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Once more with you もう一度あなたと
Once more with you もう一度あなたと
Auteur: 美希みなみ

第一話

last update Dernière mise à jour: 2024-12-03 12:46:53

都内の閑静な住宅街の一角。豪邸が立ち並ぶ中に、一軒のこじんまりとした家があった。

小さな庭と赤い屋根が印象的なこの家は、四月の初旬、桜が咲き乱れる中で慌ただしかった。

「瑠香、待って! 今日から保育園だから!」

私のその声に、一歳三か月の娘はさらに廊下を走るスピードを上げた。追いかける私と遊んでいるつもりなのだろうが、こっちは必死だ。

「ねえ、お母さん! 瑠香を止めて!」

ようやく転ぶことなく小さな段差を超えられるようになった瑠香は、毎日元気いっぱいだ。

「ほーら、捕まえた」

私の母、静江にすっぽりと抱っこされた瑠香は、楽しそうにキャキャと声を上げる。

「彩華、今日十二時にお迎えでいいのよね?」

専業主婦の母が心配そうに私に声をかける姿に、少し苦笑する。

「うん、ごめんね。お願い。今日は慣らし保育だから早いの」

「本当に私はいいのよ。瑠香を保育園に入れなくても。ねー、瑠香」

その母の優しさはとても嬉しい。しかし、母にだって予定が入ることもあるだろうし、持病もある。あまり無理をさせたくないのが実情だ。

「早めに迎えに行ってくれるだけで助かるから」

そう言いながら、私と瑠香の部屋へ行き、クローゼットから久しぶりの洋服を取り出す。子育てに忙しかったこの一年は、Tシャツにジーパンという出で立ちだったが、今日はセンタープレスのブラックのパンツに、薄いブルーのインナー。それにジャケットを手にして階段を下りる。

リビングに入れば、瑠香を子供用の椅子に座らせながら、一緒に朝食をとる両親の姿があった。

東雲彩華、二十六歳。ブラウンの肩までの髪に、目はぱっちりとした二重だ。美人というタイプではなく、どちらかといえば幼く見えるかもしれない。身長は159㎝で、至って普通の体型だと思う。

高校を卒業後、大学へと進学して、大手のKOWA総合システムに入社した。しかし、一年半前から出産のために産休を取っており、今日から久しぶりの出社だ。

休みに入る前、シングルマザーとして出産をすることを一部の人に伝えてあり、その当時は多少噂にもなったし、父親が誰かという憶測もあった。今もその話が残っているかわからないが、戻ることに不安がないと言えば嘘になる。

しかし、私は、一生懸命働いて瑠香を育てていかなければいけない。この一年、実家の両親に甘えてばかりだったのだ。

今は父も働いているし、私たち二人を快く迎え入れてくれているが、きっといろいろ思うこともあるだろう。

そんな気持ちを隠すように、私は明るく声を上げる。

「ねえ、なんか新入社員みたいじゃない?」

キッチンで自分のコーヒーを用意しながら、母に問いかければ、まじまじと母も私を見る。

「確かにそう言われればそう見えるけど、気持ちは新入社員みたいなものでしょ? いいんじゃない?」

明るく言ってくれる母に、私も笑顔を浮かべる。

「彩華、今日は瑠香は俺が送っていくから」

新聞を読んでいて、私の姿に興味を持っていないと思っていた父の言葉に、「え?」と聞き返す。

「久しぶりの仕事なのに、遅刻はダメだからな」

そう言いながらも、父は瑠香を見ると表情を崩す。

「瑠香、じーじと一緒に行こうな」

「あーい」

意味がわかっているのかどうかわからないが、口いっぱいにおにぎりをほおばりながら瑠香は私にバイバイと手を振った。

「そう、じゃあお言葉に甘えて。お父さんありがとう」

「ああ」

私の素直なお礼に少しバツが悪そうな父を見て、母もクスクスと笑い声をあげた。

「いってきます!」

ここから会社までは電車で三十分ほどかかる。初日は少し早めに行きたいこともあり、両親に瑠香を任せると、久しぶりのパンプスを履いて外に出た。

そして数十歩歩くと、私の身長の二倍はある高い塀が現れる。その塀に沿ってしばらく歩くと、ようやく大きな門が見えてきた。

私の家とは比べ物にならないほど大きな洋館。小さい頃何度も遊びに行ったお宅だ。

しかし、今は誰も住んでおらず、手入れされていた木々が伸びてしまっている。

昔は、そこには春子おばあ様と私より四つ年上の男の子の二人が住んでいた。

雪平日向。私の生まれた時からの幼馴染であり、兄であり、守ってくれる人だった。

くりっとした好奇心いっぱいの瞳に、抜群な運動神経。日向の家の庭の木に登ってはおりられなくなる私をいつも助けてくれていた。「どうして両親ではなく、おばあ様と住んでいるの?」そう子供心に残酷なことを聞いてしまった時も、「二人は海外に行ってるんだよ」そう言って明るく笑ってくれる人だった。

家が隣同士。それだけでは片付けられないほど、私たちには絆があった。

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