LOGIN*** 文化祭の非常事態に、俺は急いでスマホで検索をかけて、代案を自分なりに組み立てはじめた。画面越しに並ぶ文字列を眺めながら、隣に座る氷室の視線がじんわりと肩に感じられる。「氷室に言うのが、ちょっとだけ恥ずかしんだけど……俺さ、推しのVチューバーがいるんだ」 思いきって告げながら横目で隣を見たら、氷室が僅かに眉を上げる。「ぶいちゅーば?」 その棒読みっぽい発音で、彼がVチューバーのことがわからないのが決定した。どうしたもんかなと考えて、無言で氷室を眺めると、目を瞬かせて小首を傾げる。なんだか、その表情がちょっとだけかわいく見えて、胸がくすぐったくなった。「氷室、Vチューバーってのは、アバターを使って動画配信とかライブ配信をする配信者のことなんだ。で、俺の推しがこの人」 そう言って、俺はスマホの画面を氷室のほうに向けた。そこには、クール系の男性アバターが映っていた。「……男性なのか?」 「いや、アバターは男だけど、中の人は女性なんだよ。しかも両声類で、男の声も女の声も出せるっていうすごい人でさ。まだそんなに有名じゃないんだけど、これから絶対に伸びる配信者だと俺は思ってる」 語っているうちに、気づけば言葉に熱がこもってしまった。でも俺の様子に氷室は引くこともなく、静かに聞いてくれた。それどころか、さっきまで青ざめていた顔に、ほんの少しだけ色が戻っているではないか。「なるほど……。それで、その人にライブ配信を頼もうと?」 「うん。文化祭で予定してたお笑い芸人が来られないのなら、その代わりにこの人をゲストに呼べば、きっと盛り上がると思ってさ。スクリーンに映して、リアルタイムで配信をしてもらえば……ね?」 話しながら氷室の肩に置いていた自分の腕に、そっと重みがかかる。……氷室が、少しだけ寄りかかってきていた。 窓の外は夕陽が傾きかけていて、赤や橙に染まった光がカーテンの隙間から差し込み、俺たちを包む。グラウンドの木々は、風に揺れるたびに黄金色に染まった葉をひらひらと落とし、文化祭前のざわめきとは別の静けさを運んできた。 体温と体温が触れそうな距離に、鼓動がやけに大きく感じられる。秋の冷たい空気の中で、そのぬくもりは思いがけないほど心地よくて——。「……うん。おもしろいな、それ」 氷室は小さく呟いてスマホを自分のポケットに戻し、顎に指を当て
文化祭本番を週末に控えた木曜日。教室内は、どこかそわそわとした空気に包まれていた。 クラスメイトたちは装飾や衣装の最終チェックに忙しく動き回っていて、普段は静かな氷室もその中心で淡々と指示を出している。「パネルはあと三枚。道具室から持ってきて」 「照明のコード、床に這わせたままじゃ危ない。テープでしっかり固定を」 的確に動く氷室の声に、自然と周囲も応じていた。 俺はといえば、教室の端でパンフレットを折る地味な作業を黙々とこなした。班ごとの準備が進む中で、なぜか今日の俺と氷室は話すタイミングがうまく合わずに、すれ違ってばかり。 昨日、傘を差し出してくれたこと。あの優しい付箋のメモのこと。感謝を伝えたい気持ちはあるのに、忙しさに紛れて声をかけられないまま、時間だけが無常に過ぎていく。(借りた傘すら返せないなんて……このままじゃダメだ。タイミングを見計らって、氷室に声をかけたほうがいいよな) でも、そのとき。「氷室くーん、このパンフレット、順番これで合ってる?」 「氷室、こっちの装飾、少し見てチェックしてほしいんだけど!」 別の女子生徒たちが氷室のまわりに集まり、矢継ぎ早に話しかけた。(うわぁ……こんな様子じゃ、ますます入り込めない) 目の前の様子に、ちくりと胸が痛む。俺の言葉なんて、今の氷室には届かないんじゃないだろうか。そんな弱気が顔を出した。まるで背中合わせのような距離感。 同じ空間にいるのに、手が届かないようなもどかしさが、喉の奥に引っかかった。 準備が一段落した、夕方前。荷物を取りに行くついでに、今は授業で使われていない旧音楽室に立ち寄った。静かな空間で、コッソリ一息つきたかっただけなのに——なぜかそこには、氷室がいた。「……氷室?」 氷室は小さなスピーカーを手にして、イヤフォンでなにかを聴いている姿が目に留まる。俺の気配に気づくと、少しだけ目を見開いて、それからイヤフォンを外した。「葉月か。どうした?」 「……ちょっと休憩しようと思って。邪魔だった?」 「いや、別に。ここに座れば」 そのまま並んで座ることが照れくさくて、背中合わせでピアノの長椅子に腰かけた。「氷室あのさ……文化祭、楽しみだね」 「そうだな」 短い会話のなか、俺は勇気を出して問いかけた。「昨日……傘、ありがとう。あの付箋、すごく嬉しかったよ」
