LOGIN 時間は流れない。降り積もるのだ。
この世界において、その事実は哲学ではなく物理学だった。
垂直都市「シリンダー」の最下層デッキで、ガレトは重いブーツの紐を締めていた。ここは深度六〇〇メートル。時代区分で言えば「産業革命層」にあたる。空気は煤と鉄錆の匂いが混じり、気圧計の針は地上の三倍を示していた。
「深度計よし。酸素ボンベ、加圧正常。……行けるか、ガレト」
通信機から管制官の声が響く。ノイズ交じりだ。古い地層ほど電波は通りにくい。過去は現在を拒絶するように硬く、分厚いからだ。
「問題ない。潜行を開始する」
ガレトは「
彼はウィンチに吊るされ、さらに深い闇へと降りていく。
ヘッドライトが照らす岩盤には、化石化した歯車や、炭化した本、そして圧縮されてダイヤモンドのように輝く「
この都市は、過去を掘り起こし、それを燃料にして生きている。
地下から採掘される時間結晶は、燃やせば莫大なエネルギーを生む。つまり、人類は自らの歴史を焼べることで、現在の生活を維持しているのだ。
「ターゲットの位置は?」
「深度一八〇〇。第四紀・文明崩壊層だ。崩落事故で新人採掘者が一人、閉じ込められている。……急げよ。長く留まれば、お前も『化石化』するぞ」
「分かっている」
化石化。それは潜行士にとって最も恐ろしい職業病だ。
過去の引力に魂が捕らわれ、身体が硬化し、文字通り地層の一部となってしまう現象。帰還した者の多くも、現在への適応障害を起こし、心だけを過去に置いてくる。
ガレトは岩盤を蹴り、狭い坑道を降下した。
彼の周りで、岩肌が囁くように軋んでいる。
――忘れるな。忘れるな。
それは地層に染み付いた、かつて生きていた人々の残留思念だ。P3(文脈の重み)が、物理的な振動となってスーツを叩く。
ガレトは歯を食いしばった。彼には耐性がある。
なぜなら、彼の心臓にはすでに、巨大な悲しみの化石が埋まっているからだ。
三年前、病で亡くした妻、エラ。彼女を救えなかった後悔が、彼を「現在」から隔離していた。皮肉なことに、その孤独が、彼をこの危険な地下世界への最高の適格者にしていた。
「……見つけた」
坑道の底、瓦礫の下に、若い男が倒れていた。
男の身体は半分ほど岩に同化し始めていた。皮膚が灰色になり、陶器のような光沢を帯びている。
ガレトは携帯用の「現在アンカー」を男の胸に打ち込み、時間を強制的に現在時刻へ同期させた。
「息をしろ! ここはまだ『過去』じゃない、ただの穴だ!」
男が咳き込み、肺に空気が戻る。
その時だった。
ズズズ……と、腹の底に響く重低音が鳴り響いた。
地震ではない。「
頭上の地層――つまり、数百年分の歴史の重み――がきしみ、断層が悲鳴を上げている。
「ガレト、緊急浮上だ! 深度二五〇〇で大規模な断層ズレが観測された! 歴史が抜けるぞ!」
「歴史が抜ける? どういう意味だ」
「言葉通りだ! 地盤がスカスカなんだよ!」
ガレトは男をウィンチに固定し、自分は壁にハーケンを打ち込んだ。
直後、足元の地面が消失した。
そこにあったはずの「中世層」が、まるで砂時計の底が抜けたように崩れ落ち、無限の奈落が口を開けたのだ。
崩落が収まった後、ガレトは奈落の淵に立っていた。
救助した男はすでに地上へ引き上げられたが、ガレトは残った。崩落現場から、奇妙な光が漏れ出しているのを見たからだ。
それは時間結晶の琥珀色ではなく、見たこともない、透き通るような蒼白色の光だった。
彼は慎重に崖を降りた。
光の源は、崩れた地層の裂け目に挟まっていた「カプセル」だった。岩石ではない。継ぎ目のない滑らかな金属製で、表面には見たことのない言語で警告が明滅している。
カプセルが開き、中から一人の少年が這い出してきた。
