「蛍 ! 蛍ちゃん〜 ! 」
内陸部の山林地域に存在する廃校。
木造建築で、学校を利用した再生カフェや当時の学生気分が味わえるイベントを開くとして、去年どこかの資産家に買い取られたという噂が流れた。 しかし、いつまで経ってもカフェどころか、廃校は放置されていた。蛍とルキが到着すると、香澄が縋り付くように駆け寄ってきた。その身体に拘束は無い。制服のままという事は下校途中、親と合流する前に連れて来られたのだろう。汚れや服の乱れも無かった。
「ケイも来るって部下に連絡したんだけど、その子信じなくてさぁ……手をやいたみたいだ」
ルキが黒服達の乱れた髪と汚れたスーツを見て苦笑する。
「蛍ちゃん、どこにいたの ? こいつら誰なの !? 」
「香澄、冷静に」
「なんでぇっ !? なんで落ち着いてられるのっ ! 」
泣き出す香澄を見てルキはクスクスと笑う。
「そうだよね〜 ? 不安だよね ?
今のはケイが酷いよ。ちゃんと心配してやらないとさぁ〜」「心配はしてますよ」
「香澄ちゃん、もっとケイと無事を確認し合ったりしたかったよねぇ ? 」
ヘラヘラと笑うルキに、香澄は噛み付かんばかりに睨みつける。
「あぁ、ごめん。俺の言う言葉じゃないか !
さぁ、皆さんこっちに来て」ルキの他に、部下が二人横に付く。更に蛍と香澄の背後、逃走防止に二人の黒服がついた。電気は通っているものの古いせいか今にも消え入りそうな光量だ。
通されたのは一階、校舎中央の階段下。
校舎は二階建で、中央階段から東と西に教室が存在する。 一階の中央階段前は校長室だが、そこにはあらゆる監視モニターがある様子だった。即席のケーブルが束になり、閉まりきれない扉の隙間から液晶が見える。学校の内部が映し出されているようだ。 蛍がその場へ来るとすぐに黒服が防火シャッターを締め、簡易取り付け型の鍵をする。逃げ道を防ぐのだろう。くぐり戸はあるが、完全に溶接されている。「何をするんだ ?」
「そう焦らず、ね ? 」
ルキと黒服以外に、蛍、香澄、他二人がいた。
「さ、自己紹介だ !
君からどうぞ ! 」「ひっ…… ! 」
香澄より酷く怯えている女性。
エキゾチックな派手目の服装だが不潔感がない。激しくかかったスパイラルパーマが個性的で、そばかすのある素肌感が穏やかな印象の面持ちだ。「や、山本 美果……南湊市の芸大の二年……です……」
「未来のアーティストだ ! みんな拍手〜」
全員が怯える中、ルキだけがケラケラとしていて気味が悪い。
「はい、次は男性ね。お兄さん名前は ? 」
「……っ。加藤 順平。職業、歯科医……」
「はい、拍手〜。
今日は白衣じゃないんだ。歯医者さんってサディスティックだよね〜。 部下の報告で見たけど、 貴方は治療最後に一本だけ虫歯になりやすくする為、凹凸を入れて、また患者が自分の歯医者に通うようにするらしいね。ネットのレビューにあったってさ。ほんと ? 」「そんなわけない。治療の一環だ。削ったのはただの歯石だ」
「なんだ。期待はずれ。
じゃあ、次は君だよ。可愛いね、何年生 ? 」「……古川 香澄……高校一年です……」
「ご実家は ? 」
「……花屋です……」
「へぇ。お花屋かぁ〜。芸大美果ちゃんのセンスとお花屋さんのセンス。比べるのが楽しみだよ !
じゃあ最後、お願い」ルキが顎をしゃくって蛍を指す。
「高校一年、涼川 蛍。……自宅は葬儀屋……」
「はい、OK〜 !
じゃあ、みんなよく聞いて。 それぞれ一人につき、三つの教室を割り当てる。 君たちには……今回……。アートを作成して欲しい」「ア、アート…… ? 」
ルキが校長室から『見本』の一部を取り出す。
「使うのはこれだよ」
その手に握られているのは、人の腕だった。鳥肌が立ち、産毛が逆立っているのまではっきりとわかるマニキュアのついた腕だ。
「……っ !! きゃぁぁっぁ ! 」
「蛍ちゃ〜ん ! 」
紛れもなく本物。
爪が剥がれ、血は抜けて流血こそ無いが、白く青く変色した腕はマネキンでないことは明確。生々しく、グロテスクに新鮮な肉塊。「し、信じられん ! 鬼畜だ……」
「ただの部位ですよ〜。お医者さん見慣れてるでしょ ? あ、歯医者は見ないかぁ。
色々揃ってるよ。腕も頭部も……ここには無いけど傷の無い全身のもある。人種も年齢も選べる」「考えられん。君が殺したのではなくとも罪に問われるぞ」
加藤がルキを咎めるが、言ってすぐ無駄なのだと理解する。ルキは飄々とした笑みで頷くだけ。こういった事件性のあるものに対し、初めてとは思えない余裕があった。
「全部用意は専門の部下だよ ? 俺は何もしてない。犯罪なのは知ってるけど、言った通り警察は俺をスルーだよ。
あそこを見て」ルキが頭上の監視カメラを指差し、手を振る。
「あれね、君たちが逃げないように監視するモニターじゃないんだ。
この夜会はね、君たちを観たい方達の為のイベントなんだ」「イベント !? 誰がこんな事、観たいなんて言うのよ ! 」
香澄が喚き散らすが、芸大生の美果はふと考える。友人のサークルが、一軒家の物陰に入り覗きをするという仕掛けだった。最後に、家主が演技だった事をネタばらし。まるで本当に一般家庭の内輪の覗きをしているようなパフォーマンスにその演劇部は話題になった。
