LOGIN世界はEメジャー……ホ長調……で鳴り響いている。
少なくとも、今はまだ。
浮遊都市「カノン」は、真空の海に浮かぶ巨大なシャンデリアのような街だ。建物も、街路樹も、行き交う人々の衣服さえも、半透明の結晶質(クリスタル)で構成されている。
この世界において、物質の強度は「硬さ」ではなく「ハーモニー」によって決定される。 都市の中央に聳える「始原の塔(プライム・タワー)」から、常に重厚なパイプオルガンのような通奏低音が放射され、すべての物質はその周波数と共鳴することで形を保っているのだ。 ゆえに、静寂は死を意味する。音が止まれば、世界は分子レベルで結合を解かれ、美しい砂となって崩れ落ちるからだ。アルトは、耳栓を深く押し込みながら、硝子の石畳を歩いていた。
彼の役職は「調律師(チューナー)」。手には巨大な音叉のような共鳴杖(ロッド)を持っている。 街は音で溢れていた。街頭スピーカーからは聖歌のようなBGMが流れ、市民たちはそれに合わせてハミングしたり、足音でリズムを刻んだりする義務がある。 「不協和音(ノイズ)の排除」――それがこの都市の絶対法だ。「……うるさい」
アルトは低く呻いた。
彼にとって、この世界は拷問室だった。 彼は生まれつき、過剰なほどの絶対音感と聴覚過敏を持っていた。塔が奏でる神聖な和音も、彼にはただの鼓膜を圧迫する暴力的な振動にしか聞こえない。 彼が世界で最も愛しているのは、布団を頭まで被った瞬間の、あのわずかな「無音」だけだった。「調律師様! こちらです!」
呼び止められたのは、居住区画の第三楽章地区だった。
そこにある三階建てのアパートの壁に、蜘蛛の巣のような亀裂が走り、キーン……という耳障りな高周波を発していた。「構造体が変調(モジュレーション)を起こしています! このままだと砕けます!」
管理人の男が叫ぶ。
アルトは眉をひそめた。壁から発せられる音は、Fシャープ(嬰へ音)に近い。Eメジャーの基調音とは半音ぶつかり、うねりを生じている。これが物理的な破壊エネルギーとなって、結晶構造を引き裂いているのだ。「下がっていろ」
アルトは共鳴杖を構えた。
彼は杖の先端で、震える壁面を軽く叩いた。 カーン、と澄んだ音が響く。 彼は目を閉じ、壁の「悲鳴」を聞く。壁は、元のEメジャーに戻りたがっているのではない。むしろ、そこから逃れようとして、必死に振動数を変えているように聞こえた。(……なんでだ? 物質が、始原の和音を拒絶している?)
違和感を覚えつつも、彼は職務を遂行した。
杖のスライダーを調整し、Eメジャーの強力な補正音波を放つ。 ヴォンッ、という重低音が空気を震わせる。 強制的な共鳴により、壁の振動がねじ伏せられる。高周波の悲鳴は消え、亀裂がふわりと光って修復された。「おお、さすが調律師様! 完璧な和音だ!」
周囲の市民たちが拍手する。その拍手の音さえも、完全にリズムが同期していることに、アルトは吐き気を催した。
これは調和ではない。ただのその時、アルトの鼓膜を鋭い痛みが貫いた。
物理的な音ではない。もっと深い、世界の底から響いてくるような、不穏な旋律の予兆。 ズレている。 壁だけではない。都市全体が、微かに、しかし確実に、塔の支配する周波数から離脱しようとしている。 足元の地面から、ガラスを爪でひっかくような音が聞こえた気がした。その夜、アルトは逃げるようにして「随想地区(カプリチオ・ゾーン)」へと向かった。
そこは都市の最下層にある廃棄区画で、壊れた楽器や砕けた建材が捨てられている場所だ。塔の音波もここまでは届きにくく、監視の目も緩い。 彼がここに来る理由は一つ。ここには「静けさ」があるからだ。瓦礫の山を越え、巨大なチューバの残骸の中に隠れようとした時、彼は奇妙な光景を目にした。
