Se connecter「パパぁ、おかえりー!」
プレイマットから陽菜が駆け寄っていく。
ピンク色のウサギのぬいぐるみを振り回しながら、和也の足にしがみついた。「おお、陽菜。ただいま」
和也はスマホから目を離さず、空いた片手で適当に陽菜の頭を撫でた。
たったそれだけだ。
陽菜が今日保育園で何をして遊んだのか聞くわけでもなく、抱きしめるわけでもない。すぐにスマホの画面に戻り、親指を激しく動かし始める。
ピコピコ、ピロリロリン、という間の抜けた電子音が、和也の手元から響いてくる。「和也、目悪くなるわよぉ。ゲームばかりしてないで、こっちでお話ししましょう?」
「んー、ちょっと待って。今限定イベント中でさ、これクリアしないとアイテムもらえないんだよ」
「まあ、仕方ないわねぇ。和也は疲れているんだもの、息抜きは必要よね」
義母の甘やかすような注意も、和也の耳には届いていないらしい。
この空間に、私の居場所はどこにもないように思和也の口から出たのは、泣き叫ぶ我が子を心配する言葉でも、暴走する母親をたしなめる言葉でもなかった。 完全に母親の肩を持ち、妻である私を非難する暴言だった。「せっかく母さんが俺たちの健康に気遣ってくれたのに、失礼な態度とってんじゃねえよ。早く母さんに謝れよ」 健康に気遣ってくれた。 健康に気遣ってくれた。 健康に気遣ってくれた……。 その言葉が、私の耳の奥で虚しくこだました。 大根の芯まで真っ黒に染まった、あの塩の塊が。 35歳の息子を「可愛い和也ちゃん」と呼ぶ義母のとどまるところを知らない愛情とやらが。 健康に気遣ったものだと?「謝る……? どうして私が……。陽菜が痛がって泣いているのに、和也さんは気にならないの?」 私の声は、かすれていた。「気にするわけないだろ。お前が甘やかすから、図に乗って好き嫌いして泣いてるだけだ」 和也は吐き捨てるように言うと、わざわざ席を立ち上がり、義母の元へ歩み寄った。「母さん、気にしなくていいからな。こいつの躾がなってないだけだ。この煮物、本当にうまいよ。俺は毎日でも食いたいもん」 和也は、泣いている陽菜には一瞥もくれず、義母の肩を優しくポンポンと叩いて慰め始めた。 義母も「和也ぁ……。母さん、一生懸命作ってきたのにぃ」と、悲劇のヒロイン気取りで顔を覆う。 被害者である陽菜を完全に放置し、加害者である母親をいたわるという、地獄のような構図が私の目の前で完成していた。 馬鹿と馬鹿が結託すると、ここまで無敵のバリアが張られるのか。「減塩醤油だから塩分ゼロ」と本気で信じている無知な義母。 そして、それに全乗っかりして妻を責め立てる35歳の息子。 地獄を通り越して混沌に満ちたこの光景を見た時。 私の心の中で、何かが一気に凍りつくのがわかった。(……ああ。
義母の真っ赤に塗られた口紅が怒りで歪み、丁寧に描かれた眉毛が吊り上がっている。 自分の自慢の料理を吐き出されたことに、プライドをズタズタにされたのだろう。「痛いわけないでしょ! わざわざ『減塩醤油』を使ってるんだから、体に優しい味のはずよぉ!」 減塩醤油。 その単語を盾にして、義母は喚き散らす。 痛いわけない? 体に優しい? 私の脳内で、一瞬だけ時が止まった。 そして、盛大なツッコミの鐘がゴーンと鳴り響いた。(いや、だから! 減塩醤油だからって、味がしないくらい真っ黒になるまで一瓶丸ごとぶちこんだら、トータルの塩分量は普通に致死量超えるだろうが!!) 掛け算。 小学校で習うあの基本的な四則演算が、この人にはできないのだろうか。 減塩醤油が普通の半分の塩分だとして、0.5。 