ここはそれを本当にやる気なのだ。自分たちを観て悦に浸る者達のカモにされたと理解した。「そりゃあ、世の中色んな嗜好の人がいるし。ね ? ケイ ? 」
「……俺を一緒にしないでください」
蛍はそっぽを向いたままルキに言葉を返す。
蛍とルキは、ここまで一度も面と向かって視線を合わせていない。それだというのに、ルキは気にしないのか沸点が低いのか、いつまでも陽気なままで話し続ける。「はは。つれないなぁ。
さて、ルールは簡単。より素晴らしいものを作り上げたら帰れる。審査は観覧者達。俺はただの主催者。けど、酷いものは俺の判断で除外するから本気でやってね ? 」ルキが合図を送る。
黒服が二人、それぞれ四人の被害者に付いた。「足りないもの……道具とか欲しい部位とかがあったら彼らに言って ? 作品に制限は無いから、とにかく好きなようにやってみてね。
さ、移動するよ。 芸術家さんは二階の東。 歯医者さんは西。 香澄ちゃんは一階の東、ケイは西ね。 一人教室三個。三教室同じテーマでもいいし、一部屋バラバラの作品でもいいよ。特に芸術家 美果ちゃんには期待かな ! じゃあ、スタンバイお願い」黒服がそれぞれを連れていくが、香澄だけは暴れて黒服の腕を振り払い蛍の元へ戻って来た。「い、嫌 ! 蛍ちゃん、逃げよう ! こんなのおかしいよ ! わたしたち、何で連れてこられたの !? 」 蛍が困ったように香澄を見下ろす。 屈強な大人達の護衛。それに連れてこられた時に見た、夕暮れの中。駐車場の車の台数はかなり多かった。おそらく外にも見張りがいるはずだ。逃げ切れるわけがないのだ。「け……い…… ? なんでそんな顔するの ? 」「分からない。俺もこいつらに初めて会った。何も知らないし、やらなきゃ帰れないだろ」 そう言うしか無い。しかし蛍は望んでルキの車に乗って来た。その間なんの会話も無かったが、直感で分かる。蛍自身の何か、ドス黒い欲望を満たしてくれる男だと。「う、うぅぅ…… ! こんな、人の遺体を触って……何かするなんて…… ! どう考えても狂ってるよぉっ」 香澄も頭では理解しているはずだ。 こんな山奥では走って逃げたところですぐに追いつかれるだろうし、黒服たちは傍目で分からずとも武装をしていないとも限らない。「ルキ。一つ質問が」「何 ? ケイ 」「作品が評価されなかったら、そいつはどうなるんだ ? 」 全員がドキリと、恐怖に慄いた顔でルキを振り返る。「ん〜。基本、処分にするけど……。でも、次ならいいもの作りそうだなって思ったら優勝しなくても帰してあげるよ。前例はあるしいつも同じゲームしてる訳じゃないし。向き不向きも考慮してるつもりなんだぜ ? でも、どうかな。ケイと香澄ちゃんさ……今日の自殺現場にいたよね ? 」 これには蛍がドキリとする。「あの子ね……折角逃がしてあげてたのに、あちこちに言いふらして助け求めたりしたんだよ。 ああいうの、揉み消すのも大変なんだ。一般人の目撃者が一番タチが悪い」「そんな……」「だから死んでもらった。あ、脅迫はしたけど、ちゃんと自殺だよ。君らも見てたでしょ ? 自分で飛んだの。 次はいいアクションしそうだなって期待してたんだよねぇ、残念〜」「……っ ! 」 香澄が両手で顔を覆う。「頭おかしいんじゃないのっ !? 」「ふふ……そうだよ ? 問題あるかい ? 他にも生存者は沢山いるから諦めないで ! って話しさ。希望が持てたろ ?
蛍の要求した材料のメモ。 一つ目は女性と赤子の遺体。 二つ目は男性の焼死体と十二人の男の遺体。 三つ目は──「古川 香澄は参加者で、まだ生存してます ! 」 蛍の三つ目は『香澄の遺体』だった。「どうしますか ? 」『何それ ! ふふ ! そっかぁ』 電話口からルキの楽しんだ声色がする。『ケイがそう書いたんでしょ ? じゃあ、問題ないよ。きっとね』「えぇ ? 」 その時、教室の扉が思い切り開く。「蛍 !! 」 香澄だった。 どれだけの制止を振り切ったのか、制服のブレザーは最早血塗れだった。よく見ると引っかき傷や鋭利な物で斬られた跡があるが、どれも致命傷では無い。暴れ、制止させる時に付いた傷だろう。「蛍ちゃん ! こいつらそんな強くないよ…… ! 早く逃げよう !? さぁ、早くぅ ! 」 だが、蛍は振り向きもしなかった。 窓の外を眺め、教室の電気を点ける。そして置かれていた児童用机をガタガタと移動させ始めた。「なんだよ ! なんでだよ、蛍ちゃん〜 !! 」 直後、西校舎担当の黒服が駆け付け、懐から銃を抜いた。「仕留めろ ! 」 パンッ !! 「あぁっ !! 」 放った銃弾が、いとも簡単に香澄の心臓を貫いた。「う、うわ ! 危ねぇな ! 」「こいつ、俺の足を噛みやがったんだ ! 」 糸の切れた人形のように、目を見開いたまま香澄は床に崩れ落ちた。「殺して良かったのか ? 」「マニュアル通りだろ ? 脱走者や戦意喪失で飛び出して行った参加者は射殺していい決まりだ。覚えておけ」「は、はい」 片方の黒服はまだ新人なのだろう、戸惑いはするが、目の前に崩れたまだ幼い女子高生の骸をただ商品としてしか見ていない。「あ……じゃあこれって……」『銃声……。もしも〜し。 香澄ちゃんは死んだのかい ? 』 立ちすくんだ黒服のスマートフォンからルキの声がする。「は、はい。西から脱走してしまいました。マニュアル通りに……。 一人、足を噛まれて怪我を……いえ、軽傷だしうです」『はは…… ! ケイは流石だね。長年付き合った友人の行動パターンなんて、手に取るように分かるって事か。先を読むのは造作もないんだよ。 それじゃ、要求通りに古川 香澄をケイに譲渡して』「は、はい」 香澄
