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Aurora-epilogue-《夜明け》

Author: 皐月紫音
last update Last Updated: 2025-09-30 15:04:15

◆◇◆◇

 冷たく、細い、なにか糸のようなものが頬を撫でる。

 柑橘系の凜とした香りが、鼻腔を刺激する。

 その香りは、ゆっくりと深みのある甘いものへと変化してゆく。

 美酒に溺れるかのような、心地良い微睡みのなかにレイフは居た。

 陽光の一切、射さない闇夜にあっても、自然と起きる時間が来たのだと告げるように、身体に血がめぐってゆくのを感じる。

 まぶたが開き、真紅の双眸があらわになった。

 視線を少し上げれば、そこには夜の光を凝縮したような双眸があり、レイフは思わず息を呑む――。

 先を見通すことのかなわない、幽玄な煌めきは|灰簾石《タンザナイト》のそれを想起させる。

 黒い革張りの|寝台《ベッド》の上――互いの息が感じられ、香りが混じり合い、唇さえもが重なり合いそうな距離で、レイフはヴィオレタと見つめ合っていた。

 レイフの格好は、普段から部屋着としてもよく着る黒いシャツをボタンをはずして羽織り、ヴィオレタはといえば寝巻きであろうサテン素材のネグリジェを着ていた。

 特別に鈍い方というわけではないと自覚しているレイフは、即座に状況を察した。

 どくどくと、鼓動がやかましいほどに鳴り響き、高まり続ける身体の熱が、さらに酔いを回すように、現実から意識を隔離させてゆく。

 高揚する意識は視線を、さらなる悦楽へと導いてゆく。

 その先には、桔梗の花弁を想起させるヴィオレタの唇があり、漏れ出る吐息は香り高く深みのある|葡萄酒《ワイン》のそれと似ている。

 額や頬に触れる、ヴィオレタの髪から感じる鎖のような冷たさが唯一、レイフの意識を現実へと繋ぎ止めていた。

――「そろそろ、離してくれるかしら……」

 それまで、人形のように目前に寝ていたヴィオレタの唇から、はじめて言葉が発っせられた。

 視線をずらし、そこでようやくレイフは気がついた。

 自身の左手が力強く、ヴィオレタのたおやかで、ほっそりとした右手を握り締めていたことに。

 すっーと急速に熱が身体から引いてゆき、レイフの意識は現実へとようやく引き戻された。

「わ、悪い!!」

 身体を起こしたヴィオレタは、身なりを整えながら、聞こえよがしに溜息をひとつ吐く。

 おまけに絶対零度の視線を向けながら、右手をひらひらと動かしているあたり、相当にご機嫌はななめのようだ。

「その、改めて悪かった……。俺、なにか
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