様。まさか、“あれ”を――」 エイルの声が、驚愕に震える。ナフィーラは静かに微笑むと、まっすぐ前を見据えた。 「巫女としての私が滅びてもいい。けれど、女として――愛した人を見捨てることだけはできない」「観月の祭壇」は、女神セレイナの加護が最も強く満ちる場所であると同時に、女神の対極に存在する“闇”を観測し、封じるための最も危険な場所。光の存在が自らの魂を危険に晒すことなく、闇に干渉するための禁じられた儀式の場だった。「はい。あの光がある限り、彼を救える道は、まだある。けれど、それには――私自身が、彼の闇に触れなければならない」ナフィーラは静かに振り返る。その横顔は、もはや神の言葉を待つだけの巫女ではなかった。「神託の巫女としてではなく、一人の女として。あの人を、信じ、追い、赦しに行きます」エイルは何も言えなかった。ただその姿に、まばゆいほどの覚悟と――絶望的なまでに深い、愛を見た。ナフィーラが扉に手を触れると、古の封印が解かれ、重い石の扉が音もなく開かれていく。その向こうにあるのは、聖なる者が決して足を踏み入れてはならない領域。自らの魂を、意図的に闇へと同調させるための道。それでも、ナフィーラは迷いなく踏み出した。それが、かつて交わした“魂の契約”を果たすためであり、何よりも、自分の愛を、自分の手で終わらせないためだった。(――待っていて、カイル)(たとえどれほど穢れていようと、私はあなたを見失わない)薄暗い通路の奥へと、ナフィーラの祈りの衣が、光の残響を残して消えていった。観月の祭壇は、冷たい静寂に包まれていた。中央には、夜空の闇をそのまま切り取ったかのような、黒曜石の水盤が置かれている。ナフィーラがその水盤に手をかざすと、水面が揺らめき、エイルが見た“堕落の次元層”の光
エイルが祈りの間を辞去すると、その姿はまるで影に溶けるように消えた。 向かった先は、大神殿の地下深く――古の時代より封じられている、「境界の祭壇」。 そこは、光と闇、現実と異界の境界が交差する、唯一無二の聖域。 “渡る者”の名を持つエイルだけが、この空間を開く資格を持っていた。祭壇の中央に立ち、静かに目を閉じる。 精神が肉体を離れ、意識が高次の領域へと昇っていく。 その額に刻まれた、ナフィーラから授かった聖印が白く発光し、異界への“門”を照らす灯台となる。(……見えた)常人には感知できない、異界の裂け目。 そこから漏れ出すのは、魂を甘く腐らせる“呪香”―― ここが、カイルが囚われている「堕落の次元層」だった。エイルは一瞬の躊躇もなく、異界の裂け目に身を投じた。瞬間、世界が反転した。 色も音も、感覚そのものが毒のように彼の魂へ襲いかかる。 紅蓮と紫紺の渦が、彼の内に潜む恐れや焦燥、無価値感を露わにしようとする。 リゼア=アナの誘惑――だが、エイルの額に輝く聖印がそれを焼き払う。その目に映った“真の次元”は、もはや甘美などではなかった。 空間に漂うのは、無数の堕ちた魂の残骸。 血と涙が染めた虚ろな色彩。快楽の香りに紛れて聞こえるのは、魂が崩壊する断末魔の囁き―― それは、地獄そのものだった。(……これが、神に背きし者の果てか)気配を殺しながら、最深部へと進む。 やがて――欲望と支配の瘴気が濃密に渦巻く中心にたどり着いた。そこには、金銀財宝を積み上げた玉座と、無気力に侍る貴婦人たち。 そしてその中央に、かつての英雄、カイルが座していた。彼の瞳は濁り、笑みは空虚。 その隣に身を寄せるリゼアの白い指先が、彼の顎をなぞっている。 背後には、支配の神ユラエルの影が蠢いていた。「もっとだ……酒を持て。歌え。私の悦びのために、舞え……!」その咆哮は、英雄の凱歌ではない。 ただ渇きを満たすための、愚かなる獣の嘆きだった。エイルは、ナフィーラの言葉を胸に、カイルの“内”を見据えた。(……光は……どこに)そして、その瞬間。カイルの胸元に揺れる、一つの銀のペンダントが目に入った。 それはかつて、ナフィーラが彼に与えた、騎士団入団の証だった。 宝飾の数々の中で唯一、彼自身が外すことなく残していた小さな“祈り”。彼は無意識
