LOGIN結婚して六年目、周防慎二(すおう しんじ)は「街中を揺るがすほど盛大な結婚式を改めて挙げよう」と言い出した。 そのために、彼はわざわざイギリスまで行き、目も眩むような価値のダイヤの指輪をオーダーメイドした。 胸を躍らせながら指輪を受け取り、指先が内側に触れた瞬間、身体が強張る。 そこには、「蘇原若音(そはら わかね)」という私の名前が、歪んだ文字で刻まれていた。しかも、その上から、荒々しく深いバツ印が無残に引かれている。 デザイナーの江崎清花(えざき さやか)が「きゃっ」と小さく声を上げ、口元を押さえた。その目には、無垢な驚きだけが満ちている。 「若音、そのバツ……刻字の練習してたときに、つい入っちゃったの。慎二の指輪と同じくらい、きれいに仕上げたかったんだけど……」 彼女はおずおずと慎二を見上げる。 「慎二、言ってたよね。本当の芸術には、『偶然の美』があるって。この、たまたま残ったバツも……ちょうど、古いものが終わるって意味なんじゃないかな」 頭の中で、「理性」という名の糸が、ぷつりと切れた。 私は指輪を掴み、力任せに彼女へ投げつける。 硬いダイヤの面が彼女の頬をかすめ、赤い血筋が走った。 清花は顔を押さえて悲鳴を上げ、よろめきながら後ずさる。 慎二は即座に彼女の前に立ち、私を見る目を氷のように冷やした。 「たかが指輪一つだろ。何を発狂してる」 私は彼の左手を掴み、無理やり彼の指輪を外す。 内側には、丁寧に彫られた文字――「慎&清」。 清花は慎二の腕の陰に寄り添い、見上げながら、悔しそうに涙を滲ませる。 「慎二……『慎』の字を彫ってるとき、どうしても刃先が横にずれちゃって。まるで……勝手に、あるべき場所を見つけたみたい」
View More「慎二、私たちの間は……あなたがイギリスへ、彼女を追って行ったあの瞬間に――もう、とっくに終わっていたの」弁護士が一通の書類を、魂の抜けたような慎二の前に差し出した。「周防様。こちらは離婚協議書および財産分与一覧です。三営業日以内にご署名ください。期限内に応じていただけない場合、当方は法に基づき強制手続を申請します」そのとき、父が数名に付き添われて姿を現した。彼は蒼白な顔で立ち尽くす慎二を一瞥しただけで、まっすぐ私の元へ歩み寄る。「片付いたか?」「ええ」父は軽く頷き、私と並んで歩き出した。周囲の畏敬の視線を背に受けながら、私たちはその場を後にした。……離婚の成立は、思っていたよりも早かった。慎二に、選択肢はなかった。蘇原家の巨大な法務チームと、動かしようのない証拠の前で、彼の抵抗はすべて、空虚な悪あがきに過ぎなかった。彼は完全な無一文で家を出た。身につけている服以外、何一つ持ち出せず、そして、何一つ持ち出す資格もなかった。清花の消息を耳にしたのは、それから一か月後のことだった。噂好きの仲介役を通じて、断片的に聞いた話だ。慎二が離婚に署名し、最後の利用価値を失った翌日、彼女は仮住まいのマンションから、金目のものをすべて持ち去ったという。そして、どこからか手に入れた金を持って、一人で私立病院に入った。子どもは、残らなかった。慎二に知らせることもなく、彼女は冷静かつ手際よく、世の中から姿を消した。一方の慎二は、すべてを失い、A市の最果てで、必死に生き延びていた。かつての仕事に戻ろうと、数人を集め、昔住んでいた賃貸よりも劣る地下室を借りたらしい。だが、評判は地に落ち、信用は崩れ、手元には動かせる資金すらなかった。たまに舞い込む小さな仕事も、搾取の末の残り滓で、生活を支えるには到底足りなかった。かつての知人が、老朽化したスーパーで彼を見かけたことがあるという。色あせたシャツを着て、冷蔵ケースの前で、割引の牛乳二本を見比べていた。その背中は丸まり、かつての「周防社長」の面影は、微塵もなかった。その後、彼は半狂乱になって清花を探したとも聞いた。問い詰めたかったのか、取り戻したかったのか、それとも、ただこの底なしの絶望を分かち合う相手が欲しかったのか。だが、電話は常に使われておらず、
彼は警備員に入口で止められていたが、どうしても立ち去ろうとせず、しゃがれた声が広い廊下に虚しく反響していた。「若音……若音!一度でいい、会わせてくれ!一度だけでいいんだ、どうしても話さなきゃいけないことがある!」ちょうど会議を終えたところだった私は、物音に気づき、警備員に手で合図をして下がらせた。彼は私を見るなり、目が一瞬で見開かれた。ほんの数日会わなかっただけなのに、十歳は老け込んだように見えた。スーツは皺だらけ、ネクタイは歪み、顔色は灰色に沈んでいる。ただ、血走ったその目だけが、執念深く私を捉えていた。「若音……」声が激しく震え、近づこうとして、また警備員に遮られる。数歩離れた距離のまま、彼は支離滅裂に言葉を吐き出した。「今さら何を言っても言い訳に聞こえるのは分かってる……でも、イギリスに行ったのは、本当にお前のためだったんだ。お前に一番いいものを与えたくて……清花は、どうやってか俺の行程を嗅ぎつけて、いつもホテルの前に現れて……」彼は苦しそうに髪を掴んだ。「……あの日、デザインが上手くいかなくて、酒を飲みすぎた。彼女が部屋まで送ってきて……酔ってて、お前だと勘違いしたんだ……一度だけだ!本当に、あの一度だけなんだ!」必死に顔を上げ、私の表情に揺らぎを探す。「その後、彼女が泣きながら妊娠したって言ってきて、子どもを盾にしてきた……俺も、あの時は正気じゃなかった!