LOGIN香子は逃げるようにパーティー会場をあとにした。
華やかな音楽と人々の笑い声が、扉が閉まると同時に遠ざかっていく。
廊下へ出ても、香子はしばらく足を止めることができなかった。
誰にも見られたくない。
こんな姿を、これ以上誰にも。
髪には白いクリームがべったりとつき、苺の欠片まで絡みついている。
母の形見のドレスもひどい有様だった。
胸元からスカートにかけては、美紗に浴びせられたベリージュースの赤紫色の染み。
裾には、ヒールで踏みにじられた黒い跡。
その上、今度はケーキのクリームまで付着している。
香子は俯いたまま、長い廊下を歩いた。
途中ですれ違った人が、驚いたようにこちらを見る。
その視線に耐えられず、さらに顔を伏せた。
やがて、廊下の奥に小さな休憩室を見つけた。
幸い、中には誰もいなかった。
香子は中へ入り、そっと扉を閉めた。
ようやく一人になれた。
そう思った途端、全身から力が抜けた。
「……っ」
震える息が漏れる。
けれど、泣いている場合ではない。
香子は備え付けられていた洗面台へ向かった。
鏡に映った自分の姿を見て、息を呑む。
ひどい姿だった。
綺麗に整えていた髪はクリームで汚れ、頬にも白い跡が残っている。
ドレスも、家を出たときとはまるで別物だった。
香子はタオルを濡らすと、まず髪や顔についたクリームを拭った。
それから新しいタオルを手に取り、ドレスについた汚れをそっと叩く。
何度も。
何度も。
けれど、赤紫色の染みは消えてくれない。
薄くなるどころか、水分を含んでさらに広がったようにさえ見えた。
「……どうして……」
ぽつりと声が漏れた。
どうして、美紗はあんなことをするのだろう。
どうして、いつも自分だけがこんな目に遭うのだろう。
香子には分からなかった。
何かをした覚えなどない。
美紗のものを奪ったこともない。
欲しいと言ったことさえない。
それなのに、昔から美紗は香子を嫌っていた。
香子が大切にしているものを見つければ壊した。
香子が楽しそうにしていれば邪魔をした。
そして久恵は、いつだって美紗の味方だった。
香子は唇を噛んだ。
ぽたり。
涙が一粒、手の甲に落ちた。
それを見て初めて、自分が泣いていることに気づいた。
慌てて目元を拭う。
けれど、一度こぼれた涙はなかなか止まってくれなかった。
「どうして……」
もう一度、同じ言葉がこぼれた。
答えてくれる人はいない。
香子はしばらく俯いていた。
やがて涙が落ち着くと、濡れたタオルを置いた。
休憩室の奥には、大きなガラス扉があった。
その向こうにバルコニーが見える。
少しだけ外の空気を吸いたかった。
このままここにいたら、また泣いてしまいそうだった。
香子はガラス扉を開け、バルコニーへ出た。
夜風が頬を撫でる。
火照っていた顔には、その冷たさが心地よかった。
遠くには街の灯りが広がっている。
パーティー会場の喧騒も、ここまではほとんど届かなかった。
香子は手すりから少し離れたところに立ち、静かに夜空を見上げた。
もう少しだけ。
もう少しだけここにいたら、戻ろう。
そう思った、そのときだった。
ガラス扉が開く音がした。
香子の肩がびくりと跳ねる。
「こんなところにいたんだ」
聞き慣れた声。
それだけで、胸の奥が冷たくなる。
恐る恐る振り返る。
「……美紗」
美紗が立っていた。
先ほどと変わらない、美しいドレス姿で。
香子とは違い、髪も化粧も少しも乱れていない。
美紗は香子を見るなり、眉をひそめた。
「まだ帰ってなかったの?」
香子は何も答えなかった。
「何よ、その顔」
美紗が近づいてくる。
香子は無意識に一歩後ろへ下がった。
「せっかく私が綺麗にしてあげたのに、もうクリーム取っちゃったんだ?」
美紗がくすくす笑う。
香子は俯いた。
「でも、そのドレスはもう無理みたいね」
赤紫色に染まった胸元へ、美紗の視線が向けられる。
「汚ったない」
胸が痛んだ。
それでも香子は何も言わなかった。
何を言っても無駄だと知っている。
