LOGIN「俺が高級マンションに住んでるって知ってるでしょ? あれ、その精神科医が借りてくれてるんだよ」「ということは、あなたはまだ……」「そう、治療続行中。けど、東堂精神科から退院しないとね」 吹っ切れたように言ったかと思えば、千夏にメニュー表を差し出した。「たくさんおしゃべりしたし、おなか空いちゃった。夕飯食べよう」「え? 夕飯って、今何時ですか?」 時計を見ようと部屋中を見回すが、時計はどこにもない。腕時計は外されている。「今夜の7時半。先生結構寝てたからねー。ほら、ステーキとかあるよ」 成也はスマホで時間を確認すると、肉料理のページを開いた。 その頃、笹塚事務所にひとりの客人が訪れた。がっしりした身体を黒い司祭服で包み、肩に赤いストラをかけた中年男性だ。白髪混じりの髪をオールバックにし、穏やかな笑みを貼り付けたその男は、幸男を見るなり声を出して小さく笑った。「ふふ、随分と太ったものだね。昔の君は、もっとスリムでハンサムで、女性にモテていたのに」「何の用だ、神代」 幸男はドスの効いた声で男の名前を呼び、睨みつける。男は臆するどころか、失笑した。 男の名は神代宗介。幸男の同期の弁護士だった男だ。千夏の父親を救った男でもある。ひろしが千夏の前から姿を消したのと同時期に、この男も行方知れずとなっていた。「冷たい言い方だね。ま、無理もないか」 宗介は肩をすくめると、氷のように冷たい目を幸男に向けた。ありとあらゆる業を詰め込んだような瞳に思わず後ずさりそうになったが、ぐっと堪える。「今日、ゲレティヒカイトに君のところの可愛い弁護士さんが遊びに来てね。オイタをしようとしていたから、君の代わりに躾けておいたよ」「本条さんに何をした!? あの子はお前の親友の娘だろう!?」 幸男が目を見開いて怒鳴りつけると、宗介はクツクツと喉を鳴らしながら笑う。「何がおかしい?」「昔のよしみで忠告をするよ、笹塚くん。ゲレティヒカイトに関わってはいけない。次に何かしようものなら、あの子を父親に犯させるどころじゃすまないよ」「神代、お前という奴は!」 幸男は顔を真っ赤にして、宗介の胸ぐらをつかむ。宗介は幸男の手首を力強く掴んだ。じわじわと力を込められ、手が痺れてくる。「ぐぅっ……!」 幸男が唸り声を上げると、宗介はその手を離した。
「お父様は、どうしたんですか?」「離婚届置いて、どっか行っちゃった。それで母さんは、ますますおかしくなった。夏服を着た俺を父さんと思い込んで逆レイプ。それが辛くて、施設に逃げ込んだんだ。母さんは警察に捕まって、俺は施設で暮らすことになった」 成也は大きく息を吐くと、千夏の肩によりかかる。「末安さんも、大変な思いをしてきたんですね。いつも笑ってるから、そういったこととは無縁だと思ってました」「へぇ、どんな人生歩んでたと思ってた?」「えっと……」 好奇心に満ちた目で見つめられ、千夏は言葉を詰まらせる。「教えてよ、先生」「そう、ですね……。ずっとクラスの人気者で、彼女も途切れたことはなかった、とかですかね」「あっはは、それはそれで楽しそうだね。そんな学生生活送ってみたかったなぁ」 細められた目には、憧憬が滲んでいた。「俺さ、施設にいたのほんの2,3日くらいだったんだよね。たぶん、あのまま施設にいれたら、先生が言ってたような学生生活送れてたかもしんない」「どういうことですか?」「精神的ダメージが大きすぎたんだよ。食べたものはすぐ吐くし、女性職員が近くに来ただけで叫ぶし、酷かった。すぐに精神科に入院することになったよ。そこでどんな治療したと思う?」「精神安定剤の投与とか、辛いことを忘れるためのレクリエーションとかですか?」 千夏は以前テレビで見た、子供の心療内科のことを思い出しながら言う。「だったらよかったなぁ。精神科医に逆レイプされてた。女性もセックスも素晴らしいものだから、いつまでも怖がっちゃいけない。耐性をつけなきゃってさ」「犯罪じゃないですか! 他の医師や看護師さんは何してたんですか!?」「他の患者の治療してたんだと思う。そういえば、他の医者とか看護師とかあんまり見なかったかも。自分の病院だからって、好き勝手してるんじゃない?」「そんなの医者が……いえ、人がすることではありません」「あぁ、やっぱそうなんだ? 先生に話してよかった。俺、常識ないからずっと言うこと聞き続けてたんだ。そっか、これはおかしいことなんだ」 成也は納得したように、何度も頷く。憑き物が落ちたような顔をしていて、千夏は不思議に思った。