お前はずっと子どもはいらないって言ってただろ。親からは急かされるし……俺だって男だ、跡取りを残したい気持ちもあった……だから、子どもが生まれたら金を渡して別れて、またお前と昔みたいにやり直せると思ったんだ……若音、俺は取り返しのつかないことをした!最低だ!人間じゃない!」彼は膝が崩れ、今にも跪きそうになるのを警備員に支えられ、前屈みのまま、鼻水と涙を流した。「でも、あいつは俺を愛してなんかいない!金目当てだっただけだ!今、俺が何も持っていなくなった途端、すぐ本性を現した!若音……俺が悪かった、本当に悪かった……俺に一番よくしてくれたのはお前だけだ。七年だぞ?七年の関係が、こんな簡単に終わるわけない……子どもは……処理する。だから、もう一度やり直そう。頼む……もう一度だけ、俺を信じてくれ……」私は黙って、最後まで聞いた。周囲では、社員た
メール画面を閉じて、スマホを置いたその瞬間、また画面が点いた。高級ブランド店で顔なじみの販売員からのメッセージだった。文面には、いつもの噂好きな調子がにじんでいる。【蘇原さん、ちょっと聞いてください。今夜、江崎さんが来店して、どうしてもあなた名義のサブカードで決済したいって言い張ったんです。百万円の旧作バッグでした。でも決済が通らなくて……その場で顔色が真っ青になってました。「ご主人の周防さんが約束した」って。こちらは規定どおり対応しましたので、ご安心ください】続けて、慌てて店を出ていく彼女の盗撮写真が添えられていた。私は、カウンターの前で期待から逆上へと変わっていく清花の表情を、ありありと想像できた。私は短く返信した。【了解。そのカードは失効で。今後、彼女本人は関連ブランドすべて出入り禁止にして】【承知しました】周防慎二。あなたが「若音を愛している」と言ったとき、私はあなたを支えた。あなたが「清花を愛している」と言ったとき、彼女の目の前にいたのは「周防社長」という玉の輿だけ。今、あなたの背後には何もない。彼女の愛は、どれほど残っているのだろう。……弁護士の通知と資産凍結の書類が届いてから一週間後、秘書が一本の音声データを送ってきた。「蘇原社長、周防さんが住んでいるマンションの管理会社からです。……お役に立つかもしれません」再生すると、最初に鈍い衝撃音が響いた。何かを床に叩きつけた音だ。続いて、清花の声が甲高く、泣き叫ぶ。「慎二!このメッセージ見てよ、カード全部凍結されてる!」慎二は怒りを押し殺しながらも、ひどく疲れた、不機嫌な声で返した。「何度言わせるんだ。今はそんなことに構ってる暇はない。少しは大人しくできないのか?」「大人しく?どうやってよ!」清花はしゃくり上げながら叫ぶ。「バッグは?車は?あの時、なんて言ったの!今じゃ、このボロ部屋の家賃すら払えそうにない!慎二、これが『これからは俺が養う』って言った未来なの!?」「黙れ!」慎二も限界だったのか、声を荒げた。「こっちはイライラしてるのが分からないのか?お前は物をねだることしかできないのか!」「物をねだる?」彼女の声は、露骨なまでに刺々しくなった。薄っぺらな情なんて、もう欠片も残っていない。「胸に
無実?慎二が、無実だって?じゃあ、この七年間、私が無駄にした感情の代償は、いったい誰が払うの?ほどなくして、慎二から電話がかかってきた。静まり返った部屋の中で、着信音だけがやけに耳障りだ。画面に点滅する名前を見つめたまま、私は出なかった。一度。二度。三度。窓の外では、夜の闇が濃く、溶ける気配もない。私は立ち上がり、窓辺へ歩いた。ガラスに映る自分の顔には、何の感情もない。慎二。あなたの言い訳も、後悔も、無実の主張も……もう、一文字たりとも聞きたくない。【消えろ】送信。ブロック。世界が静かになったのは、十分も経たないうちだった。今度は、見知らぬ番号からの着信。その数字の並びを見ただけで、電話の向こうで彼が、目を赤くして、何度も何度も発信を繰り返している姿が、容易に想像できた。私は口角をわずかに引き、通話ボタンを押した――何も言わずに。受話口から、荒い呼吸音が伝わってくる。「若音……?」声はひどく掠れていて、探るような、縋るような響きだった。「やっと……出てくれた」「うん」私は、どうでもよさそうに応じた。「俺……清花が、あんなものを送るとは本当に知らなかった」一拍置いて、聞き慣れた、あの独りよがりな「なだめ口調」が混じる。ただし、そこには以前より濃い動揺があった。「清花は子どもみたいなところがあるだろ。俺が落ち込んでるのを見て、代わりに怒ってくれただけなんだ……お前、あいつと本気で張り合うなよ」「へえ」「若音、俺たち、一度会えないか?」声が次第に早まる。「お前が怒ってるのは分かってる。でも、事実はお前が思ってるようなものじゃない。俺と清花は……ただ……」「慎二」私は、淡々と遮った。「今の私が、あなたと彼女の『ラブストーリー』を聞きたいと思ってると、本気で思う?」彼は、言葉に詰まった。私は続ける。「弁護士からの通知は、明日届く。ちゃんと受け取りなさい」「若音!」彼の声が裏返る。「そこまで冷たくする必要があるのか?俺が悪かったのは認める。でも、七年だぞ。七年のよしみを、少しも考えないのか?」「よしみ?」私は、笑った。「あなたが、私たちの結婚指輪に、彼女の名前を刻ませた時点で、そんなものは、とっくに終わってる」「あれ
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