言い返せば、もっと酷いことをされる。
だから黙って、美紗が飽きてくれるのを待つ。
いつものように。
けれど。
「ねえ」
美紗の声が低くなった。
「黙ってないで、何とか言ったら?」
香子は顔を上げた。
「……」
その瞬間、美紗の顔が歪んだ。
「何よ、その目」
「え……?」
「生意気なのよ!」
ドンッ。
突然、両手で強く突き飛ばされた。
「きゃっ!」
香子はよろめいた。
背中に硬いものがぶつかる。
バルコニーの手すりだった。
「美紗……?」
何が起きたのか分からない。
香子は呆然と美紗を見つめた。
美紗はそんな香子を睨みつけている。
その目には、これまで何度も向けられてきた意地悪な笑みはなかった。
もっと暗く、激しい感情が浮かんでいた。
「本当にムカつく」
美紗が一歩近づく。
香子は反射的に身を引いた。
けれど、もう後ろには手すりしかない。
「美紗……どうしたの……?」
「うるさい!」
美紗が声を荒らげた。
「何も知らないくせに!」
「……え?」
何のことなのか、まるで分からなかった。
香子が戸惑っていると、美紗はさらに顔を歪めた。
そして。
「あんたさえいなければ!」
再び、美紗の両手が香子の身体を強く押した。
「きゃあっ!」
身体が大きく傾く。
腰が手すりにぶつかった。
そのまま上半身が、バルコニーの外へ投げ出される。
眼下に広がる暗闇が見えた。
「――っ!」
香子は咄嗟に手すりへしがみついた。
心臓が激しく脈打つ。
落ちる。
そう思った。
足元が滑る。
必死で身体を戻そうとするが、うまく力が入らない。
「美紗……!」
震える声で名前を呼ぶ。
けれど、美紗は助けようとはしなかった。
それどころか。
ゆっくりと香子へ近づいてくる。
「……美紗?」
香子の顔から血の気が引いた。
美紗は、手すりにしがみついている香子の手を見下ろした。
そして。
「あんたさえいなくなれば……」
美紗の手が、香子の指へ伸びる。
「全部、私のものになるのよ」
「……え?」
香子には、その言葉の意味が分からなかった。
全部とは、何のことなのか。
けれど。
美紗が今、自分の指を手すりから引き剥がそうとしていることだけは分かった。
「美紗……?」
一本。
また一本。
しがみついていた指が外されていく。
「待って……」
香子の瞳が恐怖に揺れた。
「美紗、何を……」
美紗は笑いながら、最後に残った指を手すりからゆっくりと離した。
「じゃあね、お姉さま」
「そうだ……」香子が突然、顔を上げた。「家に連絡しなくては」何も告げずにパーティー会場を出てきてしまった。もう夜も遅い。このまま帰らないわけにはいかないだろう。「連絡するなら、今夜は帰らないって伝えたほうがいい」「はい。そうします」「スマートフォンは?」勇樹に尋ねられ、香子は少し困ったように首を振った。「持っていません」「……え?」「携帯電話は持たせてもらっていないので」あまりにも当たり前のように答える香子に、勇樹は言葉を失った。「ずっと?」「はい」成人した女性が、家族の許可なしには自由に連絡を取る手段すらない。勇樹の表情が曇る。「……だからか」「何がですか?」「いや、何でもない」何年捜しても香子にたどり着けなかった理由が、少し分かった気がした。勇樹はホテルの電話を使えるよう手配した。しばらくして、香子は教えられた番号を押す。数回の呼び出し音のあと、久恵が電話に出た。『もしもし?』「お義母様。香子です」『香子!?』久恵の声が一変した。『あなた、今までどこにいたの!』香子はびくりと肩を震わせた。「申し訳ありません。今夜は――」『勝手にいなくなって、どれだけ迷惑をかけたと思ってるの!』「……申し訳ありません」また、香子が謝る。そばで聞いていた勇樹の眉が寄った。『今どこなの? すぐ帰ってきなさい!』香子の指先が震えた。帰れば、美紗がいる。自分を殺そうとした妹が。「今夜は……帰りません」勇気を振り絞って口にした。電話の向こうが、一瞬静かになる。『……何ですって?』