LOGIN
冷たいものが、頭から降ってきた。
「……っ」
突然のことに、香子は声を失った。
淡い色の液体が髪を伝い、頬を濡らしていく。
ぽたり、ぽたり。
雫が顎から落ち、胸元へと染み込んでいった。
甘ったるい香りが鼻をつく。
ジュースだ。
しかも、よりにもよって色の濃いベリージュースだった。
「やだ、ごめんなさい、お姉さま」
くすくすと笑う声が聞こえる。
謝っている人間の声ではなかった。
香子がゆっくり顔を上げると、そこには空になったグラスを手にした美紗が立っていた。
「手が滑っちゃった」
「美紗……」
香子はそれだけ言うと、再び自分のドレスへ目を落とした。
淡いアイボリーの生地に、赤紫色の染みがじわじわと広がっている。
胸元から腰へ。
そこからさらにスカートへ。
「これ……お母様の形見なの……」
ようやく出た声は、かすかに震えていた。
このドレスは、亡くなった母が若い頃に着ていたものだった。
今日のパーティーに出席するため、美紗には新しいドレスが用意されていた。
けれど、香子のものはなかった。
久恵に尋ねても、
『あなたの分なんてないわよ。家にあるものを適当に着ればいいでしょう』
そう言われただけだった。
しかし、今日のパーティーは平服で出席できるようなものではない。
困り果てていた香子が思い出したのが、母の遺品だった。
大切にしまわれていた古い箱を開け、その中から見つけたドレス。
流行のデザインではない。
けれど上質な生地で丁寧に仕立てられていて、今でも十分に美しいものだった。
袖を通して鏡の前に立ったとき、ほんの少しだけ嬉しかった。
――お母様も、これを着ていたのね。
そう思ったから。
それなのに。
赤紫色の染みは、今も少しずつ広がっている。
香子の目に、うっすらと涙がにじんだ。
「だから何?」
冷たい声が降ってきた。
顔を上げるより早く、美紗の手が香子の肩を強く押した。
「きゃ……!」
よろめいた香子は、そのまま床へ倒れ込んだ。
とっさについた手のひらに痛みが走る。
華やかなパーティー会場。
きらびやかなシャンデリアの下で、美しく着飾った人々が談笑している。
その片隅で、香子だけが床に座り込んでいた。
濡れた髪。
汚れたドレス。
そして、その香子を見下ろす美紗。
「そんな古臭いドレス、鷹宮家の恥よ!」
美紗が吐き捨てる。
そして次の瞬間。
ぐしゃり。
美紗のヒールが、床に広がっていたドレスのスカートを踏みつけた。
「……!」
香子の肩が小さく震えた。
母のドレスが。
母が残してくれた、大切なドレスが。
美紗の靴の下で踏みにじられている。
「何よ、その顔」
美紗は苛立ったように言った。
香子は何も言えなかった。
ただ、踏みつけられているドレスを見つめている。
目にたまった涙がこぼれそうになって、唇をきゅっと結んだ。
ここで泣いてはいけない。
泣いたら、きっと美紗はもっと喜ぶ。
それを香子は知っていた。
「お姉さまって、本当に陰気よね」
美紗がわざと靴底を擦りつける。
淡い生地に、汚れた靴跡がついた。
「せっかくのパーティーなのに、そんな辛気臭い顔して。みんな迷惑してるって分からないの?」
香子は答えられなかった。
周囲から視線を感じる。
誰かがこちらを見ている。
けれど、誰も声をかけてはくれない。
助け起こしてくれる人もいない。
香子は俯いた。
昔から、そうだった。
父が久恵と再婚し、美紗が妹になった頃から。
美紗が香子のものを壊しても。
久恵が香子だけを家族の輪から外しても。
香子が我慢すれば、それで済んだ。
言い返せば、もっと酷いことになる。
だから香子は、いつの間にか耐えることを覚えていた。
「何をしているの?」
聞き慣れた声に、香子が顔を上げた。
「お母さん!」
美紗がぱっと笑顔になる。
こちらへ歩いてきたのは、継母の久恵だった。
華やかなドレスに身を包み、髪も隙なく整えられている。
香子は一瞬だけ期待してしまった。
これだけ大勢の人がいるのだから。
せめて今日くらいは、美紗を叱ってくれるのではないかと。
けれど。
久恵は床に座り込んでいる香子を見るなり、眉をひそめた。
「香子。あなた、何をしているの?」
「……え?」
「そんなところに座り込んで。みっともない」
香子は息を呑んだ。
「でも、美紗が……」
「ああ、お母さん。私、悪くないからね」
美紗がすぐに口を挟んだ。
「お姉さまが変なドレス着てきたから、ちょっと注意してあげただけ」
「変なドレス?」
久恵が香子を見る。
正確には、香子ではなく、そのドレスを。一瞬だけ。
久恵は、母親のワンピースを着た香子を見て、目を見開いた。
