LOGIN「あー、もう! 負けたじゃねえか! クソッ!」
画面の中でキャラクターが倒れたのか、和也が怒鳴り声を上げた。
そして。
自分の裾を掴んでいた陽菜の小さな手を、和也の右手が無造作に、払いのけるように動いた。ペチッ。
リビングに、嫌な音が響いた。
陽菜の手が弾かれ、不意を突かれた小さな体がぐらりと揺れる。 陽菜はそのままフローリングの床に、ドスンと尻もちをついた。「……っ!」
私は一気に血の気が引いていくのが分かった。
「え……ええーん! パパ、いたい、いたいよう……!」
一拍おいて、陽菜が火がついたように泣き出した。
3歳の子供にとってお尻を打った痛み以上に、大好きなパパに拒絶されたショックは計り知れない。 大きな瞳から涙がボロボロとあふれて、真っ赤になった頬を濡らしていく。けれど。
その泣き声を聞いてもなお、和也はスマホを握りしめたまま、忌々しそうに舌打ちをした。<私はキッチンに置いていたスマートフォンを手に取った。 いつもなら、これを手に取って和也に「早く片付けてよ」とメッセージを送っていただろう。 でも、今日は違う。 私はカメラを起動した。 画面には現在の日付と、20時16分という時刻が表示されている。 パシャリ。 乾いたシャッター音が、静かなリビングに響いた。 まず1枚。脱ぎ捨てられた靴下が転がっている様子。 続いてもう1枚。和也が下げなかった、食卓の上の油汚れのついた皿。 そして最後に。 陽菜が突き飛ばされて、ブロックが散乱したままのフローリングの床。(これは、単なる片付けのための記録じゃない) 私の人生から、この男の存在そのものを切り離すための作業だ。 朝、ゴミ捨て場で私は「やり直そう」と決めた。 でも、もういい。私は違う方法で、陽菜との暮らしをやり直す。 私はメモアプリを開き、今日の出来事を淡々と書き連ねた。『20時16分。和也、育児の協力拒否。娘を突き飛ばす』『食事の準備、片付け、入浴の準備をすべて妻に強要』『泣いている娘を放置して、寝室に閉じこもる』 言葉にすればするほど、私の心は驚くほど冷静になっていく。 今まで感じていたドロドロとした怒りが、不思議なほど消えてなくなった。 期待するのをやめただけで、こんなにも心がクリアになるなんて。 和也は変わらない。変えることなんてできない。 だったら、私が変わるしかないのだ。 明日からも、私は妻の顔をして、食事を作るだろう。 おはようと言い、和也の脱ぎ捨てた靴下を拾うだろう。 けれどその裏側で私は、着実に日々の欠片を積み上げていく。 この30年ローンを組んだ家。 私の独身時代の貯金、頭金500万が詰まった、私たちの城。 でもここはもう、私にとってもはや安らぎの場所ではない。 いつかこの家を娘と一緒に笑って出ていく
今日の朝、玄関でゴミ袋を避けられた時。 私はまだ「今夜、ちゃんと向き合って話せば分かってくれるはず」なんて、おめでたいことを考えていた。 ちゃんと言葉を尽くせば、この冷え切った空気も春の陽気みたいに解けるかもしれない。 そんな、お花畑のような希望を抱いていた。 けれど、それは私の独りよがりな幻想でしかなかった。 家事が見えていないだけなら、教えればいい。 育児の大変さが分からないなら、伝えればいい。 そう思っていた。 でも、あの男は違う。 自分のゲームの楽しみのために、無邪気に甘えてきた実の娘を、汚れたゴミ袋と同じように「邪魔なもの」として払いのけたのだ。 娘の涙も私の痛みも、この人にとってはゲームの邪魔をするノイズに過ぎない。 私に負担がかかるのは、まだ耐えられる。 私は大人だからだ。 でも陽菜は、まだたったの3歳。 こんな小さな子を、実の娘を守ってやらなくてどうするのか。 陽菜を傷つける人間は、誰であろうと許せない! 喉の奥がヒリヒリと熱い。 けれど不思議と涙は出なかった。 ただ心の芯の部分が、急速に冷えていく感覚だけがあった。 さっきまであった怒りが、もっと静かでもっと深い虚無へと変わっていく。「……いいよ、陽菜ちゃん。もう、泣かなくていいからね」 私は陽菜を抱きしめたまま、優しく一定のリズムで背中をさすった。 陽菜の震えが少しずつ収まっていく。「パパ……いっちゃった?」「ええ、あっちに行ったわ。もう大丈夫。ママがずっと、そばにいるからね」 私は陽菜の涙を指でそっと拭った。 泣きはらした赤い目が、私を見上げている。 この子を二度と、あんな男に脅かさせたりはしない。 今まで、私は和也に対して「どうすれば分かってくれるんだろう」という方向にばかりエネルギーを使っていた。 けれど、そんなのは時間と気力の無駄遣いだったのだ。
