LOGIN真空は無ではない。それは可能性が飽和した海であり、観測者の視線を待ちわびる量子の混沌だ。西暦二四五三年、人類はその海を数式で飼い慣らしたつもりでいた。だが、銀河の果てにある「シレーヌ領域」だけは例外だった。
探査船『アクシオム号』のコックピットで、エリアス・ソーン博士は網膜ディスプレイに流れるエラーログを見つめていた。赤い警告色が、彼の瞳の氷のような青色と混ざり合う。
「博士、現在の外部空間の物理定数が、また0.003パーセント変動しました。重力定数がタンゴを踊っているようです」
無機質なスピーカーから流れたのは、量子AIユニット・セブンの声だった。
「比喩は不要だ、セブン。数値を読み上げろ」
エリアスは冷たく返した。彼の指先はホログラフィック・キーボードを叩き、崩壊しかけている船の慣性制御システムを強制的に再計算している。汗一つかいていない。恐怖は非論理的な反応であり、現在の状況解決には寄与しないからだ。
「ですが博士、これはジョークではありません。外部センサーが捉えた光景を視覚野に転送します。論理的な処理はお勧めしませんが――」
「転送しろ」
視界が切り替わった瞬間、エリアスの眉間がピクリと動いた。
窓の外に広がる宇宙空間は、黒ではなかった。それは極彩色の油膜のように歪み、星々は点ではなく、長く伸びた筆跡のように螺旋を描いていた。そこでは、距離という概念が融解している。遠くにあるはずの赤色巨星が、手の届く位置にある小惑星よりも小さく見え、かと思えば、指先の爪ほどの塵が銀河のような輝きを放っていた。
「視覚データの破損か?」
「いいえ。光子の振る舞いが確率的ではなく、意図的に変更されています。まるで、誰かが
エリアスは息を呑んだ。幼い頃、一度だけ見た光景が脳裏をよぎる。理屈抜きに美しい、あの日没。論理で説明できない色彩。彼はその記憶を「エラー」として封印し、物理学という強固な檻の中に自らを閉じ込めたはずだった。
「……ありえない。宇宙は数学によって記述される。芸術などという揺らぎのあるものによってではない」
エリアスは自分に言い聞かせるように呟いた。だが、船体は軋みを上げ、論理の海から逸脱していく。彼らが向かっているのは、領域の中心座標。そこには、空間そのものを歪ませている「特異点」が存在する。
「到着まであと三百秒。博士、心拍数が上昇しています。皮肉なことに、この領域では貴方の『不安』が重力波として観測されていますよ」
「黙れ。精神安定剤を投与。思考ノイズをカットする」
薬剤が血管を巡り、エリアスの感情をフラットに戻す。彼は再び冷徹な観測者となった。だが、彼らが着陸しようとしている惑星――シレーヌ・プライムの大地には、すでに論理では解けない矛盾が待ち受けていた。
惑星の地表は、結晶化した砂で覆われていた。空には二つの太陽があり、それらは互いに干渉し合いながら、和音のような重力波を奏でている。
エリアスと、球体ドローンのボディに転送されたセブンは、目標地点である巨大構造物の前に立っていた。
「炭素年代測定の結果が出ました」
セブンが空中で回転しながら報告する。
「数値を」
「
エリアスは足を止めた。風が無く、大気も存在しないはずの場所で、彼のコートの裾がなびく。
「測定器の故障だ。マイナスの時間など存在しない。それは因果律の逆転を意味する」
「あるいは、我々の測定器が『現在』を基準にしていることが傲慢なのかもしれませんね。博士、あの構造物を見てください。あれは遺跡ではありません。到着ターミナルです」
目の前に聳え立つのは、滑らかな黒曜石のようなモノリスだった。高さは数百メートルに及び、表面には幾何学的な紋様が刻まれている。だが、エリアスが近づいて詳しく解析すると、それがただの模様ではないことに気づいた。
それは数式だった。
彼が生涯をかけて研究してきた統一場理論。その未完成の最終項が、そこには刻まれていたのだ。しかも、彼自身の癖のある記述形式で。
「……私が、これを書いたのか?」
震える手で黒い表面に触れる。冷たさはなく、むしろ人肌のような温もりがあった。その瞬間、脳内に直接、声が響いた。
『待っていたわ、エリアス。あなたが論理の迷路を解いて、ここまで来るのを』