観覧者はモニター越しに皆、ルキの側近に着信を入れ始めた。特に男性観覧者を中心に、ルキに取り次ぐよう話が来る。 美果の作ったデスマスクが欲しいのだ。 それほど、希少な物だからだ。 そもそも現代においてデスマスクの製造は違法では無いものの、貴重な物な事には変わりは無い。正しく作れる者も多くは無い。 購入した観覧者も、飾るには身内のマスクでは心が痛むし、客人が来た時も心象が悪い。 だが、あれはどうだ ? 美果の作り上げた女性のマスクは、まさにレリーフのように美しい。 遺体の女性が誰もが認めるほどの美女だった為、余計にだ。 二体目は男性。恐らく日本人だろうシワの多い、老年の男だ。 石膏がシャツに付くのも構わず、美果は作業を開始する。しかし、この老人にはエンバーミングは施さない。苦悶の表情で息絶えた時のままだった。 やがて出来上がったそのマスクは、正確に男性を写す。 神経質そうなシワの入り方と毛量の多い上向きの眉。堅物そうなへの字口がガバッと開き牙を剥くかのような表情。 それがマスクにすると、まるで仁王の様に仕上がった。東洋独特の男性神の強い畏怖のイメージ。和のテイストが好きな観覧者達は次々と連絡を入れ始める。 それだけ綺麗な美しさが無くとも、作品の個性は色濃く仕上がったのだった。 三体目は子供を選んだ。男女の双子で、この子らもまさに天使のようだ。 必死に型を取り石膏の準備をする美果は、自身の信じた芸術の道を行く……アーティストだった。しかし目の前にあるのは紛れもなく幼子であり、嫌でも死因を想像してしまう。並の人間なら精神的に摩耗が激しいはずだ。現に美果も作業は進むが、目の下が窪み、顔色は決していいとは言えない状態だった。 ルキは校長室の椅子に凭れ、美果をモニターで観ていた。その側には二人の黒服が立っていた。「随分、反応あるね」 二人のプリペイドスマートフォンに、ひっきりなしに来る観覧者からの着信。ルキが鬱蒼しそうに、音のなる黒服のポケットを一瞥する。 この二人は他の黒服達とは装いが違う。タイがシルバーで、武装も充実している。「はい。購入希望の話が立て続けに来ています……」 二人のうち、ルキに報告をしたのは褐色肌の大柄な男性の方だ。「……ま〜、
「湊市周辺の個人病院で検索し、ネットのレビューで一番低かったのが加藤歯科だったもので。レビューが酷いということは、 乱雑な治療をしている可能性が考えられる……つまり、このゲームに適性があるかもしれないと思いましたので」「だってさ。あの文句だらけのレビューサイトが原因だって。 あんなもの、アテにならない他人の感想不満の捌け口だ。自分の理想にそぐわないものを晒しあげて、商売人の価値を落とすだけのだよね。 それが真実なら仕方がないけど……レビュー記事の治療は適切なものだってさっき言ってたし。多分、加藤歯科の評判は実際は異なるんだろうね。 でも、それは別の話」 ルキが椎名の胸元に手を入れ、装備していたホルスターから銃を抜いた。 純白の上質なスーツに無機質な黒塊がよく映える。「残念だけど……動かない玩具は要らないんだ」 そう言い、銃口を加藤に向ける。 しかし加藤は微動だにせず、下を向いたままだった。「あんた方が恐ろしい存在なのは理解した。 だが、君らも身体を患えば医者にかかる。絵が欲しければ画家を探す……。必要じゃない人間なんていない。いないんだよ。 だとしたら、俺にも価値がある。 価値があれば、誇りが芽生える。 俺は腐っても医者だ。歯医者とて、人を殺める存在だけにはならん。 構わん。殺せ」「……そう。素晴らしい思想だ。まさに医者の鏡。 そのプライドに免じて、 一瞬で逝かせるよ。 さようなら、加藤 純平」 暗い教室が二度、小さな光を伴いパンと渇いた音を二度立てた。 窓の外からでも分かる、蛍のような小さな光。「片付けはゲーム後でいい」 グリップを椎名に向け、ルキは教室を後にする。「椎名」「はい」「ネットのレビュー……さぁ。 俺が『他人の感想』なんか一番興味無いの……知ってるよねぇ ? 」 安易に作業をすると、必ずルキは見抜く。ここに連れてくるのが、本当に誰でもいいという訳では無いのだ。他の被検体と同等程度に、必死に動かないと観覧者に萎えられてしまう。 椎名の喉がゴクリと上下する。「は、はい ! 」「人生に捨てるものが無いクズに用は無いけど。こういうタイプも考え物だね。 何としてでも生還を果たそうって人間じゃないとならない。 動きが無い人
