「レイフくん、ちょっと良いかな」 「うん? ローランか、さっきはありがとな」 講義を終えて廊下へと出ようとしていたレイフに声をかけたのは、先ほど紙飛行機を飛ばしてくれた生徒エミリー・ローランだ。 「ううん、まぁ先生にはバレてたみたいだけどね〜」 「いや、あれでバレないって方が無理だろ……」 「あはは! それもそうだね。でもレイフくんって、ヴィオレタ先生と仲良いよね〜」 「はぁっ? どこがだよ?」 「お互いに遠慮なく、何でも言い合える関係って素敵だと思うけどなぁ〜」 「あの教師が、ズレてるからツッコミ入れてるだけだっての……」 ——「くうぅ! おのれヤンキーめ! 俺のウルバノヴァ先生とおぉ!!」 「おい、心の声がダダ漏れだぞ、ブラン……」 声が聞こえた先へと目をやると、クラスメイトのジャック・ブランが射殺すような視線を向けていた。 彼はレイフの前の席に座る生徒だ。 よく言えばムードメーカー、悪く言えばバカであるというのがレイフ評だった。 偏見の目を向けてきたり、陰口を叩いてくる生徒よりは遥かにマシだが、ヴィオレタに憧れを抱いているようで、レイフにやたらと対抗意識を向けてくる。 「そんなことよりもレイフくん!!」 「な、なんだよ、ローラン」 「私の友達に勉強教えるの手伝ってくれない!? 私だけだと手が足りなくてさぁー、ほら、ヴィオレタ先生の問題意地悪だし。 あと私のことはエミリーで良いからね!」 エミリーは教科書を手に、レイフを拝むように「どうか……どうか……」と頭を下げてみせる。 「あっ! 俺も! 今回のマジでヤバそうなんだわ〜。あと俺の事もジャックって呼んで良いぜ。 あ、でも先生のことは譲らねぇからな!!」 「お前はいつもヤバいだろ、あとあいつのことは勝手にしろ」 「その余裕がムカつく!!」 ——「おい、ヘ、ヘーデンストローム……」 声に反応して後ろを振り向くと、声をかけてきたのは、いつも遠巻きにレイフのことを悪く話していたグループだ。 そわそわとしながら、彼らは必死に言葉を探すように目を泳がせる。 彼らが、チラチラと後ろを気にする様子を見せているのは、背後からニコラとレオノールが、鋭い眼光を飛ばしているためだろう。 クラスのカーストトップである二人に睨まれれば、さぞ生きた心地は
◆◇◆◇「それでは、この|会議《サミット》の際に起きて後に有名な|物語《フォークロア》にもなった、〝アルジュリュンヌの休日事件〟について解説できる者は居るかしら……?」 ヴィオレタは生徒達を見渡した後、レイフの前の席に座る男子に視線を向けた。「ブラン、貴方にお願いするわ」「えっ? お、俺っすか?」 しかし、あてられた金髪の面長の生徒ジャック・ブランは、完全に心ここに在らずだったのか、戸惑いを隠しきれずにいる。「あっー……。えぇっと、そのあれの話ですよね……?」 バシッ——!!「いてぇっ!!」 突如頭部を襲った衝撃に、ジャックが振り返るれば、そこには仏頂面で教科書を振り下ろしたレイフの姿があった。「な、何するんだ、ヘーデンストローム!?」「お前が教師に見惚れて、上の空だからだろ。とりあえず、教科書を開け」「お、おう。……何ページだっけ?」「56ページだ……」 堪えきれないとばかりに、くすくすと教室内に生徒たちの笑い声が伝播してゆく。 緩みきった教室内の雰囲気に、ヴィオレタは溜息をひとつ吐くと、今度はレイフへと視線を向けた。「それじゃあレイフ、貴方が解説してくれるかしら……?」「おう、これは王国がオクタウス連合との関係強化を目的に、首脳達をアルジュリュンヌへと招いて開いた|会議《サミット》の際、連合加盟国のひとつである【ゼピュロス王国】大統領に同行したアンリエッタ王女の|恋物語《リーベ》だな」 ヴィオレタは、無言で彼へ続きを促した。「酒に酔って夜の街に出た彼女は、そこで出逢った|著作家《ライター》の男と恋に落ち、一夜の過ちを犯してしまう。 この典型的な|恋物語《リーベ》には後に様々な|尾鰭《おひれ》がついて、小説や|映画《フィルム》にも今はなっている」 彼の|淀《よど》みない回答が意外だったのだろう。 クラス中の視線が彼のもとへと集まり、中には感嘆の声を漏らすものまで居た。 「ちなみにこの話自体、事実かどうか疑わしく、誰かのでっちあげた噂話という説もある。 まぁ、これは体面を気にしたゼピュロス王家や政府が、そういうことにしてるって説が濃厚だけどな」「正解よ……。チッ!」「おい、なぜ舌打ちをした?」 「不良が付け焼き刃の知識で、イキってるんじゃないわよ……」「教師が生徒の心をエグろうとしてんじゃねぇよ」