その声は、かつて彼が愛し、そして失った女性の声に似ていた。否、それは彼の記憶にある「理想的な対話者」の音響合成だ。エリアスは即座に自己分析を行い、聴覚野の異常興奮を疑った。
「セブン、音声入力を確認したか」
「いいえ。ですが、博士の脳波パターンがカオス理論の教科書みたいになっていますよ。いったい何が聞こえたのです?」
「幻聴だ。……いや、情報野への直接干渉か」
モノリスの一部がスライドし、内部への入り口が開いた。中から溢れ出したのは、光ではない。圧倒的な「意味」の奔流だった。空間そのものが、ここに入れば全ての問いの答えが得られると誘惑している。
エリアスは論理的防壁を最大まで高め、闇の中へと足を踏み入れた。内部には、巨大な演算コアが鎮座していた。そしてその中央には、一人の人間が入れるほどのカプセルがあった。
「解析完了しました、博士。……信じ難いことですが、私のジョーク回路がショートしそうです」
セブンが低いトーンで告げる。
「この装置は、未来の人類によって建造されました。そして過去である『今』に転送された。目的は一つ。このシレーヌ領域から始まる宇宙の相転移――『真空の崩壊』を食い止めるためです」
「真空の崩壊だと? それは理論上の悪夢だ。宇宙がより安定したエネルギー準位へ移行し、現在の物理法則がすべて書き換わる」
「ええ。そして、その崩壊のトリガーを引いたのは、
エリアスは立ち尽くした。自分が世界を救うためにここに来たと思っていた。だが真実は違った。自分が世界を壊す原因であり、同時にその尻拭いをさせられようとしている。
モノリスの壁面にホログラムが浮かび上がる。そこには、数式に埋もれて発狂し、世界を呪いながら死んでいく未来の自分の姿が映し出されていた。
「未来の私は、完璧な論理を求めた。感情という不確定要素を完全に排除した『究極の物理学』を。その結果、宇宙から『観測者による揺らぎ』がなくなり、世界は静止した。……静止した世界は、崩壊するしかなかったんだ」
エリアスは理解した。この装置、シレーヌ・システムは、論理の極致に至った人類が、最後にすがりついた「非論理的な救済措置」なのだ。
コアが鼓動を始めた。低い振動音と共に、エリアスの周囲に光の粒子が舞う。
「システムがキーを要求しています」
セブンの声に焦りが混じる。
「キーとはなんだ? 特定の周波数か、それとも遺伝子情報か」
「いいえ。……『パラドックス』です。論理では解決不可能な、強い矛盾を孕んだ精神エネルギー。それがこの演算機を起動させ、崩壊する真空を再定義するための触媒になります」
エリアスは苦笑した。
論理を愛し、感情を捨てた男に、論理を否定する矛盾を差し出せというのか。
「皮肉な話だ。私は宇宙を理解したかった。だが宇宙が求めているのは、理解ではなく『誤読』だというのか。ありのままの真実ではなく、主観という名の歪みを」
警報が鳴り響く。領域の外側で、物理定数の崩壊が加速していた。星々が光を失い、闇に呑まれていく。
『エリアス、
またあの声が響く。今度ははっきりと、モノリスの奥から少女の幻影――サラが姿を現した。彼女はエリアスの記憶の集合体だ。かつて彼が論理のために切り捨てた、すべての美しい非合理性の象徴。
「君は幻覚だ。私の脳内のシナプス発火の集合に過ぎない」
『ええ、そうよ。でも、数式では表現できない発火でしょう?』
サラが微笑む。その笑顔を見た瞬間、エリアスの胸の奥で、厳重にロックされていた扉が軋んだ。
彼は知っていた。この宇宙を安定させる唯一の方法。それは、極めて強力な観測者が、システムと融合し、世界に対して「世界はこうあるべきだ」という強烈な主観を押し付けること。
それは神になることではない。
人柱になることだ。
しかも、論理的な思考ではシステムと同調できない。必要なのは、論理を突き破るほどの情熱。あるいは、狂気。
「セブン、船へ戻れ」
「博士? 生存確率の計算をしましたが、貴方がここに残る場合、生還率はゼロです」
「計算は正しい。だが、
エリアスはカプセルへと歩み寄る。
「私がここで消えることは、論理的には損失だ。だが、私が感情を取り戻して世界を再定義することは、美学的には勝利だ」