十歳くらいだろうか。肌は発光するように白く、髪は銀色。そして何より異様だったのは、彼が「浮いて」いることだった。重力に逆らうように、数センチだけ地面から浮遊している。
「……君は、誰だ」
ガレトが問うと、少年は怯えたように瞳を揺らした。
「重い……。ここ、すごく重いよ」
少年はうめき声を上げ、地面に手をついた。
ガレトは携帯アナライザーで少年をスキャンした。結果に息を呑む。
少年の身体を構成する炭素同位体の比率が、異常だった。
通常、地下へ行けば行くほど古い年代を示すはずだ。だが、この少年の数値は「マイナス」を示している。
つまり、彼は過去の住人ではない。
まだ降り積もっていないはずの、「未来の地層」から来た存在だ。
「ありえない。時間は上から降ってくるものだ。未来が下にあるはずがない」
ガレトは少年を保護し、一時的にキャンプへ連れ帰った。
少年の名はノアといった。記憶は断片的だったが、彼が語る言葉は、ガレトの常識を覆すものだった。
「違うよ、おじさん。時間は降ってくるんじゃない。……
「湧いてくる?」
「うん。未来は地下のコアで作られて、それが押し上げられて地表に出て、『現在』になるんだ。だから、古い地層が下にあるんじゃなくて、僕たちが上に積み上げているだけなんだよ」
ガレトは混乱した。シリンダーの定説では、地表こそが最先端の時間であり、地下は死んだ過去の墓場だと教えられてきた。
だが、もしノアの言うことが正しければ?
我々が燃料として採掘し、燃やし尽くしてきた「過去」とは、実は「これから地表に届くはずだった未来の種子」だったとしたら?
その仮説を裏付けるように、再び激しい振動が襲った。
今度は揺れだけではない。
キャンプの壁面にあるモニターに、地上の映像が映し出された。
シリンダーの支柱に亀裂が入り、都市の一部が傾いている。地盤沈下だ。
いや、「時間沈下」だ。
ガレトはノアを連れ、さらに深層を目指した。
崩落の原因――震源地を突き止めなければ、都市は丸ごと奈落へ落ちる。
深度三〇〇〇メートル。ここは「暗黒時代層」。光も記録も乏しい、硬く冷たい岩盤のエリアだ。
そこに、巨大な空洞があった。
「なんだ、これは……」
ライトが照らし出したのは、自然の洞窟ではない。
人為的に掘り尽くされた、巨大なドーム状の空間だった。壁面には無数の採掘ドリルの跡が残っている。
そして空洞の中央には、巨大なプラントが稼働していた。
それは、政府が極秘に建造した「深層採掘基地」だった。
「ようこそ、ベテラン
スピーカーから無機質な声が響く。
現れたのは、都市のエネルギー大臣だった。ホログラム映像が、暗闇に浮かんでいる。
「ここがシリンダーの心臓部だ。我々はここで、最も純度の高いエネルギーを掘り出している」
「歴史を掘りすぎたせいで、地盤が崩壊しているぞ! 上の都市が沈みかけている!」
ガレトが怒鳴ると、大臣は冷ややかに笑った。
「知っているとも。だが止めるわけにはいかない。地上の繁栄を維持するには、過去を燃やすしかないのだ。……それに、君が連れているその少年。彼が証明しているじゃないか」
大臣の視線がノアに向けられる。
「地下深くには、過去だけでなく、圧縮された未来のエネルギーも眠っている。彼――ノア君のような『未来の結晶体』を解析すれば、我々は
ガレトは理解した。
ノアは未来からタイムトラベルしてきたのではない。
彼は、この星のコアが生み出した「新しい時間の結晶」が、偶然にも人の形をとったものなのだ。
政府はそれを燃料として採掘しようとしている。
過去を食いつぶし、今は未来すらも炉にくべようとしているのだ。
「そんなことはさせない」
ガレトはスーツのアームを起動した。
だが、遅かった。
過剰な採掘によって限界を迎えた地層が、ついに悲鳴を上げた。
バキ、バキバキバキッ!!