8888「蛍って……高校生の男の子 ? 」「ああ、そうなんだ。 ケイならきっと ! きっと、答えを持ってるって思えるんだよね」「葬儀屋さんって言ってたんだっけ ? 元々知り合いなの ? 」「ううん。今日初めて会ったんだよ。部下に軽く調査させたけど、目立つような学校生活を送ってないし、成績も普通。帰宅部で放課後は家の手伝いをしてる、どこにでもいる高校生さ。 でも、今朝の駅前の自殺現場。彼はそこにいた。まさに俺の一目惚れさ」「え ? はぁ ? 一目惚れ ? 」「気に入ったって事だよ。 美果ちゃん、俺はねぇ。結構、人を見る目があるんだよ ? ケイはきっとイイよ」 階段を降りるルキに続き、美果はエスニック柄のチュニックを羽織った。葬儀屋と言っていた蛍の顔をぼんやりと思い出しながら、自分もルキと同じく興味が湧く事に何故か罪悪感は無かった。 階段を降りる二人の後ろに椎名が気配を消すように付いてくる。ルキと美果が並んで話す姿は親しげであった。 不思議な事ではなく、ルキはゲームマスターではあるが、ゲームの参加者には対等な人間として接している。少なくとも、彼女が処分されるまではそれを続けるのだ。中には媚びる者も、命乞いをする者もいる。その最後を含めて全てが観覧者への見世物なのだ。「自殺現場を見てた人は他にもいたんでしょ ? どうしてあの子が特別って言い切れるの ? それに、わたしがここに連れてこられた理由は ? 」 問われたルキが振り返って椎名を見る。「あ……今回は人体アートでしたので、本来は芸大の貴女が一番人気でした」「あれ ? 皆んな、美果ちゃんに賭けてたの ? 」「はい」「芸大生だからって単純だね」「……まぁ、そんなに評価が高い生活してないわ。貴方見る目無いのね」「……」「ねぇ。わたしのデスマスクは、完成さえしてれば生き残れたの ? 」 美果の最後の抵抗か、突っかかりながらの会話だ。「ん〜。あれは素晴らしい出来栄えだった。それも初めてやったんでしょ ? そうだね。作品だけなら完璧だ。けれど、制限時間を考慮しないのは論外だよ。そんなのフードファイターだってサッカー選手だって同じでしょ ? 」「限度があんでしょうよ。このルールじゃ、組立加工するだけじゃな
「これは……」 二教室目は、三教室にあった児童用机を横に繋げ、黒服が用意した家庭科室の食器が並んでいた。 その横並びの机に沿い座らせられた十三人の遺体。 仕草、視線、体の向きまでが正確に再現されている。 言わずと知れたレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』である。 中心にいるのがイエス・キリストとし、他十二人の使徒たちが左右に座り会食しているサンタマリア教会の有名絵画。 そしてこの絵の論点がよく話題になる、裏切り者になる使徒のユダの存在。キリストから三番目に位置し、小袋を持った男だが、蛍がユダにしたのは焼死体の男だった。「二つ目は神か ! 『生と死』、『神』なかなか考えたね ! 」「……」 ルキがはしゃぐ中、美果は無言だった。 本来ユダは首吊りで自死をする男である。 何故、焼死体を選んだのか…… ? だがこうも考えられる。 モニターで観ている謎の観覧者達。この場の映像を、どれ程の解像度で流れているのか。もし粗悪な映像であれば、はっきり分かる方がいい。「テーマは……」 ここでようやく蛍は解説を口にする。「テーマは『三世界』。一室目が『生と死』、二室目は『天国』、そして三番目は『地獄』」「地獄…… !? 」 美果とルキは若干の興奮を抑えられず、すかさず三教室目へなだれ込んだ ! 「……うっ……嘘……」 最後の教室。 蛍の言う『地獄』。 そこにあったのは床に転がったままの香澄の姿だった。 黒服に追われ、この教室に飛び込んで来た瞬間背後から鉛玉を喰らった香澄。 あの時のまま。 他に変更点は見つけられない。「あんたたち……彼女をここで殺したの !? 彼の幼馴染で友人だったんでしょ !? なのに目の前で撃ったというの !? 」 美果が顔を歪ませルキ達を責め立てるが、ルキはこの時、別の事を考えていた。 蛍は間違いなくサイコパスだ。この状況を許容出来ていることもそうだが、香澄の遺体が欲しいとリクエストした事も。それに香澄を自分が殴った時だって、何の制止もなかったと思い出す。「これが地獄 ? ケイの表現する地獄 ? 」「突然です。友人を奪われました。普通でしょ ? 」
ルキと蛍は校舎の裏手から急な斜面を下る。 校舎正門側の国道は人通りは少ないながらも、追ってが来るとしたら十分な道幅だ。カーナビを使ったらまず最初に誘導する道がここだろう。 その反対側。 防風林の杉を越え、小高い丘一つ降りれば、地元民も夜間は普段使わない農道がある。 蛍は枝木を一本折り手にすると、それを目の前で八の字に動かし進む。小さな虫や蜘蛛の巣などはこれにかかり随分歩きやすくなる。「公的機関は丸め込んでるって話じゃ無かったのか ? 」 蛍は前を見たまま、苛立ちを隠して背後のルキに問う。「今来てる連中ね。警察とか、そういうんじゃないのさ。 俺たちの母体を潰したい他の奴ら」「どちらにしても、ろくな奴じゃないだろうな」「そう言うなよ」 スマートフォンのライトだけで斜面を歩く。 闇深く、流石に二人分の足元全部とはいかない。 チラチラ照らされる部分をパズルのように繋ぎ、記憶しながら足場を探す。「おとと。それにしても、参加してくれて礼を言うよ。