悠斗は振り返る間際、もう一度後ろに目をやったが、残念なことに、透子はまったく振り返らなかった。彼は顎をさすり、自分の魅力が落ちたのかと考えた。しかし、先ほどすれ違った旭日テクノロジーの女性社員たちの反応を思い出すと、自分の魅力に問題はなさそうだった。となると、これはただ一つーー如月透子は一筋縄ではいかない女だ、ということだ。だが考えてみれば、透子には言い寄る男が少なくない。旭日テクノロジーの桐生駿、柚木グループの柚木聡、それにしつこく付きまとう元夫の新井蓮司。悠斗は口元にかすかな笑みを浮かべ、眉を挑戦的に上げた。ふっ、手強い相手じゃないか。だが、その方が面白そうだ。帰りの車中、後部座席に座る悠斗のスマホに、旭日テクノロジーの食堂で撮られた写真が送られてきた。動画も一つ二つ混じっている。彼は口元に笑みを浮かべながら文字を打ち、相手に捨てアカウントで投稿させ、さらにインフルエンサーを使って拡散し、トレンド入りさせるよう指示した。隣で、浩司は悠斗の機嫌が良さそうなのを見て、今日の自分の働きに満足しているのだと勘違いし、ご機嫌取りに言った。「悠斗様、本日のご意見は実に独創的で、物事を見抜く鋭い目をお持ちです。マーケティング部で研修生をされているのは、まさに人材の無駄遣いですよ。ましてや、ただの研修生から始めるなどもってのほかです」悠斗はその言葉を聞いても表情を変えなかった。そんなお世辞は彼にはまったく響かず、むしろ無情に本心を突いていた。「佐々木部長が機会を作ってくださったおかげです。今後もよろしくお願いします」浩司は、その言葉の裏にある皮肉をまったく感じ取れず、褒められたと勘違いしてヘラヘラと笑い、一層上機嫌になった。悠斗は無表情のままスマホをしまい、心の中で冷ややかに鼻を鳴らした。本当に愚かな男だ。口を動かす前に手を動かせ、という皮肉も通じないとは。だが、こういう愚か者だからこそ利用しやすい。大輔のような男は、まったく油断ならないからな。まあいい。情報を集める手段は他にもある。悠斗は腕を組み、窓の外を眺めた。蓮司がもっと暴れてくれればいい。今日のような「ネタ」が多ければ多いほど好都合だ。一つ増えるたびに、それは自分への追い風となる。……その頃、新井グループ本社ビル、社長室。蓮
しかし、透子に彼との面識はなかった。これまでの打ち合わせで見た記憶もなく、どうやら新しくプロジェクトに加わったメンバーのようだ。会議は一時間ほど続き、おおよその方向性は固まり、残るは双方での細部の詰めとなった。透子は向かいに座る若い男の発言を聞いていた。質問も回答も的確で、なかなかの切れ者だ。さらに、全体のデザイン構想や要件についても言及したため、彼女は要点をメモに取った。前方の席にいた公平は、向かいの末席に座った男を見て、ただの平社員ではないと直感した。なぜなら、明らかにマーケティング部が発言すべき場面で、部長は黙っているのに彼が口を開いたからだ。その上、デザイン部に関する業務は彼の担当外のはずなのに、それについても意見を述べている。公平は眉をひそめ、他の部長たちにメッセージを送って、あの若者が誰なのか尋ねてみた。今日初めて顔を見たからなおさらだった。しかし、他の部長たちも彼のことを知らなかった。末席に座っていることから、ただの平社員だと思っていたようだ。役職が高ければ、もっと前に座るはずではないか?悠斗の発言が終わり、彼が視線を正面に向けた。その動きに、公平はさらに眉をひそめた。デザインに関する質問なら、自分にすべきではないのか?なぜ透子を見る?もちろん、単に透子が美人だからという可能性もある。彼の発言中、悠斗が何度か透子に視線を送っていたのを、公平は見ていた。公平が先ほどの問題について返答すると、悠斗はようやく彼に視線を向け、真剣に耳を傾けているように見えた。透子のメモは簡潔かつ詳細だった。部長がいるため、チームリーダーが発言する必要はない。そのため、悠斗は向かいの女性が口を開くのを待っていたが、会議が終わるまでその機会はなかった。双方が席を立ち、旭日テクノロジー側が見送りに出る。透子は後方から回り込もうとしたが、そのとき、横からすっと手が差し出された。「これから、よろしくお願いします」その声に、透子は横を向いて彼を見た。会議での発言から、彼が市場調査とデザインの両方に関わっているのを聞いて、幹部候補生か何かだろうと思った。透子は礼儀正しく手を伸ばし、その手を握り返した。「こちらこそ、よろしくお願いします」若い男はにこやかに微笑んだ。その笑顔は優雅で紳士的、礼儀正しく穏やかで、まるで名