「母さんから何日入院するのか聞き出して、その間家にいてくれたよ。知らない女の人を連れ込んでさ」「そんなの、あんまりじゃないですか……」 千夏は短い時間とはいえ、両親に愛されて育った。父親がいなくなったあとも母親が愛してくれたし、叔母も面倒を見てくれた。だが成也は幼い頃から、ずっとひとりだったのだ。親がいない家で暮らすのは、どれだけ心細かっただろう、どれだけ寂しかっただろう。 きっと母親に甘えたかったはずだ。父親と遊びたかったはずだ。 子供ながらずっと我慢していた成也のことを考えると、自然と涙が零れ落ちた。「俺のために泣いてくれるなんて、先生は優しいね」「すいません、辛かったのは末安さんなのに……」「謝んないで、すごく嬉しいから」 そう言って成也は、指先で千夏の涙を拭う。「話戻すよ。母さんがいない間に来た女は、俺にお菓子をくれたり、勉強を見てくれた。父さんも、少しだけど俺に構ってくれた。ふたりにすっごくムカついてたけど、このまま母さんが帰ってこなければいいのに、なんて思っちゃった。夜はすごくうるさいのにね。そんな自分も嫌いになったりして、結構苦しかったんだよね。息子が毎日苦しんでるなんて微塵も思わない母さんは、上機嫌で帰ってくるんだ。胸が大きくなったり、くびれや足が細くなったりしてさ。父さんはそんな母さんを褒めて、ついさっきまで別の女と寝ていたベッドに母さんを連れ込んだ」「誰も、末安さんを助けてくれなかったんですか?」「んー、どうだろうね? 正直、何が救いなのか、未だに分からないんだ」 そう言って成也は曖昧に微笑む。「俺が中学1年の頃の夏、母さんはまた整形するために入院した。もうひと通りいじったのに、どこいじるんだろうって疑問だったけどね。しばらくして帰ってきた母さんは、バケモノになっていた」「バケモノ……?」「整形失敗したんだよ。目は左右で大きさ違うし、鼻も口も歪んでた。胸だって左右で大きさが違くてさ。一瞬誰かと思ったよ」「それは、怖かったでしょう……」「まあね。でもさ、これで懲りてくれたらって思ってた。どんな姿したって母さんは母さんだし、これで家にいてくれるようになるのかなって。けど、違った。母さんは、失敗したなんで思わなかったんだ。呆然としてる息子に向かって『私、キレイになったでしょ?』って、自信満々で言ったんだ。バケモノじみ
「ね、先生。俺も先生にひとつ、古傷を教えてあげる。俺の初体験は、母親だったんだよ」「え……?」 あまりにも信じがたい話に、千夏は思わず成也を見上げた。 父親が娘に、というのはよく聞くが、母親が息子に性的虐待というのはあまり聞かない。何より、いつもヘラヘラ笑っている彼に、そこまで重たい過去があると思わなかった。「母さんは、どこにでもいそうな平凡な容姿だった。で、父さんはどっかのモデルなんじゃないかってくらいの美男子でさ、俺はそんな父さんにすごく似てるんだよ。父さんの若い頃の写真見たら瓜ふたつで、きっと先生びっくりするよ。父さんは見た目はいいけど、中身はクズだった。家にお金さえ入れとけば、何してもいいって思ってたんじゃない? 不倫し放題でさ、家に知らない女の人が押しかけたことだって、何回もあった」「そんな……。お母様は、どうしたんですか?」「最初は無理して父さんは仕事だって、バレバレの嘘ついてた。無理に笑うことすらできなくなったと思ったら、パートしだしてさ。夕方6時過ぎになるまで、俺は家でずっとひとりだったよ」「お母様は、忙しくすることで、辛いことを忘れようとしたんですかね……?」 千夏の問いに、成也は首を横に振った。「俺も最初はそうだと思ってた。だから何も言わないでいたんだけど。母さんは、整形するお金を貯めてたんだ。最初は目が大きくなってた。