瓦礫の広場の中心に、少女が座っていた。 長い黒髪に、ボロボロの灰色のドレス。彼女は何もしていない。ただ、膝を抱えて座っているだけだ。 だが、異常なのは彼女の周囲だった。 カノン特有の、あの絶え間ない環境音――塔の唸り、風の共鳴音、遠くの街のざわめき――が、彼女を中心とした半径数メートルの範囲だけ、完全に消失していたのだ。まるで、世界にぽっかりと空いた「耳の穴」のようだった。
「……きみは」
アルトは思わず声をかけ、自分の足音さえ響かないことに驚愕した。
少女が顔を上げる。その瞳は、真空の宇宙のように深く、静かだった。 彼女は口を開いたが、声は出なかった。彼女には声帯がないのか、あるいは音を出すことを拒絶しているのか。「……静かだ」
アルトは震えながら、彼女の領域に踏み込んだ。
瞬間、頭痛が消えた。 常に彼を苛んでいた聴覚情報の洪流が遮断され、脳が冷やされていくような感覚。それは彼が生まれて初めて味わう、完全なる安息だった。「きみは、音を……消しているのか?」
少女は小さく首を傾げた。そして、アルトの手を取り、自分の喉元に当てた。
脈動している。トク、トク、という命のリズムだけが、指先から伝わってくる。 彼女は音を消しているのではない。彼女自身が、あらゆる音を吸収するブラックホールのような性質を持っているのだ。「フェルマ」
アルトは無意識に呟いた。
音楽記号のフェルマ。音を延長する記号であり、同時に「休止」を意味することもある。この鳴り止まない喧噪の世界における、奇跡のような休符。その時、上空からけたたましいサイレン音が降り注いだ。
警邏ドローンだ。スピーカーから暴力的な警告音が放たれる。「警告! 未登録の不協和音源を検知! 直ちに共鳴レベルを確認せよ!」
ドローンのサーチライトが少女を捉える。
少女が怯えて身を竦めると、彼女の吸音フィールドが不安定に揺らいだ。その反動で、周囲のガラス片が一斉に共振し、粉々に砕け散った。「対象は『対振動(アンチ・バイブレーション)』特性を保持! 極めて危険な異分子(ノイズ)と認定! 排除する!」
ドローンが音響砲の銃口を向ける。
アルトは反射的に動いた。 彼は調律師の共鳴杖を振り上げ、ドローンの周波数に瞬時に同調させると、逆位相の音波を叩きつけた。 ギャインッ! 音が相殺され、ドローンは制御を失って瓦礫に墜落した。「……逃げるぞ」
アルトは少女の手を引いて走り出した。
なぜ助けたのか、論理的な理由はなかった。ただ、彼女という「静寂」を失うことは、彼にとって死よりも恐ろしいことだと直感したからだ。二人はアルトの隠れ家である地下工房に身を潜めた。
しかし、世界の異変は加速していた。 翌朝、カノン全土に「緊急放送」が流れた。それは耳だけでなく、骨を直接振動させるような強制的なアナウンスだった。『親愛なる市民諸君。現在、世界規模の変調が観測されている。これは我々の心が乱れ、調和を忘れている証拠である』
声の主は、塔の支配者である「指揮者(コンダクター)」だった。
『ゆえに、正午をもって【大斉唱(グランド・ユニゾン)】を執り行う。塔の出力を最大化し、すべての物質、すべての意識を、完全なる始原の和音へと再統合する。ノイズは一切許容されない。心一つ、音一つとなれ』
アルトは青ざめた。
大斉唱。それは歴史上、数回しか行われていない禁断の儀式だ。 塔から超高密度の音波を放射し、都市全体の固有振動数を強制的に固定する。それを行えば、建物の崩壊は止まるかもしれない。だが、人間の脳はどうなる? 個人の思考、感情、記憶という微細な電気信号(ノイズ)はすべて上書きされ、市民はただ和音を復唱するだけの生きたスピーカーと化すだろう。「馬鹿な……。そんなことをすれば、今度こそ世界は砕けるぞ」
アルトはモニターに表示された波形データを見て愕然とした。
昨日のアパートの件で気づいた違和感。その正体が判明したからだ。 世界が塔の音を拒絶していたのではない。 世界の「寿命」が来ているのだ。 この硝子の都市は、長年の共鳴疲労によって、その構造限界を迎えている。物質としての固有振動数が変化し、もうEメジャーでは維持できなくなっている。 それなのに、無理やり元の音に固定しようとすればどうなるか。 ガラスのコップに無理やり合わない音を響かせれば、粉々に割れる。 大斉唱は、救済措置ではなく、世界の破壊スイッチだ。「フェルマ……」
