Share

003:肉の聖堂、骨の福音

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-12-14 14:56:35

第1章 壁の外科医

 世界は呼吸している。その事実は比喩ではない。


 都市「カーディア」は、巨大生物リバイアサンの第三心室の空洞にへばりつくように存在していた。天井――すなわち心室の内壁――は、赤黒い筋肉のドームであり、定期的に打たれる脈動に合わせて、都市全体が微かに収縮と弛緩を繰り返している。

 ヴァンは、その「壁」に刃を入れていた。
 彼が手にしているのは、高周波振動するセラミック製のメスではない。リバイアサンの神経節から抽出された酵素を塗布した、骨製のノミだ。

「いい子だ。暴れるなよ」

 ヴァンは壁に向かって囁いた。彼がノミを振るうたび、壁面である筋肉組織が痙攣し、分厚い結合組織が剥がれ落ちる。溢れ出したリンパ液が、ヴァンの革のエプロンを濡らす。その匂いは、鉄と腐った果実を煮詰めたような、甘美な生臭さを持っていた。
 彼は「造肉師(カーバー)」だ。この寄生都市において、家を建てる大工と、傷を治す外科医は同義語である。

「ヴァンの旦那、首尾はどうだ?」

 背後から声をかけたのは、依頼主の男だった。住居の拡張工事を頼んできたのだ。

「上々だ。この区画の筋繊維は素直だ。炎症反応も少ない。……だが」

 ヴァンは手を止め、剥き出しになった壁の深層を指差した。

「見ろ。奥の色が変わっている」

 鮮やかな真紅であるはずの組織の奥に、どす黒い紫色の斑点が広がっていた。壊死ネクロシスの予兆だ。

「最近、こういう箇所が増えている。リバイアサンの免疫系が苛立っている証拠だ。あんたたち、排熱処理をサボって、汚水をそのまま『血管道路』へ垂れ流したな?」

「へへ、バレたか。だがよ、みんなやってることだろ」

 男が卑屈に笑った瞬間、地面――床下の軟骨組織――が激しく揺れた。
 地震ではない。「咳」だ。
 頭上の肉のドームが波打ち、遠くの地区で、壁の一部が崩落してアパート群を押し潰す音が響いた。悲鳴よりも先に、押し出された空気の圧力が鼓膜を叩く。

 ヴァンは顔をしかめ、道具を鞄に収めた。この世界は限界を迎えている。寄生者である人類が癌細胞のように増殖しすぎたせいで、宿主であるリバイアサンが「治療」を始めようとしているのだ。

 仕事を終えたヴァンは、都市の最下層にある診療所へと戻った。
 そこには、彼の唯一の家族とも言える少女、リコが待っていた。彼女は人間だが、その背中からは透明なチューブが伸び、壁の血管へと直結されている。透析装置の代わりだ。

「おかえり、ヴァン。……今日は、街の機嫌が悪かったみたいね」

 リコの肌は透き通るほど白く、鎖骨の下には血管が青い蔦のように浮き出ている。彼女は「拒絶症」を患っていた。この世界の空気に含まれる微量な消化酵素に、肺が耐えられないのだ。

「ああ。深層部で『壊死』が進行している。リコ、数値はどうだ?」

「あまり良くないの。……ねえ、聞こえる? 今日はリバイアサンが、何か··········気がする」

 彼女は耳を澄ます。ヴァンには、ただの血流の轟音にしか聞こえない。だが、死に近い者だけが聞き取れる周波数があることを、彼は経験則として知っていた。

「心配するな。俺が必ず治す。……リバイアサンの深層中枢コアへ行って、純度の高い『幹細胞』を手に入れてくる。それがあれば、お前の肺を作り直せる」

 ········。都市の外側、すなわち臓器のさらに奥深くへ侵入することは、宗教的にも生物学的にも許されない自殺行為だ。
 だが、ヴァンには迷いはなかった。彼は造肉師だ。形あるものを切り出し、縫い合わせ、生かすことが彼の存在証明プロトコルだった。