「今夜は、ホテルに泊まります」『何を勝手なことを言ってるの! 今すぐ帰ってきなさい!』怒声に、香子は受話器を握りしめた。『美紗も心配しているのよ!』「……!」香子の顔から血の気が引いた。美紗が。自分をバルコニーから突き落とした美紗が、心配している?その瞬間、香子の手から受話器が離れた。勇樹がそっと受け取る。「これ以上は俺が話すよ」「でも……」「大丈夫」勇樹は受話器を耳に当てた。「お電話代わりました」『……どなた?』「来栖勇樹です」沈黙が落ちた。『……来栖、勇樹?』「ええ。香子さんは俺と一緒にいます」電話の向こうで、久恵が息を呑む。勇樹はその小さな音を聞き逃さなかった。『どうして……あなた
香子が勇樹の手を取ると、彼は安心したように微笑んだ。「大丈夫。一人にはしないから」その言葉に、香子の胸がわずかに温かくなる。こんなふうに誰かを頼ってもいいのだろうか。まだ戸惑いはあったが、今夜だけは勇樹の言葉を信じたいと思った。「では、私はそろそろ失礼します」「……どこへ?」意外そうに聞き返され、香子は瞬きをした。「家に帰ります」その瞬間、勇樹の表情が変わった。「帰るつもりなの?」「はい。もう遅いですから」「香子」穏やかな声だったが、いつもより強い響きがあった。「君はついさっき、妹に殺されかけたんだよ」香子の肩がびくりと震える。「でも……私の家ですから」「その妹も同じ家にいるんじゃない?」「……はい」勇樹は小さく息を吐いた。怒っている。けれど、その怒りが自分に向けられているわけではないことは香子にも分かった。「そんな場所へ君を帰すことはできない」「ですが……」「今夜はここに泊まって」香子は目を見開いた。「ここに、ですか?」「部屋は用意する。もちろん俺とは別の部屋だよ」勇樹は香子を安心させるように付け加えた。「でも、そこまでしていただくわけには……」「香子」勇樹がまっすぐに香子を見る。「さっき、俺の服が汚れることまで心配していたね」「それは……」「今も俺に迷惑をかけることばかり気にしてる」図星を指され、香子は言葉を失った。勇樹の表情が柔らかくなる。「少しくらい、誰かに頼ってもいいんだよ」その言葉が胸の奥に染み込んだ。「……はい」香子が小さく頷くと、勇樹はようやく笑った。「じゃあ、決まりだ」その頃。鷹宮家では、久恵が苛立った様子で時計を見ていた。すでに日付が変わろうとしている。それなのに、香子は帰ってこない。「美紗」久恵はソファに座る娘を振り返った。「香子はどうしたの?」「知らない」美紗はつまらなそうに答えた。「パーティーの途中から見てないし」「あなた、何かしたんじゃないでしょうね?」その問いに、美紗の表情が一瞬だけ強張った。久恵はそれを見逃さなかった。「美紗?」「……ちょっと突き飛ばしただけよ」「どこで?」「バルコニー」久恵の顔から血の気が引いた。「まさか、あなた……」「だって!」美紗が声を荒らげる。「あいつさえいなくなれば、10億円は私のも
「10億円……?」あまりにも現実離れした金額に、香子はすぐには言葉を返せなかった。「本当に……私が?」「ああ。君のおじいさんとおばあさんが残した遺産だ」勇樹の答えを聞いても、信じられない。けれど、ふいに美紗の声が蘇った。『あんたさえいなくなれば、全部、私のものになるのよ』「まさか……」背筋が冷たくなる。「美紗は、このことを知っていたのでしょうか」「その可能性は高いと思う」勇樹の表情が険しくなった。「でも、それならおかしい」「え……?」「美紗さんが知っていて、どうして香子だけが何も知らない?」香子は息を呑んだ。考えたこともなかった。「この遺産のことを、美紗さんが一人で知ったとは考えにくい」「それは……」「誰かが美紗さんに教えたはずだ」その瞬間、香子の脳裏に一人の女性が浮かんだ。「お義母様……?」口にした途端、心臓が大きく跳ねた。まさか。いくら久恵でも、そんなことを――。「お義母様は、私に遺産のことなんて一度も……」「だからこそ、確かめる必要がある」勇樹は静かに告げた。