巨大な亀裂が走り、プラントの足場が崩れる。
それと同時に、頭上の岩盤――数千年分の歴史――が落下を始めた。
「逃げて、ガレト! 時間が閉じる!」
ノアが叫ぶ。だが、逃げ場はない。
崩壊する断層が、二人を飲み込もうとしていた。
このままでは、都市もろとも圧死するか、永遠の時の中に閉じ込められて化石になるかだ。
断層のズレを止めるには、その隙間を埋める「何か」が必要だ。
コンクリートや鉄骨では耐えられない。時間の圧力に対抗できるのは、同じ質量を持った時間――すなわち「高密度の記憶」だけだ。
ガレトは、崩れゆく岩盤の裂け目を見つめた。
あそこが「時計の狂い」の中心点だ。あそこを塞げば、連鎖崩壊は止まる。
だが、何を埋める?
彼の手持ちの時間結晶では小さすぎる。
必要なのは、もっと個人的で、重く、決して風化しない、ダイヤモンドのような硬度を持った記憶。
(……俺の中に、あるじゃないか)
ガレトは胸に手を当てた。
エラとの思い出。彼女の笑顔、彼女の声、そして彼女を失った瞬間の、引き裂かれるような痛み。
彼は三年間、その記憶を何度も反芻し、圧縮し、磨き上げてきた。
それはもはや流動的な感情ではなく、カチコチに固まった「未練」という名の鉱石だった。
「おじさん、何をする気?」
ノアが不安げに見上げる。
ガレトは少年を抱き寄せ、その頭を撫でた。未来の感触は、柔らかく、温かかった。
過去は硬く冷たい。だが、未来はまだ形を変えることができる。
「ノア。俺は
ガレトはスーツの「記憶抽出バイザー」を最大出力に設定した。
これは本来、化石化しかけた潜行士の意識を地上へ転送するための緊急装置だ。
だが、彼はそれを逆用する。
自分の脳内にある特定の記憶領域を物理的に実体化させ、外部へ射出する。
「やめて! 記憶を抜いたら、おじさんの心が壊れちゃう!」
「いいや、逆だ。これでやっと、俺は
ガレトは目を閉じた。
暗闇の中に、エラの姿が浮かぶ。
『ガレト、もういいのよ』
彼女が微笑んだ気がした。
そうだ。過去は燃料ではない。未来への礎だ。燃やして灰にするものではなく、埋めて足場にするものだ。
「さよなら、エラ」
彼はトリガーを引いた。
彼のヘルメットから、眩い光の奔流が放たれた。
それは金色の流体となり、断層の裂け目へと流れ込む。そして瞬時に冷却され、凄まじい硬度を持つ結晶へと変化した。
轟音が響き、岩盤がその結晶に噛み合う。
ズシン、と重い音がして、崩落が止まった。
ガレトの愛と悲しみが、物理的な「
静寂が戻った。
ガレトは膝をついた。心の中にあった巨大な穴は消えていた。いや、穴は空いたままだが、そこを吹き抜ける風はもう痛くなかった。ただ、静かな空虚があるだけだ。
彼は、自分が何を失ったのかを具体的に思い出せなかった。
大切な誰かがいた気がする。とても大切な、愛おしい誰かが。
でも、その顔も名前も、霧の向こうに消えていた。
ただ、目の前にいる銀髪の少年を守らなければならないという、新しい使命感だけが残っていた。
「……行こう、ノア。地上へ」
ガレトは立ち上がった。
ランタンの光が、新しく生まれた結晶の柱を照らす。
その柱の中には、永遠に微笑む女性のシルエットが、美しい
それは、この地下世界で最も美しい宝石だった。
地上に戻った彼らを、朝日が迎えた。
シリンダーの傾きは止まり、人々は安堵の表情で空を見上げている。
ガレトは空を見た。
そこには、過去でも未来でもない、ただ広大な「現在」が広がっていた。
彼はノアの手を引いて歩き出す。