仕事は仕事だ。第三チームのリーダー代理として、私情で業務を滞らせるわけにはいかない。「透子さん、やっぱり出席しなくてもいいんじゃないか?後で他のチームリーダーに議事録を共有してもらうから」公平がオフィスから出てきて、これからの会議の相手を思い、透子を見て声をかけた。透子は答えた。「いえ、大丈夫です。公私混同はしません。それくらいは分かっていますので」その言葉に公平は満面の笑みを浮かべた。やはり彼女を見込んだのは間違いではなかった。育てがいのある、将来有望な人材だ。歩きながら、公平は少し躊躇った後、申し訳なさそうに小声で言った。「昼休み、スマホを貸してやれなくてすまなかった。気にしてないよな?」透子も小声で返した。「部長、そんなこと言わないでください。お気持ちは分かっています。新井グループの圧力は強いですし、私が我慢すれば済むことですから」公平はさらに安堵した様子で、彼女の肩を軽く叩いて言った。「すべてが収まる日は、必ず来るさ」透子は答えず、心の中で思った。ええ、その日は来るわ。ただし、それは自分がここを去れば、の話だけどね。会議室に着くと、透子は長いテーブルの一番端の席に座り、上座との距離をできるだけ取った。二時半、新井グループのプロジェクト部の人間がやって来て、公平たちが相手と握手を交わして挨拶した。透子は顔を上げず、ただ儀礼的に立ち上がってから再び腰を下ろし、自分のノートパソコンに視線を落とした。彼女はスクリーンを見るつもりもなかった。どうせパワーポイントの資料は自分のパソコンに保存してある。彼女の真正面で、椅子が引かれる音がして、誰かが腰を下ろした。透子はやはり顔を上げなかった。新井グループの人間だと分かっていたからだ。双方の責任者がオンライン取引プラットフォームのプロジェクトについて話し合いを進める中、透子は静かに耳を傾け、自分の部署に関わる部分だけをメモしていた。向かいの席。男は足を組み、じっと透子を観察していた。その口元には、面白がるような薄い笑みが浮かんでいる。もう三十分も経つのに、相手は一度も顔を上げて他の場所を見る気配がない。真面目で堅物、融通が利かないタイプなんだろう。まったく面白みのない女だ。だが……容姿は悪くない。なるほど、だから兄貴があれほどまでに惚れ込むの
透子とは何の関係もない。それどころか、ほんの一時間ほど前には、悪趣味な冗談で彼女をからかったばかりだ。聡は自分が最低な人間のように感じた。透子の人生はすでに十分すぎるほど辛い。離婚したというのに蓮司にしつこく付きまとわれ、その上、自分まで彼女を不快にさせてしまった。聡は両手を強く握りしめ、唇を真一文字に結んだ。その表情には後悔と自責の念が浮かんでいた。理恵は透子に状況を確認しながら、兄にリアルタイムで報告していた。「警察には通報してないって。透子が言うには、二つの会社は今提携中だし、会社で起きたことだから、事を荒立てたくないんだって」そして彼女はため息をついた。「はぁ、透子って本当に可哀想。自分がひどい目に遭ってるのに、それでも全体のことを考えなきゃいけないなんて。幸い怪我はなかったみたいだよ。ただスマホを壊されただけだって」聡は黙ったままだった。透子が通報しない理由は理解できた。旭日テクノロジーが新井グループに太刀打ちできるはずがないからだ。そう考えながら、彼は以前、透子を柚木グループで働かせたいと思ったことを再び思い出していた。もし透子が柚木グループの人間だったら、蓮司もこれほど無茶な真似はしないだろう。少なくとも、会社に直接乗り込んできて騒ぎを起こすようなことはないはずだ。理恵の声が再び響いた。「お兄ちゃん、翼お兄ちゃんに連絡してくれない?いつでも透子に法的支援ができるように準備してもらって。京田市の普通の法律事務所じゃ、彼女の依頼なんて怖くて受けられないと思うし」妹の言葉に、聡は思考を中断された。そして、以前に見た理恵の翼に対する奇妙な反応を思い出し、思わず口をついて尋ねた。「なんで自分で連絡しないんだ?お前と翼の間に何かあったのか?」電話の向こうが一瞬シーンとなり、それから理恵が言った。「別に何もないわよ。ただ連絡先を知らないだけ。お兄ちゃんが連絡する方が早いでしょ」「この前のクルーズパーティーで会ったじゃないか」「でも連絡先は交換してないもん。高校の時は知ってたけど、その後アカウント変えたから、分からなくなっちゃったの」その言い訳を聞いても、聡はまだ何かあると感じた。「なんで前回、連絡先を交換しなかったんだ」理恵は言葉に詰まった。「それは……翼お兄ちゃんが追加してくれなかったからよ!