それを30倍で、0.5×30=15。15倍だ!! そんな簡単な計算もできないくせに、自信満々に「健康によい」と言い切るその面の皮の厚さ。 無知とは、ある意味で最大の暴力である。「お義母さん、でも陽菜には……」「言い訳はいいのよぉ! 真由美さん、あなたが普段から味がしない病院食みたいなものばかり食べさせるから、この子の味覚がおかしくなってるのよ!」 義母は私の言葉を真っ向から切り捨てて、さらに理不尽な責任転嫁を始めた。「ばぁばの美味しい味付けを痛いなんて言うなんて、どういう食育してるの! 私の可愛い和也にだって、きっと粗末なものばかり食べさせてるんでしょ。これだからフルタイムで働く嫁は嫌なのよぉ!」 義母の罵声が、容赦なく私に降り注ぐ。 この状況で、どうして「私が悪かったわ、陽菜ちゃんごめんね」とならないのか。 3歳児の涙を見てもなお、自分の料理が否定された怒りの方が勝っている。 私の反論など聞きやしない。 私は泣きじゃくる陽菜の小さな背中をさすりながら、食卓の反対側に座る和也に視線を送った。
「陽菜! 食べちゃ駄目!」 私が慌てて止めようと伸ばした手は、間に合わなかった。 義母の箸に挟まれた真っ黒な大根の塊が、陽菜の小さな口元に強引に押し当てられる。 大根からは、どす黒い煮汁がぽたぽたと滴り落ちていた。 陽菜は戸惑うように私と義母の顔を交互に見比べたけれど、ばぁばの満面の笑みに逆らうことはできなかったらしい。 小さな口をぽかんと開けて、その黒い塊を受け入れてしまった。 私は思わず叫びそうになり、何とか声を飲み込む。(なんてこと! すぐに口から吐き出させなきゃ!)「そうそう、お利口さんねぇ。いっぱい噛んで、栄養をつけるのよぉ」 私の焦りとは裏腹に、義母は満足げに目を細める。自分の席にどっかりと座り直した。 陽菜の小さな顎が、モグッと上下に動く。 一口、二口と咀嚼した、次の瞬間。 陽菜の顔が、くしゃくしゃに歪んだ。「……っ、うぇ」 ペッ、という音とともに、噛みかけの真っ黒な大根が陽菜の口からお皿の上に吐き出された。(良かった、飲み込む前に自分で吐き出せた) そう安心する暇もなく。「お口、いたいっ……! いたいよう……っ!」 陽菜は顔を真っ赤にして、火がついたように泣き叫び始めた。 ……無理もない。 ただでさえ味覚が未熟な3歳児の舌なのだ。 大人でさえ喉が渇くような過剰な塩分と、煮詰まった醤油の濃すぎる塩辛味である。 幼児の舌には「塩辛い」どころではない。物理的な「痛み」という刺激になってしまった。「陽菜ちゃん! ペッして、これ飲んで!」 私は椅子を蹴立てて立ち上がり、陽菜のそばに駆け寄った。 泣きじゃくる陽菜の口元を急いで濡れタオルで拭い、プラスチックのコップに入った麦茶を口に含ませる。 陽菜はヒックヒックとしゃくりあげながら、必死に麦茶を飲み込んだ。
背筋がゾッとする。 毎日毎日、この地獄のようなマザコン劇場を見せつけられ、真っ黒な塩の塊を押し付けられるというのか。 冗談ではない。 私は膝の上に置いた手を、強く握りしめた。 爪が手のひらに食い込むくらいに。 足の裏の痛みが、私の怒りに同調するようにズキズキと激しく脈打っている。 目の前では、35歳のマザコン夫が嬉しそうに黒い大根を頬張っている。 それを目を細めて見守る義母。 醤油の海に完全に沈んでしまった、私のささやかな努力の結晶。 理不尽だ。 あまりにも理不尽すぎる。 なぜ私が、自分の独身時代の貯金から頭金を出したこの家で、こんな屈辱を味わわなければならないのか。 フルタイムで働き、家事も育児もこなしているというのに。 