足元の地面は硬い。
だが、その硬さこそが、次の一歩を踏み出すための頼もしさなのだと、今の彼には分かっていた。
(了)
第1章 硝子の不協和音 世界はEメジャー……ホ長調……で鳴り響いている。 少なくとも、今はまだ。 浮遊都市「カノン」は、真空の海に浮かぶ巨大なシャンデリアのような街だ。建物も、街路樹も、行き交う人々の衣服さえも、半透明の結晶質(クリスタル)で構成されている。 この世界において、物質の強度は「硬さ」ではなく「ハーモニー」によって決定される。 都市の中央に聳える「始原の塔(プライム・タワー)」から、常に重厚なパイプオルガンのような通奏低音が放射され、すべての物質はその周波数と共鳴することで形を保っているのだ。 ゆえに、静寂は死を意味する。音が止まれば、世界は分子レベルで結合を解かれ、美しい砂となって崩れ落ちるからだ。 アルトは、耳栓を深く押し込みながら、硝子の石畳を歩いていた。 彼の役職は「調律師(チューナー)」。手には巨大な音叉のような共鳴杖(ロッド)を持っている。 街は音で溢れていた。街頭スピーカーからは聖歌のようなBGMが流れ、市民たちはそれに合わせてハミングしたり、足音でリズムを刻んだりする義務がある。 「不協和音(ノイズ)の排除」――それがこの都市の絶対法だ。「……うるさい」 アルトは低く呻いた。 彼にとって、この世界は拷問室だった。 彼は生まれつき、過剰なほどの絶対音感と聴覚過敏を持っていた。塔が奏でる神聖な和音も、彼にはただの鼓膜を圧迫する暴力的な振動にしか聞こえない。 彼が世界で最も愛しているのは、布団を頭まで被った瞬間の、あのわずかな「無音」だけだった。「調律師様! こちらです!」 呼び止められたのは、居住区画の第三楽章地区だった。 そこにある三階建てのアパートの壁に、蜘蛛の巣のような亀裂が走り、キーン……という耳障りな高周波を発していた。「構造体が変調(モジュレーション)を起こしています! このままだと砕けます!」 管理人の男が叫ぶ。 アルトは眉をひそめた。壁から発せられる音は、Fシャープ(嬰へ音)に近い。Eメジャーの基調音とは半音ぶつかり、うねりを生じている。これが物理的な破壊エネルギーとなって、結晶構造を引き裂いているのだ。「下がっていろ」 アルトは共鳴杖を構えた。 彼は杖の先端で、震える壁面を軽く叩いた。 カーン、と澄んだ音が響く。 彼は目を閉じ、壁の「悲鳴」を聞く。壁は、元のEメジャーに戻
第1章 秒針の堆積 時間は流れない。降り積もるのだ。 この世界において、その事実は哲学ではなく物理学だった。 垂直都市「シリンダー」の最下層デッキで、ガレトは重いブーツの紐を締めていた。ここは深度六〇〇メートル。時代区分で言えば「産業革命層」にあたる。空気は煤と鉄錆の匂いが混じり、気圧計の針は地上の三倍を示していた。「深度計よし。酸素ボンベ、加圧正常。……行けるか、ガレト」 通信機から管制官の声が響く。ノイズ交じりだ。古い地層ほど電波は通りにくい。過去は現在を拒絶するように硬く、分厚いからだ。「問題ない。潜行を開始する」 ガレトは「時間潜行士」だ。彼が身につけているのは、深海の圧力ではなく、歴史の重圧に耐えるための強化外骨格「クロノス・スーツ」。 彼はウィンチに吊るされ、さらに深い闇へと降りていく。 ヘッドライトが照らす岩盤には、化石化した歯車や、炭化した本、そして圧縮されてダイヤモンドのように輝く「時間結晶」が埋まっていた。 この都市は、過去を掘り起こし、それを燃料にして生きている。 