LOGIN「わあ、いい匂い! これ、母さんが作ったの?」
和也の目が、黒い沼のような煮物に釘付けになった。
その瞬間、疲れたと言っていた彼の顔がパッと明るくなる。「ええ、そうよ。和也が最近痩せちゃったみたいだから、栄養をつけてもらおうと思ってね。減塩醤油をたっぷり使って煮込んできたのよ。お肉も柔らかくしてあるから、たくさんお食べなさい」
義母が勝ち誇ったような笑みを私に向けた。
「マジで!? やった! 俺、母さんの煮物、大好きなんだよなー!」
和也は子供のようにはしゃぎ、パイプ椅子に乱暴に腰掛けた。
陽菜も子供用の椅子に座り、プラスチックのスプーンを握りしめている。「いただきます」
私が手を合わせるのももどかしく、和也は真っ先に義母の煮物に箸を伸ばした。
真っ黒に染まった大根の塊を、一切れ口に運ぶ。「うっまっ! 味がしみしみじゃん! やっぱり母さんの飯が一番うまいわ!」
和也は目を細め、大げさに感嘆の声を上げた。<
キッチンシンクに置いたプラスチックのタッパーに、勢いよく冷水を浴びせる。 跳ね返る水しぶきが私の手の甲を濡らした。 排水溝にむかって、どす黒い煮汁が渦を巻きながら吸い込まれていく。 煮詰めた濃い醤油の匂いが水に薄まり、ようやくキッチンの空気が少しだけマシになった気がした。 リビングの方からは、テレビのバラエティ番組の音に混じって、和也と義母の能天気な笑い声が聞こえてくる。「いやー、やっぱり母さんの煮物は最高だわ。ご飯が何杯でもいける」「そうでしょう、そうでしょう。たくさんお食べなさい。和也が喜んでくれるのが、母さんは一番嬉しいのよぉ」「助かるぜ。これからも頼むよ、母さん!」 35歳の息子と、彼を溺愛する母親の平和でグロテスクな食卓の風景が繰り広げられている。 つい数分前まで、私はあの光景を見てハラワタが煮えくり返るような怒りを感じていた。 私の作った減塩料理を病院食と馬鹿にされ、目の前で大量の醤油をかけられた屈辱を受けて。 3歳の陽菜が、塩分の塊を口に押し込まれて泣き叫んだ時の絶望を感じて。 けれど今の私には、不思議なほど怒りの感情が湧いてこない。 パンプスに一日中締め付けられていた足の裏の痛みは、とうにピークを通り越していた。 痛さを感じる神経すら麻痺してしまったのか、今の私の頭の芯は真冬の夜空のように冴え渡っている。(ああ、よく食べるわね。その調子で、血管の中に塩分をたっぷり蓄積させればいいわ) そして腎臓を壊すなり何なり好きにすればいい。 私は止めた。止めたけど無視どころか馬鹿にされた。 もう知るか。 スポンジでタッパーの隅をこすりながら、私は心の中でひどく冷たい言葉を吐き捨てた。 もはや彼らに「わかってもらおう」などという甘い期待は一切ない。 あの2人は私の人生という舞台に迷い込んだ、ただの害悪なエキストラだ。 そう認識を改めた途端、肩に乗っていた見えない重りがスッと消え去ったような気がした。 ピンポーン。
陽菜を抱きしめる私の手から、体温が引いていく。 ジンジンと熱を持って痛んでいた足の裏の疲労すら、もはや遠い感覚に思えた。 まるで冷水を浴びたかのように、脳内がクリアになっていく。 煮えたぎるようなイライラは、急速に温度を失って透き通るような氷の塊へと変わっていった。 和也と義母を見つめる私の視界が、今までとは全く違う色に染まっていく。 この瞬間、私の中の「夫の母親への苛立ち」は、「私の人生から排除すべき敵」へと明確に反転したのだ。「……そうですか。私が悪かったみたいですね」 私の口から出たのは、自分でも驚くほど平坦で冷たい声だった。