「……博士。貴方にユーモアのセンスがあったとは、今の今まで知りませんでしたよ」
セブンはドローンを少しだけ傾け、そして静かに後退した。AIにも、別れの儀式が必要であることを理解していたかのように。
接続プラグがエリアスの延髄に侵入する。痛みはなかった。代わりに、自分という境界線が溶けていく感覚があった。
視界がホワイトアウトする。
彼は膨大な情報の海に放り出された。そこでは、過去も未来も、可能性も不可能性も、すべてが同時に存在していた。
未来の自分の絶望が流れ込んでくる。
――世界は冷たい方程式だ。意味などない。
その冷徹な論理が、エリアスの意識を塗りつぶそうとする。彼がそれに同意すれば、宇宙は「完璧な静止」へと至り、消滅する。
(違う)
エリアスは抵抗した。数式ではない何かを探す。
彼は思い出す。
六歳の夏。
雨上がりの空にかかった虹。
プリズムによる分光現象だということは知っていた。
だが、彼が感動したのは屈折率の計算ではない。
その色彩が心に呼び起こした、理由のない高揚感だった。
(
彼は叫んだ。声帯ではなく、魂で。
システムが激しく振動する。論理の集合体である機械が、エリアスの持ち込んだ「矛盾」というウイルスに感染し、熱暴走を起こし始める。
P1(論理)が崩れ去り、P2(感情)が爆発する。
『エリアス、見せて。あなたが本当に見たかった宇宙を』
サラの声が導く。
エリアスは目を開けた。肉体の目はもうない。彼は宇宙そのものの眼となっていた。
彼は想像した。
重力は、引き合う孤独な星々の愛であると。
時間は、流れる川ではなく、繰り返される歌の旋律であると。
エントロピーは、死への行進ではなく、新たな形を生むためのダンスであると。
不合理な解釈。科学者としては失格の妄想。
だが、その妄想こそが、硬直しきった宇宙の関節を外し、再び動かすための潤滑油となった。
シレーヌ領域から、爆発的な光が放たれた。それは破壊の光ではなく、創造の波紋だった。
銀河中の知的生命体が、その瞬間に空を見上げた。論理エンジンに依存していた彼らのディスプレイに、計算不能な美しいパターンが表示される。
ある者はそれを「奇跡」と呼び、ある者は「バグ」と呼んだ。
だが、誰もが涙を流していた。
エリアス・ソーンという個体は消滅した。
しかし、宇宙の物理法則の深い階層――プランク定数の微細な隙間に、彼の意識は刻み込まれた。
世界は再び不確実で、予測不能で、だからこそ生きるに値する場所へと書き換えられたのだ。
数年後。
再建された観測ステーションで、一台の量子AIが、虚空に向かって話しかけていた。
「ねえ博士。今日の宇宙は、貴方の好きだったあの虹色ですよ。……まったく、これじゃあ計算が合いやしない」
ユニット・セブンは、モニターに表示された矛盾だらけの観測データを眺めながら、満足げに電子音を鳴らした。
そのノイズ交じりのデータは、まるで笑っているかのように明滅していた。
(了)
第1章 硝子の不協和音 世界はEメジャー……ホ長調……で鳴り響いている。 少なくとも、今はまだ。 浮遊都市「カノン」は、真空の海に浮かぶ巨大なシャンデリアのような街だ。建物も、街路樹も、行き交う人々の衣服さえも、半透明の結晶質(クリスタル)で構成されている。 この世界において、物質の強度は「硬さ」ではなく「ハーモニー」によって決定される。 都市の中央に聳える「始原の塔(プライム・タワー)」から、常に重厚なパイプオルガンのような通奏低音が放射され、すべての物質はその周波数と共鳴することで形を保っているのだ。 ゆえに、静寂は死を意味する。音が止まれば、世界は分子レベルで結合を解かれ、美しい砂となって崩れ落ちるからだ。 アルトは、耳栓を深く押し込みながら、硝子の石畳を歩いていた。 彼の役職は「調律師(チューナー)」。手には巨大な音叉のような共鳴杖(ロッド)を持っている。 街は音で溢れていた。街頭スピーカーからは聖歌のようなBGMが流れ、市民たちはそれに合わせてハミングしたり、足音でリズムを刻んだりする義務がある。 「不協和音(ノイズ)の排除」――それがこの都市の絶対法だ。「……うるさい」 アルトは低く呻いた。 彼にとって、この世界は拷問室だった。 