「遅くなっちゃったな……早く行かないと、紅音〈あかね〉さんの散歩の時間が終わっちゃう」
終業式。
部活を終えた早苗〈さなえ〉が、慌てて靴を履き替えていた。先に川に向かった柚希〈ゆずき〉には、「私が行くまで紅音さんに待ってもらってて」と頼んでおいたが、紅音の体調次第では引き止めることも出来なくなるかもしれない。
そう思いながらロッカーの鍵を掛け、鞄を手にした時。背後から声がした。「小倉じゃねえか」
それは早苗が今、一番聞きたくない声だった。
早苗は、自分の血が逆流する様な感覚を覚えた。「おい小倉、シカトすんなよ」
「山崎……」
早苗が振り向く。
そこには山崎が、早苗を見下ろす様に立っていた。――何ひとつ悪いことをしていない柚希が、ただ虫が好かないという理由で理不尽な目にあい、大怪我をした。
眠りから覚めない柚希を看病しながら、早苗は泣いた。
そしてまだ見ぬ犯人のことを考えると、その存在ごとこの世から消し去りたい、そんな邪悪な思いに囚われてしまった。 そして目覚めた柚希が、山崎の名を口にしたあの時。早苗の中に生まれて初めて、他人に対しての憎しみが生まれた。 どうやって報いを受けさせるか、真剣に考えてしまった。 その早苗の心を見透かしたように、柚希は自分の力で乗り越えたいと言った。 自分でも抑え切れなくなっていた邪悪な思いを、柚希が静めてくれた。 早苗は柚希の強さを知り、その決意に従うと決めた。 しかし次に山崎に会った時、気持ちを抑えられるかどうか、自分でも自信がなかった。同じクラスなので、顔を合わさないのは無理だった。
だから教室内では、山崎の存在そのものを自分の中から消し去り、考えないよう心がけた。 しかし今。全く心構えが出来ていない状況で、山崎から声をかけてきた。 早苗の中で押し殺していた怒りが、一気に蘇った。夕食を終えた早苗〈さなえ〉が部屋で一人、膝を抱えていた。 自分の気持ちが整理出来ず、混乱し狼狽する。 そして知らぬ間に、涙が頬を伝っていた。「私ってば本当、最近よく泣くよね……」 柚希〈ゆずき〉への想いが自分の中に納まりきらず、いつ暴発するか分からないことが怖かった。 今日、山崎に対してその一端を垣間見てしまったが、早苗にとっての恐怖はそれではなかった。 柚希の笑顔を見たあの時。 紅音〈あかね〉に対する感情をはっきりと感じてしまった。 嫉妬。 紅音さんのことが好きだ。それは間違いない。 出来ればこれからも、ずっと友達でい続けたい、そう思っている。 そして紅音さんは自分と同じく、柚希に恋している。 しかし紅音さんは、私の柚希への想いを知って、自らの想いを封じようとした。 私の為に柚希と二度と会わない、そんな選択肢までも浮かべていた。 だけど私は、そんな紅音さんを叱った。 自分の想いを殺してどうする。一緒に頑張ろう、そう言って励ました。 その筈なのに。 今私は、紅音さんに対して「邪魔者」の様な思いさえ持っている。 矛盾だ。 いつから私は、こんな人間になってしまったんだろう。 柚希のことを諦めたら、元の私に戻れるんだろうか。 でも。 私はやっぱり、柚希のことが好きだ。 誰にも渡したくない。 あんな笑顔、私以外に向けてほしくない。 私だけを見ていてほしい。 それは私の、身勝手な欲求なんだろうか。 そしてきっと、柚希は紅音さんのことを……「早苗ちゃん?」 襖の向こうから、柚希の声がした。「お風呂上がったよ」「……」「早苗ちゃん…&hellip