「お義母さん、せっかく作ってきていただいたのに、陽菜が食べられなくてごめんなさい。和也さんも、そんなに美味しいなら、私の分も全部食べていいわよ」 私は陽菜の頭をなでながら、表情の筋肉を動かすことなく淡々と言った。「フン。そうよぉ。和也、たくさんお食べなさい。真由美さんも、少しは私の味付けを勉強することね」 義母は私が折れたと勘違いして、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。 和也も「ほら見ろ」とばかりにふんぞり返り、また自分の席に戻って醤油まみれのお皿をつっつき始める。 私は無言で陽菜を抱き上げて、キッチンへ向かった。「ママ、お口、ピリピリするよぉ……」「痛かったね。お水で口をゆすごうか」「うん」 陽菜の口をゆすいでやる。 何度かうがいをしたら、ようやく落ち着いてきたようだ。 それでも、ばぁばに『毒物』を食べさせられたのがショックだったのだろう。涙はまだこぼれている。 私は陽菜を抱っこしながら、冷え切った心のままに食卓の方を見た。「母さんは本当に料理上手だよなー!」「まあ、嫌だわ。この子ったら。オホホホホ」 馬鹿親と馬鹿息子は、馬鹿みたいに楽しそうに笑いながら塩分たっぷりの煮物を食べている。 怒りでも悲しみでもない。
和也の口から出たのは、泣き叫ぶ我が子を心配する言葉でも、暴走する母親をたしなめる言葉でもなかった。 完全に母親の肩を持ち、妻である私を非難する暴言だった。「せっかく母さんが俺たちの健康に気遣ってくれたのに、失礼な態度とってんじゃねえよ。早く母さんに謝れよ」 健康に気遣ってくれた。 健康に気遣ってくれた。 健康に気遣ってくれた……。 その言葉が、私の耳の奥で虚しくこだました。 大根の芯まで真っ黒に染まった、あの塩の塊が。 35歳の息子を「可愛い和也ちゃん」と呼ぶ義母のとどまるところを知らない愛情とやらが。 健康に気遣ったものだと?「謝る……? どうして私が……。陽菜が痛がって泣いているのに、和也さんは気にならないの?」 私の声は、かすれていた。「気にするわけないだろ。お前が甘やかすから、図に乗って好き嫌いして泣いてるだけだ」 和也は吐き捨てるように言うと、わざわざ席を立ち上がり、義母の元へ歩み寄った。「母さん、気にしなくていいからな。こいつの躾がなってないだけだ。この煮物、本当にうまいよ。俺は毎日でも食いたいもん」 和也は、泣いている陽菜には一瞥もくれず、義母の肩を優しくポンポンと叩いて慰め始めた。 義母も「和也ぁ……。母さん、一生懸命作ってきたのにぃ」と、悲劇のヒロイン気取りで顔を覆う。 被害者である陽菜を完全に放置し、加害者である母親をいたわるという、地獄のような構図が私の目の前で完成していた。 馬鹿と馬鹿が結託すると、ここまで無敵のバリアが張られるのか。「減塩醤油だから塩分ゼロ」と本気で信じている無知な義母。 そして、それに全乗っかりして妻を責め立てる35歳の息子。 地獄を通り越して混沌に満ちたこの光景を見た時。 私の心の中で、何かが一気に凍りつくのがわかった。(……ああ。
