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第2話

Author: 世界ぶっ飛び
私は一瞬きょとんとして、思わず「ないよ」と口をついて断ってしまった。

というのも、前に何度か私が一緒に山登りに行こうと誘ったとき、颯太は決まって「仕事で手一杯だ」「もう年だし、そんなところに割る体力はない」と断ってきたからだ。

「チッ……」

受話口の向こうで彼が舌打ちし、装備のある場所を詳しく告げてきた。

「鈴、気分が落ちててさ。山登りすると気晴らしになるんだよ。いいから早く装備持ってこい。俺たち、これから日の出見に行くから」

クローゼットを漁っていると、おそろいで買ったペアルックの登山ウェアが二着、奥から出てきた。胸のどこかを、誰かに鷲づかみにされたように痛んだ。

彼はソフト開発の仕事で、いつも忙しくて姿さえろくに見えない。

私がウイルスに感染して三日も高熱でうなされていたときでさえ、彼は冷たい顔で「病院に付き添う時間なんかない」と言い放った。

そんな人が、今は女の子と二人きりで、夜通し山を登る時間ならあるらしい。

しかも、明日はどうしても外せない大事な会議が入っているはずなのに。

電話は切れないまま繋がっている。

その向こうから、鈴のとろけるような声が流れ込んでくる。

「颯太、もしかして亜衣は、ヤキモチ焼いてるんじゃない?それなら、一緒に連れてきてあげれば?」

「連れて行くわけないだろ。あいつなんて邪魔にしかならねぇよ。今の俺の任務は、お前の機嫌を直すこと」

二人の息づかいが近く重なり合っているのが、電話越しにも伝わってくる。私は慌てて通話を切り、登山用の物一式を代行サービスの配達員に託した。

ふだんから私は、鈴のために書類を取りに走り回り、話題のスイーツや限定コスメを買うために行列に並び、夜中に呼び出されては、泥酔した彼女を迎えに行っている。

颯太はいつも、「義姉なんだから、鈴の面倒を見るのは当たり前だろ」と言う。

でも、私はまだ一度だって、正式にプロポーズなんて受けていない。

午前四時、スマホに一枚の写真が届いた。画面の中で、颯太が鈴をしっかりと腕の中に抱き寄せている。

【亜衣、寒いから颯太がこうして温めてくれただけだよ。一応、報告ね。変なふうに思わないで】

いつもの挑発じみたやり口だ。颯太は、それを見ても「鈴は可愛いな」としか思わない。

私は短く一行だけ返した。

【二人とも、楽しんで】

夜になって、颯太はガタガタ震えている鈴を連れて帰ってきた。

「鈴が冷えちゃってさ、風邪引いたっぽい。悪いけど、何日か看病してやってくれ」

鈴は、いつものように勝手知ったる家のつもりでリビングに入ってきたが、床に散らかった荷物につまずきかけた。

「亜衣!家の中をこんなに散らかして、鈴をわざと転ばせる気か!」

颯太は弾かれたように飛び出してきて、鈴を抱きとめる。その反動で、私は強く弾き飛ばされ、ローテーブルの角に脇腹をぶつけた。あまりの痛さに、私の顔から一気に血の気が引く。

それでも彼は、私のほうを一度も振り返らなかった。

鈴は彼の胸に寄りかかり、涙目でか細くつぶやく。

「亜衣は、きっと私がプロポーズの邪魔したって怒ってるよね……」

「颯太、あなたに大事な話がある。二人きりで話したい」

颯太が何か言いかけるより早く、私は言葉を差し込んだ。すると、彼は反射的に抱き寄せていた鈴を少し離した。

そして、鈴が甘えた声で鼻を鳴らした。

「颯太、私、お腹すいちゃった」

それを聞いた颯太は、すぐさま鈴のほうを向き直り、優しい声で宥める。

「ちょっと待ってろ。今から何か作ってやる」

そう言ってくるりと背を向けた。さっきの私の一言なんて、もう完全に記憶の外だ。

鈴はこっちにいたずらっぽく変顔を投げてから、「颯太、颯太」とベタベタ呼びながら、彼の後ろをついていく。

私は苦笑いして首を振った。もう、わざわざ話す必要もなさそうだ。

私が寝室の片づけを終えて戻ると、二人はダイニングテーブルでイチャイチャしている。

颯太は、スプーンのスープをふうっと冷ましてから鈴の唇の前に差し出し、とろけそうな眼差しでじっと見つめていた。

鈴は頬を赤く染めて、わざとらしく身をよじる。

「やだぁ、今はスープ飲みたい気分じゃないの」

「ほら、いい子にしてろ。風邪のときは、温かいスープたくさん飲むのが一番効くんだ」

彼は、まるで貴重な宝石でも扱うみたいに、鈴の後頭部にそっと手を添える。

おかず三品とスープ一品から、食欲をそそる香りが立ちのぼっている。

彼はいつも「俺は理系だから、料理とかは無理」と言い張っていた。

だから、彼が家で休んでいる日でも、残業帰りの私が台所に立つしかなかった。

一度、あちこち出張で飛び回ってさすがに限界で、「今日は鍋だけでも作って」と甘えてみたことがある。

そのとき彼は、あからさまにうんざりした顔で怒鳴った。

「料理なんて女の仕事だろ。いい年して若い子みたいに甘えてんじゃねえよ。恥ずかしくないのか?」

結局のところ、彼にご飯を作ってもらうほどの存在じゃないだけだ、私が。

胸の奥で渦巻く余計な考えを押し込めて、私は黙って自分のために水を一杯注いだ。

そのタイミングで、颯太がふいに声をかけてくる。

「お前も、少し食べるか?」

私は首を横に振った。だって、鈴は、潔癖症で、人の箸がついたものなんて絶対に口にしないんだもの。

前に一度、鈴のために颯太がはちみつ生姜湯を作ったことがある。ちょうど生理中でお腹が痛かった私は、それを少しだけ分けてもらって飲んだ。

そのせいで、残った半分が、そのままゴミ箱に捨てられた。そして彼は、鈴の飲み物に勝手に口をつけた私を、さんざん罵ったのだった。

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