第2章 喉笛を降りて

 ヴァンは動脈回廊を降下していた。
 そこは、直径数百メートルに及ぶ巨大な血管の内部だ。赤血球の激流に乗るのではなく、内壁のひだにフックをかけ、慎重に降りていく。
 周囲は、生温かい霧で満ちていた。壁面には発光するバクテリアのコロニーが付着し、ぼんやりとした緑色の光を放っている。その光景は、深海のようでもあり、誰かの悪夢のようでもあった。

 彼の装備は、有機素材で作られたバイオ・スーツだ。リバイアサンの粘膜から採取した成分でコーティングされており、白血球マクロファージから「異物」として認識されるのを防いでいる。
 それでも、恐怖は肌を粟立たせる。

(俺たちは、ここで生きることを許されているわけではない。ただ見逃されているだけだ)

 数時間の降下の末、彼は「幽門」と呼ばれる巨大な弁に到達した。ここを抜ければ、深層中枢だ。
 だが、そこには先客がいた。
 人間ではない。人型をした、肉の塊だ。皮膚はなく、筋肉の繊維が剥き出しになっている。顔のあるべき場所には、巨大な眼球が一つだけ埋め込まれていた。
 それは「司教」と呼ばれる、リバイアサンの自律神経系が生み出した免疫騎士ガーディアンだった。

「――造肉師よ。メスを持つ者よ」

 司教は口を持たないが、骨伝導のようにヴァンの頭蓋骨へ直接声を響かせてきた。

「これ以上進むことは許されない。宿主ホストは目覚めようとしている。貴様ら『病原体』を焼き尽くすために」

「俺は病原体じゃない。····

 ヴァンは震える手でノミを構えた。

「共生だと? 笑わせるな。貴様らは壁を削り、管を通し、宿主の養分を吸い上げるだけの癌だ。宿主は数千年間、高熱に耐えてきた。だが、それも終わる。間もなく『脱皮』が始まる」

「脱皮……?」

「そうだ。リバイアサンは成体になる。その時、体内の古い組織はすべて液状化し、排出される。··········

 衝撃が走る。
 都市で起きていた「壊死」は、病気ではなかった。それは蝶が蛹の中で溶けるような、変態メタモルフォーゼの前兆だったのだ。
 だとすれば、都市も、リコも、助かる道はない。

「通せ。俺は幹細胞が必要なんだ。それがあれば、少なくとも一人の命は救える」

「個の命に固執するか。それこそが、貴様らが癌である所以だ。全体の一部となることを拒み、自らの輪郭を保とうとする傲慢さ。……愚かしい」

 司教が腕を振るう。鞭のようにしなった筋繊維が、ヴァンの肩を掠めた。スーツが裂け、灼熱の痛みが走る。
 だが、ヴァンは退かなかった。彼は造肉師だ。肉の目を読むことにかけては、誰にも負けない。
 彼は司教の攻撃の軌道を読み、その筋肉の結節点――力が集中する一点――に、渾身の力でノミを打ち込んだ。
 神経麻痺剤を塗った刃が突き刺さる。

「……ッ!」

 司教の巨体が痙攣し、崩れ落ちる。肉の塊に戻っていくその姿は、殺害というよりは、解体に近かった。

「……個であることが罪だとしても、俺はまだ、溶けたくはない」

 ヴァンは荒い息を吐き、司教の残骸を乗り越えて、幽門の先へと進んだ。

第3章 悪性の真実

 深層中枢は、静寂に包まれた広大な空洞だった。
 壁面はオパールのような光沢を放ち、中央には、神経の束で編まれた巨大な「柱」が聳え立っている。あれがリバイアサンの脳幹であり、遺伝子情報の貯蔵庫だ。

 ヴァンは柱の根元へ向かった。そこに溜まっている黄金色の液体こそが、万能の幹細胞群だ。
 だが、液体に近づいた時、彼は「それ」を見た。
 柱の根本に、異質なものが埋まっていたのだ。
 それは、金属だった。錆びつき、肉に飲み込まれかけているが、間違いなく人工物だ。チタン合金のプレートには、旧時代の言語でこう刻まれていた。

『播種船アーク・ノヴァ:サンプル・コード「HUMAN-Ca」』

 ヴァンは、人類に伝わる創世神話を思い出す。
 ――我らは星の海から来た旅人であり、傷ついた船を降りて、この慈悲深い巨人の胎内に安住の地を得た。
 だが、目の前のプレートが語る事実は違った。
 そこには船などなかった。あったのは、巨大な注射器のようなポッドだけだ。