義母の真っ赤に塗られた口紅が怒りで歪み、丁寧に描かれた眉毛が吊り上がっている。 自分の自慢の料理を吐き出されたことに、プライドをズタズタにされたのだろう。「痛いわけないでしょ! わざわざ『減塩醤油』を使ってるんだから、体に優しい味のはずよぉ!」 減塩醤油。 その単語を盾にして、義母は喚き散らす。 痛いわけない? 体に優しい? 私の脳内で、一瞬だけ時が止まった。 そして、盛大なツッコミの鐘がゴーンと鳴り響いた。(いや、だから! 減塩醤油だからって、味がしないくらい真っ黒になるまで一瓶丸ごとぶちこんだら、トータルの塩分量は普通に致死量超えるだろうが!!) 掛け算。 小学校で習うあの基本的な四則演算が、この人にはできないのだろうか。 減塩醤油が普通の半分の塩分だとして、0.5。 それを30倍で、0.5×30=15。15倍だ!! そんな簡単な計算もできないくせに、自信満々に「健康によい」と言い切るその面の皮の厚さ。 無知とは、ある意味で最大の暴力である。「お義母さん、でも陽菜には……」「言い訳はいいのよぉ! 真由美さん、あなたが普段から味がしない病院食みたいなものばかり食べさせるから、この子の味覚がおかしくなってるのよ!」 義母は私の言葉を真っ向から切り捨てて、さらに理不尽な責任転嫁を始めた。「ばぁばの美味しい味付けを痛いなんて言うなんて、どういう食育してるの! 私の可愛い和也にだって、きっと粗末なものばかり食べさせてるんでしょ。これだからフルタイムで働く嫁は嫌なのよぉ!」 義母の罵声が、容赦なく私に降り注ぐ。 この状況で、どうして「私が悪かったわ、陽菜ちゃんごめんね」とならないのか。 3歳児の涙を見てもなお、自分の料理が否定された怒りの方が勝っている。 私の反論など聞きやしない。 私は泣きじゃくる陽菜の小さな背中をさすりながら、食卓の反対側に座る和也に視線を送った。
「陽菜! 食べちゃ駄目!」 私が慌てて止めようと伸ばした手は、間に合わなかった。 義母の箸に挟まれた真っ黒な大根の塊が、陽菜の小さな口元に強引に押し当てられる。 大根からは、どす黒い煮汁がぽたぽたと滴り落ちていた。 陽菜は戸惑うように私と義母の顔を交互に見比べたけれど、ばぁばの満面の笑みに逆らうことはできなかったらしい。 小さな口をぽかんと開けて、その黒い塊を受け入れてしまった。 私は思わず叫びそうになり、何とか声を飲み込む。(なんてこと! すぐに口から吐き出させなきゃ!)「そうそう、お利口さんねぇ。いっぱい噛んで、栄養をつけるのよぉ」 私の焦りとは裏腹に、義母は満足げに目を細める。自分の席にどっかりと座り直した。 陽菜の小さな顎が、モグッと上下に動く。 一口、二口と咀嚼した、次の瞬間。 陽菜の顔が、くしゃくしゃに歪んだ。「……っ、うぇ」 ペッ、という音とともに、噛みかけの真っ黒な大根が陽菜の口からお皿の上に吐き出された。(良かった、飲み込む前に自分で吐き出せた) そう安心する暇もなく。「お口、いたいっ……! いたいよう……っ!」 陽菜は顔を真っ赤にして、火がついたように泣き叫び始めた。 ……無理もない。 ただでさえ味覚が未熟な3歳児の舌なのだ。 大人でさえ喉が渇くような過剰な塩分と、煮詰まった醤油の濃すぎる塩辛味である。 幼児の舌には「塩辛い」どころではない。物理的な「痛み」という刺激になってしまった。「陽菜ちゃん! ペッして、これ飲んで!」 私は椅子を蹴立てて立ち上がり、陽菜のそばに駆け寄った。 泣きじゃくる陽菜の口元を急いで濡れタオルで拭い、プラスチックのコップに入った麦茶を口に含ませる。 陽菜はヒックヒックとしゃくりあげながら、必死に麦茶を飲み込んだ。