◆◇◆◇ ヴァルメール学院では、国内の他の学校には存在しない特殊な制度がある。 それが〝秘書制度〟だ。 各学年、各クラスから教科ごとに〝秘書〟と呼ばれる生徒が選ばれる。 彼らは担当教師のサポート、及びクラスの生徒との橋渡し役を担う。 将来的に国を背負って立つ優秀な人材を育成する学院において、秘書が担う責任は重く、その生徒の評価も自然と高まっていく。 自分の意思とは無関係に、押し付けられた仕事ではあるが、今となってはレイフはこの仕事に、わずかながらの楽しみも見出しはじめていた。 静寂が支配する学院の廊下に、革靴がコツコツと、床を叩くリズミカルな音が響き渡る。 左右に学院の創立に関わった国の有力者たちの肖像画や石像が並ぶ道――レイフはゆっくりと歩を進めてゆく。 月白色の伝統ある学院の制服も、彼が着ているのでは夜の世界の住人が身に纏う仕事着にしか見えない。 深紅のネクタイを外した黒のシャツは、第三ボタンまでが開け放たれ、襟を立てて着る彼の好む|着こなし《スタイル》。 |鈴《ベル》を象った|首飾り《ペンダント》が胸元に揺れ、袖や指先には銀製の|腕飾り《ブレスレット》や|指輪《リング》が、窓から差し込む陽光を受けて輝く。 窓には、すべて濃紺のカーテンが掛けられ、わずかな陽の光が、その合間を縫うように射し込んでいた。 以前ならば、その先には、広大な|並木道《アベニュー》の庭園が広がっていた。 庭園の中央にはエテルヴォワ神話に登場する『霧』の神ブリュメアル、『湖』の精霊ナイサリーヌの石像が印象的な噴水が設置されている。 ここに好きな人を呼び出して告白すれば、恋が実ると女子生徒の間では有名な告白スポットだが、残念ながらレイフはまだ呼ばれたことはない。 左右には均等に馬を象ったトピアリーと、|象牙色《アイボリー》、アプリコット、|深紅《ワインレッド》、レモンイエローと言った様々な色の薔薇を植えた花壇が並ぶ。 これは王国において、伝統的に好まれている|左右対称《アシンメトリー》の庭園だ。 学院の観光名所ともなっている、この見事な庭園が虚構の夜空に隠され、廊下が幽霊屋敷を彷彿させるような雰囲気を放っているのには理由があった。 そう、すべての諸悪の根源は、この先の部屋の|主人《あるじ》だ。 レイフの視線の先に|臙脂色《バーガンディ》
◆◇◆◇ 蒼月の薄明かりが照らすのは、人影のない裏通り――。 王都アルジュリュンヌは、夜の化粧をほどこした|後《のち》に、まるで別の|表情《かお》を見せる。 陰謀、快楽、堕落、暴力――。 煌びやかな中心街の陰――その闇は、さまざまなものを覆い隠す。 立派な顎ひげを生やし、仕立ての良いスーツに身を包んだ壮年の紳士が、周囲を警戒する様子を見せながら歩いていた。「ボス、こちらへ――」 声の方へと視線を向けると、黒スーツに身を包んだ怜悧な雰囲気を纏う女性の姿が見えた。「外でその名を呼ぶな。まったく、ここは〝共和国〟ではないのだぞ」「申し訳ありません。例の〝新薬〟ですが、既に旧市街のいくつかのグループへと売り込みをかけています。快楽に飢えた連中ですから、必ず乗ってくるでしょう」「そうか。王国へと逃げてきて、はじめての|大仕事《ビジネス》だ。抜かるなよ?」「はっ――。ところで、交渉の方は、上手くまとまりそうでしょうか?」 二人は、肩を並べて裏通りを闇に潜るように歩いてゆく。 その背には、いつの間にか大柄な黒スーツの男性が二人、付き従っていた。 途中で何人かの物騒な人物とすれ違うも、ただならぬ男たちの雰囲気に多くの者が道の端へと避けてゆく。 男は母国で麻薬や奴隷商売を行い、莫大な富を築いた。 しかし、後ろ盾だった貴族が、権力闘争に敗れたことで、立場が危うくなり、一家ともども王国へと脱出してきたのだ。「何人かの小物政治家の抱き込みには成功したが、とてもまだ安心できるような状態ではない。それこそ、ヘーデンストローム家との繋がりでも持てれば良いのだが、あの男には意外と潔癖なところがある……」 男の苛立ちを露わにするように、握り締められた杖が忙しなく揺れ動く。「余所者同士、協力できることも多いだろうに……。私を侮るなよ、帝国人風情が!」 そこで男は、今まで自分の周囲にあった足音が消えていることに気がついた――。 振り返れば、そこには誰もおらず、自分の隣を歩いていた女性も消えている。「おい! お前たち、どこに行った? ふざけているのか!?」 怒声を張りあげても、それは虚空の先へと消えてゆくだけだ。 背筋を冷たいものが駆け抜け、闇が急速に〝恐怖〟という怪物へと姿を変えて、胸を締めつけてくる。 懐へと手を忍ばせ、愛用の拳銃を取り