「あー、もう! 負けたじゃねえか! クソッ!」 画面の中でキャラクターが倒れたのか、和也が怒鳴り声を上げた。 そして。 自分の裾を掴んでいた陽菜の小さな手を、和也の右手が無造作に、払いのけるように動いた。 ペチッ。 リビングに、嫌な音が響いた。 陽菜の手が弾かれ、不意を突かれた小さな体がぐらりと揺れる。 陽菜はそのままフローリングの床に、ドスンと尻もちをついた。「……っ!」 私は一気に血の気が引いていくのが分かった。「え……ええーん! パパ、いたい、いたいよう……!」 一拍おいて、陽菜が火がついたように泣き出した。 3歳の子供にとってお尻を打った痛み以上に、大好きなパパに拒絶されたショックは計り知れない。 大きな瞳から涙がボロボロとあふれて、真っ赤になった頬を濡らしていく。 けれど。 その泣き声を聞いてもなお、和也はスマホを握りしめたまま、忌々しそうに舌打ちをした。「……チッ、いきなり泣くなよ。うぜえな」「和也! 今、何したの!」 私は叫ぶように言いながら、キッチンを飛び出した。 床に座ったまま泣きじゃくる陽菜を、慌てて抱きしめる。「はあ? 見りゃ分かんだろ。俺はただ、邪魔だから手を退かそうとしただけだ。勝手にバランス崩して転んだあいつが悪いんだよ」 和也は、悪びれる様子もなく言い放った。 床で泣いている娘の方を見ようともせず、手元のスマホをリセットするように操作している。「子供相手に、何てことするのよ……。陽菜、大丈夫? 痛かったね、ごめんね」「いたい……。パパ、こわい……っ」 陽菜の声が震えている。抱きしめた体は頼りない。 3月の夜の寒さのせいじゃない。これは、恐怖による震えだ。 しかし和也はまたしても舌打ちをした。「怖いだって? 怖くさせたのは誰だよ。俺は疲れて帰ってきて、1人でゆっくりゲームもさせてもらえないのか? 何のためにこの家を買ったと思って
3月の夜の空気は、昼間の日差しが嘘だったみたいに、ひんやりと冷たい。 窓の外では、街路樹の桜がようやくつぼみを膨らませ始めている。 あと1週間もすれば、世間は浮かれたお花見ムードに包まれるんだろう。けれどこの家の中に流れている空気は、春というにはあまりにも重くて、冷え切っていた。 シンクに溜まった食器を、私は無言で洗い続けていた。 さっきの和也の言葉が、耳の奥で何度もリピートされる。『俺は450万、お前は400万だろうが!』『文句があるなら俺より稼いでから言えよ』 ……マジか。 というか、そのたった50万の差が、彼の中では「家事と育児をすべて免除される許可証」に変換されているらしい。 仕事先のクライアントにそんな理屈を並べたら、秒で契約を切られるレベルの暴論だ。 洗剤の泡が、和也の食べた野菜炒めのギトギトした油を包み込んでいく。私の心にこびりついたこの不快な感情も、この泡みたいに綺麗に流せればいいのに。 でも現実はそうはいかなくて、私の心に溜まった思いは流れていってくれない。 カチャカチャと皿を重ねる音が、静かなキッチンに虚しく響く。 リビングの方からは、和也が夢中になっているスマホゲームの音楽が聞こえていた。今の私にとっては、耳障りな音だった。「パパ、あのね、みて。これね、お城だよ」 陽菜が、プラスチックのブロックを持って和也に近づいていった。 夕食の時、あんなに冷たくあしらわれたのに。 3歳児の純粋さというか、父親に対する無条件の愛情は、見ているこちらが痛々しくなるほどまっすぐだ。「……ああ、すごいな。あっちで遊んでろ」 和也は、画面から少しも視線を動かさない。 彼が今やっているのは、期間限定のレイドイベントとかいうやつらしい。さっきから必死に親指を動かして、派手なエフェクトが出るたびに「よし!」とか「チッ、外した」とか、一喜一憂している。 私や陽菜が何を話しかけても和也は「ふーん」しか言わない。それなのに画面の中のモンスター相手にはこれほど情熱を傾けるな
