LOGIN夫・伊織玲司(いおり れいじ)が亡くなって一年。 高坂遥香(こうさか はるか)は、二人の結婚式のビデオだけを支えに、生きてきた。 玲司の命日の夜。 不意に、その結婚式のビデオから音声が流れ出した。 見知らぬ男の声が、静まり返った部屋に響く。 「じゃあ、お前にとって、遥香は……」 「取るに足らない。というより……捨てても」 そう答えたのは、一年前に死んだはずの玲司だった。 「別に、惜しくもないな」 スクリーンの放つ白い光が、血の気を失った遥香の顔を冷たく照らし出す。 その瞬間、遥香はようやく悟った。 玲司が周到に計画した「死」――それこそが、この嘘にまみれた結婚における、唯一にして揺るぎない真実だったのだ。
View More玲司は緊急搬送され、ただちに病院へ運び込まれた。雨音もその場で逮捕され、身柄を拘束された。遥香と英介は病院で簡単な手当てを受けると、息つく間もなく手術室の前へと駆けつけた。「先生、どうなんですか……!?助かる見込みはあるんですか!?」遥香には、まだ信じられなかった。雨音の車が突っ込んできた、あの最後の瞬間。玲司が突然現れ、二人を突き飛ばしたことが。「患者さんは重傷です。内臓出血が激しく……助かる見込みは、極めて薄いでしょう」医師の険しい表情に、遥香の背筋は凍りついた。「じゃあ、私たちは……」「ご家族、ご友人の方は、最後に一目、会ってあげてください」そう告げて、別の医師が重い足取りで手術室から出てきた。続いて、医療スタッフたちも次々と姿を現し、やがて手術室の前には、遥香と英介だけが残された。「行きなよ。言いたいことがあるなら、今のうちに伝えてあげないと」英介は静かにそう言い、遥香の背中をそっと押して頷いた。遥香はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがて我に返り、静かに歩き出して手術室の中へ入っていった。室内の照明は落とされ、空気はひどく重かった。少し離れた手術台の上に、玲司が横たわっている。その顔には、隠しきれない苦痛の色が浮かんでいた。遥香は、目の前の男とどう向き合えばいいのか分からなかった。愛――そんなものは、とうに捨てた。憎しみ――それも、もう湧いてこない。遥香はゆっくりと玲司のそばへ歩み寄った。何度も唇を動かしたが、言葉はひとつもこぼれ落ちなかった。「……はる……か……」先に口を開いたのは、玲司のほうだった。「すまなかった……」掠れた声。その瞳には、深い後悔の色が宿っていた。遥香の胸が、ずきりと痛んだ。「まだ……俺を恨んでるよな。でも、今となっては……こうして謝ることしかできない。これが……ゴホッ……天罰なんだろうな……お前のことも、何もかも……そして、俺自身さえも見失ったことへの……罰だ」玲司は真っ白な天井を見上げ、口の端に苦い笑みを浮かべた。だが、その表情はやがて何かを悟ったように和らぎ、再び遥香を見つめる。「遥香……俺が逝く前に、最後のお願いを……聞いてくれないか。俺を……ゴホッ……この街の、どこか静かな墓地に埋めてくれ。そして
国際指名手配が発令されてから、まもなく一週間が経とうとしていたが、雨音の行方はいまだにつかめていなかった。まるで最初から、雨音という人物など存在しなかったかのようだ。それでも遥香には分かっていた。雨音は何かを察し、事前に身を隠したのだと。「思い詰めるな」いつの間にか、英介がそばに立っていた。手にした花束を、そっと遥香へ差し出す。遥香は一瞬呆然とその花束を見つめたが、すぐに手を伸ばして受け取った。「ありがとう」微笑みを向けたあと、遥香はわずかに逡巡し、呟くように切り出す。「やりたいことがあるの。少し、付き合ってくれる?」英介は不思議そうに彼女を一瞥したが、やがて静かに頷いた。……かつて住んでいた家の玄関ポーチで、遥香は深く息を吸い込み、覚悟を決めたようにドアを開けた。室内の光景は、以前と何ひとつ変わっていない。ただ、少し離れた場所にあるテレビ画面だけが、電源を落とされ、真っ暗なまま沈黙していた。かつての遥香なら、頭の中で数え切れないほど反芻してきた結婚式のビデオを、毎日のように見返していたはずだ。だが、ここ最近は、ほかに向き合うべきことがあまりにも多かった。そして今は、もうこのビデオを必要としていない、そう感じていた。遥香はテレビの前へ歩み寄り、ビデオデッキから一本のテープを引き抜いた。「これは……?」「結婚式のビデオテープよ」英介に軽く瞬きを返すと、そのままテープを手に、玄関の外の隅へと歩いていく。パチパチと乾いた音を立てて炎が上がり、ビデオテープは瞬く間に燃え尽き、黒い残骸へと変わっていった。赤い炎が、遥香の瞳の奥に揺らめく。あの人は、人生で初めて愛した男性だった。けれど今、このすべては、結局は煙のように消え去る運命なのだ。かつての一方的な想いも、彼との絆も、ここで終わりにするべきだった。玲司のことは忘れる。きっと。炎が次第に勢いを失っていくのを見届けると、遥香は身を翻し、その場を去ろうとした。だが、数歩も進まぬうちに、鈍く低い車のエンジン音が、突如として空気を切り裂いた。振り返った瞬間、すぐそばに停まっていた赤いスーパーカーが、遥香めがけて猛スピードで突っ込んでくるのが目に入った。しかも、減速する気配はまったくない。その刹那、遥香は