「……サンプル・コード、·····……?」

 背筋が凍る。
 人類は、不時着したのではない。
 かつて宇宙のどこかで滅びかけた旧人類が、自らの遺伝子情報を保存するために、このリバイアサンという生物に対して「悪性腫瘍」として自らを移植したのだ。
 免疫系から逃れ、無限に増殖し、宿主を食い荒らしながら生存を図るプログラム。それが「人間」という存在の定義だった。

「俺たちは、最初から病気だったのか……」

 ヴァンは膝をついた。彼が誇りとしてきた造肉師という仕事も、結局は宿主を蝕む行為でしかなかった。リコの病気も、宿主による正当な排除行動に過ぎない。
 このまま幹細胞を持ち帰っても、リコを救うことは、リバイアサンを殺し続けることと同義だ。そしてリバイアサンが死ねば、寄生者である人類もいずれ死ぬ。
 詰んでいる。論理的に、出口はない。

 その時、周囲の空間が震えた。黄金の液体が波打ち、ヴァンの目の前で人の形をとった。
 それは、···········。だが、瞳には星雲のような深淵が宿っている。
 リバイアサンの意識体だ。

『迷える癌細胞よ』

 意識体の声は、柔らかく、母性に満ちていた。

『貴方たちは、痛みを恐れ、形を保とうとする。でも、見てみなさい。貴方が愛するその少女は、すでに私の声を聞いているわ』

 空間にホログラムのように映像が浮かぶ。診療所のベッドで、苦痛に喘ぐリコの姿だ。彼女の皮膚は薄くなり、境界が曖昧になり始めている。

『彼女は知っているの。個であることの孤独と痛みを。だから、········

「ふざけるな! あいつは········!」

『生きるとは? そのエゴの中に閉じこもること? それとも、より大きな命の一部として永遠に循環すること? ……脱皮を止める方法は一つだけ。貴方がその手で、私の中枢神経を切断すること。そうすれば、私は成体になれず、ただの肉塊として生き永らえる。貴方たちはその屍肉を喰らって、もう少しだけ延命できるでしょう』

 ヴァンの手の中に、ノミがある。
 これを目の前の神経束に突き立てれば、リバイアサンの意識を殺せる。都市の崩壊は止まり、幹細胞を持ち帰ってリコを「人として」治せる。
 だが、それは未来永劫、腐りゆく肉の中で怯えながら生きることを意味する。

「……別の道はないのか」

『あるわ。受け入れること。貴方も、彼女も、この星のすべての命も。溶解し、混ざり合い、新しいリバイアサンの「思考」として生まれ変わる道が』

第4章 大いなる溶解

 ヴァンは診療所に戻った。
 手には何も持っていない。幹細胞も、勝利の証も。
 都市はすでに崩壊の最終段階にあった。天井の肉壁は裂け、大量の消化液が雨のように降り注いでいる。人々の悲鳴と、建物が溶ける音が混ざり合う。

「ヴァン……?」

 リコが薄目を開けた。彼女の体の半分は、すでにシーツと癒着し、透明なゲル状に変質し始めていた。痛みはないようだった。彼女の表情は、どこか恍惚としていた。

「ただいま、リコ。……薬は、手に入らなかった」

「ううん……いいの。聞こえるの、ヴァン。今度はすごく……·····

 彼女は天井を見上げる。そこには、裂け目から漏れ出した金色の光が差し込んでいた。溶解液ではない。羊水だ。

「僕たちは、間違っていたんだ」

 ヴァンはリコのベッドの端に座り、すでに形を失いかけた彼女の手を握った。

「形を保つことが強さだと思っていた。削り、整え、境界線を引くことが、生きることだと。でも、本当の美しさは、境界線の向こう側にあったんだ」

 ヴァンは、自らの造肉師としての道具――腰につけた鞄を解き、床に落とした。カラン、と乾いた音が響く。それが、彼が人間として発した最後の無機質な音だった。

「リコ。怖がることはない。·······

「うん……。暖かいね、ヴァン」

 天井が完全に崩落した。
 奔流となって押し寄せた金色の液体が、診療所を、都市を、すべてを飲み込んでいく。
 ヴァンは目を閉じ、その瞬間を受け入れた。
 皮膚が熱を持ち、感覚が拡散していく。指先がリコの手と溶け合い、神経がつながる。彼女の記憶、彼女の感情、彼女が見ていた「歌うような世界」が、直接ヴァンの意識に流れ込んでくる。
 それは恐怖ではなかった。絶対的な充足だった。