背筋がゾッとする。 毎日毎日、この地獄のようなマザコン劇場を見せつけられ、真っ黒な塩の塊を押し付けられるというのか。 冗談ではない。 私は膝の上に置いた手を、強く握りしめた。 爪が手のひらに食い込むくらいに。 足の裏の痛みが、私の怒りに同調するようにズキズキと激しく脈打っている。 目の前では、35歳のマザコン夫が嬉しそうに黒い大根を頬張っている。 それを目を細めて見守る義母。 醤油の海に完全に沈んでしまった、私のささやかな努力の結晶。 理不尽だ。 あまりにも理不尽すぎる。 なぜ私が、自分の独身時代の貯金から頭金を出したこの家で、こんな屈辱を味わわなければならないのか。 フルタイムで働き、家事も育児もこなしているというのに。 この男は、私の何を見ているというのか。 妻をなんだと思っているのか。 視界の端が、怒りでチカチカと明滅した。 マグマのようにドロドロとした苛立ちが、腹の底からグツグツと湧き上がってくるのを感じた。 喉の奥がヒリヒリと熱い。 吐き出したい言葉の塊が、出口を求めて渦巻いている。 言い返してやりたい。「ならお前が自分で作れ!」と、この醤油まみれの皿をひっくり返してやりたい衝動に駆られる。 しかしここで私が爆発すれば、陽菜を怖がらせてしまう。 陽菜は私の隣で、この不穏な空気を察知して小さく縮こまっていた。 スプーンを握る小さな手が、不安げに揺れている。「……ママぁ、お肉、黒いね」 陽菜がぽつりと呟いた。 和也が醤油をかけたお皿を見て、不思議そうに首を傾げているのだ。「ええ、そうね。パパはお醤油が好きなのよ。陽菜ちゃんは、ママが作ったお肉を食べてね」 私は努めて優しい声を作り、陽菜のお皿に醤油がかかっていない部分を取り分けた。「あら、陽菜ちゃん。そんな味のしないお肉より、ばぁばが作った美味しい煮物を食べなさいよ」
喉まで出かかった言葉を、私は無理やり飲み込んだ。 不自然だ。あまりにも用意周到すぎる。 和也は元来、そこまでおしゃれに気を使う人間ではない。 普段の部屋着は着古したスウェットだし、近くのスーパーやコンビニくらいならそのまま出かけてしまう。 さすがに仕事着はちゃんとしたスーツを着るが……大学時代の友人と会うのに、あんなに身だしなみを整えるだろうか? 胸の奥に、違和感が確実な疑念となって広がっていくのを感じた。 だが、今の私には真実を突き止める気力も、確信を持てるだけの証
「……そう。わかったわ。陽菜、パパはお疲れなんだって。ママと2人で行こうね」 陽菜は少しだけ寂しそうな顔をして、和也の背中を見つめた。 けれど、すぐに「ママ! おすべり!」と笑顔を作った。(この子はもう、父親の拒絶に慣れ始めているのかもしれない) そのことが、私の胸を刺すように痛めた。 私が陽菜を抱き上げて、玄関に向かおうとした時。「あ、おい。真由美」 和也がソファから顔も上げずに、不躾な声を投げた。「帰りがけにビール買ってきて。もうスト
3月の土曜日の午後は、春の柔らかな日差しがたっぷりと注ぐ日になった。 お昼ご飯の片付けを終えたリビングには、春の気配が満ちている。 窓の外では、近所の子供たちがはしゃぐ声が風に乗って聞こえてくる。本来なら、家族で穏やかな午後の時間を過ごすのに最高のシチュエーションのはずだった。 けれど、この家の中を支配しているのは、窓の外の明るさとは無縁の、重苦しくよどんだ空気だけだった。「おんも! ママ、おんもいこ! おすべり、しゅーってするの!」 陽菜が、玄関の方を指差しながら私のスカートを力いっぱい引っ張る。
「陽菜ちゃん、あんまり大きな声出すと、パパびっくりしちゃうからね」「パパ、びっくり? おばけ?」「ふふ、そうね。ある意味、おばけより怖いかもしれないわね」 冗談めかして言ったけれど、私の目は笑っていなかったと思う。 第二弾の洗濯物を干し終えて、時計を見るともう11時を回っていた。 最後は、リビングの掃除機かけだ。◇ 家にホコリは容赦なく溜まる。 平日は時間がないから、コロコロとモップで誤魔化している。けれど、土曜日