◆◇◆◇ 公園の隅には、ラナンキュラスの花弁を想起させる艶やかな唇に白い指を添えて、必死に笑いを堪えるスカディの姿があった。 「笑うんじゃねぇ……」 彼女の視線の先では、レイフが顔を羞恥の色に染めて震えていた。 彼の脳裏には、ぽかーんとした表情を浮かべた後に、腹を抱えて堪えきれないとばかりに笑い出した三人の学友の顔が甦っていた。 「ふふ、ごめんなさい。でも、レイフの顔……前よりも明るくなったと思うわよ」 「そうか……? 自分じゃよくわかんねぇ。頭が疲れてきたし、少し休むわ」 ぶっきらぼうにそう言ってのけると、レイフは再び仰向けに寝っ転がった。 ざわざわと、吹き抜ける風が、緑から紅へと装いを変えはじめた木の葉を揺らしてゆく。 わずかに鼻腔を刺激する、スパイスのような香りはサルビアだろうか。 目を閉じたレイフの顔を、スカディは飽きることもなく、愛おしげに眺める。 その白く、ほっそりとした指が、細やかな手つきで、レイフの銀糸に櫛をとおす。 健気で愛らしい緋色のサルビア、静かな気品と威厳を纏う紫苑色のダリア。 そして清楚で儚げな撫子色のガウラ――秋の心地よく、幽玄な空気と香りが、ただ静かに流れてゆく。 ◆◇◆◇ 「あぁ、悪い……。結構、眠ってたか?」 心地よい微睡みの時間から目を覚ましたレイフは、一度大きく伸びをして、全身の凝りをほぐした。 外はすっかりと暗くなり、子どもたちの喧騒も消え去っている。 「ううん、ほんの一時間くらいだけ。もう、陽が沈むのが早いから」 彼の視線の先には、眠る前と変わらずに抱きかかえた膝に顔を乗せ、優しげな微笑みを浮かべる姉の姿があった。 「すっかりと遅くなっちまったな。今日はいろいろと助かった。そろそろ帰るか?」 「ごめん、さっきお父様から連絡が来て劇場に今から顔を出せですって」 スカディは手に握り締めた真紅の〝Kronos〟を見せると、申し訳なさそうに微笑んだ。 以前に「〝紅〟って、男っぽくないか?」と聞いたところ、「レイフの瞳の色と同じだから」と返された。 帝国人の大半は、紅色の瞳なのだが、彼女が言うにはレイフの瞳が一番綺麗らしい。 「はぁ、また政治家か貴族様のお相手か? 姉貴は、てめぇの|装飾品《アクセサリー》じゃねぇんだぞ」 「ふふ、ありがとう。私のた
◆◇◆◇ 校内でも腫れ物扱いを受ける不良と、トップカーストに立つ生徒二人。 そして、可憐な容姿と愛嬌の良さが評判の女子生徒。 この四人が一緒に歩いていれば、目立つことは避けられない。「なに、なんなの? あの組み合わせ……!?」「ニコラ様……なんで、あんな不良と……」「レイフの野郎、俺のエミリーちゃんに何かしたら承知しねぇからな……」「いや、あんたじゃ、一発KOで終わりだから」「私のレイフ様……今日も素敵」「「「えっ!!?」」」 廊下を歩いてゆく四人の背中を眺めながら、ひそひそと声を落として、生徒たちは噂話に花を咲かせる。 決して気持ちの良いものではないだろうが、少なくともここに居る三人は、今更自分がどう言われるかなど、気にするような繊細な心は持ち合わせていなかった。 最も、残りの一人もそれは同じようだ――。「三人ともすごいね〜。なんか私まで有名人の気分だよ」 この状況を楽しむかのように鼻歌交じりに、今にもスキップでもしそうな様子で廊下を歩いてゆくのはエミリー・ローランだ。「いや、君のことを話している人も十分に居るみたいだぞ……?」 これに反応したのは、クイッと眼鏡の位置を直して嘆息するニコラだ。 「あはは〜、私は三人ほど家柄も良くなければ、華やかな容姿もしてないから」「俺の家は、ただの成り金だぞ。あと、顔が良いんじゃなくて……悪評がたくさんあるだけだ」「あら、悪名高いのは間違いありませんが、あなたを良いという女子も結構居ますのよ?いつの時代も、少し危なそうな男に惹かれる女性が多いのは事実ですから。顔立ちも決して悪くはありませんしね。最も思ってはいたとしても、うちのような名門校で、こんなことを表立って言える女性は少ないですけど」「えっ? マジ?」「マジもマジですわ。というか、あなた嬉しそうですわね……」「なっ——!?」 つい、口角が上がってしまっていたことに気がつき、急速に熱が頭の天辺まで込み上げてくる。「う、うるせぇ! 気のせいだろ……」「本当ですの〜? そうは見えませんでしたけど……」「そ、そのだな、ローラン! 君も十分に魅力的な側の女性に入ると、私は思うぞ」 じゃれつき続ける二人の背で、ニコラが隣を歩くエミリーに緊張した面持ちで、そう告げると彼女は花が咲くような笑みを浮かべた。「あはは、お世