「でも今日話さないと。私だって疲れてる。1人で全部やるのは、もう限界なんだよ」 私の精一杯の訴えを、和也は鼻で笑い飛ばした。「しつこいな! せっかくの飯の後なんだから、ゆっくりさせろよ。お前はいいよな、家で子供と遊んでる時間もあってさ。俺の苦労なんて分かりもしないだろ。文句があるなら俺より稼いでから言えよ」 和也の視線は、一瞬たりとも私に向かなかった。 彼にとって私の言葉は、ゲームの邪魔をする不快なノイズでしかないらしい。 私は何も言えなくなり、またシンクに向き直った。(期待した私が馬鹿だった) ちゃんと言葉を尽くせば伝わるなんて、ただの私の思い上がりだったのだ。 トントン、カチャカチャ。 キッチンの音だけが響く中、ソファの方から和也の苛立った声が飛んできた。「おい、いつまで皿洗ってんだよ。早く風呂の準備しろよ。疲れてんだよ、こっちは。明日も早いんだ」 また始まった。 私は洗っていた皿を一度置き、濡れた手をタオルで拭いてから、リビングを振り返った。「……お風呂くらい、自分で入れてよ。お湯を張るボタンを押すだけでしょ? 私は今、片付けと陽菜の世話で手一杯なの」 努めて声を荒らげず、けれどはっきりと言い返した。 すると和也は、あからさまに大きな舌打ちをした。嫌な音だった。「チッ……。気が利かねえな。主婦のくせに、それくらいのこともできないのかよ。何のために俺が外で働いてると思ってるんだ?」 和也は指一本動かそうとしない。 不機嫌さを隠そうともせず、ソファの背もたれをドンドンと叩いて抗議の意を示している。 その光景に、私は眩暈がした。 朝の決意が、少しずつ、けれど確実に削り取られていく。 あの時は「今夜、ちゃんと話し合おう」と思っていた。 ちゃんと言葉を尽くせば、分かってくれるはずだと。 けれど今のリビングに漂う空気は、そんな私の淡い期待を嘲笑っているかのようだった。 話し合えば、何かが変わる? この人に言葉を尽くせば、私の痛みが一ミリでも伝わる? 洗剤で滑りやすくなったお皿を握りしめ、私は奥歯を噛んだ。 もう、この人に多くを期待するのはやめよう。 期待するから、腹が立つ。 分かってくれると思うから、裏切られた時に心が折れる。 この人は、ただの「同居人」だ。 それもとても手のかかる、教育の
「パパ、あのね!きょうね、ほいくえんで、さくらのおはな、みたよ!」 陽菜が嬉しそうに、今日あった出来事を話し始める。 上の空の和也に向かって、それでも諦めずに話し続けた。 散歩の途中で見つけた桜のこと。もうすぐ満開だねって先生が言ったこと。 小さな胸を躍らせて一生懸命に話す娘に対して、和也は一瞥もくれない。「……ふーん」「パパ、きいてる? ピンクで、とってもきれいだったの!」「聞いてるよ。うるさいな、静かに食べろよ。今、大事なイベント中なんだから。お前が喋ると集中できないだろ」 和也の視線は、ずっとスマホの画面に向けられている。 一生懸命にお話しをしていた陽菜の顔が、しゅんとなった。 私は胸が締め付けられる思いで、陽菜の頭をそっと撫でた。「ママ、ちゃんと聞いてるよ。桜、きれいだったね。明日もママといっしょに見ようね?」「うん……。あしたね、また、せんせいとみる」 陽菜はそれ以上、話そうとはしなかった。 ただ黙々と、小さなお口におにぎりを運ぶ。 食卓には、カチャカチャという食器の音と、スマホから流れる単調なBGMだけが虚しく響く。 和也はあっという間に自分の分を平らげると、空になった皿をそのままにしてガタリと席を立った。「ふぅ。あと風呂な」 当然のように言い捨てて、彼はまた吸い寄せられるようにソファへ戻っていった。 目の前には、食べかすのついた皿、飲みかけのコップ、散らかった箸。 それらはすべて、最初からそこに存在しなかったかのように、彼の意識からは消え去っている。 いつもこれだ。和也は一度だって食器を下げることすらしない。「……和也。いつも言っているけど、自分の食器くらい下げてよ」 返事はない。聞こえるのはスマホゲームの音だけだ。 これもまた、いつものことだった。 そこへ、陽菜が自分の小さなプラスチックの皿を持って、よいしょと立ち上がった。「ひな、お手伝いする。ママ、いっしょにもっていくね」 健気な娘の姿に、視界がじわりとにじみそうになる。 陽菜は一生懸命に背伸びをして、シンクの中に自分の皿を置こうとした。 まだ3歳なのに。 ソファでふんぞり返っている35歳よりも、よほどこの家のために頑張っている。「ありがとう、陽菜ちゃん。助かるわ。ゆっくりでいいからね」 私はそんな陽菜を横