ケイが拒絶したら、俺の見込み違いかと思っちゃうところだったんだ」「……それさ」「ん ? 」 ふと、蛍の足が止まる。「俺、そんな分かりやすいのか ? 」 ルキは直ぐにその言葉を理解した。「周りにはバレてないんじゃないの ? 現に香澄ちゃんと仲良くしていたのは、自分を普通に見せる為の擬態だったんだろう ? でも、今日の一件を見た観覧者と俺たち運営、あとは美果ちゃんもかな。 この全員の目には、君は確かな異質に見えたかもしれないね」「異質……」「普通に暮らしたいなら、身の回りから固めるとかね。一般人と同じ暮らしさ」「やってる。でも親父が……」 そこまで言い、口を紡ぐ。 ルキが何を仕出かすかまだまだ読めたものじゃないからだ。蛍としても父親の重明にそこまでの恨みは無いのだ。 単純に詮索されたくないだけ。蛍が異常にしても、普通の親子と関係性は変わらない。思春期らしい悩みなのだ。「親御さんかぁ……誤魔化すのは容易じゃないね。成程」「忘れてくれ」「ふふ。分かってるよ。別に何もしないし、俺は何も止めもしない」 木に掴まりながら足場を踏みしめ、二人は再び歩き出す。「……いつからこんな事を ? 」「先代がしてた事はよく知らないけれど、俺は七年前から引き継いだんだ。以前は金持ち
美果は駅前に車を乗り捨て、まだ営業している居酒屋の中でも明るい店を選び入って行った。「いらっしゃいませ ! 」「一人。空いてる ? 」「どうぞ ! 」 何となく、人のいる明るい場所へ身を置いた。あのまま一人暮らしのアパートに帰るのが怖かったのだ。「それでさぁ。盆には帰省するからぁ、お袋がすげぇ息子に玩具とか買うんだよぉ」「分かるわぁ。嫁がうるせぇのなんの……無限オヤツとかなぁ。俺に言うなっつーの」 泥酔したサラリーマン達が、目前に迫る長期休暇を想像し不貞腐れていた。 些細な日常的の会話だ。 小さな個室に通された美果は、襖を隔てた隣の会話を耳に流し、落ち着きを取り戻していった。 少しのお通しと、冷や奴にレモンサワー。 全く酔わない頭で、空になったグラスを置き再びメニューに目を通す。 少しほろ酔いになった頃、ようやく周囲を見る余裕が出てきた。 手描きのメニューのデザイン文字。よく洗練されている味のある書体だ。 壁に貼られたビールのキャンペンガールの水着。清楚なイメージはそのままにセクシーに大胆に、ビールの色合いとマッチした色調。 狭いテナントでありながら、所狭しと並ぶ個室と賑やかなカウンター席の共生空間。ユニークな間取りと窓の数。仕切りを襖にして音が漏れるのも悪くない。路上からでも、繁盛さが分かる明るい接客の声。 美果の目には全てがデザインの世界で映る。 そして冷静になった時。 ふと思い出し、疑問を抱いてしまったのだ。 ──涼川 蛍の作品は本当にアートだっただろうか ? 壁に画鋲で付けられ垂れ下がっただけの物が、パーティルームとは笑わせる。 空間を使うアートならば、縦も横も、奥行も全てが審査対象。 蛍の最初の部屋は天井や、画鋲の使えない窓際は手薄だった。 使えるアイテムは言えば黒服が持ってくる。 パーティ用のリボンでもオーナメントでも、用意されたはずなのだ。 既製品なら時間の短縮にもなる分、もっと豪華に仕上げられたのでは無いか ? 異常な状況で、感覚が鈍っていたのか ? 同じ作業をするならば、自分の方が上手く飾れたはず。 だが、その発想が出てこなかったのは事実だ。 でも、やはり。 涼川 蛍の三世界。 あれは総合点での評価。 一部屋ずつ見れば、何の
「……煙草きらしただけですよ。わたしはご機嫌です、ルキさん」「えぇ〜 ? 身体に良くないよ。止めた方がいいって」「……ええ、まぁ……そのうち」 ヘラついたルキを鋭い目が睨みつける。ルキは全く気にしていない様子で、タンブラーを手に梅乃の向かいへドカッと座った。 ワゴンはゆっくりと駐車場を出て幹線道路へ出る。「校舎のクリーニング。今回早かったね。ケイのとこなんか、凄い散らかっちゃってたんだけど」「あぁ、あの教室が蛍のいた場所だったんですか ? 全く穢らわしいです」 梅乃の組織は元在日コリアンマフィア。元々は現地の一次団体が母体であったが、在日マフィアの立場は日々難しく、上手く並に乗る団体はひと握り。日増しに暴対法も厳しくなり、食い扶持に有りつけなかった組織はいとも簡単に握り潰される。 梅乃に山王寺グループも同じだった。日本で崩れ、零れて行来そうになった小さな組織。 それをルキが支援を行い、あのようなゲームの事前準備や清掃を行っている。 組の代替わりもタイミングが悪く、一人娘がたった一人で看板を背負っている。マフィアなのかヤクザなのかもぼんやりした反社で、宙ぶらりんな存在なのが現実だ。「それにしても毎回掃除ばかり。流石にうちの連中も退屈してる。 もっと満遍なく、色んな仕事回してくれます ? 」「報酬を上げるから許してよ。イベント中は外部の人間を入れたくないんだ。 あのスピードでいつも満足してるしね。しっかり動いてくれる組織は大歓迎。優秀な人も大好き。 きっと梅乃ちゃんの存在がそうするんだろうねー。俺も見習わなきゃ、ね ? 椎名」「っ !! はい ! そうですね !? 」「ちゃんと聞いてたァ ? 」 椎名は車のシートと同化するように気配を消していた。ルキも椎名も梅乃の性格は見抜いている。その上で椎名は梅乃の短気が好きではないのだ。「ルキさん……一ついいっすか ? 出来れ