氷室とうまく喋れない日が数日続いた。どうしたらこの微妙な距離が縮まるだろうかと、頭を悩ませていた昼休み、突然窓の外で雨音が響いた。 つい先ほどまで秋晴れの陽光が差しこんでいたのに、今は鉛色の雲が空を覆いつくして、大きな雨粒がグラウンドを容赦なく濡らしていく。校庭でサッカーをしていた生徒たちが、騒ぎながら校舎に駆け込んでいくのが見えた。(……予報じゃ晴れだったのに) 当然、傘なんて持ってきていない。午後の授業のあいだに止んでくれ、と心の中で祈ったけれど——その願いは届かなかった。 放課後。灰色の空からは大粒の雨がまだ降り続いていて、俺は渡り廊下の屋根の下で足止めを食らっていた。 冷たい雨の匂いと湿った風が肌にまとわりつく。秋の夕暮れはもう十分に寒くて、薄着の制服では心許ない。(まさか、またこんな形で空を見上げることになるなんて……) ガックリと肩を落とした俺の視界の端で、足音が止まった。「……葉月。やっぱり傘、持ってないんだな」 かけられた声に振り返ると、そこには氷室がいた。片手に紺色の折りたたみ傘、もう片方の手を俺の前に差し出して。「入れ」 「え……?」 呆けた俺に、氷室は眉を潜めてため息をついた。「このままだと風邪ひくぞ。早く」 その一言に背中を押されて、俺は慌てて傘の中へ滑り込む。肩と肩が触れそうで、息が詰まった。 歩幅を合わせてくれているのか、氷室の歩調はいつもよりゆっくりだった。なのに俺の胸の鼓動は速すぎて、雨音に隠れてほしいと願う。「氷室さ……なんで、こんなに優しくしてくれるんだよ」 小さく零した言葉は、雨に飲まれて消えてしまった。氷室に届いたのかもわからない。届かなかったと思うと、胸がちくりと痛んだ。 家の近くの角で、氷室が立ち止まる。「ここでいいか」 「……うん。ありがとう」 差し出された紺色の傘を受け取ると、氷室は自分のバッグからもう一本の黒い傘を取り出し、迷いなく開いた。「じゃあな。また明日」 その声は雨音に溶けて、静かに消えていった。 ひとりになった俺は、手に残された傘の持ち手を見つめる。そこに、小さな付箋が貼られていた。『風邪ひくなよ 氷室』 少し歪んだ字が、どうしようもなく優しく見えた。(……こんなところにまで気遣いを忍ばせるなんて。氷室ってば……いつからこんなものを準備してたんだよ)
文化祭の準備が本格化して、毎日が徐々に慌ただしくなってきた。窓の外では、紅葉の葉がゆっくりと色づき始めていて、秋が深まっていくのを感じさせる。 班で集まる放課後、俺と氷室は自然に作業を分担して、いつの間にか息の合った動きを見せるようになった。少なくとも、俺はそう思っていた。気づけば隣にいる時間が増えていて——それが本当に“距離が縮まった”証拠なのかどうか、自信はなかったけれど、そう信じたかった。 けれど、ある日。教室に向かう扉の前で、氷室が他のクラスの男子と肩を並べ、楽しげに笑っている姿を見かけた。 無防備に笑う氷室。俺の知っている“完璧で近寄りがたい氷室”とはまるで別人みたいで、胸の奥がぎゅっと痛んだ。「氷室って、あんな顔もするんだ……」 思わず漏れた独り言に、近くの生徒が軽い調子で答えた。「前の中学からの友達だろ? 氷室、アイツにはよく喋るんだよ」 氷室は外部受験でこの学園に来た。なので俺の知らない“過去の顔”が、確かに存在している。そう考えると、胸に冷たい風が吹き抜けた気がした。(……じゃあ、俺に見せてくれたほほ笑みは、特別なんかじゃなかったのかもしれない。勝手に舞いあがって、バカみたいじゃないか――) そんな思いが頭を掠めたせいで、放課後の作業中も言葉がうまく出てこなかった。「葉月、それ……見ている資料が上下が逆になってる」 「……あ、ごめん。すぐに直す」 氷室の冷静な指摘に、ただ素直に謝ることしかできない自分が悔しかった。 活動が終わりかけたとき、氷室がふいに俺を見た。「葉月、どうした。今日は……なんだか元気がなかったな」 短い言葉だったけれど、その声音は確かに俺の心を射抜いた。氷室に見抜かれている、うまくごまかせない。そう思った瞬間、心臓が乱れて、答えを探しても二の句を継げることができなかった。「だっ……大丈夫」 やっと絞り出したそのひと言は、自分でも頼りなく聞こえた。笑ってごまかすことしかできなかった。 けれど氷室は目を逸らさずに、じっと俺を見つめた。その視線は強すぎて、心の奥の奥まで届いてしまうみたいで。(——本当は、ちゃんと伝えたいのに) 近づきたいのに、理由すら言えない。指先なら触れられる距離にいるのに、実際は心だけが遠くに置き去りにされている。 それが、一番苦しかった。