「香子に知られたくない理由があったのかもしれない」香子の指先が冷たくなる。これまでずっと、美紗だけが優遇されてきた。何をされても久恵は美紗を庇い、香子が訴えても聞いてくれなかった。それでも香子は、久恵に嫌われているだけなのだと思っていた。けれど。もし、最初から遺産の存在を知っていたのだとしたら。「でも……私が死んだところで、美紗が相続できるのでしょうか?」「普通なら、それだけでは美紗さんのものにはならない」「では、どうして……」「そこなんだ」勇樹の声が低くなる。「俺も気になっている」香子は顔を上げた。「君のおじいさんたちは、香子に財産を残すため、きちんと準備をしていた。それなのに、香子には何も知らされていない」勇樹は少し間を置いた。「俺が香子を捜していたのも、そのことと無関係じゃない」「え……?」「二人が亡くなる少し前、俺は頼まれたんだ」勇樹の表情は真剣だった。「もし自分たちに何かあったら、香子を守ってほしい、と」「おじい様と、おばあ様が……?」胸が締めつけられた。「どうして、そんなことを……」「そのときは俺も深く考えなかった。でも今なら分かる」勇樹が香子を見つめる。「二人は、何かを心配していたん
「……何?」勇樹の声が低くなった。先ほどまでの穏やかな表情が消えている。「突き落とされたって……どういうこと?」「そのままの意味です。バルコニーから……」香子は膝の上で両手を握った。話しているだけで、あのときの恐怖が蘇る。手すりの向こうに見えた暗闇。一本ずつ、美紗に引き剥がされた指。「下に植え込みがあったので、運よく助かりました。でも、もし何もなかったら……」最後まで言えなかった。勇樹の手が強く握られる。「それをしたのは、妹なんだね?」「……はい」「警察へ行こう」即座に返ってきた言葉に、香子は顔を上げた。「え……?」「これは姉妹喧嘩なんかじゃない。殺されかけたんだ」はっきりと言われ、香子の胸が大きく揺れた。殺されかけた。自分でも分かっていたはずなのに、誰かの口から言われると、その事実が急に現実味を帯びる。「でも、美紗は私の妹で……」「妹なら、香子を殺そうとしても許されるの?」「それは……」答えられない。勇樹はそんな香子を責めることなく、少し声を和らげた。「ごめん。怖がらせたいわけじゃないんだ。ただ、もう一人で我慢しなくていい」その言葉に、香子の目に涙がにじんだ。「どうして……」「ん?」「どうして、美紗はそこまで私を嫌うのでしょうか」ずっと分からなかった。「私、美紗から何かを奪ったことなんてないんです。それなのに……」香子はそこで言葉を止めた。ふと、あの言葉が蘇ったからだ。「あのとき、美紗が変なことを言っていました」「何て?」「『あんたさえいなくなれば、全部、私のものになる』って」勇樹の表情が変わった。「……美紗さんが、そう言ったの?」「はい。でも、私には何のことか……」香子は困惑して首を振る。「私がいなくなっても、美紗が手に入れるものなんて何もないはずです」「……」勇樹は黙り込んだ。「勇樹お兄ちゃん?」「香子」やがて勇樹は、確かめるように尋ねた。「もしかして、何も聞かされていないの?」「何をですか?」その問いに、勇樹は目を見開いた。しばらく香子を見つめたあと、信じられないというように息を吐く。「そういうことか……」「勇樹お兄ちゃん?」何の話をしているのか、香子にはまるで分からない。勇樹は表情を引き締めた。「香子。よく聞いて」真剣な声に、香子も自然と背筋