全身から血の気が引いていく。
「お前、もう死んだんじゃない?」
「……どうして、戻ってきたの?」
「私だって、絵くらい描けるんだから!」美紗はスマートフォンをテーブルに置いた。久恵は呆れたように顔を上げた。「急に何を言い出すの?」「だって、香子の絵が一万円で売れたんでしょ? 私だって描けば売れるわよ!」「絵なんて、学校を卒業してから描いていないでしょう?」「そんなの関係ないじゃない!」美紗は不機嫌そうに唇を尖らせた。「どうせ勇樹さんのファンが買ったんでしょ。香子の絵だから欲しいわけじゃないんだから」久恵はスマートフォンの画面を覗き込んだ。そこには、勇樹の投稿を引用した記事が表示されていた。『来栖勇樹、恋人の絵画を絶賛。初出品作が即日完売』「……まったく、大げさね」久恵は鼻を鳴らした。「たった一万円の絵が売れただけでしょう?」「そうよ! なのに、みんな香子のことばっかり褒めてるの!」美紗は画面を指さした。『優しい色使いが素敵』『ほかの作品も見たい』『次の作品展が楽しみ』「……何よ、これ!」美紗はスマートフォンを握りしめた。「香子ばっかり、ずるい!」久恵はため息をついた。「そんなに羨ましいなら、あなたも絵を習えばいいじゃない」「……え?」「香子にできることなら、あなたにだってできるでしょう?」美紗は目を輝かせた。「そうよね!」そして、すぐにスマートフォンで絵画教室を検索し始めた。「……あ、ここ! 香子が通ってる学校じゃない?」画面には、青葉美術アカデミーの公式サイトが表示されていた。「私もここに通おうかな」久恵は眉をひそめた。「わざわざ同じ学校に?」「だって、香子より上手な絵を描いてやりたいんだもん!
「……三人も、ですか?」香子は驚いて聞き返した。「はい。皆さん、来栖さんのSNSをご覧になったそうです」受付の女性は嬉しそうに答えた。「作品を購入したいというお問い合わせが、立て続けに入っているんですよ」「……そんな」香子は戸惑いながら勇樹を見た。「勇樹さん、どうしましょう……」「すごいね。香子の絵を欲しいって人がいるんだ」「でも、三人もいらっしゃるなんて……」香子は自分の絵を振り返った。祖父母の庭を思い出しながら描いた『春の庭』。まさか、知らない人が買いたいと言ってくれるとは思わなかった。「……あの、お値段は一万円にしてあるんですけれど」「はい。皆さん、その価格もご存じです」受付の女性が頷いた。「ただ、一点しかありませんので、販売方法について先生に確認してまいりますね」「……よろしくお願いいたします」香子は深く頭を下げた。しばらくして、講師がやってきた。「鷹宮さん、すごい反響ですね」「……私も、驚いてしまって」「今回は先着順で販売することになっていますので、最初にお申し込みくださった方にお譲りする形になります」「……そうなんですね」香子は少しほっとした。「それでしたら、ぜひ、その方に……」「わかりました。お手続きを進めますね」講師は微笑んだ。「初めての出品で、もう購入希望があるなんて素敵ですね」「……ありがとうございます」香子は頬を赤らめた。それからも、勇樹の投稿には次々とコメントが寄せられた。
「……取材?」勇樹はスマートフォンを耳に当てたまま、眉を上げた。『はい。以前から来栖さんを取材している芸能誌の記者さんです。明日のご予定を聞きつけたようで』「どうして知ってるんだろう?」『作品展の案内は一般公開されていますからね。来栖さんが訪問されるという情報も、どこかから伝わったのでしょう』勇樹は少し考えた。「香子の作品展なんだ。俺が目立って、迷惑をかけるのは嫌だな」『では、お断りしましょうか』「うん。そうしてくれる?」『承知しました』電話を切ると、香子が心配そうに尋ねた。「……勇樹さん、取材というのは?」「明日の作品展に、記者さんが来たいんだって」「……えっ!」香子は驚いた。「私の学校に、ですか?」「うん。でも、断っておいたよ」「……そうなんですね」「せっかくの作品展だからね。香子も、ほかの生徒さんたちも、落ち着いて楽しめたほうがいいでしょう?」「……はい」香子はほっとしたように微笑んだ。「ありがとうございます」翌日。青葉美術アカデミーのギャラリーには、たくさんの作品が並んでいた。風景画や人物画、色鮮やかな抽象画。香子は入口に立ち、緊張した面持ちで会場を見渡した。「……こんなに立派な展示会になるんですね」「うん。すごいね」隣に立つ勇樹が微笑んだ。今日は帽子を深くかぶり、目立たない服装をしている。それでも、すれ違う人が何度か振り返っていた。「香子の絵はどこ?」「……こちらです」香子は勇樹を奥の展示スペースへ案内した。壁には、『春の庭