透子は言った。「怒ってないよ。あの時はちょっと立て込んでて、スマホも壊れちゃったから返信できなかったの」聡は口をきゅっと結び、その言い訳を聞いた。透子が怒っていないと言っても、信じる気にはなれなかった。なぜスマホが突然壊れた?しかも、あの時は仕事が終わった時間だったはずだ。透子にどんな急用があったというんだ?所詮、自分をあしらうための言い訳に過ぎない。「あ、透子から返信来たよ。怒ってないって。お兄ちゃんにもメッセージ送るって言ってる」イヤホンから、妹の理恵の声が同時に聞こえてきた。その言葉に、聡は一瞬動きを止めた。どうやら透子は、二人に同時に返信したらしい。だとしたら……本当にスマホが壊れたのか?彼はメッセージを打ち込み、スマホがどうして壊れたのか尋ねると、透子はただ「地面に落として画面が割れた」とだけ答えた。聡は思った……まあ、いいか。そっか。てっきり、自分が原因で怒らせたのかと思ったよ。自分が相手を不快にさせ、そのせいでスマホまで壊してしまったのだと思い込み、彼は新しいスマホを贈って謝罪しようと、すぐにアシスタントにメッセージを送った。アシスタントは言った。「承知いたしました、社長。ブランドやモデル、機能や色にご指定はございますか?」聡は返信した。「白で。一番いいやつを選んで、すぐに買いに行け」メッセージを送信し、ふと思いついて、一文を付け加えた。「画素数がもっと高いやつ。カメラ性能が良いものを」女性はみんな写真を撮るのが好きだろう?妹もそうだ。それに、白なら透子も気に入るはずだ。アシスタントがそれをメモして、買い物に行く準備を始めた。聡は「心残り」が解消され、ひとまず書類に目を通そうとした。妹との通話がまだ繋がっていることを思い出し、聡は言った。「じゃあまた連絡……」「うそ!お兄ちゃん!新井が昼にまた透子を訪ねてきたんだって。彼女のスマホ、あいつに奪われて、取り返す時にもみ合って落としたらしいよ」理恵の怒りに満ちた声が響いた。その言葉を聞き、聡は呆然とした。透子のスマホは、蓮司が壊したのか?じゃあなぜ、自分には単に地面に落としたと……理恵がまた言った。「もう仕事でしょ?じゃあ切るね」聡は慌てて言った。「待って」彼は眉をひそめて尋ねた。「新井が
そして、彼の最後のメッセージはこうだった。【俺が悪かった。ごめん、謝る】透子は珍しく黙り込み、口を閉じた。つまり、柚木聡って人は、ただ彼女をからかっただけで、本当に録音も録画もしてなかったんだ。まあ、それも彼の性格らしいと言えば、らしい。彼の最後の謝罪を見て、彼女はふと、少し前のレストランでのケンカを思い出した。あのとき、彼女はからかわれて一度腹を立てたけど、聡は彼女が怒ったのを見ると、すぐに謝ってきた。透子は呆れた。三十歳にもなって、どうしてこんなに意地悪でいられるんだろう?純粋な悪い人ならまだしも、彼は謝罪までする。おまけに前回は、すごく高価なプレゼントまでくれて埋め合わせをした。透子はぼんやりした顔で、この聡という男は、本当に……と思った。彼を表す言葉が頭に浮かぶ前に、十分が経ち、始業時間になった。部署のメイン照明がついた。明るい光が透子の考えを中断させ、彼女はパソコンの電源を入れて仕事の準備をしながら、聡に一言メッセージを返した。……柚木グループ、社長室。聡は普段、昼に三十分は休憩を取る。一日のスケジュールがびっしり詰まってて、夜はだいたい残業になるからだ。でも今日、彼は昼寝をしなかった。眠れなかったんだ。ソファに横になり、片手で頭の後ろを支え、特に目的もなく、むしろイライラしながらスマホを見てる。もう一時間近く経つのに、彼女からの返信はまだない。本当に怒らせちゃったのかな?録音したなんて嘘は、さすがにやりすぎだったか……?そう反省して謝りのメッセージを送ったけど、スマホのトーク画面は静かなまま。透子は彼を許してくれない。聡は体を起こした。イライラして服を直し、仕事に取りかかった。でも、時々スマホに目をやり、相手からのメッセージを見逃さないよう、通知をバイブにセットした。パソコンの書類を見つめていると、いつの間にかボーっとなって、呆けた自分の顔が画面に映ってるのが見えた。……透子は信じてないのかな?本当に冗談で、録音なんてしてないのに。だけど、これまでの自分の「冗談」を考えると、透子が彼を信じないのも無理はなかった。だって、彼にはそういう前科がある。聡は眉間をさすり、スマホを取ると、妹の理恵に、透子が彼女に返信したか聞くメッセージを送った。理恵に返信し