LOGIN和也が「眠いから」という身勝手な理由で2階の寝室に引きこもってから、わずか数分後のことだった。
主を失ったリビングの空気は、完全に2人の悪童によって支配されていた。「いぇーい! この床、すげー滑る!」
「競争しようぜ!」
彼らは泥遊びをした後のような薄汚れた靴下のまま、私が毎週末に水拭きをして磨き上げているフローリングの上を、スケートリンクのように滑り回っている。
(そりゃ滑るわよ! 私が毎週、しっかり磨いてるんだから!)
私の心のツッコミなど、悪ガキどもに通じるはずもない。
部屋の隅に綺麗に整頓して置いてあった陽菜のおもちゃ箱は、あっという間にひっくり返された。
色とりどりの木製パズルやプラスチックのブロックが、床一面に散乱する。 彼らが無遠慮に踏みつけるたびに、ガチャガチャと耳障りな音を立てて床板に小さな傷をつけていく。「おい、これつまんねーな。赤ちゃんの遊びじゃんか」
「もっとおもしろいもんないの?」
ある金曜日の夕方。私は仕事を終えた後、駅前のデパートの地下に立ち寄った。 ショーケースには、色とりどりのケーキが並んでいる。(どれも美味しそう。どれにしようかな。んー、やっぱり陽菜が好きなイチゴにしよう) 私は期間限定のイチゴのタルトを3つ注文した。 私と陽菜、それに一応、和也の分だ。 過酷な日々を乗り越えた自分へのささやかなご褒美であり、怖い思いをした陽菜を喜ばせるためのプレゼントだった。 保育園のお迎えに行くと、陽菜は私を見つけて駆け寄ってきた。「ママ、きょうはおみやげある?」「ええ、美味しいイチゴのケーキよ。お家に帰って、ご飯を食べたら一緒に食べようね」「やった! イチゴ!」 陽菜は嬉しそうに私の手を引く。 私たちは帰り道を歩いていく。 夕焼けの長い影が伸びる道路は、もうすっかり春になっている。 散りかけの桜の花びらが、少しだけ残って風に舞っていた。 この数日間、陽菜も落ち着いて眠れていた。 離婚に向けた準備は着々と進んでいる。 だからこそ、今はこの平穏な日常を少しだけ味わいたかったのだ。 自宅の前に到着し、私はバッグから鍵を取り出した。 ドアノブの鍵穴に差し込もうとしたその時、妙な違和感に気がついた。 ガチャリ。 鍵を回す前に、ドアノブが重たい音を立てて開いたのだ。 私は眉をひそめた。和也が帰っているのなら、鍵をかけ忘れるはずがない。 共働きで留守にする時間が長い我が家において、施錠は絶対のルールだ。 警戒しながらゆっくりとドアを開けると、玄関のタイルには見覚えのある2足の靴が脱ぎ捨てられていた。 ラメの入った派手な赤いパンプスと、かかとのすり減った茶色いローファー。 晶子さんと義母のものだ。廊下の奥にあるリビングの方から、テレビのバラエティ番組の大きな音と、聞き慣れた下品な笑い声が聞こえてくる。 香奈さんが実家で厳しく釘を刺してくれたばかりなのに、どうしてここにいるのだろうか。
「ちょ、ちょっと待ってよ香奈! 子供のやったことで、警察とか大げさすぎるでしょ!」 彼女は慌てて自分のスマートフォンを取り出すと、どこかへ電話をかけ始めた。 十数分後、血相を変えて我が家に飛び込んできたのは、近くに住む義母だった。「香奈、やめなさい! 身内のことで警察なんて呼んだら、ご近所に世間体が悪いじゃないの!」「大げさなことじゃないわ、お母さん。これは犯罪行為よ。お姉ちゃんに支払い能力がないなら、警察を呼ぶのは当然の手続きよ」 香奈さんの毅然とした態度に、義母は顔を真っ青にした。 孫が警察の世話になれば、自分の面子まで丸潰れになると計算したのだろう。「わ、私が払うわよ! 私の貯金から30万出すから、警察だけは勘弁してちょうだい!」 義母は必死の形相で香奈さんに頼み込んだ。 香奈さんは冷淡に義母を見つめ、持参した手帳を開いた。「お義姉さん、それでいいですか? 晶子お姉ちゃんではなく、お母さんの肩代わりで?」 私は少し考えた。 本当を言うと、あまり良くないやり方だ。 甥っ子たちがやったことは、親である晶子さんに責任を取ってもらいたい。 でも彼女はパチンコ狂いで、お金があるようには見えない。 ここであくまで晶子さんに払ってもらうよう詰め寄っても、踏み倒される可能性が高い。 