鼻が小さくなったり、口元の大きなほくろがなくなったり。そこまでは良かったんだけどね……」 成也はコーラが入ったグラスを一気にあおり、空にした。いつも好奇心で輝く少年のような目は、淋しげに揺れている。「もしかして、整形依存症ですか?」「そう。察しが良くて助かるよ。父さんは整形したことを怒るどころか、可愛くなったって褒めちゃってたから。実際別人になってたしさ。それで変な自信もついたんじゃない? パートだけじゃ稼ぎが少ないから、水商売も始めたんだ。6時過ぎに帰ってきたと思ったら、スーパーのお惣菜俺に押し付けて、ケバい化粧して出かけるようになった。ようやく休みが取れたと思ったら、入院するから家にいられないっていうんだ。俺に食費を押し付けて、嬉しそうに整形しにいったよ」「お父様は、末安さんが家でひとりだってことに気づかなかったんですか?」「気づいてたよ。けど、ね……」 言葉を区切り、苦笑する成也。千夏には泣い
「そっか、大変だったね」 頭を撫でられ、つい倚りかかりたくなるのを我慢する。「えぇ、あの頃は、どうして自分が生きてるのか、自問自答していました。いじめがなくなって半年後くらいでしょうか、授業参観があったんです。いつもは母しか来なかったんですが、その日は父も来てくれたんです。授業が終わって雪奈と話していると、彼女の父親に切りつけられました。首の傷は、その時のものです。その後です、私が失声症になったのは」 千夏はそっと後ろ首の傷に触れる。もう何年も昔の傷だというのに、醜く盛り上がったそれ。「どれくらいかは覚えてませんが、私は何日か入院しました。退院すると、ふたりは私の大好物をたくさん用意して、退院祝いをしてくれました。その日は父に冤罪をかけられてから、1番楽しい日だったんです。けど、その夜、父は家から出ていったんです。ゲレティヒカイトのチラシを置いて……」「そっか、それで先生はあんなに必死だったんだね。真夏でも長袖だったのは、傷を隠すためだったんだね。子供の頃から、とんでもないもの背負ってたんだ、大変だったね。偉いよ、先生」 成也の言葉のひとつひとつが、千夏の胸に染み渡り、ついに彼女の涙腺を崩壊させた。「えぇ、本当に、大変でした……。あれから男の人が怖くてっ、やっと……やっと人を好きになれても、傷が気持ち悪いって言われて……っ! ずっとお父さんに会いたかったのに、まさか、あんな再会するなんて……」「いいよ、ここには俺しかいないから、好きなだけ泣いて」 抱きしめられて髪を撫でられ、今まで押し殺してきた感情が溢れてくる。千夏は子供のように声を上げながら、成也の腕の中で泣きじゃくった。成也は彼女が落ち着くまで無言で抱きしめ続けた。 30分もすると、千夏はようやく落ち着きを取り戻した。「なんか、すいません……。今日の私はダメですね……」「そんなことないよ。むしろ、今までが完璧過ぎたんだって。もっと俺を頼ってくれてもいいんだよ? 俺は先生の助手なんだから」「ふふ、そうですね」 小さく笑う千夏だが、無理をしていると誰が見ても分かるほど痛々しい。
落ち着こうと震える手でアイスティーを持つと、ひと口飲んで大きく息を吐く。「あの強姦魔、私の父なんです」「え……?」 千夏のカミングアウトに、成也は大きく目を見開く。「心を整理するためにも、少し長い話をします。聞いてくれますか?」「もちろんだよ、聞かせて」 真剣な目を向けられ、千夏は安堵する。彼を疑っていたわけではないが、もし断られたらという不安が少しだけあった。「初めて会った日に、父が冤罪にかけられたって話したの、覚えてますか?」「確か、お父さんの友達が弁護士で、助けてくれたんだよね? 先生はその人に憧れて、弁護士になったんでしょ?」「えぇ、そうです。父は会社をクビになり、私は学校でいじめられてました。女子には教科書や筆入れ、上履きまでボロボロにされて捨てられ、男子からはその辺に落ちている石やゴミなんかを投げつけられました。身体中にある傷は、その時のものです……」 バスローブの上から、そっと自分の腕に触れる。「誰か助けてくれなかったの?」