若者の名はリアム。辺境の村で、ただ黙々と鉄を打ち、剣を振るう日々を送る、名もなき青年だった。彼が振るう剣は、父の形見である古びた一振り。いつか、この村を、大切な人々を守れるだけの力が欲しい――その一心だけが、彼の全てだった。神託が下された夜、リアムはいつものように月明かりの下で素振りをしていた。その時だった。天からの啓示と共に、手の中の古びた剣が、まるで溶けた月光を注ぎ込まれたかのように、まばゆい白銀の光を放ち始めたのだ。「こ、これは……」驚きに膝をついたリアムの手に、剣はまるで生きているかのように脈動し、馴染んでいく。錆びつき、刃こぼれしていた刀身は、曇りひとつない鏡のような輝きを取り戻し、その切っ先は、遥か彼方の王都を指し示していた。彼の魂に直接流れ込んでくる、戦神セイ=ラムの意志。それは、彼がこれまで感じたことのない、厳しくも力強い神聖なエネルギーだった。『偽りの英雄』『星を脅かす混沌』――言葉の意味は完全には理解できない。だが、リアムにはわかった。自分が焦がれてやまなかった「力」は、この神聖なる剣と共に与えられたのだと。そしてその力には、果たすべき「使命」が伴うのだと。夜が明け、リアムは旅支度を整えた。村長にだけ事情を話し、父の形見でもあるマントを羽織る。村人たちは、いつもと違う彼の決意に満ちた表情と、神々しい輝きを放つ剣に、ただ息を呑むばかりだった。「行ってしまうの?リアム……」幼なじみの少女が、不安げに彼の袖を掴んだ。「……ああ。行かなければならないんだ」リアムは、彼女の頭にそっと手を置き、微笑んだ。その笑顔は、以前の彼にはなかった、大きな覚悟と自信に満ちていた。「必ず、帰ってくる。この村を守れる、本当の英雄になって」リアムは振り返ることなく、王都へと続く道を歩き始めた。彼の旅は、決して平坦なものではなかった。神の力を授かったとはいえ、彼自身はまだ、戦いの経験も乏しい若者だ。道中で出会う魔物との戦いや、荒くれ者とのいざこざを通じ、彼はセイ=ラムの剣技を身体で学び、英雄としての器を少しずつ磨いていく。そして、彼の耳には、旅の先々で不吉な噂が届くようになった。「あの高潔だったカイル様が、豪商の屋敷を襲い、財産を根こそぎ奪ったらしい」「それだけじゃない。屋敷にいた貴婦人たちを我が物とし、夜な夜な酒池肉林の宴に溺れているそう
ナフィーラの祈りが天に届き、神々の新たな試案が動き出した頃。“堕落の次元層”から現実世界へと滲み出たカイルは、夜の闇に紛れ、かつて自らが守護したはずの王都に立っていた。彼が最初に向かったのは、セナトラ神聖騎士団への寄進も多く、カイルを「王都の英雄」と公然と讃えていた豪商の屋敷だった。夜会が開かれているのか、窓からは明るい光と楽しげな音楽、そして人々の笑い声が漏れ聞こえてくる。以前の彼ならば、その平和な光景に安堵し、静かにその場を去っただろう。だが、今のカイルの耳には、その全てが自分を嘲笑う不快な騒音にしか聞こえなかった。(俺が血を流して築いた平和の上で、何の苦労も知らずに笑う者どもめ……)彼の心に渦巻くのは、嫉妬と憎悪が混じり合った、どす黒い支配欲。リゼアの囁きが、彼の背中を押す。『欲しいのでしょう? あの富も、あの快楽も。あなたのものよ。さあ、奪いなさい』カイルは音もなく屋敷の塀を乗り越えた。腰に差した剣が、彼の殺気に呼応するように、鈍い紫色の光を放つ。警備の兵士が彼の姿に気づき、誰何(すいか)の声を上げようとした瞬間、カイルの姿は陽炎のように揺らめき、兵士の背後に回り込んでいた。「――ッ!?」驚愕する兵士の首筋に、手刀が正確に叩き込まれる。かつては敵を無力化するための技だったが、今はそこに一切の慈悲はない。崩れ落ちる身体を無感動に見下ろし、カイルは屋敷の中へと侵入した。広間で繰り広げられていた華やかな宴は、彼の登場によって一瞬で凍り付いた。黒い霧をまとったかのような禍々しい気を放ち、ゆっくりと歩を進めるカイル。その瞳には、かつての英雄の面影は微塵もなかった。「カ、カイル殿……!? いったい、どうなさったのです!」屋敷の主である豪商が、震えながら声をかける。カイルは答えない。ただ、品のない宝石で飾られた彼の指輪や、壁にかけられた高価な絵画、怯える貴婦人たちの絹のドレスを、品定めするように眺めるだけだ。「貴様らが享受するその全ては、本来、俺のものだったはずだ」低い、地の底から響くような声だった。「俺は英雄だった。ならば、英雄に相応しい富と、権力と、快楽があって然るべきだろう?」その理不尽な言葉に、人々は恐怖に染まった顔を見合わせる。カイルはゆっくりと魔剣を抜いた。紫色の刀身が、シャンデリアの光を不気味に反射する。「今日