本当に警察に通報してもいいのだが、警察は取り合ってくれるだろうか。 義理とはいえ兄弟の間のできごとで、しかもやったのは小学生の子供。 なあなあで済ませられてしまうかもしれない。(なら、確実にお金だけでも取り戻さないと) だから私は頷いてみせた。「ええ、それでお願いします」「わかりました。では、お母さんが全額を肩代わりするということで。今ここで30万円の支払いと、今後二度と子供たちだけでこの家に立ち入らせないという念書を書いてもらいます」 義母は手元を震わせながら、香奈さんに差し出されたペンを握る。言われるがままに念書にサインをした。 一応事の顛末
私と香奈さんが今後の対策について話し合いを終えてから、約1時間が経過した頃のこと。 ピンポーン。ピンポーン! 夕暮れが迫る我が家の玄関のチャイムが、乱暴に何度も鳴らされた。 私が急いで廊下へ向かい、内側から玄関の鍵を開けた途端、ドアが勢いよく引かれた。「あーあ、今日も新台全然出なかったわ! 最悪!」 言うなり、晶子さんは私を押しのけて強引に上がり込んでくる。 いい大人なのに靴を脱ぎ散らかしたままで、「お邪魔します」の一言もない。まあ、もう諦めているけれど。 彼女は玄関の隅で縮こまっている自分の息子たちには声をかけることもなく、目の前にいる私を小馬鹿にするように鼻で笑った。「ちょっと真由美さん、夕飯できてる? 負けちゃったから、今日はここで食べていくわよ。子供たちも腹ペコなんだから、早くしてよね」 自分のギャンブルの都合で子供を他人の家に押し付けておきながら、当たり前のように夕食の催促をする。 香奈さんの指摘通り、この人の無神経さは常軌を逸している。 私が呆れて言葉を失っていると、晶子さんは私を押しのけるようにして廊下を進み、リビングへと向かった。「ちょっと、聞いてるの? お腹空いてるって言ってるでしょ」 しかしリビングで晶子さんを待ち構えていたのは、一人掛けのソファに座った香奈さんだった。「お姉ちゃん、随分と遅かったわね。子供たちを放置して、さぞかしパチンコが楽しかったみたいだけど」「何よ香奈、来てたの?」 晶子さんは間の抜けた声を上げて、部屋の中を見回した。 私がその後ろからリビングに入ると、香奈さんは表情を一切変えず、ローテーブルの上に置いてあった私のスマートフォンを手に取った。「お義姉さんに文句を言う前に、これを見て」 香奈さんは再生ボタンを押し、スマートフォンの画面を晶子さんに向けた。 そこには、甥っ子たちがリビングの壁紙を面白半分に剥がし、陽菜を乱暴に突き飛ばす一部始終がはっきりと映し出されていた。 動画を見終わっても、晶子さんの顔に罪悪感の
その言葉は、私にとってどれほど心強かったか知れない。 1人で証拠を集め、孤独な戦いを覚悟していた私にとって、香奈さんは暗闇に差し込んだ一筋の光だった。 味方は1人もいないと思っていた義家族の中に、こんなにも強力で頼もしい助力者が現れたのだ。「分かりました。これを見てください」 私は香奈さんの言葉に深く頷くと、エプロンのポケットからスマートフォンを取り出した。 この家から脱出するための具体的な反撃の糸口が、ついに見え始めた。 私は香奈さんと協力して、あの身勝手な夫と非常識な義家族たちに、必ず相応の報いを受けさせる。 そう固く心に誓いながら、私は香奈さんにスマートフォンの画面を差し出した。 香奈さんはスマホの記録を読むと、はあっとため息をついた。「これはひどい……。私は前から、うちの実家がおかしいと思っていたんです。常識はないし、あの甥っ子たちもろくに躾されていない。でもここまでとは思いませんでした」 香奈さんはスマホを私に返しながら続ける。「私は独身だけど、夫婦は協力しあって暮らすものですよね。和也お兄ちゃんがお義姉さんに家事と育児を全部押し付けて、その上お母さんが嫌な姑に成り下がっている」 彼女は首を振った。 確かにひどい人たちだけど、香奈さんにとっては実の家族だ。複雑な心境なのだろう。「お義姉さん。お義姉さんの気持ちはどうなんですか? もし本当に離婚を考えているなら……」 香奈さんの眼差しを受けて、私は頷いた。「正直、離婚に傾いているわ。このままなら私と陽菜だけで暮らした方が安心できる。お金もたぶん何とかなる」 こういう時、働いていて良かったと思う。経済力があれば、陽菜を連れてこの家を出ていける。「ただ、すんなり別れられるか分からなくて。この家はペアローンだから、和也は手放したくないはず。それに家事と育児放棄だけで、離婚が通るかも私には分からない」 不倫とか強い暴力とか、決定的なことはない。 裁判やら調