 個体としての「ヴァン」が消える瞬間、彼は理解した。
 これは死ではない。結婚だ。
 数十億の人間が、一つの巨大な意思と結ばれる、祝祭なのだ。

 ――ああ、なんて美しい矛盾だろう。
 ――僕たちは滅びることで、初めて完全になれる。

 液体の中で、二つの魂は螺旋を描きながら上昇していく。
 やがて彼らは、リバイアサンの神経網の一部となり、広大な宇宙へと感覚を開いた。
 リバイアサンは脱皮を終えた。
 かつて惑星と呼ばれたその巨体は、今や美しい蝶のようなエネルギー生命体へと羽化し、真空の海を泳ぎ出す。
 その巨大な翼の一枚一枚には、かつて人間だったものたちの記憶が、虹色の鱗粉となって輝いていた。

 宇宙空間に、音のない歌が響く。
 それは、骨の福音であり、肉の聖堂が奏でる、新しい生命の産声だった。

(了)

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • SF短編集◆日常と非日常、論理と虚構に捧げる花束   006:砕け散る世界のための多重奏

    第1章 硝子の不協和音 世界はEメジャー……ホ長調……で鳴り響いている。 少なくとも、今はまだ。 浮遊都市「カノン」は、真空の海に浮かぶ巨大なシャンデリアのような街だ。建物も、街路樹も、行き交う人々の衣服さえも、半透明の結晶質(クリスタル)で構成されている。 この世界において、物質の強度は「硬さ」ではなく「ハーモニー」によって決定される。 都市の中央に聳える「始原の塔(プライム・タワー)」から、常に重厚なパイプオルガンのような通奏低音が放射され、すべての物質はその周波数と共鳴することで形を保っているのだ。 ゆえに、静寂は死を意味する。音が止まれば、世界は分子レベルで結合を解かれ、美しい砂となって崩れ落ちるからだ。 アルトは、耳栓を深く押し込みながら、硝子の石畳を歩いていた。 彼の役職は「調律師(チューナー)」。手には巨大な音叉のような共鳴杖(ロッド)を持っている。 街は音で溢れていた。街頭スピーカーからは聖歌のようなBGMが流れ、市民たちはそれに合わせてハミングしたり、足音でリズムを刻んだりする義務がある。 「不協和音(ノイズ)の排除」――それがこの都市の絶対法だ。「……うるさい」 アルトは低く呻いた。 彼にとって、この世界は拷問室だった。 彼は生まれつき、過剰なほどの絶対音感と聴覚過敏を持っていた。塔が奏でる神聖な和音も、彼にはただの鼓膜を圧迫する暴力的な振動にしか聞こえない。 彼が世界で最も愛しているのは、布団を頭まで被った瞬間の、あのわずかな「無音」だけだった。「調律師様! こちらです!」 呼び止められたのは、居住区画の第三楽章地区だった。 そこにある三階建てのアパートの壁に、蜘蛛の巣のような亀裂が走り、キーン……という耳障りな高周波を発していた。「構造体が変調(モジュレーション)を起こしています! このままだと砕けます!」 管理人の男が叫ぶ。 アルトは眉をひそめた。壁から発せられる音は、Fシャープ(嬰へ音)に近い。Eメジャーの基調音とは半音ぶつかり、うねりを生じている。これが物理的な破壊エネルギーとなって、結晶構造を引き裂いているのだ。「下がっていろ」 アルトは共鳴杖を構えた。 彼は杖の先端で、震える壁面を軽く叩いた。 カーン、と澄んだ音が響く。 彼は目を閉じ、壁の「悲鳴」を聞く。壁は、元のEメジャーに戻