「ごめんなさい、他意はないの」家に着くなり、遥香は英介の手をそっと離し、申し訳なさそうに微笑んだ。「平気だ」男の顔にはかすかな名残惜しさが浮かんでいたが、遥香はそれに気づいていないようだった。「英介さん、もう少し……そばにいてくれないかな。彼が、まだ近くにいるかもしれないから」そう言って、遥香は英介にお茶を一杯差し出した。二人は示し合わせたようにソファへ腰を下ろす。しばらくのあいだ、部屋の空気は凍りついたかのように静まり返っていた。「さっき……私のことを、二十七年前から知ってるって言ってたけど。どうして私は、あなたのことをまったく覚えていないのかしら」沈黙を破るように、遥香は意を決したように口を開いた。その瞳には戸惑いが滲んでいる。「俺は……」英介の顔に一瞬、ためらいがよぎったが、やがて覚悟を決めたように喉仏を動かし、ゆっくりと言葉を続けた。「白浜市、星見町六丁目、緑川家。何か心当たりは?」聞き覚えのある響きだった。遥香は記憶をたどる。「……なんとなく、思い出した気がする。子供の頃、確かに弟と一緒に、あそこで暮らしてたわ」そう言って頷き、続ける。「でも、緑川家には子供はいなかったはずよね。あなたは……」「俺は、両親が三十代になってから、ようやく授かった最初の子供なんだ」英介は懐かしむように語り始めた。「三十を過ぎてからの子だったから、過保護なくらい大事にされてな。外部の人間で、俺の存在を知ってる者はほとんどいなかった」「じゃあ、私たちは……」遥香はまだ腑に落ちない様子だった。「星見町六丁目の緑川家の屋敷の外に、新しくできた計画道路があっただろ。あそこで、君が助けてくれた、あの男の子だよ」「あっ……あの、殴られてた子って……あなた?」遥香は思わず声を上げそうになった。まさか、あの頃いじめられていた痩せっぽちの少年が、目の前にいるこの屈強な国際刑事だなんて、夢にも思わなかった。「ああ」英介は少し照れたように、気まずそうに答えた。「実は、俺が国際刑事警察を目指すようになったのも、遥香さんのおかげなんだ。もっと強くなって、もっと頼れる男になれば、いじめる奴らを追い払えるし、守りたい相手を……守れるようになるって。そう教えてくれたのが……遥香さん、君だった」
遥香が裁判所に提出した書類は、ほどなくして受理された。警察署もインターポールへ連絡を取り、全力で雨音の行方を追い始めた。玲司が遥香の両親や智哉を殺害したという、決定的な直接証拠は、確かに存在しなかった。それでも遥香は、ようやく胸の奥に溜まっていた息を吐き出すことができた。心身ともに疲れ切っていた。このところずっと、肩に重くのしかかる圧迫感に、呼吸すら苦しくなる日々が続いていたのだ。もし英介の助けがなければ、自分一人の力では、ここまで事を進めることはできなかったかもしれない。そう思いながら、遥香は隣の運転席に座る男へ、そっと視線を向けた。裁判所を出たとき、英介は車で迎えに来てくれていたのだ。外は冷え込んでいるから、家まで送らせてほしい――そう言われ、断り切れずに承諾した。だが、いざ英介の車に乗り込むと、二人の間にはどこか居心地の悪い、微妙な沈黙が漂っていた。「あの……」「あの……」二人は同時に口を開き、そしてまた同時に言葉を止めた。次の瞬間、思わず互いに吹き出してしまう。「先にどうぞ」英介は前方に視線を向けたまま、少しかすれた低い声で言った。「ありがとう、英介さん」「それはもう、何度も聞いた」英介はちらりと遥香に視線を送り、続けた。「礼を言う必要はない。感謝するなら、遥香さん自身にだ」遥香は、きょとんと目を瞬かせた。「遥香さんは、強い」英介の声には、不思議な引力が宿っているかのようで、自然とその言葉に耳を傾けてしまう。「知り合って長いが、君が泣いているところを見た記憶がない。これほど辛い経験をする人間は、そう多くない。まして、それを乗り越え、君のように強く在り続けられる人間はほとんどいない。遥香さんは、本当にすごいよ」その声には、偽りのない賞賛と感嘆が込められていた。「それって……褒め言葉として受け取っていいのかしら」遥香は、車内の空気が少しだけ熱を帯びたように感じた。「ああ、もちろんだ」英介は小さく頷いた。「俺がインターポールにいた数年間、血なまぐさい現場を嫌というほど見てきた。満足に食事もできず、肉親を失い、住む場所を失って路頭に迷う人々もな。だが、遥香さんのように優しさと強さを併せ持つ人間は、そういない。俺自身を含めてもだ。当時、俺
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