「雪奈という親友がいて、彼女が私をかばってくれました。それと、時々弘泰も。それでも、ふたりがいないところでいじめは続いてましたけどね……」 そう言って、千夏は哀しげに笑った。「でもさ、後から冤罪だって分かるんでしょ? その後は? てか、学校の先生は何してたの」「先生は見て見ぬふりですよ。冤罪だと分かった後でも、いじめはなくなりませんでした。むしろ悪化したんです。殺人犯だと間違われるようなことをする方が悪いって。それは父も同じみたいで、私の前では気丈に振る舞ってはいましたけど、無理しているのはひと目でわかりました。夜になると、ひとりで泣きながらお酒を飲んでたり……」 当時のことを思い出し、目頭が熱くなる。当時、千夏は実際にひろしの涙を見たわけではないが、酒をあおるその背中が、泣いているように見えたのだ。「でもさ、その弁護士の友達が、お父さんを助けてくれたって……」 成也の目は、何かに縋るように潤んでいる。彼の優しさはとても嬉しいが、今は感動して泣いてる場合ではない。「えぇ、何人かを起訴してくれたおかげで、だいぶ収まりました。父の友人……神代さんは、わざわざ学校にも来てくれて、いじめは犯罪でカッコ悪いことで、自分がしたことの何倍もの天罰が下るって言ってくれました。おかげでいじめはなくなりましたが
「優しいと、思います……」 千夏が頬を染めながら言うと、成也は吹き出した。「ぷっ、あはははっ! そんなこと言うだけで照れちゃうなんて、先生は可愛いね。流石処女」「殴りますよ?」 そう言って、千夏はテーブルの下で成也の足を踏んづける。成也は妙な悲鳴を上げながら足を上げ、膝をテーブルにぶつけて悶絶する。ちょうどそこへ、ケーキを持ったウエイトレスがやってきた。「おまたせしました、モンブランとチョコレートケーキです」「そこでうずくまってる彼にチョコレートケーキを」「あ、はい……」 ウエイトレスはテーブルに顔を突っ伏している成也の前にチョコレートケーキを、千夏の前にモンブランを置いて足
「どうしたの、先生? イラ立つ俺はカッコいい?」「違います。末安さんが感情的になるのは珍しいと思いまして。よっぽど常陰くんが嫌いなんですね」 茶化したのに真面目に答えられ、成也は思わず微苦笑する。「前にも言ったでしょ? 同族嫌悪ってやつだよ。媚び方が分かっちゃうと、自分にメリットがないと分かってても、癖で媚びちゃうんだよ。それって結構ストレスでさ。常陰将馬は、サンドバッグが欲しかった。それも物理的なね。精神的サンドバッグは事足りてたけど、やっぱりそれだけじゃストレス解消はできないしさ」 やだやだと言いながら、成也は胸ポケットから煙草とライターを取り出す。「吸っていい?」「どうぞ」
「先生、大丈夫?」「えぇ、なんとか……。フォローありがとうございます、助かりました」 千夏は力なく笑いながら言うと、お茶を一気に飲み干して額の汗を拭った。「もしかして先生、失声症になったことあんの?」「子供の頃に、2ヶ月ほど……」 当時のことがフラッシュバックで蘇り、目頭が熱くなる。「そっか、大変だったね。ちょっと休憩しようよ。警察署出てから全然休めてないし。休憩するのも大事でしょ」 そう言って成也は、千夏の腕を引いて歩き出した。「やっぱ先生は優しくて強い人間だよ。先生の過去に何があったのか詳しく知らないけど、俺だったら失声症になるくらい辛いことがあったら、弁護士になんかなれ
「では話を戻しましょう。どうして本田くんがその時期に通いだしたって分かったんですか?」「本田くんは読書が好きで、放課後は図書室で本を読んでたんです。私も読書が好きで、一緒に読んでたんですけど、2学期になってから図書室に来なくなったんです。気になって聞いたら、塾に通わされてるって言ってたんです。そうそう、夏休みも、図書館で見かけることがなくて……。今思えば、夏休みから通ってたと思います」 一気に喋って疲れたのか、マリは小さく息を吐くと、お茶を飲んだ。「なるほど、そうでしたか。常陰くんが本田くんをいじめているのに気づいたのは、いつ頃ですか?」「3年生になってすぐです。放課後にスマホ忘れて