その狂的な叫びを聞き、リゼアは満足げに微笑んだ。 「ええ、それでこそ私の騎士よ。さあ、行きなさい。その剣で、あなたの望む全てを蹂躙し、支配するの。それが、あなたが私に捧げる、最高の愛の証」リゼアに背中を押され、カイルは一歩、現実世界への干渉へと踏み出した。 彼の魂はもはや、光の神々の声が届かぬほど深く、暗い欲望の泥沼に沈んでいた。 戦神の誇り高き騎士は、今や欲望の神に身を捧げ、支配を渇望するだけの、哀れな堕落者へと成り果てていた。 その瞳に、かつての理性の光はどこにもなかった。――その頃。祈りの間に膝をついたナフィーラは、ふと息を詰まらせた。 絞り出した声は、誰に届くでもなく、静まり返った神殿に虚しく響いた。 彼女の頬を、一筋の涙が伝う。それは、ただの悲しみの涙ではなかった。 神託によって定められた「魂の契約」が、一方的に破棄されたことによって生じた、魂そのものの亀裂から流れ出す、痛みと喪失の結晶だった。その瞬間、祈りの間の空気がわずかに揺らぎ、彼女を包む光が一瞬だけ翳った。 ナフィーラは、自らの内にある“神の声”が遠のいていくのを感じた。 あれほどまでに近かったはずの彼の気配が、まるで別の次元へと引き裂かれていくような感覚―― まるで、自分の一部が奪われ、どこか見知らぬ暗闇に囚われていくかのようだった。(……違う。まだ、終わってはいない)その胸にわずかに残る温もりに、ナフィーラはすがる。 それがたとえ、かつて交わした誓いの残響でしかなかったとしても、彼女は信じたかった。 ――魂は、まだすべてを失ったわけではないと。***絶望が、冷たい霧のように心を覆い尽くそうとする。魂の亀裂から流れ込む痛みは、彼女の信仰心さえも凍てつかせようとしていた。もう祈るのをやめてしまえば、この苦しみから解放されるのかもしれない。そんな甘い囁きが、心の隙間に忍び寄る。だが、ナフィーラは手を胸に当て、ゆっくりと目を閉じた。――カイル。あなたがどれほど深い闇に堕ちようとも、私は、あなたの魂の奥にある“光”を信じている。揺らぐ光の中、微かに震える祈りの声が彼女の唇から零れ落ちる。それは神への祈りであると同時に、失われかけた絆への呼びかけでもあった。「セレイナ様……どうか、お導きください。彼の魂が完全に闇に染まりきる前に、私の祈りが届くのな
光が消えた。常に魂の隣で感じていた温かな盾が、まるで存在しなかったかのように消え去った。ナフィーラの世界から、守護という概念がごっそりと抜け落ち、代わりに吹き込んできたのは、肌を刺すような絶対的な孤独と、底知れぬ不安だった。彼女の清らかな魂に刻まれた契約の紋様が、黒い炎に焼かれていく。その痛みは、カイルが今、魂の対価としてどれほど甘美な毒を受け入れているかを、残酷なまでに彼女に伝えていた。「どうして……カイル……」その問いかけは、もはや悲痛な叫びですらなかった。ただ、理解を超えた現実に打ちのめされた、虚ろな呟き。二人が共に紡いできたはずの誓いは、あまりにも脆く、儚く散った。――そして、その同じ瞬間。ナフィーラが光を失った魂の亀裂から、カイルは解放という名の新たな光を見ていた。いや、光ではない。彼の魂を縛り付けていた清廉な鎖が断ち切られ、剥き出しになった魂が、生まれて初めて本当の色を放ったのだ。カイルが古い契約から解放された瞬間、彼の世界はリゼアの色に染まった。女神セレイナの清らかな光も、戦神セイ=ラムの厳格な教えも、今や遠い夢の残響に過ぎない。彼の魂は、欲望の神《リーヴァ=アラ》と支配の神《ユラエル》が創り出した“堕落の次元層”に、完全に根を下ろしてしまったのだ。「ああ、素晴らしい……。これこそが、本当の君だ」リゼアは恍惚としてカイルの胸に頬を寄せ、彼の魂から立ち上る、堕落したばかりの新鮮なエネルギーを吸い込んだ。それは、神聖さを失い、剥き出しになった欲望の香り。彼女にとっては何物にも代えがたい美酒だった。以前のカイルならば、一分の隙もない立ち姿で、常に周囲への警戒を怠らなかっただろう。しかし今、彼はリゼアの腕の中で、まるで骨を抜かれたかのように身を委ねている。戦神の加護を失った肉体は、代わりに官能的な気怠さと、飽くなき渇望に満たされていた。「もっと……もっとだ、リゼア……」カイルの唇から漏れるのは、もはや祈りではない。ただひたすらに、己の欲望を求める獣のような喘ぎだった。彼はリゼアの髪を貪るように掴み、その唇を求めた。ナフィーラと交わした清らかなキスとは全く違う、魂ごと喰らい尽くすかのような、激しく野性的な接触。リゼアはそれを楽しげに受け入れながら、彼の耳元で囁く。「欲しいものは、奪えばいいのよ、カイル。それが世界の真理。強い者が、欲