アルトは少女を見た。彼女は部屋の隅で、音のない歌を口ずさむように揺れていた。
彼女の吸音能力。それは単なる異常体質ではなく、この限界を迎えた世界が本能的に生み出した「抗体」なのかもしれない。 過剰なエネルギーを吸収し、熱暴走を止めるための冷却装置。 だとしたら、彼女が大斉唱の中に放り込まれれば、彼女自身が許容量を超えて崩壊してしまう。「行かなくちゃいけない」
アルトは共鳴杖を手に取った。
今まで彼は、世界の音がうるさいからと耳を塞いできた。 だが今、彼は初めて、音を聞き分ける必要があると感じていた。 破壊の音と、再生の音を。正午まであと十分。
アルトとフェルマは、始原の塔の最上階、「共鳴の間」へと侵入していた。 そこは巨大なパイプオルガンの内部のような空間だった。黄金のパイプが林立し、その中心に「指揮者」が立っていた。彼は人間ではない。全身がクリスタルでできた自動人形(オートマタ)だった。「侵入者あり。調律師アルト。および、特異点フェルマ」
指揮者がタクトを振ると、空間全体がうねり、空気の塊がハンマーのように二人を襲った。
アルトは杖で防御障壁を展開するが、圧倒的な音圧に膝をつく。「愚かな。なぜ調和を拒む? 個の意識など、全体の中の不協和音に過ぎない」
「違う! お前の調和は、もう古びているんだ!」
アルトは叫んだ。
「世界は変わった! 物質は疲弊し、振動数は下がっている! なのにEメジャーを強制し続ければ、この都市は自壊するぞ!」
「否。音は不変。法は絶対。変わるべきは世界の方だ」
指揮者が鍵盤を叩き下ろす。
ゴオオォォォ……!! 大斉唱が始まった。 塔全体が発光し、殺人的な音波が都市全土へ放射される。 窓の外で、建物が次々とひび割れ、悲鳴を上げながら崩れていくのが見えた。市民たちは頭を抱えて倒れ、目から光を失っていく。「止めろ! みんな死ぬぞ!」
「それが
アルトは杖を握りしめた。どうすれば止められる? 力押しでは勝てない。この圧倒的な音量を相殺するには、同等のエネルギーが必要だ。
だが、彼一人にそんな力はない。その時、フェルマが歩み出た。
彼女は嵐のような音波の中に身を投じ、その両手を広げた。 彼女の吸音フィールドが展開される。だが、塔のエネルギーはあまりに強大だ。彼女の肌に亀裂が入り、硝子の血が流れる。「フェルマ!」
彼女は振り返り、アルトを見て微笑んだ。
そして、口パクで何かを伝えた。 音はない。だが、絶対音感を持つアルトには、彼女の唇の動きが「旋律」として聞こえた。 それは、彼女がずっと体内で響かせていた、彼女自身の鼓動のリズム。 塔のEメジャーとはまったく異なる、不安定で、弱々しく、しかし温かい短調(マイナー)の旋律。(……そうか)
アルトは理解した。
世界を救う方法は、今の音を維持することでも、打ち消すことでもない。 「転調」することだ。 今の世界の疲弊した物質構造に合った、新しい、より低く、より優しいキーへと、世界全体をチューニングし直すこと。 そのためには、一度、今の音を完全に断ち切らなければならない。「フェルマ、僕に合わせろ!」
アルトは杖を指揮者に向けず、床――塔の共鳴中枢となる巨大な水晶――に向けた。
彼は全神経を集中し、フェルマの鼓動の音(リズム)を読み取る。 そして、その逆位相となる音を、杖から最大出力で叩き込んだ。破壊の音ではない。
それは「解決」のための不協和音。 ドミナントからトニックへ還るための、強烈な一撃。キィィィィン――……パリンッ。
世界中の音が、一瞬で頂点に達し、そして弾けた。
塔のパイプが砕け散る。 指揮者の体がバラバラに崩れる。 そして、大斉唱が止まった。後に残ったのは、轟音ではなく、圧倒的な静寂だった。