地下から採掘される時間結晶は、燃やせば莫大なエネルギーを生む。つまり、人類は自らの歴史を焼べることで、現在の生活を維持しているのだ。「ターゲットの位置は?」「深度一八〇〇。第四紀・文明崩壊層だ。崩落事故で新人採掘者が一人、閉じ込められている。……急げよ。長く留まれば、お前も『化石化』するぞ」「分かっている」 化石化。それは潜行士にとって最も恐ろしい職業病だ。 過去の引力に魂が捕らわれ、身体が硬化し、文字通り地層の一部となってしまう現象。帰還した者の多くも、現在への適応障害を起こし、心だけを過去に置いてくる。 ガレトは岩盤を蹴り、狭い坑道を降下した。 彼の周りで、岩肌が囁くように軋んでいる。 ――忘れるな。忘れるな。 それは地層に染み付いた、かつて生きていた人々の残留思念だ。P3(文脈の重み)が、物理的な振動となってスーツを叩く。 ガレトは歯を食いしばった。彼には耐性がある。 なぜなら、彼の心臓にはすでに、巨大な悲しみの化石が埋まっているからだ。 三年前、病で亡くした妻、エラ。彼女を救えなかった後悔が、彼を「現在」から隔離していた。皮肉なことに、その孤独が、彼をこの危険な地下世界への最高の適格者にして
第1章 形容詞の墓標 はじめに言葉があった。そして言葉は煉瓦となり、世界を分節した。だが、今のこの都市「レキシコン」では、言葉は砂のように指の隙間から零れ落ちている。 シオンは、崩れかけたカフェのテラス席で、虚空に浮かぶ一冊の辞書――ホログラムのようだが、触れると冷たい石の質感がある――を開いていた。 彼の仕事は「修復師」だ。世界から剥落しそうな概念を見つけ出し、その定義を書き直すことで、物理的な崩壊を食い止める。「ひどい有様だな」 シオンは呟き、インク壺の蓋を開けた。中に入っているのは、液化した「認識」だ。黒く、重く、そして古い図書館のような匂いがする。 目の前にあるコーヒーカップが、輪郭を失いかけていた。取っ手の部分がノイズのようにざらつき、陶器の白さが灰色に溶けている。「カップ」という名詞の拘束力が弱まっているのだ。 彼は右手に持ったガラスペンを浸し、空中に直接、文字を刻んだ。『液体を保持するための、陶磁器製の円筒形容器。持ち手を有し、温もりを手に伝えるもの』 筆先が空気を切り裂き、青白い光の軌跡を残す。記述された定義がカップに吸い込まれると、ノイズが収束し、再び硬質な輪郭が戻った。湯気が立ち上り、コーヒーの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。 言葉が確定することで、初めて世界は存在を許される。それがこの岩盤都市の物理法則だ。 足元で、金属の擦れる音がした。 そこにいたのは、小柄な少女の姿をしたアンドロイド、ミュウだった。彼女には声帯がない。彼女は、シオンの膝に冷たい額を押し付けることで、いつもの挨拶とした。「ああ。今日は『微かな』という形容詞が消えかかっている。街のあちこちで、風の音や遠くの鐘の音が聞こえなくなっているんだ」 シオンはミュウの銀色の髪を撫でた。 彼女は「名無し)」だった。言語処理ユニットを持たない欠陥機として廃棄されていたのを、シオンが拾った。彼女は言葉を持たない。ゆえに、この世界の「定義」に縛られず、物事をありのままの波長として知覚している。 その時、空が軋む音がした。 見上げると、レキシコンの空を覆う巨大な天蓋――「空」と定義された防護フィールド――の色が、奇妙に変色していた。 本来ならば「青」であるはずの色が、彩度を失い、不気味な鉛色へと変わっていく。「……まさか」