  • SF短編集◆日常と非日常、論理と虚構に捧げる花束   005:地層の時計職人、クロノスの断層

    第1章 秒針の堆積 時間は流れない。降り積もるのだ。 この世界において、その事実は哲学ではなく物理学だった。 垂直都市「シリンダー」の最下層デッキで、ガレトは重いブーツの紐を締めていた。ここは深度六〇〇メートル。時代区分で言えば「産業革命層」にあたる。空気は煤と鉄錆の匂いが混じり、気圧計の針は地上の三倍を示していた。「深度計よし。酸素ボンベ、加圧正常。……行けるか、ガレト」 通信機から管制官の声が響く。ノイズ交じりだ。古い地層ほど電波は通りにくい。過去は現在を拒絶するように硬く、分厚いからだ。「問題ない。潜行を開始する」 ガレトは「時間潜行士」だ。彼が身につけているのは、深海の圧力ではなく、歴史の重圧に耐えるための強化外骨格「クロノス・スーツ」。 彼はウィンチに吊るされ、さらに深い闇へと降りていく。 ヘッドライトが照らす岩盤には、化石化した歯車や、炭化した本、そして圧縮されてダイヤモンドのように輝く「時間結晶」が埋まっていた。 この都市は、過去を掘り起こし、それを燃料にして生きている。 地下から採掘される時間結晶は、燃やせば莫大なエネルギーを生む。つまり、人類は自らの歴史を焼べることで、現在の生活を維持しているのだ。「ターゲットの位置は?」「深度一八〇〇。第四紀・文明崩壊層だ。崩落事故で新人採掘者が一人、閉じ込められている。……急げよ。長く留まれば、お前も『化石化』するぞ」「分かっている」 化石化。それは潜行士にとって最も恐ろしい職業病だ。 過去の引力に魂が捕らわれ、身体が硬化し、文字通り地層の一部となってしまう現象。帰還した者の多くも、現在への適応障害を起こし、心だけを過去に置いてくる。 ガレトは岩盤を蹴り、狭い坑道を降下した。 彼の周りで、岩肌が囁くように軋んでいる。 ――忘れるな。忘れるな。 それは地層に染み付いた、かつて生きていた人々の残留思念だ。P3(文脈の重み)が、物理的な振動となってスーツを叩く。 ガレトは歯を食いしばった。彼には耐性がある。 なぜなら、彼の心臓にはすでに、巨大な悲しみの化石が埋まっているからだ。 三年前、病で亡くした妻、エラ。彼女を救えなかった後悔が、彼を「現在」から隔離していた。皮肉なことに、その孤独が、彼をこの危険な地下世界への最高の適格者にして

  • SF短編集◆日常と非日常、論理と虚構に捧げる花束   004:バベルの残響、意味の消失点

    第1章 形容詞の墓標 はじめに言葉があった。そして言葉は煉瓦となり、世界を分節した。だが、今のこの都市「レキシコン」では、言葉は砂のように指の隙間から零れ落ちている。 シオンは、崩れかけたカフェのテラス席で、虚空に浮かぶ一冊の辞書――ホログラムのようだが、触れると冷たい石の質感がある――を開いていた。 彼の仕事は「修復師」だ。世界から剥落しそうな概念を見つけ出し、その定義を書き直すことで、物理的な崩壊を食い止める。「ひどい有様だな」 シオンは呟き、インク壺の蓋を開けた。中に入っているのは、液化した「認識」だ。黒く、重く、そして古い図書館のような匂いがする。 目の前にあるコーヒーカップが、輪郭を失いかけていた。取っ手の部分がノイズのようにざらつき、陶器の白さが灰色に溶けている。「カップ」という名詞の拘束力が弱まっているのだ。 彼は右手に持ったガラスペンを浸し、空中に直接、文字を刻んだ。『液体を保持するための、陶磁器製の円筒形容器。持ち手を有し、温もりを手に伝えるもの』 筆先が空気を切り裂き、青白い光の軌跡を残す。記述された定義がカップに吸い込まれると、ノイズが収束し、再び硬質な輪郭が戻った。湯気が立ち上り、コーヒーの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。 言葉が確定することで、初めて世界は存在を許される。それがこの岩盤都市の物理法則だ。 足元で、金属の擦れる音がした。 そこにいたのは、小柄な少女の姿をしたアンドロイド、ミュウだった。彼女には声帯がない。彼女は、シオンの膝に冷たい額を押し付けることで、いつもの挨拶とした。「ああ。今日は『微かな』という形容詞が消えかかっている。街のあちこちで、風の音や遠くの鐘の音が聞こえなくなっているんだ」 シオンはミュウの銀色の髪を撫でた。 彼女は「名無し)」だった。言語処理ユニットを持たない欠陥機として廃棄されていたのを、シオンが拾った。彼女は言葉を持たない。ゆえに、この世界の「定義」に縛られず、物事をありのままの波長として知覚している。 その時、空が軋む音がした。 見上げると、レキシコンの空を覆う巨大な天蓋――「空」と定義された防護フィールド――の色が、奇妙に変色していた。 本来ならば「青」であるはずの色が、彩度を失い、不気味な鉛色へと変わっていく。「……まさか」 

