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あんたさえいなければ

Author: 影畑凛星
last update publish date: 2026-08-12 16:04:52

香子は逃げるようにパーティー会場をあとにした。

華やかな音楽と人々の笑い声が、扉が閉まると同時に遠ざかっていく。

廊下へ出ても、香子はしばらく足を止めることができなかった。

誰にも見られたくない。

こんな姿を、これ以上誰にも。

髪には白いクリームがべったりとつき、苺の欠片まで絡みついている。

母の形見のドレスもひどい有様だった。

胸元からスカートにかけては、美紗に浴びせられたベリージュースの赤紫色の染み。

裾には、ヒールで踏みにじられた黒い跡。

その上、今度はケーキのクリームまで付着している。

香子は俯いたまま、長い廊下を歩いた。

途中ですれ違った人が、驚いたようにこちらを見る。

その視線に耐えられず、さらに顔を伏せた。

やがて、廊下の奥に小さな休憩室を見つけた。

幸い、中には誰もいなかった。

香子は中へ入り、そっと扉を閉めた。

ようやく一人になれた。

そう思った途端、全身から力が抜けた。

「……っ」

震える息が漏れる。

けれど、泣いている場合ではない。

香子は備え付けられていた洗面台へ向かった。

鏡に映った自分の姿を見て、息を呑む。

ひどい姿だった。

綺麗に整えていた髪はクリームで汚れ、頬にも白い跡が残っている。

ドレスも、家を出たときとはまるで別物だった。

香子はタオルを濡らすと、まず髪や顔についたクリームを拭った。

それから新しいタオルを手に取り、ドレスについた汚れをそっと叩く。

何度も。

何度も。

けれど、赤紫色の染みは消えてくれない。

薄くなるどころか、水分を含んでさらに広がったようにさえ見えた。

「……どうして……」

ぽつりと声が漏れた。

どうして、美紗はあんなことをするのだろう。

どうして、いつも自分だけがこんな目に遭うのだろう。

香子には分からなかった。

何かをした覚えなどない。

美紗のものを奪ったこともない。

欲しいと言ったことさえない。

それなのに、昔から美紗は香子を嫌っていた。

香子が大切にしているものを見つければ壊した。

香子が楽しそうにしていれば邪魔をした。

そして久恵は、いつだって美紗の味方だった。

香子は唇を噛んだ。

ぽたり。

涙が一粒、手の甲に落ちた。

それを見て初めて、自分が泣いていることに気づいた。

慌てて目元を拭う。

けれど、一度こぼれた涙はなかなか止まってくれなかった。

「どうして……」

もう一度、同じ言葉がこぼれた。

答えてくれる人はいない。

香子はしばらく俯いていた。

やがて涙が落ち着くと、濡れたタオルを置いた。

休憩室の奥には、大きなガラス扉があった。

その向こうにバルコニーが見える。

少しだけ外の空気を吸いたかった。

このままここにいたら、また泣いてしまいそうだった。

香子はガラス扉を開け、バルコニーへ出た。

夜風が頬を撫でる。

火照っていた顔には、その冷たさが心地よかった。

遠くには街の灯りが広がっている。

パーティー会場の喧騒も、ここまではほとんど届かなかった。

香子は手すりから少し離れたところに立ち、静かに夜空を見上げた。

もう少しだけ。

もう少しだけここにいたら、戻ろう。

そう思った、そのときだった。

ガラス扉が開く音がした。

香子の肩がびくりと跳ねる。

「こんなところにいたんだ」

聞き慣れた声。

それだけで、胸の奥が冷たくなる。

恐る恐る振り返る。

「……美紗」

美紗が立っていた。

先ほどと変わらない、美しいドレス姿で。

香子とは違い、髪も化粧も少しも乱れていない。

美紗は香子を見るなり、眉をひそめた。

「まだ帰ってなかったの?」

香子は何も答えなかった。

「何よ、その顔」

美紗が近づいてくる。

香子は無意識に一歩後ろへ下がった。

「せっかく私が綺麗にしてあげたのに、もうクリーム取っちゃったんだ?」

美紗がくすくす笑う。

香子は俯いた。

「でも、そのドレスはもう無理みたいね」

赤紫色に染まった胸元へ、美紗の視線が向けられる。

「汚ったない」

胸が痛んだ。

それでも香子は何も言わなかった。

何を言っても無駄だと知っている。

言い返せば、もっと酷いことをされる。

だから黙って、美紗が飽きてくれるのを待つ。

いつものように。

けれど。

「ねえ」

美紗の声が低くなった。

「黙ってないで、何とか言ったら?」

香子は顔を上げた。

「……」

その瞬間、美紗の顔が歪んだ。

「何よ、その目」

「え……?」

「生意気なのよ!」

ドンッ。

突然、両手で強く突き飛ばされた。

「きゃっ!」

香子はよろめいた。

背中に硬いものがぶつかる。

バルコニーの手すりだった。

「美紗……?」

何が起きたのか分からない。

香子は呆然と美紗を見つめた。

美紗はそんな香子を睨みつけている。

その目には、これまで何度も向けられてきた意地悪な笑みはなかった。

もっと暗く、激しい感情が浮かんでいた。

「本当にムカつく」

美紗が一歩近づく。

香子は反射的に身を引いた。

けれど、もう後ろには手すりしかない。

「美紗……どうしたの……?」

「うるさい!」

美紗が声を荒らげた。

「何も知らないくせに!」

「……え?」

何のことなのか、まるで分からなかった。

香子が戸惑っていると、美紗はさらに顔を歪めた。

そして。

「あんたさえいなければ!」

再び、美紗の両手が香子の身体を強く押した。

「きゃあっ!」

身体が大きく傾く。

腰が手すりにぶつかった。

そのまま上半身が、バルコニーの外へ投げ出される。

眼下に広がる暗闇が見えた。

「――っ!」

香子は咄嗟に手すりへしがみついた。

心臓が激しく脈打つ。

落ちる。

そう思った。

足元が滑る。

必死で身体を戻そうとするが、うまく力が入らない。

「美紗……!」

震える声で名前を呼ぶ。

けれど、美紗は助けようとはしなかった。

それどころか。

ゆっくりと香子へ近づいてくる。

「……美紗?」

香子の顔から血の気が引いた。

美紗は、手すりにしがみついている香子の手を見下ろした。

そして。

「あんたさえいなくなれば……」

美紗の手が、香子の指へ伸びる。

「全部、私のものになるのよ」

「……え?」

香子には、その言葉の意味が分からなかった。

全部とは、何のことなのか。

けれど。

美紗が今、自分の指を手すりから引き剥がそうとしていることだけは分かった。

「美紗……?」

一本。

また一本。

しがみついていた指が外されていく。

「待って……」

香子の瞳が恐怖に揺れた。

「美紗、何を……」

美紗は笑いながら、最後に残った指を手すりからゆっくりと離した。

「じゃあね、お姉さま」

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