週明けの月曜日。教室の窓際にある自分の席に座って、ぼんやりと空を見上げていた。目に映るのは、季節外れに残った入道雲と、その向こうでじんわり色づきはじめた秋空。まだ夏と秋の境目を行き来しているような空は、まるで膨らんでいく自分の気持ちみたいだった。(あれから氷室とは……) 先週の金曜日、図書室を出るときにかけられた「また明日な」のひと言。それを思い出すたびに、胸の奥が不思議とあたたかくなる。(——でもあの微笑が、誰にでも向けられるものだったら? 俺だけに向けられているって、勘違いだったとしたら……) そんな不安がふと過ると胸の奥がモヤモヤして、勝手に不安定になった。言葉にできない感情を、あの入道雲に預けて、どこか遠くに流してしまえたら、どれだけ楽になれるだろう。「葉月、プリント早く回して」 「……あ、ごめん!」 前の席の女子に呼ばれてやっと我に返り、慌ててプリントを後ろに渡す。ぼーっとしていたのを見た、隣の席の林田が意味深にニヤニヤしていた。「おいおい奏~、なにぼーっとしてんだよ。恋でもしてんのか?」 「は? してねーし!」 「なんだかなぁ。その反応が、逆に怪しいんだよな~」 からかい半分の林田の言葉に、思わずムキになってしまう自分がいた。 放課後。今日は学年行事の準備日で、文化祭の班活動がスタートした。廊下の窓の外には、赤や黄色に変わり始めた桜並木が夕日に照らされていて、校舎全体が少しだけオレンジ色に染まっていた。 班分けは2年生全員のくじ引きで決められる仕組みで、俺の班には氷室もいた。偶然といえば偶然だけど……それでも、胸がじんわり温かくなる。「葉月、ここの寸法測っておいて」 「あ、うん!」 氷室が渡してくれたメジャーを手に、俺は装飾用のパネルのサイズを測りはじめた。氷室は資料を手にして、班員にテキパキ指示を出している。その真っ直ぐな声が、なんだか心地よかった。 班のメンバーがざわざわと雑談しながら作業を進める中、俺たちは淡々と手を動かした。でも、それが不思議と落ち着く。「葉月、それ逆になってる」 「え、あ……!」 パネルの上下を間違えていた俺に、氷室がそっと近づいて正してくれる。指先が触れそうな距離に、思わず息が詰まった。「まったく。本当に、君は注意力がないよな」 「う、うるさい……自覚はあるけどさ」 氷室がふっ
氷室と一緒に掃除をした数日後の昼休み、担任に頼まれたプリントを職員室に届けに行く途中、廊下の角を曲がったそのときだった。「……氷室くん、呼び止めてごめんなさい。でも、どうしても渡したかったの」 女子の声が耳に聞こえてきて、思わず足を止める。柱の陰から覗いた先には、女子生徒が一枚の封筒を差し出し、それを前に立つ氷室がじっとそれを見つめていた。 窓の外には、銀杏の葉がひらりと落ちていく。秋の静けさの中でふたりの姿だけが、映画のワンシーンみたいに切り取られたみたいだった。「君の気持ちはありがたいけど、それは受け取れない。ごめん」 氷室の声はいつもどおり静かで、表情もまったく変わらなかった。けれど、ほんの少しだけ——優しく聞こえた気がした。まるで、自分にだけそう聞こえたかのように。 女子生徒は深く頭を下げ、駆け足で立ち去って行った。氷室は手ぶらのまま、ゆっくりと職員室の方向へ歩き出す。(……断ったんだ) ホッとしたはずなのに、胸の奥がちくりと痛んだ。どうしてそんなふうに感じたのか、自分でもわからないままだった。 教室に戻ると林田が俺を見つけて、大きく手を振った。「よう奏、おせーぞ。どこ行ってた?」 「職員室。担任に頼まれたプリントを届けに」 適当に答えつつ席に着く。さっきの場面が頭から離れない。「なあ、さっきさ氷室のヤツさ、女子に告白されてたっぽくね?」 「林田……あれを見てたのか?」 「たまたまな。しかも断ってたけどさ。まあアイツは、そこら辺の女子と付き合うタイプじゃねーよ。なんつーか、女子のことに興味なさそうっていうか……選り好み激しそうじゃね?」 林田の何気ない言葉に、なぜか心がざわつく。「別にどうでもいいし。俺には関係ない」 「……ほーん?」 林田の意味深な視線に、思わず目を逸らしながらペットボトルのお茶を飲もうとしてタイミングをしくじり、激しく咳き込んだ。ドジは相変わらず健在の俺、虚しすぎる……。 放課後、少しだけ遅れて図書室に向かう。返却期限の本を返そうとしたとき、また氷室の姿を見つけた。窓際の席に座る彼の横顔は、夕日に縁取られてどこか儚げに見えた。「あ、氷室……」 声をかけると、氷室は顔を上げて小さく頷いた。「……葉月、どうした?」 「え?」 「今日は、あんまり喋らないから」 どうやら、気づかれていたらし