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汚されたドレス

Author: 影畑凛星
last update publish date: 2026-08-12 15:59:00

「どうしたの?」

 美紗が不思議そうに尋ねる。それを聞いて久恵はハッとした。

「いいえ、なんでもないわ。……それにしても、汚らしいドレスね」

 そして香子に向って顔をしかめて見せた。

「これは……、お母様のドレスです」

香子は小さな声で答えた。

「私のドレスは用意されていなかったので……。平服で伺うわけにはまいりませんから、お母様のものをお借りしました」

久恵の目が細くなる。

「勝手に引っ張り出したの?」

「申し訳ありません。でも、ほかに着てこられるものがなくて……」

「まったく」

久恵はため息をついた。

「美紗の言う通りだわ。そんな昔のドレスを着てくるなんて、恥ずかしいと思わないの?」

「……」

香子は何も言えなくなった。

美紗が得意げに笑う。

「ほら。お母さんだってそう言ってるじゃない」

ようやく美紗が足をどけた。

香子はそっとスカートを手繰り寄せる。

赤紫色の染み。

黒ずんだ靴跡。

家を出る前には、あんなに美しかったのに。

母が大切にしていたはずのドレスは、見る影もなく汚れていた。

胸の奥が、ぎゅっと痛くなる。

それでも香子は涙をこぼさなかった。

「とにかく、早く立ちなさい」

久恵が言う。

「いつまでそんなところにいるつもり? 鷹宮家の人間が床に座り込んでいたら、私たちまで恥をかくでしょう」

「……申し訳ありません」

香子はゆっくりと立ち上がった。

足元がおぼつかない。

それでもドレスの裾を整えようとする。

「それにしても、ひどい格好」

美紗が笑った。

「そんなのでまだパーティーにいるつもり?」

「美紗」

久恵がたしなめるように名前を呼んだ。

香子が思わず顔を上げる。

しかし久恵は、美紗を叱ったわけではなかった。

「そろそろ向こうへ行きましょう。ご挨拶しなくてはいけない方がいるの」

「はーい」

「香子。あなたは目立たないところにいなさい。今の格好で私たちのそばに来ないでちょうだい」

「……はい」

それだけ言うのが精いっぱいだった。

久恵と美紗が去っていく。

二人の背中を見送りながら、香子はそっとスカートの汚れに触れた。

濡れた布から、甘い匂いがする。

――ごめんなさい、お母様。

心の中で呟いた。

せっかく残してくださったものなのに。

私が着たりしたから。

香子は俯いたまま、人目を避けるように会場の端へ歩いていった。

それからしばらくして。

香子は会場の隅に置かれたテーブルのそばにいた。

できるだけ誰の目にも留まらないように。

ただ、パーティーが終わるのを待っていた。

帰りたい。

けれど、一人で帰れば久恵に何を言われるか分からない。

だから待つしかなかった。

「失礼します」

 そこに突然、男性が近づいてきた。

 見ず知らずの相手に、香子は身構える。

「驚かせて申し訳ありません、こちらを」

 男性はサッと、真新しいハンカチを差し出してきた。

「これは……」

「お受け取りください」

 遠慮しようとしたが、そうする暇もなくハンカチを渡された。

 そしてそのまま、男性は軽く頭を下げて行ってしまう。

「あ……」

 お礼も、言えなかった。

 追いかけるべきか逡巡していると、聞き覚えのある声がした。

「まだいたの?」

瞬間、香子の身体が強張った。

顔を上げる。

そこには、美紗がいた。

「美紗……」

「お母さん、目立たないところにいろって言ったよね?」

「ええ。ですから、ここに……」

「ここだって人から見えるじゃん」

美紗は苛立ったように眉を寄せた。

「その汚いドレスでうろうろされると、本当に迷惑なんだけど」

「……ごめんなさい」

「またそれ?」

美紗は鼻で笑った。

その視線が、ふとテーブルへ向く。

そこには、パーティーのために用意された大きなデコレーションケーキが置かれていた。

美紗の口元がゆっくりと歪んだ。

「そうだ」

嫌な予感がした。

香子が一歩下がる。

けれど、美紗はすでにケーキの載った皿へ手を伸ばしていた。

「その格好、どうせもう汚れてるもんね?」

「……美紗?」

「だったら、これくらい増えたって同じでしょ?」

美紗がケーキを持ち上げる。

白いクリーム。

赤い苺。

それが香子の頭上へ掲げられた。

「や――」

逃げようとしたときには、もう遅かった。

美紗が笑う。

そして――。

ぐしゃっ。

冷たいクリームが、香子の頭から降ってきた。

「ひっ……!」

香子がその冷たさに驚いて、大声を上げる。

その声に反応して、宴会場にいた人々が一斉にこちらを振り向いた。

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