この男は、私の何を見ているというのか。 妻をなんだと思っているのか。 視界の端が、怒りでチカチカと明滅した。 マグマのようにドロドロとした苛立ちが、腹の底からグツグツと湧き上がってくるのを感じた。 喉の奥がヒリヒリと熱い。 吐き出したい言葉の塊が、出口を求めて渦巻いている。 言い返してやりたい。「ならお前が自分で作れ!」と、この醤油まみれの皿をひっくり返してやりたい衝動に駆られる。 しかしここで私が爆発すれば、陽菜を怖がらせてしまう。 陽菜は私の隣で、この不穏な空気を察知して小さく縮こまっていた。 スプーンを握る小さな手が、不安げに揺れている。「……ママぁ、お肉、黒いね」 陽菜がぽつりと呟いた。 和也が醤油をかけたお皿を見て、不思議そうに首を傾げているのだ。「ええ、そうね。パパはお醤油が好きなのよ。陽菜ちゃんは、ママが作ったお肉を食べてね」 私は努めて優しい声を作り、陽菜のお皿に醤油がかかっていない部分を取り分けた。「あら、陽菜ちゃん。そんな味のしないお肉より、ばぁばが作った美味しい煮物を食べなさいよ」
「あらあら、可哀想な和也。毎日こんな味気ないものばかり食べさせられているの? これじゃあ午後からの仕事の力が出ないわよねえ」 義母が和也の肩をポンポンと叩きながら、大げさに同情してみせる。「そうなんだよ。真由美の飯っていつも薄味でさ。飯食った気がしないんだよね。俺はもっとガツンとしたのが食いたいのに」 和也は私の顔を見ようともせず、食卓の端にある醤油のボトルに手を伸ばした。 嫌な予感がした。「和也さん、やめて。もう味がついているんだから」 私の制止など、彼には届かない。 和也は醤油のボトルのフタをパチンと開け、私が作った炒め物の上に無造作に傾けた。 トクトクトクッ。 いや。 ドボドボドボッ!! 真っ黒な液体が、豚肉と鮮やかな緑のブロッコリーの上を無残に覆い尽くしていく。 和也は手首を振って、これでもかとばかりに大量の醤油をかけ続けた。 お皿の底には、あっという間に黒い水たまりができた。「あーあ、これくらいかけないと味がしないんだよな。ったく、余計な手間かけさせやがって」 和也は悪びれる様子もなく、醤油まみれになった炒め物を箸でかき混ぜる。 元の料理の彩りも、出汁の風味も、すべてが台無しだ。 ただの醤油味の残飯のようになってしまった。「おい真由美、お前も母さんの味付け見習えよ。料理は愛情なんだからさ。減塩醤油使ってんだから、味付け濃くしたって健康にいいんだぞ」 和也は得意げに笑い、醤油の海に沈んだ肉を口に運んだ。 愛情だと? 私の健康に気を遣った愛情は薄味というだけで否定され、義母の致死量の塩分が愛情として称賛される。 このバカとバカが結託した無敵の論理の前では、私の正論など紙くず以下の価値しかないらしい。「減塩醤油なら、どれだけ(致死量でも)使っても塩分ゼロ」と信じる義母と、それに全乗っかりする夫。 彼らの頭の中の常識は、私とは全く別の次元にあるようだ。「本当にそうよねえ。私が若い頃は、夫の好みを一
「わあ、いい匂い! これ、母さんが作ったの?」 和也の目が、黒い沼のような煮物に釘付けになった。 その瞬間、疲れたと言っていた彼の顔がパッと明るくなる。「ええ、そうよ。和也が最近痩せちゃったみたいだから、栄養をつけてもらおうと思ってね。減塩醤油をたっぷり使って煮込んできたのよ。お肉も柔らかくしてあるから、たくさんお食べなさい」 義母が勝ち誇ったような笑みを私に向けた。「マジで!? やった! 俺、母さんの煮物、大好きなんだよなー!」 和也は子供のようにはしゃぎ、パイプ椅子に乱暴に腰掛けた。 