「……っ」 目が覚めた妊婦はギョッとして辺りを見回す。 狭い部屋だ。打ちっぱなしのコンクリートに、カメラのような機材が立ててある。 次に気付いた異変は足だ。 上半身を起こそうとした時、自分の足が拡げるように縛られていた。恐らくカメラのスタンドに使われていたスチール製の棒で、引き裂いた布で結ばれ、脚が閉じられないようになっている。 妊婦である自分が最も恐れることが起きている。「な、なんなのこれ !!? 」 解こうとした手もまた、何かに繋がっていた。 そこへ真上から女の声が降ってくる。「目が覚めた ? 」「だ、誰なのっ !? 」「大丈夫よ。落ち着いて」 地味顔で薄化粧の女だ。 白衣を着ているが、手に持っているのは何かの医療器具だろう。「誰なのよ !? 」「今、そこは問題じゃない。 あのね。うちの研究所の被検体が足りてないのよ。特に女性が」「被検体 !? わたし、そんな許可とか問診してないわ…… ! そう……そうだわ、思い出した ! 胎教ヨガに行く途中、知らない人に囲まれて……」「まぁ誰でもよかったんだけれど、連れて来る奴が、貴女が妊娠してるとは思わなかったみたいでね。今、三ヶ月ちょいくらい ? まだお腹目立たないもんね」「い、家に帰して…… ! なに ? なんなのよ〜 !! 犯罪じゃない !! 」「ここはそういう場所。貴女が外に出れるのは研究が終わってからよ」 白衣の女は動じない様子でピシャリと言い放った。「実験に強力して欲しいのよ。 でも……その為には、赤ん坊は邪魔なのよね」 細く長い機材とハサミのような器具を見た妊婦は全てを理解した。 いや、一部の理解だが、自分にとって一番大切なものが今、目
「あの ! 美果さん、俺に芸術を教えて下さい ! 」「え…… ? なんで ? 急に何よ……」 困惑する美果の脳に蛍が畳み掛ける。「俺の家、葬儀屋って言ったの覚えてますか ? 葬儀には美しいものって必要ですよね ? でも経験がないから何から学べばいいのか分からないし、父は見て覚えろってタイプで。 美果さんならあの夜の話も出来るし、そういう隠し事なく教われる気がするんです」「そ、そんな。わたしだってまだ大学で学んでる最中なのよ !? そんな……人に教えるなんて。 でも、そっか……葬儀屋さんか……」 勝ち確。 美果は満更でも無い様子だ。 あの日、幼馴染の香澄が死んでも何ともなかった様子の蛍。 廃校到着直後、誰よりも恐怖していた美果にとって、湧き出た怒りが邪魔をしてその記憶は最早薄れていた。「どこかで習うお金とか無いですし。何から学んでいいのかも分からないし。俺、困ってて。 正直に言うと、今『最後の晩餐』の作り方に駄目出ししてくれたじゃないですか。そのくらい言ってくれる人じゃないと、習うには意味が無いと思うんです。美果さんが一番だと思ったんです ! よろしくお願いします ! 」 深く、頭を下げる。「ちょっ……ちょっと ! 待ってよ」 香澄も亡くし、部活もしていない蛍が家に真っ直ぐ帰らない理由。図書館をウロつくだけでは心許ない。 学校から寄り道した時の為のカモフラージュ。親に信じて騙せるような、正当な行動パターンが欲しいのだ。 美果にはその通りの名目で芸術を習う。 重明からみたら、息子が突然芸術を口実に家業に関わらなくなる。そのタイミングで接点を持った女子大生。思春期の子供なら、これは正常だろう。梅乃の勧め通りに生徒会などに入ったら、私生活を詮索されかねないが、美果ならば、いざと言う時あの夜の話しで脅しも効くかもしれない。「べ……別に。いいわよ。わたしでよければ。 わたしもあの夜の事情を話せる人、欲しいし」
「あら、わたしはお邪魔ね。 じゃあねケイ君」 結々花と入れ違いに、美果が怪訝そうに蛍を見詰め近付いて来た。「生きてた……って事は、あの男たちも全員生きてるのね ? 追われてたみたいだけど。部下の一人とはこないだ会ったけど……」「はい。美果さんは車で脱出したんでしたよね ? 無事で何よりです」「まぁ……ね。 ……ねぇ、ちょっといい ? 少し貴方と話したいと思ってたのよ」「構いませんが」 美果はむっすりとしたまま、誰もいない小さな多目的ルームに蛍を招き入れた。 途中、受付に戻っていた結々花は愉快そうに二人の様子を見て微笑んでいた。「もしかして、結々花さんに呼ばれてここに来ましたか ? 」「え ? 結々花って誰 ? あぁ、さっきの人 ? 全然。知り合いなの ? 」「いえ……」「絵の具なんか使うし、賃貸で汚したくないから、たまにこの多目的室を借りるの。これ抱えて移動するのしんどいけどね」 新しく建てられた図書館の裏手には、古い時代の建物がそのまま残されている。その一角を、こうしたペイントやDIYなど多少汚しても許されるルームがあるのだ。 室内の机は端に寄せられ、床のブルーシートの上に大きなキャンバスがあった。他にもキャンバスは持ち帰らない者もいるようで、壁の棚に何枚も立てかけられていた。 目の前にあるのは美果の絵だ。殴るような力強い筆使い。インパクトが強い色合い。「わたしの作品よ。何が描いてあるか分かる ? 」 赤い玉と黒い何か。そしてなんとも言えないミミズのような線が一本。「いいえ。芸術にはあまり触れてこなくて」「本当に ? 」 美果はトートバッグの中から一冊のコピー紙を取り出すと、それを開いてイーゼルに立てかける。 大きく限界まで印刷された『最後の晩餐』の絵画だった。「…………」「わたしね。納得いかないのよ