「勇樹……お兄ちゃん……?」香子は呆然と、その言葉を繰り返した。胸の奥で、何かが引っかかる。勇樹お兄ちゃん。その呼び方を、確かに自分は知っている。「もしかして……」遠い記憶が少しずつ蘇る。幼い頃、祖父母の家へ遊びに行くと、いつも香子の相手をしてくれる青年がいた。広い庭を一緒に走ったり、お菓子を分けてもらったり。香子が転んで泣けば、誰よりも早く駆け寄って抱き起こしてくれた。『勇樹お兄ちゃん!』何度もそう呼んだ。そのたびに笑って振り返ってくれた人。「まさか……本当に、あの勇樹お兄ちゃんなんですか?」「やっと思い出してくれた?」勇樹が嬉しそうに笑った。その笑顔を見た瞬間、記憶の中の青年と目の前の男性が重なった。「勇樹お兄ちゃん……!」今度は、はっきりと分かった。「本当に……? だって、あの頃と全然……」「ずいぶん昔のことだからね。お互い、大人になった」勇樹は穏やかに笑う。その笑い方まで懐かしく感じられて、香子の胸が熱くなった。けれど、すぐに新たな疑問が湧いてくる。「でも……どうして私を探していたんですか?」勇樹の笑みが静かに消えた。「ずっと心配していたんだ」「私を……?」「ああ。おじいさんとおばあさんが亡くなってから、突然連絡が取れなくなったから」香子は息を呑んだ。祖父母が亡くなってから、母方の親族との付き合いはほとんどなくなった。久恵がいい顔をしなかったこともあり、いつしか香子自身も連絡を取ろうとしなくなっていた。「何度も捜した。でも、どこにいるのか分からなかった」「そんなに長い間……私を?」「ああ」勇樹は迷うことなく頷いた。「だから今日、香子を見つけたときは、本当に驚いたよ」香子は何も言えなかった。ずっと、自分は誰にも必要とされていないと思っていた。美紗から何をされても、久恵は助けてくれない。父も香子を庇ってはくれなかった。けれど、自分の知らないところで、何年も探し続けてくれていた人がいた。そう思っただけで、目の奥が熱くなる。「……ありがとうございます」「お礼なんて必要ないよ」勇樹は優しく微笑んだが、すぐに表情を曇らせた。「それより、聞いてもいい?」その視線が、香子の手当てされた膝へ向けられる。「さっきの格好……何があったの?」「……」香子の肩が強張った。頭から浴びせら
「やっと見つけた」男性の言葉に、香子は戸惑った。「……私を、ですか?」なぜ、この人は自分の名前を知っているのだろう。なぜ、自分を探していたというのだろう。けれど、男性は香子の問いには答えなかった。香子の姿を上から下まで見て、その表情を険しくする。「その格好……どうした?」「……」「靴は?」香子は手に持っていたヒールを見た。「折れてしまって……」「足を怪我してる」言われて初めて気づいた。裸足でここまで歩いてきたせいだろう。足の裏や甲には小さな傷がいくつもできていた。植え込みへ落ちたときについたのか、膝にも擦り傷がある。「大丈夫です。このくらいでしたら――」言い終えるより先に、男性が香子の前へ屈んだ。「え……?」次の瞬間。ふわりと身体が浮いた。「きゃっ……!」男性の腕が背中と膝の裏に回り、香子の身体を軽々と抱き上げていた。「ま、待ってください……!」香子は慌てた。「降ろしてください。私、自分で歩けますから」「その足で?」「でも……」香子は男性のスーツへ目を向けた。「お洋服が汚れてしまいます」自分のドレスはひどく汚れている。まだ残っていたクリームも、ジュースも、土も。でも、男性は即答した。「構わない」「とても高価なものでは……」「服なんてどうでもいい」香子は目を見開いた。男性は本当に気にしていないらしい。香子の汚れたドレスが自分のスーツに触れているというのに、眉一つ動かさなかった。そのまま香子を抱きかかえて、車へ向かっていく。「あの、やっぱり私を下ろして……」香子は彼の腕から逃れようとした。けれど、彼はさらに強く抱きしめた。「今は何も考えなくていい」低く、落ち着いた声だった。香子はそれ以上、何も言えなくなった。大丈夫。その言葉を誰かから言われたのが、ひどく久しぶりな気がした。男性は後部座席のドアを開けてもらうと、香子をそっとシートへ座らせた。自分も隣へ乗り込む。車が静かに走り出した。香子は落ち着かない気持ちで、広い車内を見回した。どう見ても普通の車ではない。シートも内装も、香子でも分かるほど上質だった。隣に座る男性もそうだ。仕立てのいいスーツ。整った顔立ち。そして、どこかで何度も見たことがあるような気がする。けれど、どうしても思い出せない。今夜あまりに