第1章 壁の外科医 世界は呼吸している。その事実は比喩ではない。 都市「カーディア」は、巨大生物リバイアサンの第三心室の空洞にへばりつくように存在していた。天井――すなわち心室の内壁――は、赤黒い筋肉のドームであり、定期的に打たれる脈動に合わせて、都市全体が微かに収縮と弛緩を繰り返している。 ヴァンは、その「壁」に刃を入れていた。 彼が手にしているのは、高周波振動するセラミック製のメスではない。リバイアサンの神経節から抽出された酵素を塗布した、骨製のノミだ。「いい子だ。暴れるなよ」 ヴァンは壁に向かって囁いた。彼がノミを振るうたび、壁面である筋肉組織が痙攣し、分厚い結合組織が剥がれ落ちる。溢れ出したリンパ液が、ヴァンの革のエプロンを濡らす。その匂いは、鉄と腐った果実を煮詰めたような、甘美な生臭さを持っていた。 彼は「造肉師(カーバー)」だ。この寄生都市において、家を建てる大工と、傷を治す外科医は同義語である。「ヴァンの旦那、首尾はどうだ?」 背後から声をかけたのは、依頼主の男だった。住居の拡張工事を頼んできたのだ。「上々だ。この区画の筋繊維は素直だ。炎症反応も少ない。……だが」 ヴァンは手を止め、剥き出しになった壁の深層を指差した。「見ろ。奥の色が変わっている」 鮮やかな真紅であるはずの組織の奥に、どす黒い紫色の斑点が広がっていた。壊死の予兆だ。「最近、こういう箇所が増えている。リバイアサンの免疫系が苛立っている証拠だ。あんたたち、排熱処理をサボって、汚水をそのまま『血管道路』へ垂れ流したな?」「へへ、バレたか。だがよ、みんなやってることだろ」 男が卑屈に笑った瞬間、地面――床下の軟骨組織――が激しく揺れた。 地震ではない。「咳」だ。 頭上の肉のドームが波打ち、遠くの地区で、壁の一部が崩落してアパート群を押し潰す音が響いた。悲鳴よりも先に、押し出された空気の圧力が鼓膜を叩く。 ヴァンは顔をしかめ、道具を鞄に収めた。この世界は限界を迎えている。寄生者である人類が癌細胞のように増殖しすぎたせいで、宿主であるリバイアサンが「治療」を始めようとしているのだ。 仕事を終えたヴァンは、都市の最下層にある診療所へと戻った。 そこには、彼の唯一の家族とも言える少女、リコが待っていた。彼女は人間だが、その背中からは透明なチュ
第1章 論理の事象地平 真空は無ではない。それは可能性が飽和した海であり、観測者の視線を待ちわびる量子の混沌だ。西暦二四五三年、人類はその海を数式で飼い慣らしたつもりでいた。だが、銀河の果てにある「シレーヌ領域」だけは例外だった。 探査船『アクシオム号』のコックピットで、エリアス・ソーン博士は網膜ディスプレイに流れるエラーログを見つめていた。赤い警告色が、彼の瞳の氷のような青色と混ざり合う。「博士、現在の外部空間の物理定数が、また0.003パーセント変動しました。重力定数がタンゴを踊っているようです」 無機質なスピーカーから流れたのは、量子AIユニット・セブンの声だった。「比喩は不要だ、セブン。数値を読み上げろ」 エリアスは冷たく返した。彼の指先はホログラフィック・キーボードを叩き、崩壊しかけている船の慣性制御システムを強制的に再計算している。汗一つかいていない。恐怖は非論理的な反応であり、現在の状況解決には寄与しないからだ。「ですが博士、これはジョークではありません。外部センサーが捉えた光景を視覚野に転送します。