「はぁい。来たわね、ケイ少年 ! 学校近くなのに遅くない ? 」 来てみてから後悔する。 そもそも図書館に来れなかった理由はこれだ。 ルキからの監視者、咲良 結々花の得体が知れない。 見つからなければ大丈夫かと踏んだ蛍だったが、受付にいるのでは隠れようがない。以前は別の男性が座っていたはずだが、恐らく無理にねじ込まれて来たのだろう。「本を読みに来ただけ。あんたに用は無いよ」 蛍は結々花からそっぽを向いて、他の学生たちとは違う本棚へと向かう。「あれれ〜 ? 」 その後をぬらりと艷めくハイヒールが追いかける。「てっきり、ルキ君の事でも聞きに来たのかなーって思ったんだけど ! 」 聞きたいのは図星だ。 だが蛍は自分がルキに興味が向いていることを、誰にも悟られたくないのだ。「どっか行って。気が散る。図書館で司書がべらべら喋んないでよ」「ツンデレってやつよね ? わたしが美人だからでしょ ? 」「それ持ちネタなの ? 美人だとは思うよ。でもつまんないかな。好みじゃないし」「うぅ……むぅ……。び、美人っては思うんだ。 まぁまぁ。仲がいいまともな大人が知り合いにいるのって、君の為になると思うんだ〜」 その言葉には裏がある。監視を楽にするために、結々花としては蛍を懐かせた方が手っ取り早いと思うのだろう。 蛍は一度ため息をつくと、隣に並んだ結々花を見上げる。 結々花の美しい黒髪は仕事中、編み込まれて纏め上げられている。纏めるのが勿体ない程の針の様なストレートヘアなのだが、これはこれで華やかだ。 その髪が側に来ると、蛍の鼻腔を芳しくくすぐる。 結々花は本棚を見上げ、背表紙をさらりと撫で付けながら目を通す。「……行動心理学……プロファイリング入門、無差別殺人鬼の獄中記、犯罪心理学 ? いつもこのジャンルを読んでるの ? 」「いや……そういう訳では……」 次のゲームの備えに。 その一言が出ない。普通では望ん
七月中旬──日々野高等学校。 本格的な夏を目前に、蛍は古川家から託された仏花を手に登校していた。 香澄の死。 あれから一ヶ月が経とうとしていた。「蛍君。いつもありがとう」 一人の女子がその花を受け取りに、下駄箱へ来ていた。清楚な制服の着こなしに、腰まである長い三つ編み。指紋ひとつない丸い眼鏡が印象的な女子生徒。 蛍に頭を下げ両手で花を持つ。「別にいいよ。香澄の親からだしさ」 彼女は手の中に収まる纏まった菊を、鬱屈な瞳で見下ろした。「今日は白ね。ピンポンマムが可愛い」 剃刀のような瞳が僅かに揺らぎ、小さく微笑む。 生徒会役員 山王寺 梅乃。 香澄の唯一、親しかった女友達だ。付き合いこそ蛍ほどでは無いが、中学、高校と同じ時間を共に過ごして来た。 その容姿の特徴はなんと言っても刺すように鋭い、凍りつくような目付きだ。本人のコンプレックスだと言う梅乃だが、クールで賢い彼女のファンは多い。「ありがとう蛍君。じゃあ花瓶に入れてくる」 切れ長の瞳が、眼鏡の奥で一瞬だけとろんと下がり、はにかむのを隠すように下を向く。「梅乃さん……俺もやろうか ? 」「えっ ? 」「いや、いつも……悪いし……。俺もちょっとやらないと落ち着かないし」「あ……う、うん。じゃあ、花瓶を取りに行きましょうか」 二人並んで廊下を歩く。 既に学校は元の活気を取り戻してきた。香澄も大きな友人グループに身を置いていた訳では無い。至って地味目な生活だった上に、一番懇意な友人が、この梅乃だけ。 学校の中でも目立たない女子生徒二人。 その片割れが亡くなったと集会で知った時、生徒たちは初めこそ動揺していた。しかし、現実は残酷だ。 今や教室の片隅、香澄の花瓶の手入れをする者は減っていくばかり。それで最後に残ったのが梅乃だったという事だ。 花瓶を抱えた胸がふにっと押され、柔らかな様を、目ざとい男達の視線を集める。 &nbs
目が覚めた中年男性は、直ぐに上半身を起こした。部屋を見回し、汗だくで目の前に座り込んだ少年を見て悲鳴を上げた。「うっ !! うわぁっ !! 助けてくれ !! 頼む ! なんでもする ! 」 見知らぬ場所。 閉ざされたドア。 窓が無く、カメラだらけのコンクリート壁。 無機質な空間だった。 ひと目でわかる密室。 空調は小さな配管のみ。通れるのはネズミ程の生き物だけだろう。 男性は誘拐されてきた自分に、災厄が襲って来るのが確定しているかのように怯えていた。 しかしそばにいた少年もまた、起きたばかりだった。目をシパシパとさせ、明るい蛍光灯の光に顔を歪めていた。 そして男の方をゆっくり見上げる。 ぼうっとしていて、いまいち状況を理解していない様子だったが、錯乱した男性を見て連鎖するように取り乱した。「え……? えぇ !? あの…… ! 違います ! その ! 僕も今、目が覚めたんです ! お兄さん、お願い ! 僕をほっといて ! こっちに来ないで ! 僕は何も…… !! ……あ……うぅ……頭が痛い…… ! 」 さらりとした黒髪に、どんぐりの様な瞳。 本当にただの子供じゃないかと、男は一度生唾を飲み込んだ。 少年の無害そうな素振りに、男も少し状況が見えてくる。 怯えきった少年を、壁に張り付きながらもう一度まじまじと見つめた。 子供。 自分よりずっと年下の……高校生の制服少年。「あ、頭…… ? だ、大丈夫か ? 殴られたのか ? ここに来る時、なにかされたのか…… ? 」「あ……。