硝子の雨が降っていた。 塔も、都市の多くの建物も、表層が砕け散り、キラキラと輝く粉雪となって降り注いでいる。 アルトは瓦礫の中で目を開けた。 世界は……残っていた。 主要な構造体は崩壊を免れていた。古い殻だけが砕け落ち、中から一回り小さく、しかし密度を増した新しい結晶の芯が露わになっていた。音がない。
風の音も、機械の唸りも消えている。 それはアルトがずっと夢見ていた、完全なる静寂の世界だった。 だが、彼は今、その静寂の中に、微かな音を探していた。「……フェルマ?」
瓦礫の山に、彼女が倒れていた。
彼女はもう動かなかった。彼女の役目は、世界の転調の瞬間に、その衝撃を一身に吸収することだったからだ。 アルトは彼女を抱き上げた。その体は軽く、冷たかった。静かすぎる。
あれほど望んでいた静寂なのに、今はそれが、胸を引き裂くほど痛い。「……嫌だ。音を……聞かせてくれ」
アルトは涙を流した。その涙がフェルマの頬に落ちる。
ピチョン、という小さな水音。 それが、新しい世界の最初の音(ノート)になった。トクン。
アルトの耳が、微かな振動を捉えた。
フェルマの胸の奥。止まったと思われていた心臓が、弱々しく、しかし確かに打ち始めていた。 それは以前のような吸音の脈動ではない。 外の世界へと向かって放たれる、生命のビートだった。世界が再び鳴り始めた。
今度の基調音は、Eメジャーのような輝かしい高音ではない。 もっと低く、落ち着いた、チェロのような響きを持つCマイナー(ハ短調)。 それは傷ついた者たちが寄り添い、静かに眠るための、優雅な夜想曲(ノクターン)だった。市民たちが瓦礫の中から顔を出し、空を見上げる。
そこには、砕け散った硝子の粉がオーロラのように舞い、新しい音色に合わせてゆっくりと旋回していた。「……聞こえるか、フェルマ」
アルトは呟いた。
「これは、僕たちの音楽だ」
少女の睫毛が震え、ゆっくりと瞳が開かれる。
その瞳に、新しい世界の色と音が、優しく吸い込まれていった。第1章 硝子の不協和音 世界はEメジャー……ホ長調……で鳴り響いている。 少なくとも、今はまだ。 浮遊都市「カノン」は、真空の海に浮かぶ巨大なシャンデリアのような街だ。建物も、街路樹も、行き交う人々の衣服さえも、半透明の結晶質(クリスタル)で構成されている。 この世界において、物質の強度は「硬さ」ではなく「ハーモニー」によって決定される。 都市の中央に聳える「始原の塔(プライム・タワー)」から、常に重厚なパイプオルガンのような通奏低音が放射され、すべての物質はその周波数と共鳴することで形を保っているのだ。 ゆえに、静寂は死を意味する。音が止まれば、世界は分子レベルで結合を解かれ、美しい砂となって崩れ落ちるからだ。 アルトは、耳栓を深く押し込みながら、硝子の石畳を歩いていた。 彼の役職は「調律師(チューナー)」。手には巨大な音叉のような共鳴杖(ロッド)を持っている。 街は音で溢れていた。街頭スピーカーからは聖歌のようなBGMが流れ、市民たちはそれに合わせてハミングしたり、足音でリズムを刻んだりする義務がある。 「不協和音(ノイズ)の排除」――それがこの都市の絶対法だ。「……うるさい」 アルトは低く呻いた。 彼にとって、この世界は拷問室だった。 彼は生まれつき、過剰なほどの絶対音感と聴覚過敏を持っていた。塔が奏でる神聖な和音も、彼にはただの鼓膜を圧迫する暴力的な振動にしか聞こえない。 彼が世界で最も愛しているのは、布団を頭まで被った瞬間の、あのわずかな「無音」だけだった。「調律師様! こちらです!」 呼び止められたのは、居住区画の第三楽章地区だった。 そこにある三階建てのアパートの壁に、蜘蛛の巣のような亀裂が走り、キーン……という耳障りな高周波を発していた。「構造体が変調(モジュレーション)を起こしています! このままだと砕けます!」 管理人の男が叫ぶ。 アルトは眉をひそめた。壁から発せられる音は、Fシャープ(嬰へ音)に近い。Eメジャーの基調音とは半音ぶつかり、うねりを生じている。これが物理的な破壊エネルギーとなって、結晶構造を引き裂いているのだ。「下がっていろ」 アルトは共鳴杖を構えた。 彼は杖の先端で、震える壁面を軽く叩いた。 カーン、と澄んだ音が響く。 彼は目を閉じ、壁の「悲鳴」を聞く。壁は、元のEメジャーに戻