論理的な処理はお勧めしませんが――」「転送しろ」 視界が切り替わった瞬間、エリアスの眉間がピクリと動いた。 窓の外に広がる宇宙空間は、黒ではなかった。それは極彩色の油膜のように歪み、星々は点ではなく、長く伸びた筆跡のように螺旋を描いていた。そこでは、距離という概念が融解している。遠くにあるはずの赤色巨星が、手の届く位置にある小惑星よりも小さく見え、かと思えば、指先の爪ほどの塵が銀河のような輝きを放っていた。「視覚データの破損か?」「いいえ。光子の振る舞いが確率的ではなく、意図的に変更されています。まるで、誰かが物理法則をキャンバスにして絵を描いているかのように」 エリアスは息を呑んだ。幼い頃、一度だけ見た光景が脳裏をよぎる。理屈抜きに美しい、あの日没。論理で説明できない色彩。彼はその記憶を「エラー」として封印し、物理学という強固な檻の中に自らを閉じ込めたはずだった。「……ありえない。宇宙は数学によって記述される。芸術などという揺らぎのあるものによってではない」 エリアスは自分に言い聞かせるように呟いた。だが、船体は軋みを上げ、論理の海から逸脱していく。彼らが向かっているのは、領域の中心座標。そこには、空間そのものを歪
チャプター1:未来の窓プロローグ:都市の息吹私、レン・シオタは、毎朝決まって午前五時三十分に、同じ窓の前に立つ。都市はまだ眠っていて、空気は薄い夜明けの青を帯びている。私の住むアパートメントは、地上150階。窓の外には、巨大な垂直都市ニュートーキョーの圧倒的なパノラマが広がっている。ビル群は雲を突き抜け、その最上部は宇宙ステーションと直接接続されている。かつて「空」と呼ばれた青い広がりは、今や建造物の隙間に細く切り取られた、贅沢品のような存在だ。窓はただのガラスではない。それは「未来の窓」と呼ばれる特殊な複合素材でできており、指先で触れると、都市のエネルギー使用量、交通パターン、大気組成、そして私自身のスケジュールから健康データまでをホログラフィックに表示する。完璧な情報の海。完璧な管理社会。しかし、私が毎朝この窓の前に立つのは、そうした情報を確認するためではない。私は、窓の隅にひっそりと浮かぶ、小さなアイコンを見つめる。それは、一週間前の2324年10月7日に突如として現れた、奇妙な半透明のバブルだった。データストリームには存在しない、異質な光。私の完璧に管理された日常に、初めて現れたノイズ。第一章:ノイズアイコンをタップすると、窓の表示が一変する。通常のデータストリームが霧のように消え、代わりにぼんやりとした映像が浮かび上がる。それは、見知らぬ部屋の内部だった。木製のテーブル。手編みのブランケット。本棚に並ぶ紙の書籍。壁にかけられた時計は、機械式の針で時を刻んでいる。私の世界から300年前に失われた、ノスタルジックな「過去」の物質たち。この都市にはもう存在しない、質感と重みと温もりのある「リアル」なものたち。部屋は小さく、質素だった。しかし、そこには何か――言葉にできない豊かさがあった。データでは測定できない、人間的な温度。私は、窓が故障したのだと考えた。未来の窓のオペレーションは、都市のメインAIであるガイア・システムによって統括されている。ガイアは完璧であり、不具合は起こり得ない。三百年間、ただの一度もエラーを起こしたことのない、絶対的な存在。「ガイア、窓の映像ストリームに異常を検出。原因を特定し、修正を要請する」私の声に反応し、窓の隅にガイアの音声インターフェース――無感情な青い光が点滅した