「……私の絵に、お値段をつけるなんて」香子は作品展の案内を見つめた。「なんだか、申し訳ない気がします」勇樹は笑った。「どうして?」「だって、まだ習い始めたばかりですし……。お金をいただけるような絵ではありませんから」「でも、香子が一生懸命描いた絵でしょう?」「……はい」「だったら、欲しいと思う人がいても不思議じゃないよ」香子は少し考えた。確かに、自分も誰かの絵を見て、素敵だと思ったことはある。けれど、自分の絵を買いたいと思う人がいるなんて、想像もできなかった。「……明日、先生に相談してみます」「うん。それがいいね」勇樹は頷いた。翌日の授業。「作品の販売価格ですか?」講師は香子の質問に頷いた。「はい。希望される方には、ご自身で価格を決めていただいています」「……どのくらいが普通なのでしょうか?」「大きさや画材にもよりますが、今回の作品展なら数千円から数万円くらいでしょうか。もちろん、非売品にしても構いませんよ」「そうなんですね……」香子は制作途中のキャンバスを見つめた。黄色い花が、少しずつ形になってきている。「……私、売るつもりで描いていたわけではなくて」「ええ。それでいいんですよ」講師は微笑んだ。「作品展は、まず皆さんに絵を見ていただく機会ですから」「……はい」「価格は完成してから決めても大丈夫ですよ」香子はほっとして頭を下げた。「ありがとうございます」それから一週間。香子は授業のたびに、少しずつ絵を仕上げていった。
「鷹宮さん、作品展に出してみませんか?」翌週の授業で、講師からそう声をかけられた香子は、驚いて顔を上げた。「……私が、ですか?」「ええ。小野寺さんから、出品を考えていらっしゃると聞きました」「はい。でも、まだ通い始めたばかりですし……」講師は香子のスケッチブックを覗き込んだ。「この黄色いお花、素敵ですね」「……ありがとうございます」「思い入れのあるお花なんですか?」「はい。亡くなった祖父母の庭に咲いていたんです」香子は懐かしそうに微笑んだ。「子供の頃、よくこのお花を描いていました」「そうなんですね。でしたら、ぜひ作品にしてみましょう」講師は展示の案内を差し出した。「今回は生徒作品展ですから、経験の長さは関係ありませんよ」香子は案内を受け取った。そこには、作品展の日程と出品方法が書かれていた。「……あの、ひとつ伺ってもよろしいでしょうか」「何でしょう?」「私の絵を、見てくださる方はいるんでしょうか……」講師は微笑んだ。「もちろん。毎年、ご家族やお友達だけでなく、一般のお客様もいらっしゃいますよ」「……そうなんですね」香子は胸を弾ませた。自分の描いた絵を、知らない誰かが見てくれる。考えただけで、少し緊張してしまう。「……私、出してみたいです」「ええ。楽しみにしていますね」香子は嬉しそうに頭を下げた。その日から、香子は作品展に向けて絵を描き始めた。題材は、祖父母の庭に咲いていた黄色い花。古い写真を参考にしながら、キャンバスに少しずつ色を重ねていく。「…&he
「……入学のお申し込みですね。ありがとうございます」青葉美術アカデミーの受付で、女性が微笑んだ。「はい。よろしくお願いいたします」香子は少し緊張しながら頭を下げた。あれから数日。勇樹と一緒に見学した絵画コースに、正式に通うことを決めたのだ。週に二回、午後の授業を受けることになった。「それでは、来週からお待ちしておりますね」「はい!」手続きを終えて校舎を出ると、香子は思わず空を見上げた。まさか、自分が絵の学校に通える日が来るなんて。祖父母が生きていた頃には、いつか美術を学びたいと夢見ていた。けれど、久恵に反対されてからは、そんな夢を口にすることさえなくなっていた。「……お祖父様、お祖母様」香子は小さく呟いた。「私、もう一度、絵を描いてみますね」翌週。香子は少し早めに学校へ到着した。教室には、すでに何人かの生徒が集まっていた。「こんにちは」香子が挨拶すると、窓際に座っていた女性が顔を上げた。「こんにちは。もしかして、今日から?」「はい。鷹宮香子と申します」「私は小野寺です。よろしくね」小野寺と名乗った女性は、三十代半ばくらいに見えた。「ここ、初めてだとちょっと緊張するよね。でも先生も優しいし、すぐ慣れると思うよ」「ありがとうございます」香子はほっとして微笑んだ。「小野寺さんは、長く通われているんですか?」「もう二年くらいかな。仕事の合間に来てるの」「そうなんですね」「鷹宮さんは?」「私は……子供の頃から絵が好きだったんですけれど、ずっと描いていなくて」「じゃあ、久しぶりなんだ」「はい」香子は少し照れくさそうに笑った。