「山崎……」 早苗〈さなえ〉が肩を震わせる。「柚希〈ゆずき〉が何をしたっていうのよ……あいつは……あいつはいつも周りを見て、周りの雰囲気を壊さないよう、そっと生きてるんだよ……こっちに来てからも、今までもずっと…… 柚希があんたに何かした? 何をしたって言うの? 何もしてないじゃない。それにあいつは……あいつは……」「小倉てめぇ……」「あいつはそれでも、殴られたことを誰にも言わず、一人で耐えてたんだよ? あんたに大怪我させられた時だって、誰にも言わないでくれって、私に言ったんだよ? それに……それに、あんたのことを憎んでないって言ったんだよ? そんな柚希を、抵抗もしない柚希を……あんたは滅茶苦茶にしたんだ! 弱虫はどっちだ! 泣き虫はどっちだ!」「小倉あああっ! てめぇよくもっ!」「屑はあんただっ!」 * * * 早苗は泣いていた。 世の理不尽に。 柚希の決意を嘲笑うように、何ひとつ変わっていない現実に。 その早苗の激情は、山崎を少なからず動揺させた。「お前ら、何をやってるんだ」 偶然通りがかった教師が、声をかけてきた。「どうした小倉。泣いてるのか」「ちっ……」「おい、待て山崎。お前、小倉に何かしたのか」「何もしてねえよ。そいつが勝手に泣き出しただけだ」 そう言って、山崎が大股で去っていく。「小倉、大丈夫なのか」「あ……はい、先生……すいません」「何かされ
「遅くなっちゃったな……早く行かないと、紅音〈あかね〉さんの散歩の時間が終わっちゃう」 終業式。 部活を終えた早苗〈さなえ〉が、慌てて靴を履き替えていた。 先に川に向かった柚希〈ゆずき〉には、「私が行くまで紅音さんに待ってもらってて」と頼んでおいたが、紅音の体調次第では引き止めることも出来なくなるかもしれない。 そう思いながらロッカーの鍵を掛け、鞄を手にした時。背後から声がした。「小倉じゃねえか」 それは早苗が今、一番聞きたくない声だった。 早苗は、自分の血が逆流する様な感覚を覚えた。「おい小倉、シカトすんなよ」「山崎……」 早苗が振り向く。 そこには山崎が、早苗を見下ろす様に立っていた。 ――何ひとつ悪いことをしていない柚希が、ただ虫が好かないという理由で理不尽な目にあい、大怪我をした。 眠りから覚めない柚希を看病しながら、早苗は泣いた。 そしてまだ見ぬ犯人のことを考えると、その存在ごとこの世から消し去りたい、そんな邪悪な思いに囚われてしまった。 そして目覚めた柚希が、山崎の名を口にしたあの時。早苗の中に生まれて初めて、他人に対しての憎しみが生まれた。 どうやって報いを受けさせるか、真剣に考えてしまった。 その早苗の心を見透かしたように、柚希は自分の力で乗り越えたいと言った。 自分でも抑え切れなくなっていた邪悪な思いを、柚希が静めてくれた。 早苗は柚希の強さを知り、その決意に従うと決めた。 しかし次に山崎に会った時、気持ちを抑えられるかどうか、自分でも自信がなかった。 同じクラスなので、顔を合わさないのは無理だった。 だから教室内では、山崎の存在そのものを自分の中から消し去り、考えないよう心がけた。 しかし今。全く心構えが出来ていない状況で、山崎から声をかけてきた。 早苗の中で押し殺していた怒りが、一気に蘇った。
「早苗〈さなえ〉さん、その……柚希〈ゆずき〉さん一人を置いてしまって、本当によかったんでしょうか」「いいのいいの。それに柚希、ちょっと嬉しそうだったし」「そうなんですか?」「うん。私と紅音〈あかね〉さんが仲良くするのって、柚希の願いでもあるから」「柚希さんの願い……」「それにね」 早苗が前を見つめ、照れくさそうに笑った。「同じ男に惚れた者同士、仲良くするのって楽しいじゃない?」「早苗さん……」「と言う訳で、今から『柚希誘惑作戦・夏の陣』の作戦会議開始―っ!」 * * * 玄関で出迎える晴美〈はるみ〉に、「師匠、今日もよろしくお願いしまーす!」 早苗が元気よくそう言うと、晴美もそれに応えて手を上げた。 紅音の前で、早苗と晴美がハイタッチを交わす。「おかえりなさいませ、お嬢様。それに早苗さんも、今日もお元気で何よりです」「はい。これが私のとりえですから」「では今日は……そうですね、紅茶の淹れ方についてお教え致しましょうか」「ありがたいです。