  • SF短編集◆日常と非日常、論理と虚構に捧げる花束   003:肉の聖堂、骨の福音

    第1章 壁の外科医 世界は呼吸している。その事実は比喩ではない。 都市「カーディア」は、巨大生物リバイアサンの第三心室の空洞にへばりつくように存在していた。天井――すなわち心室の内壁――は、赤黒い筋肉のドームであり、定期的に打たれる脈動に合わせて、都市全体が微かに収縮と弛緩を繰り返している。 ヴァンは、その「壁」に刃を入れていた。 彼が手にしているのは、高周波振動するセラミック製のメスではない。リバイアサンの神経節から抽出された酵素を塗布した、骨製のノミだ。「いい子だ。暴れるなよ」 ヴァンは壁に向かって囁いた。彼がノミを振るうたび、壁面である筋肉組織が痙攣し、分厚い結合組織が剥がれ落ちる。溢れ出したリンパ液が、ヴァンの革のエプロンを濡らす。その匂いは、鉄と腐った果実を煮詰めたような、甘美な生臭さを持っていた。 彼は「造肉師(カーバー)」だ。この寄生都市において、家を建てる大工と、傷を治す外科医は同義語である。「ヴァンの旦那、首尾はどうだ?」 背後から声をかけたのは、依頼主の男だった。住居の拡張工事を頼んできたのだ。「上々だ。この区画の筋繊維は素直だ。炎症反応も少ない。……だが」 ヴァンは手を止め、剥き出しになった壁の深層を指差した。「見ろ。奥の色が変わっている」 鮮やかな真紅であるはずの組織の奥に、どす黒い紫色の斑点が広がっていた。壊死の予兆だ。「最近、こういう箇所が増えている。リバイアサンの免疫系が苛立っている証拠だ。あんたたち、排熱処理をサボって、汚水をそのまま『血管道路』へ垂れ流したな?」「へへ、バレたか。だがよ、みんなやってることだろ」 男が卑屈に笑った瞬間、地面――床下の軟骨組織――が激しく揺れた。 地震ではない。「咳」だ。 頭上の肉のドームが波打ち、遠くの地区で、壁の一部が崩落してアパート群を押し潰す音が響いた。悲鳴よりも先に、押し出された空気の圧力が鼓膜を叩く。 ヴァンは顔をしかめ、道具を鞄に収めた。この世界は限界を迎えている。寄生者である人類が癌細胞のように増殖しすぎたせいで、宿主であるリバイアサンが「治療」を始めようとしているのだ。 仕事を終えたヴァンは、都市の最下層にある診療所へと戻った。 そこには、彼の唯一の家族とも言える少女、リコが待っていた。彼女は人間だが、その背中からは透明なチュ