美果は駅前に車を乗り捨て、まだ営業している居酒屋の中でも明るい店を選び入って行った。「いらっしゃいませ ! 」「一人。空いてる ? 」「どうぞ ! 」 何となく、人のいる明るい場所へ身を置いた。あのまま一人暮らしのアパートに帰るのが怖かったのだ。「それでさぁ。盆には帰省するからぁ、お袋がすげぇ息子に玩具とか買うんだよぉ」「分かるわぁ。嫁がうるせぇのなんの……無限オヤツとかなぁ。俺に言うなっつーの」 泥酔したサラリーマン達が、目前に迫る長期休暇を想像し不貞腐れていた。 些細な日常的の会話だ。 小さな個室に通された美果は、襖を隔てた隣の会話を耳に流し、落ち着きを取り戻していった。 少しのお通しと、冷や奴にレモンサワー。 全く酔わない頭で、空になったグラスを置き再びメニューに目を通す。 少しほろ酔いになった頃、ようやく周囲を見る余裕が出てきた。 手描きのメニューのデザイン文字。よく洗練されている味のある書体だ。 壁に貼られたビールのキャンペンガールの水着。清楚なイメージはそのままにセクシーに大胆に、ビールの色合いとマッチした色調。 狭いテナントでありながら、所狭しと並ぶ個室と賑やかなカウンター席の共生空間。ユニークな間取りと窓の数。仕切りを襖にして音が漏れるのも悪くない。路上からでも、繁盛さが分かる明るい接客の声。 美果の目には全てがデザインの世界で映る。 そして冷静になった時。 ふと思い出し、疑問を抱いてしまったのだ。 ──涼川 蛍の作品は本当にアートだっただろうか ? 壁に画鋲で付けられ垂れ下がっただけの物が、パーティルームとは笑わせる。 空間を使うアートならば、縦も横も、奥行も全てが審査対象。 蛍の最初の部屋は天井や、画鋲の使えない窓際は手薄だった。 使えるアイテムは言えば黒服が持ってくる。 パーティ用のリボンでもオーナメントでも、用意されたはずなのだ。 既製品なら時間の短縮にもなる分、もっと豪華に仕上げられたのでは無いか ? 異常な状況で、感覚が鈍っていたのか ? 同じ作業をするならば、自分の方が上手く飾れたはず。 だが、その発想が出てこなかったのは事実だ。 でも、やはり。 涼川 蛍の三世界。 あれは総合点での評価。 一部屋ずつ見れば、何の
ルキと蛍は校舎の裏手から急な斜面を下る。 校舎正門側の国道は人通りは少ないながらも、追ってが来るとしたら十分な道幅だ。カーナビを使ったらまず最初に誘導する道がここだろう。 その反対側。 防風林の杉を越え、小高い丘一つ降りれば、地元民も夜間は普段使わない農道がある。 蛍は枝木を一本折り手にすると、それを目の前で八の字に動かし進む。小さな虫や蜘蛛の巣などはこれにかかり随分歩きやすくなる。「公的機関は丸め込んでるって話じゃ無かったのか ? 」 蛍は前を見たまま、苛立ちを隠して背後のルキに問う。「今来てる連中ね。警察とか、そういうんじゃないのさ。 俺たちの母体を潰したい他の奴ら」「どちらにしても、ろくな奴じゃないだろうな」「そう言うなよ」 スマートフォンのライトだけで斜面を歩く。 闇深く、流石に二人分の足元全部とはいかない。 チラチラ照らされる部分をパズルのように繋ぎ、記憶しながら足場を探す。「おとと。それにしても、参加してくれて礼を言うよ。ケイが拒絶したら、俺の見込み違いかと思っちゃうところだったんだ」「……それさ」「ん ? 」 ふと、蛍の足が止まる。「俺、そんな分かりやすいのか ? 」 ルキは直ぐにその言葉を理解した。「周りにはバレてないんじゃないの ? 現に香澄ちゃんと仲良くしていたのは、自分を普通に見せる為の擬態だったんだろう ? でも、今日の一件を見た観覧者と俺たち運営、あとは美果ちゃんもかな。 この全員の目には、君は確かな異質に見えたかもしれないね」「異質……」「普通に暮らしたいなら、身の回りから固めるとかね。一般人と同じ暮らしさ」「やってる。でも親父が……」 そこまで言い、口を紡ぐ。 ルキが何を仕出かすかまだまだ読めたものじゃないからだ。蛍としても父親の重明にそこまでの恨みは無いのだ。 単純に詮索されたくないだけ。蛍が異常にしても、普通の親子と関係性は変わらない。思春期らしい悩みなのだ。「親御さんかぁ……誤魔化すのは容易じゃないね。成程」「忘れてくれ」「ふふ。分かってるよ。別に何もしないし、俺は何も止めもしない」 木に掴まりながら足場を踏みしめ、二人は再び歩き出す。「……いつからこんな事を ? 」「先代がしてた事はよく知らないけれど、俺は七年前から引き継いだんだ。以前は金持ち