あの紅茶、すっごくおいしかったから」「むふふふっ。よろしければその後で、媚薬を混ぜるコツなどもお教えしますよ。そうすれば柚希さんと、甘い一夜を過ごすことも夢ではないかと」「たくらみが過ぎますよ、晴美さん」「よければお嬢様にもお教え致しますが」「いえ、私はその……」「おやおやぁ? 紅音さんも興味あり?」「もおおっ、早苗さんまで」「あはははははっ。紅音さんってば本当、可愛いんだから」「むふふふっ。今日のお嬢様成分の充填、完了でございます」 玄関先で、三人が楽しそうに笑っている。 それを窓から見下ろす明雄〈あき
「折角だから柚希〈ゆずき〉、紅音〈あかね〉さんと一緒に撮ってよ」 カメラを手にする柚希に向かい、早苗〈さなえ〉が言った。「いいよ。背景はどうする?」「うーん……よく分からん! 私たちが美しく撮れるよう、先生のセンスにお任せします!」「……それって、ただの丸投げじゃ」「何か言った?」「いえ、別に……」「早苗さん、ふふっ……柚希さんが困ってます」「いいのよこれぐらい。紅音さんも覚えておいてね。柚希ってば多分、こっちが甘い顔をしたらいくらでも付け上がってくるタイプだから。 あの無害に見える顔に騙されちゃ駄目だよ。こういうのは初めが肝心だから。こっちが手綱、握ってないと」「早苗さん、晴美〈はるみ〉さんみたいですよ」「そう? あはははははっ。やっぱ私たちって、キャラかぶってるのかな」「あのぉ……お話が盛り上がってるところ恐縮ですが、そろそろ撮影してもよろしいでしょうか」「あ、忘れてた。ごめんごめん」「早苗さんったら、ふふふっ」 柚希が川のすぐ近くにまで、二人を誘導する。 そして二人を座らせると、上から二人を見下ろしてカメラを構えた。「それで……うん、二人共、頭をお互いの方向に少し傾けて……うん、オッケー……それで早苗ちゃんはちょっとだけ顎をひいて……あ、行き過ぎたかな……うん、それぐらいで……じゃあいくよ……1、2の3」 陽の光が、川面を照らしている。 それを背景に、柚希はシャッターを切った。「うん、いい感じ」 そう言って柚希が笑うと、早苗も紅音も頬を赤らめ、うつむいた。「あれ&
「今日もいい天気ですね」「はい、風がとっても気持ちいいです」 * * * この日も柚希〈ゆずき〉は、川で紅音〈あかね〉との時間を過ごしていた。 あの一件以来、またこうして穏やかな生活が戻ったことは、柚希にとって何よりの喜びだった。 確かに色々と問題は残されている。何ひとつとして解決していないとも言える。 しかし柚希はあの日、これからは逃げないと誓った。 山崎の問題も、必ず自分の力で乗り越えてみせる、解決してみせると決意した。 柚希は環境に翻弄されていた日々と決別し、自ら能動的に生きていく道を選んだ。 いつも穏やかで優しい柚希の横顔に、凛々しさが宿っていることを紅音が感じたのも、必然と言えた。 紅音の柚希への想いは、日に日に深まっていった。「でも紅音さん、紫外線の為とはいえその服、暑くないですか?」「確かにこの服、見てるだけで暑くなりますよね。でもこれ、見た目よりも涼しいんですよ」「そうなんですか?」「はい。この服、これでも夏用なんです。生地も薄いですし、風通しもいいんですよ」「なら安心です。紅音さんが僕との約束の為に、暑いのを我慢して来ていたら悪いなって思ったんで」「そんなことないですよ。それに……私はいつだって、柚希さんとこうしてお話ししていたいですから」 そう言って紅音が、柚希の手に自分の手を重ねた。「紅音さん……」 柚希がその手を握ると、紅音も握り返してきた。 そして二人、体を寄せ合いながら空を見上げた。 * * *「なーにやってるんだか、お二人さん」 土手から陽気な声が聞こえた。 その声に、柚希と紅音は反射的に手を引っ込め、土手を見上げた。 そこには自転車にまたがっている、早苗〈さなえ〉の姿があった。