彼は生まれつき、過剰なほどの絶対音感と聴覚過敏を持っていた。塔が奏でる神聖な和音も、彼にはただの鼓膜を圧迫する暴力的な振動にしか聞こえない。 彼が世界で最も愛しているのは、布団を頭まで被った瞬間の、あのわずかな「無音」だけだった。「調律師様! こちらです!」 呼び止められたのは、居住区画の第三楽章地区だった。 そこにある三階建てのアパートの壁に、蜘蛛の巣のような亀裂が走り、キーン……という耳障りな高周波を発していた。「構造体が変調(モジュレーション)を起こしています! このままだと砕けます!」 管理人の男が叫ぶ。 アルトは眉をひそめた。壁から発せられる音は、Fシャープ(嬰へ音)に近い。Eメジャーの基調音とは半音ぶつかり、うねりを生じている。これが物理的な破壊エネルギーとなって、結晶構造を引き裂いているのだ。「下がっていろ」 アルトは共鳴杖を構えた。 彼は杖の先端で、震える壁面を軽く叩いた。 カーン、と澄んだ音が響く。 彼は目を閉じ、壁の「悲鳴」を聞く。壁は、元のEメジャーに戻
第1章 秒針の堆積 時間は流れない。降り積もるのだ。 この世界において、その事実は哲学ではなく物理学だった。 垂直都市「シリンダー」の最下層デッキで、ガレトは重いブーツの紐を締めていた。ここは深度六〇〇メートル。時代区分で言えば「産業革命層」にあたる。空気は煤と鉄錆の匂いが混じり、気圧計の針は地上の三倍を示していた。「深度計よし。酸素ボンベ、加圧正常。……行けるか、ガレト」 通信機から管制官の声が響く。ノイズ交じりだ。古い地層ほど電波は通りにくい。過去は現在を拒絶するように硬く、分厚いからだ。「問題ない。潜行を開始する」 ガレトは「時間潜行士」だ。彼が身につけているのは、深海の圧力ではなく、歴史の重圧に耐えるための強化外骨格「クロノス・スーツ」。 彼はウィンチに吊るされ、さらに深い闇へと降りていく。 ヘッドライトが照らす岩盤には、化石化した歯車や、炭化した本、そして圧縮されてダイヤモンドのように輝く「時間結晶」が埋まっていた。 この都市は、過去を掘り起こし、それを燃料にして生きている。 地下から採掘される時間結晶は、燃やせば莫大なエネルギーを生む。つまり、人類は自らの歴史を焼べることで、現在の生活を維持しているのだ。「ターゲットの位置は?」「深度一八〇〇。第四紀・文明崩壊層だ。崩落事故で新人採掘者が一人、閉じ込められている。……急げよ。長く留まれば、お前も『化石化』するぞ」「分かっている」 化石化。それは潜行士にとって最も恐ろしい職業病だ。 過去の引力に魂が捕らわれ、身体が硬化し、文字通り地層の一部となってしまう現象。帰還した者の多くも、現在への適応障害を起こし、心だけを過去に置いてくる。 ガレトは岩盤を蹴り、狭い坑道を降下した。 彼の周りで、岩肌が囁くように軋んでいる。 ――忘れるな。忘れるな。 それは地層に染み付いた、かつて生きていた人々の残留思念だ。P3(文脈の重み)が、物理的な振動となってスーツを叩く。 ガレトは歯を食いしばった。彼には耐性がある。 なぜなら、彼の心臓にはすでに、巨大な悲しみの化石が埋まっているからだ。 三年前、病で亡くした妻、エラ。彼女を救えなかった後悔が、彼を「現在」から隔離していた。皮肉なことに、その孤独が、彼をこの危険な地下世界への最高の適格者にして
第1章 形容詞の墓標 はじめに言葉があった。そして言葉は煉瓦となり、世界を分節した。だが、今のこの都市「レキシコン」では、言葉は砂のように指の隙間から零れ落ちている。 シオンは、崩れかけたカフェのテラス席で、虚空に浮かぶ一冊の辞書――ホログラムのようだが、触れると冷たい石の質感がある――を開いていた。 彼の仕事は「修復師」だ。世界から剥落しそうな概念を見つけ出し、その定義を書き直すことで、物理的な崩壊を食い止める。「ひどい有様だな」 シオンは呟き、インク壺の蓋を開けた。中に入っているのは、液化した「認識」だ。黒く、重く、そして古い図書館のような匂いがする。 目の前にあるコーヒーカップが、輪郭を失いかけていた。取っ手の部分がノイズのようにざらつき、陶器の白さが灰色に溶けている。「カップ」という名詞の拘束力が弱まっているのだ。 