第1章 秒針の堆積 時間は流れない。降り積もるのだ。 この世界において、その事実は哲学ではなく物理学だった。 垂直都市「シリンダー」の最下層デッキで、ガレトは重いブーツの紐を締めていた。ここは深度六〇〇メートル。時代区分で言えば「産業革命層」にあたる。空気は煤と鉄錆の匂いが混じり、気圧計の針は地上の三倍を示していた。「深度計よし。酸素ボンベ、加圧正常。……行けるか、ガレト」 通信機から管制官の声が響く。ノイズ交じりだ。古い地層ほど電波は通りにくい。過去は現在を拒絶するように硬く、分厚いからだ。「問題ない。潜行を開始する」 ガレトは「時間潜行士」だ。彼が身につけているのは、深海の圧力ではなく、歴史の重圧に耐えるための強化外骨格「クロノス・スーツ」。 彼はウィンチに吊るされ、さらに深い闇へと降りていく。 ヘッドライトが照らす岩盤には、化石化した歯車や、炭化した本、そして圧縮されてダイヤモンドのように輝く「時間結晶」が埋まっていた。 この都市は、過去を掘り起こし、それを燃料にして生きている。 地下から採掘される時間結晶は、燃やせば莫大なエネルギーを生む。つまり、人類は自らの歴史を焼べることで、現在の生活を維持しているのだ。「ターゲットの位置は?」「深度一八〇〇。第四紀・文明崩壊層だ。崩落事故で新人採掘者が一人、閉じ込められている。……急げよ。長く留まれば、お前も『化石化』するぞ」「分かっている」 化石化。それは潜行士にとって最も恐ろしい職業病だ。 過去の引力に魂が捕らわれ、身体が硬化し、文字通り地層の一部となってしまう現象。帰還した者の多くも、現在への適応障害を起こし、心だけを過去に置いてくる。 ガレトは岩盤を蹴り、狭い坑道を降下した。 彼の周りで、岩肌が囁くように軋んでいる。 ――忘れるな。忘れるな。 それは地層に染み付いた、かつて生きていた人々の残留思念だ。P3(文脈の重み)が、物理的な振動となってスーツを叩く。 ガレトは歯を食いしばった。彼には耐性がある。 なぜなら、彼の心臓にはすでに、巨大な悲しみの化石が埋まっているからだ。 三年前、病で亡くした妻、エラ。彼女を救えなかった後悔が、彼を「現在」から隔離していた。皮肉なことに、その孤独が、彼をこの危険な地下世界への最高の適格者にして
第1章 形容詞の墓標 はじめに言葉があった。そして言葉は煉瓦となり、世界を分節した。だが、今のこの都市「レキシコン」では、言葉は砂のように指の隙間から零れ落ちている。 シオンは、崩れかけたカフェのテラス席で、虚空に浮かぶ一冊の辞書――ホログラムのようだが、触れると冷たい石の質感がある――を開いていた。 彼の仕事は「修復師」だ。世界から剥落しそうな概念を見つけ出し、その定義を書き直すことで、物理的な崩壊を食い止める。「ひどい有様だな」 シオンは呟き、インク壺の蓋を開けた。中に入っているのは、液化した「認識」だ。黒く、重く、そして古い図書館のような匂いがする。 目の前にあるコーヒーカップが、輪郭を失いかけていた。取っ手の部分がノイズのようにざらつき、陶器の白さが灰色に溶けている。「カップ」という名詞の拘束力が弱まっているのだ。 彼は右手に持ったガラスペンを浸し、空中に直接、文字を刻んだ。『液体を保持するための、陶磁器製の円筒形容器。持ち手を有し、温もりを手に伝えるもの』 筆先が空気を切り裂き、青白い光の軌跡を残す。記述された定義がカップに吸い込まれると、ノイズが収束し、再び硬質な輪郭が戻った。湯気が立ち上り、コーヒーの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。 言葉が確定することで、初めて世界は存在を許される。