陽菜はぽかんとして従兄弟たちを眺めている。 そうして彼らは怯えきった手つきで、床に散らばった壁紙の破片を必死に拾い集め始めた。 泣きじゃくりながら、おもちゃ箱にブロックやパズルをしまう。 首の伸びたウサギのぬいぐるみを、まるで壊れ物にでも触るかのようにそっとテーブルの上に置く。 私はその様子を、ただ無表情で見つめていた。 彼らが謝罪したからといって、私の心の中にある氷が溶けることはない。 壁紙を剥がされたことへの怒りも、陽菜を突き飛ばされたことへの憎しみも、決して消えることはない。(子供だからと許すには、あの子たちはやりすぎた。特に陽菜への暴力は、許せない) だが香奈さんが彼らに与えた「鉄の裁き」は、私に一定の救いをもたらしてくれた。 私の力だけでは、甥っ子たちを制裁することすらできなかった。 陽菜を守ることもできなかった。 情けなくて悔しくて、それでもずっと耐えていた。 私の力だけではどうにもならなかった閉塞感から、ようやく少しだけ解放された気がしたのだ。 ただ、問題の本質は甥っ子たちだけではない。 彼らに毒を吹き込んだのは、義母と義姉だ。 あの2人を、いや、こんな騒ぎの中でも素知らぬ顔を貫いている和也を含めて何とかしなければ、根本的な解決にならない。 甥っ子たちは、泣きながらリビングの片付けを終えた。 香奈さんはそれを確認すると、「もう二度と、他人の家で勝手な真似はしないこと。わかったわね」 と最後に釘を刺した。 2人は「はいぃぃ」と涙声で返事をして、玄関の隅に丸くなって縮こまった。 晶子さんが迎えに来るまで、そこで一歩も動かないつもりらしい。 香奈さんはようやく肩の力を抜いて、私の方へ歩み寄ってきた。 それまでの冷徹な表情がふっと和らぐ。私の腕の中にいる陽菜の頭を、優しく撫でた。「陽菜ちゃん、怖かったね。ごめんね、香奈おばちゃんがもっと早く来てあげられればよかったのに」「…&hel
最後に「=(イコール)」のボタンを強く押した。 2人の甥っ子の目の前に、計算結果が表示されたスマートフォンの画面を突きつけた。「すべて合わせて、約30万円」 30万円。 小学生の子供にとっては、想像もつかないほどの大金だ。 彼らは突きつけられた画面の数字を見て、絶句した。「あなたたちのお母さんが、このお金をすぐに払えると思う? パチンコで負けて、夕飯も他人の家にたかりに来るようなお母さんが、30万円なんて大金を用意できるかしら」 香奈さんの言葉には、子供騙しではない現実の重みがある。 その現実を容赦なく叩きつけられて、悪童兄弟はうなだれた。「もし払えないなら、どうなると思う?」 香奈さんはわざと間を置き、彼らの顔を交互に見つめた。 2人の目は恐怖で見開かれた。喉の奥からヒュッと短い息が漏れる。「お義姉さんは、他人の家を壊した泥棒として、あなたたちを警察に突き出すことになるわね。警察の人が家に来て、あなたたちに手錠をかけるかもしれないわ」 警察。手錠。 その単語が出た瞬間、兄の顔から完全に血の気が引いた。 弟の方はもう、唇をワナワナとさせて今にも泣き出しそうだ。「それだけじゃないわ」 香奈さんはさらに追い打ちをかける。「陽菜ちゃんに暴力を振るった事実は、児童相談所にも通報される。そうなったら、あなたたちは『乱暴で危険な子供』として施設に入れられて、お母さんや、おばあちゃんとはもう一緒に暮らせなくなるかもしれないわよ。一生ね」 一生、親と引き離される。 その言葉が決定打となった。「いやだぁぁぁっ!」 弟の方が、ついに耐えきれなくなった。大声を上げて泣き出す。 その場にペタンと座り込み、顔を歪めて号泣を始めた。 兄の方もポロポロと大粒の涙をこぼしながら、必死に香奈さんに向かってお願いを始めた。「ごめんなさい! ごめんなさい! もう絶対やらないから! 警察呼ばないで!」「施設やだぁ! ママとば