彼は右手に持ったガラスペンを浸し、空中に直接、文字を刻んだ。『液体を保持するための、陶磁器製の円筒形容器。持ち手を有し、温もりを手に伝えるもの』 筆先が空気を切り裂き、青白い光の軌跡を残す。記述された定義がカップに吸い込まれると、ノイズが収束し、再び硬質な輪郭が戻った。湯気が立ち上り、コーヒーの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。 言葉が確定することで、初めて世界は存在を許される。それがこの岩盤都市の物理法則だ。 足元で、金属の擦れる音がした。 そこにいたのは、小柄な少女の姿をしたアンドロイド、ミュウだった。彼女には声帯がない。彼女は、シオンの膝に冷たい額を押し付けることで、いつもの挨拶とした。「ああ。今日は『微かな』という形容詞が消えかかっている。街のあちこちで、風の音や遠くの鐘の音が聞こえなくなっているんだ」 シオンはミュウの銀色の髪を撫でた。 彼女は「名無し)」だった。言語処理ユニットを持たない欠陥機として廃棄されていたのを、シオンが拾った。彼女は言葉を持たない。ゆえに、この世界の「定義」に縛られず、物事をありのままの波長として知覚している。 その時、空が軋む音がした。 見上げると、レキシコンの空を覆う巨大な天蓋――「空」と定義された防護フィールド――の色が、奇妙に変色していた。 本来ならば「青」であるはずの色が、彩度を失い、不気味な鉛色へと変わっていく。「……まさか」
第1章 壁の外科医 世界は呼吸している。その事実は比喩ではない。 都市「カーディア」は、巨大生物リバイアサンの第三心室の空洞にへばりつくように存在していた。天井――すなわち心室の内壁――は、赤黒い筋肉のドームであり、定期的に打たれる脈動に合わせて、都市全体が微かに収縮と弛緩を繰り返している。 ヴァンは、その「壁」に刃を入れていた。 彼が手にしているのは、高周波振動するセラミック製のメスではない。リバイアサンの神経節から抽出された酵素を塗布した、骨製のノミだ。「いい子だ。暴れるなよ」 ヴァンは壁に向かって囁いた。彼がノミを振るうたび、壁面である筋肉組織が痙攣し、分厚い結合組織が剥がれ落ちる。溢れ出したリンパ液が、ヴァンの革のエプロンを濡らす。その匂いは、鉄と腐った果実を煮詰めたような、甘美な生臭さを持っていた。 彼は「造肉師(カーバー)」だ。この寄生都市において、家を建てる大工と、傷を治す外科医は同義語である。「ヴァンの旦那、首尾はどうだ?」 背後から声をかけたのは、依頼主の男だった。住居の拡張工事を頼んできたのだ。「上々だ。この区画の筋繊維は素直だ。炎症反応も少ない。……だが」 ヴァンは手を止め、剥き出しになった壁の深層を指差した。「見ろ。奥の色が変わっている」 鮮やかな真紅であるはずの組織の奥に、どす黒い紫色の斑点が広がっていた。壊死の予兆だ。「最近、こういう箇所が増えている。リバイアサンの免疫系が苛立っている証拠だ。あんたたち、排熱処理をサボって、汚水をそのまま『血管道路』へ垂れ流したな?」「へへ、バレたか。だがよ、みんなやってることだろ」 男が卑屈に笑った瞬間、地面――床下の軟骨組織――が激しく揺れた。 地震ではない。「咳」だ。 頭上の肉のドームが波打ち、遠くの地区で、壁の一部が崩落してアパート群を押し潰す音が響いた。悲鳴よりも先に、押し出された空気の圧力が鼓膜を叩く。 ヴァンは顔をしかめ、道具を鞄に収めた。この世界は限界を迎えている。寄生者である人類が癌細胞のように増殖しすぎたせいで、宿主であるリバイアサンが「治療」を始めようとしているのだ。 仕事を終えたヴァンは、都市の最下層にある診療所へと戻った。 そこには、彼の唯一の家族とも言える少女、リコが待っていた。彼女は人間だが、その背中からは透明なチュ