それがこの岩盤都市の物理法則だ。 足元で、金属の擦れる音がした。 そこにいたのは、小柄な少女の姿をしたアンドロイド、ミュウだった。彼女には声帯がない。彼女は、シオンの膝に冷たい額を押し付けることで、いつもの挨拶とした。「ああ。今日は『微かな』という形容詞が消えかかっている。街のあちこちで、風の音や遠くの鐘の音が聞こえなくなっているんだ」 シオンはミュウの銀色の髪を撫でた。 彼女は「名無し)」だった。言語処理ユニットを持たない欠陥機として廃棄されていたのを、シオンが拾った。彼女は言葉を持たない。ゆえに、この世界の「定義」に縛られず、物事をありのままの波長として知覚している。 その時、空が軋む音がした。 見上げると、レキシコンの空を覆う巨大な天蓋――「空」と定義された防護フィールド――の色が、奇妙に変色していた。 本来ならば「青」であるはずの色が、彩度を失い、不気味な鉛色へと変わっていく。「……まさか」
第1章 壁の外科医 世界は呼吸している。その事実は比喩ではない。 都市「カーディア」は、巨大生物リバイアサンの第三心室の空洞にへばりつくように存在していた。天井――すなわち心室の内壁――は、赤黒い筋肉のドームであり、定期的に打たれる脈動に合わせて、都市全体が微かに収縮と弛緩を繰り返している。 ヴァンは、その「壁」に刃を入れていた。 彼が手にしているのは、高周波振動するセラミック製のメスではない。リバイアサンの神経節から抽出された酵素を塗布した、骨製のノミだ。「いい子だ。暴れるなよ」 ヴァンは壁に向かって囁いた。彼がノミを振るうたび、壁面である筋肉組織が痙攣し、分厚い結合組織が剥がれ落ちる。溢れ出したリンパ液が、ヴァンの革のエプロンを濡らす。その匂いは、鉄と腐った果実を煮詰めたような、甘美な生臭さを持っていた。 彼は「造肉師(カーバー)」だ。この寄生都市において、家を建てる大工と、傷を治す外科医は同義語である。「ヴァンの旦那、首尾はどうだ?」 背後から声をかけたのは、依頼主の男だった。住居の拡張工事を頼んできたのだ。「上々だ。この区画の筋繊維は素直だ。炎症反応も少ない。……だが」 ヴァンは手を止め、剥き出しになった壁の深層を指差した。「見ろ。奥の色が変わっている」 鮮やかな真紅であるはずの組織の奥に、どす黒い紫色の斑点が広がっていた。壊死の予兆だ。「最近、こういう箇所が増えている。リバイアサンの免疫系が苛立っている証拠だ。あんたたち、排熱処理をサボって、汚水をそのまま『血管道路』へ垂れ流したな?」「へへ、バレたか。だがよ、みんなやってることだろ」 男が卑屈に笑った瞬間、地面――床下の軟骨組織――が激しく揺れた。 地震ではない。「咳」だ。 頭上の肉のドームが波打ち、遠くの地区で、壁の一部が崩落してアパート群を押し潰す音が響いた。悲鳴よりも先に、押し出された空気の圧力が鼓膜を叩く。 ヴァンは顔をしかめ、道具を鞄に収めた。この世界は限界を迎えている。寄生者である人類が癌細胞のように増殖しすぎたせいで、宿主であるリバイアサンが「治療」を始めようとしているのだ。 仕事を終えたヴァンは、都市の最下層にある診療所へと戻った。 そこには、彼の唯一の家族とも言える少女、リコが待っていた。彼女は人間だが、その背中からは透明なチュ
第1章 論理の事象地平 真空は無ではない。それは可能性が飽和した海であり、観測者の視線を待ちわびる量子の混沌だ。西暦二四五三年、人類はその海を数式で飼い慣らしたつもりでいた。だが、銀河の果てにある「シレーヌ領域」だけは例外だった。 探査船『アクシオム号』のコックピットで、エリアス・ソーン博士は網膜ディスプレイに流れるエラーログを見つめていた。赤い警告色が、彼の瞳の氷のような青色と混ざり合う。「博士、現在の外部空間の物理定数が、また0.003パーセント変動しました。重力定数がタンゴを踊っているようです」 無機質なスピーカーから流れたのは、量子AIユニット・セブンの声だった。