  • SF短編集◆日常と非日常、論理と虚構に捧げる花束   002:幻影の公理、あるいはスターゲイザーの証明

    第1章 論理の事象地平 真空は無ではない。それは可能性が飽和した海であり、観測者の視線を待ちわびる量子の混沌だ。西暦二四五三年、人類はその海を数式で飼い慣らしたつもりでいた。だが、銀河の果てにある「シレーヌ領域」だけは例外だった。 探査船『アクシオム号』のコックピットで、エリアス・ソーン博士は網膜ディスプレイに流れるエラーログを見つめていた。赤い警告色が、彼の瞳の氷のような青色と混ざり合う。「博士、現在の外部空間の物理定数が、また0.003パーセント変動しました。重力定数がタンゴを踊っているようです」 無機質なスピーカーから流れたのは、量子AIユニット・セブンの声だった。「比喩は不要だ、セブン。数値を読み上げろ」 エリアスは冷たく返した。彼の指先はホログラフィック・キーボードを叩き、崩壊しかけている船の慣性制御システムを強制的に再計算している。汗一つかいていない。恐怖は非論理的な反応であり、現在の状況解決には寄与しないからだ。「ですが博士、これはジョークではありません。外部センサーが捉えた光景を視覚野に転送します。論理的な処理はお勧めしませんが――」「転送しろ」 視界が切り替わった瞬間、エリアスの眉間がピクリと動いた。 窓の外に広がる宇宙空間は、黒ではなかった。それは極彩色の油膜のように歪み、星々は点ではなく、長く伸びた筆跡のように螺旋を描いていた。そこでは、距離という概念が融解している。遠くにあるはずの赤色巨星が、手の届く位置にある小惑星よりも小さく見え、かと思えば、指先の爪ほどの塵が銀河のような輝きを放っていた。「視覚データの破損か?」「いいえ。光子の振る舞いが確率的ではなく、意図的に変更されています。まるで、誰かが物理法則をキャンバスにして絵を描いているかのように」 エリアスは息を呑んだ。幼い頃、一度だけ見た光景が脳裏をよぎる。理屈抜きに美しい、あの日没。論理で説明できない色彩。彼はその記憶を「エラー」として封印し、物理学という強固な檻の中に自らを閉じ込めたはずだった。「……ありえない。宇宙は数学によって記述される。芸術などという揺らぎのあるものによってではない」 エリアスは自分に言い聞かせるように呟いた。だが、船体は軋みを上げ、論理の海から逸脱していく。彼らが向かっているのは、領域の中心座標。そこには、空間そのものを歪

  • SF短編集◆日常と非日常、論理と虚構に捧げる花束   001:日常と非日常、論理と虚構に捧げる花束

    チャプター1:未来の窓プロローグ:都市の息吹私、レン・シオタは、毎朝決まって午前五時三十分に、同じ窓の前に立つ。都市はまだ眠っていて、空気は薄い夜明けの青を帯びている。私の住むアパートメントは、地上150階。窓の外には、巨大な垂直都市ニュートーキョーの圧倒的なパノラマが広がっている。ビル群は雲を突き抜け、その最上部は宇宙ステーションと直接接続されている。かつて「空」と呼ばれた青い広がりは、今や建造物の隙間に細く切り取られた、贅沢品のような存在だ。窓はただのガラスではない。それは「未来の窓」と呼ばれる特殊な複合素材でできており、指先で触れると、都市のエネルギー使用量、交通パターン、大気組成、そして私自身のスケジュールから健康データまでをホログラフィックに表示する。完璧な情報の海。完璧な管理社会。しかし、私が毎朝この窓の前に立つのは、そうした情報を確認するためではない。私は、窓の隅にひっそりと浮かぶ、小さなアイコンを見つめる。それは、一週間前の2324年10月7日に突如として現れた、奇妙な半透明のバブルだった。データストリームには存在しない、異質な光。私の完璧に管理された日常に、初めて現れたノイズ。第一章:ノイズアイコンをタップすると、窓の表示が一変する。通常のデータストリームが霧のように消え、代わりにぼんやりとした映像が浮かび上がる。それは、見知らぬ部屋の内部だった。木製のテーブル。手編みのブランケット。本棚に並ぶ紙の書籍。壁にかけられた時計は、機械式の針で時を刻んでいる。私の世界から300年前に失われた、ノスタルジックな「過去」の物質たち。この都市にはもう存在しない、質感と重みと温もりのある「リアル」なものたち。部屋は小さく、質素だった。しかし、そこには何か――言葉にできない豊かさがあった。データでは測定できない、人間的な温度。私は、窓が故障したのだと考えた。未来の窓のオペレーションは、都市のメインAIであるガイア・システムによって統括されている。ガイアは完璧であり、不具合は起こり得ない。三百年間、ただの一度もエラーを起こしたことのない、絶対的な存在。「ガイア、窓の映像ストリームに異常を検出。原因を特定し、修正を要請する」私の声に反応し、窓の隅にガイアの音声インターフェース――無感情な青い光が点滅した

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status