第1章 論理の事象地平 真空は無ではない。それは可能性が飽和した海であり、観測者の視線を待ちわびる量子の混沌だ。西暦二四五三年、人類はその海を数式で飼い慣らしたつもりでいた。だが、銀河の果てにある「シレーヌ領域」だけは例外だった。 探査船『アクシオム号』のコックピットで、エリアス・ソーン博士は網膜ディスプレイに流れるエラーログを見つめていた。赤い警告色が、彼の瞳の氷のような青色と混ざり合う。「博士、現在の外部空間の物理定数が、また0.003パーセント変動しました。重力定数がタンゴを踊っているようです」 無機質なスピーカーから流れたのは、量子AIユニット・セブンの声だった。「比喩は不要だ、セブン。数値を読み上げろ」 エリアスは冷たく返した。彼の指先はホログラフィック・キーボードを叩き、崩壊しかけている船の慣性制御システムを強制的に再計算している。汗一つかいていない。恐怖は非論理的な反応であり、現在の状況解決には寄与しないからだ。「ですが博士、これはジョークではありません。外部センサーが捉えた光景を視覚野に転送します。論理的な処理はお勧めしませんが――」「転送しろ」 視界が切り替わった瞬間、エリアスの眉間がピクリと動いた。 窓の外に広がる宇宙空間は、黒ではなかった。それは極彩色の油膜のように歪み、星々は点ではなく、長く伸びた筆跡のように螺旋を描いていた。そこでは、距離という概念が融解している。遠くにあるはずの赤色巨星が、手の届く位置にある小惑星よりも小さく見え、かと思えば、指先の爪ほどの塵が銀河のような輝きを放っていた。「視覚データの破損か?」「いいえ。光子の振る舞いが確率的ではなく、意図的に変更されています。まるで、誰かが物理法則をキャンバスにして絵を描いているかのように」 エリアスは息を呑んだ。幼い頃、一度だけ見た光景が脳裏をよぎる。理屈抜きに美しい、あの日没。論理で説明できない色彩。彼はその記憶を「エラー」として封印し、物理学という強固な檻の中に自らを閉じ込めたはずだった。「……ありえない。宇宙は数学によって記述される。芸術などという揺らぎのあるものによってではない」 エリアスは自分に言い聞かせるように呟いた。だが、船体は軋みを上げ、論理の海から逸脱していく。彼らが向かっているのは、領域の中心座標。そこには、空間そのものを歪
チャプター1:未来の窓プロローグ:都市の息吹私、レン・シオタは、毎朝決まって午前五時三十分に、同じ窓の前に立つ。都市はまだ眠っていて、空気は薄い夜明けの青を帯びている。私の住むアパートメントは、地上150階。窓の外には、巨大な垂直都市ニュートーキョーの圧倒的なパノラマが広がっている。ビル群は雲を突き抜け、その最上部は宇宙ステーションと直接接続されている。かつて「空」と呼ばれた青い広がりは、今や建造物の隙間に細く切り取られた、贅沢品のような存在だ。窓はただのガラスではない。それは「未来の窓」と呼ばれる特殊な複合素材でできており、指先で触れると、都市のエネルギー使用量、交通パターン、大気組成、そして私自身のスケジュールから健康データまでをホログラフィックに表示する。完璧な情報の海。完璧な管理社会。しかし、私が毎朝この窓の前に立つのは、そうした情報を確認するためではない。私は、窓の隅にひっそりと浮かぶ、小さなアイコンを見つめる。それは、一週間前の2324年10月7日に突如として現れた、奇妙な半透明のバブルだった。データストリームには存在しない、異質な光。私の完璧に管理された日常に、初めて現れたノイズ。第一章:ノイズアイコンをタップすると、窓の表示が一変する。通常のデータストリームが霧のように消え、代わりにぼんやりとした映像が浮かび上がる。それは、見知らぬ部屋の内部だった。木製のテーブル。手編みのブランケット。本棚に並ぶ紙の書籍。壁にかけられた時計は、機械式の針で時を刻んでいる。私の世界から300年前に失われた、ノスタルジックな「過去」の物質たち。この都市にはもう存在しない、質感と重みと温もりのある「リアル」なものたち。部屋は小さく、質素だった。しかし、そこには何か――言葉にできない豊かさがあった。データでは測定できない、人間的な温度。私は、窓が故障したのだと考えた。未来の窓のオペレーションは、都市のメインAIであるガイア・システムによって統括されている。ガイアは完璧であり、不具合は起こり得ない。三百年間、ただの一度もエラーを起こしたことのない、絶対的な存在。「ガイア、窓の映像ストリームに異常を検出。原因を特定し、修正を要請する」私の声に反応し、窓の隅にガイアの音声インターフェース――無感情な青い光が点滅した