陽菜も子供用の椅子に座り、プラスチックのスプーンを握りしめている。「いただきます」 私が手を合わせるのももどかしく、和也は真っ先に義母の煮物に箸を伸ばした。 真っ黒に染まった大根の塊を、一切れ口に運ぶ。「うっまっ! 味がしみしみじゃん! やっぱり母さんの飯が一番うまいわ!」 和也は目を細め、大げさに感嘆の声を上げた。 咀嚼するたびに、口の周りに黒い汁がついている。「真由美のメシはろくに味がしなくてさ。やっぱ料理は、こういうガツンとした味付けがうまいんだよ」 見ているだけで喉が渇きそうな塩分の塊を、彼は嬉々として喉の奥に流し込んだ。「そうでしょう、そうでしょう。たくさん作ってきたから、おかわりもあるわよぉ。お野菜もちゃんと食べなさいね」 義母は自分の料理を絶賛されて、満面の笑みを浮かべている。 このバカップルならぬバカ親子の光景を見せつけられる私の身にもなってほしい。 和也は次に、私が作った豚肉と野菜の炒め物を口に入れた。 モグモグと数回噛んだ後、彼の箸の動きがピタリと止まる。 そして、あからさまに顔をしかめた。「……何これ。味がしねえ」 冷や水を浴びせられたような言葉だった。「味がしないって……。お出汁をしっかり効かせて、塩分を控えているのよ。あなたの血圧が高いって、
――ガチャッ。 玄関のドアが開く音が、リビングにまで響いた。「ただいまー。あー疲れた」 間延びした声とともに、夫の和也が帰宅した。 スーツのネクタイをだらしなく緩めながら、だらだらとした足取りでリビングに姿を現す。 彼の手には、いつものようにスマートフォンが握られている。薄暗い廊下で画面の光が彼の顔を青白く照らしていた。「あーら和也! おかえりなさい!」 ソファでくつろいでいた義母が、張り切って立ち上がった。 先ほど私に見せていた不機嫌そうな顔はどこへやら、声のトーン
「やだ真由美さん、失礼ね! これ、わざわざ『減塩醤油』をたっぷり使って煮込んできたのよぉ!」 節子は立ち上がり、キッチンにいる私に向かってドヤ顔で胸を張った。「減塩醤油を使っているんだから、いくら食べても健康にいいでしょ? 男の人にはガツンと味がついたものが必要なのよ。あなたよりずっと和也の体を考えてるわよ!」 ――マジか。 もう言葉が出ない。 その代わり、脳内ではツッコミの嵐が吹き荒れた。(減塩醤油だろうが、半分に減った塩分を30倍の量ドボドボ使って真っ黒になるまで煮詰めたら、トータルの塩分量は
「……ありがとうございます。助かります」 私は引きつりそうになる作り笑いを顔に貼り付けたまま、重いタッパーを受け取った。「さあさあ、上がらせてもらうわね。あ、陽菜ちゃーん! ばぁばが来たわよぉ!」 節子は靴を脱ぎ散らかし、私の返事も待たずに勝手にスリッパを引っ掛けてリビングへと進んでいく。 私のささやかな平穏な夕食の時間は、見事に打ち砕かれたのだ。 キッチンに戻り、押し付けられたタッパーの蓋を開ける。 その瞬間、むわっと強烈な醤油と砂糖の匂いが鼻を突いた。「うわ……」
「ママ、だぁれ?」 陽菜が不思議そうに首を傾げて、私のエプロンの裾を引っぱった。「えっとね、ばぁばが来てくれたみたい。陽菜ちゃんはちょっと待っててね」 私は努めて明るい声を出して、玄関へ向かった。 いくら迷惑な姑であっても、陽菜にとっては祖母。悪く言うわけにはいかない。 ドアノブに手をかける。大きく息を吸い込み、口角を物理的にぐいっと上へと引き上げた。 笑顔だ。完璧な笑顔を作るのだ、私。「こんばんは、お義母さん。どうされたんですか、突然」 ガチャリとドアを開けた瞬間。