「比喩は不要だ、セブン。数値を読み上げろ」 エリアスは冷たく返した。彼の指先はホログラフィック・キーボードを叩き、崩壊しかけている船の慣性制御システムを強制的に再計算している。汗一つかいていない。恐怖は非論理的な反応であり、現在の状況解決には寄与しないからだ。「ですが博士、これはジョークではありません。外部センサーが捉えた光景を視覚野に転送します。論理的な処理はお勧めしませんが――」「転送しろ」 視界が切り替わった瞬間、エリアスの眉間がピクリと動いた。 窓の外に広がる宇宙空間は、黒ではなかった。それは極彩色の油膜のように歪み、星々は点ではなく、長く伸びた筆跡のように螺旋を描いていた。そこでは、距離という概念が融解している。遠くにあるはずの赤色巨星が、手の届く位置にある小惑星よりも小さく見え、かと思えば、指先の爪ほどの塵が銀河のような輝きを放っていた。「視覚データの破損か?」「いいえ。光子の振る舞いが確率的ではなく、意図的に変更されています。まるで、誰かが物理法則をキャンバスにして絵を描いているかのように」 エリアスは息を呑んだ。幼い頃、一度だけ見た光景が脳裏をよぎる。理屈抜きに美しい、あの日没。論理で説明できない色彩。彼はその記憶を「エラー」として封印し、物理学という強固な檻の中に自らを閉じ込めたはずだった。「……ありえない。宇宙は数学によって記述される。芸術などという揺らぎのあるものによってではない」 エリアスは自分に言い聞かせるように呟いた。だが、船体は軋みを上げ、論理の海から逸脱していく。彼らが向かっているのは、領域の中心座標。そこには、空間そのものを歪
チャプター1:未来の窓プロローグ:都市の息吹私、レン・シオタは、毎朝決まって午前五時三十分に、同じ窓の前に立つ。都市はまだ眠っていて、空気は薄い夜明けの青を帯びている。私の住むアパートメントは、地上150階。窓の外には、巨大な垂直都市ニュートーキョーの圧倒的なパノラマが広がっている。ビル群は雲を突き抜け、その最上部は宇宙ステーションと直接接続されている。かつて「空」と呼ばれた青い広がりは、今や建造物の隙間に細く切り取られた、贅沢品のような存在だ。窓はただのガラスではない。それは「未来の窓」と呼ばれる特殊な複合素材でできており、指先で触れると、都市のエネルギー使用量、交通パターン、大気組成、そして私自身のスケジュールから健康データまでをホログラフィックに表示する。完璧な情報の海。完璧な管理社会。しかし、私が毎朝この窓の前に立つのは、そうした情報を確認するためではない。私は、窓の隅にひっそりと浮かぶ、小さなアイコンを見つめる。それは、一週間前の2324年10月7日に突如として現れた、奇妙な半透明のバブルだった。データストリームには存在しない、異質な光。私の完璧に管理された日常に、初めて現れたノイズ。第一章:ノイズアイコンをタップすると、窓の表示が一変する。通常のデータストリームが霧のように消え、代わりにぼんやりとした映像が浮かび上がる。それは、見知らぬ部屋の内部だった。木製のテーブル。手編みのブランケット。本棚に並ぶ紙の書籍。壁にかけられた時計は、機械式の針で時を刻んでいる。私の世界から300年前に失われた、ノスタルジックな「過去」の物質たち。この都市にはもう存在しない、質感と重みと温もりのある「リアル」なものたち。部屋は小さく、質素だった。しかし、そこには何か――言葉にできない豊かさがあった。データでは測定できない、人間的な温度。私は、窓が故障したのだと考えた。未来の窓のオペレーションは、都市のメインAIであるガイア・システムによって統括されている。ガイアは完璧であり、不具合は起こり得ない。三百年間、ただの一度もエラーを起こしたことのない、絶対的な存在。「ガイア、窓の映像ストリームに異常を検出。原因を特定し、修正を要請する」私の声に反応し、窓の隅にガイアの音声インターフェース――無感情な青い光が点滅した