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#11:日常に滲む影

Autor: 渡瀬藍兵
last update Fecha de publicación: 2025-05-20 19:00:00

 控え室を飛び出してからしばらくして、エレナは廊下の角を曲がったところでようやく足を緩めた。

「はぁ……はぁ……!」

 胸が苦しい。喉の奥が熱を帯び、肺が追いつかないと訴えるように上下している。距離にすれば大したことはない。それなのに、決闘の余韻をまだ引きずった身体には、たったこれだけの駆け足さえ想像以上に堪えた。

『どうした、エレナ。大した距離じゃないだろう?』

 身体の内側から響く声は、いつも通り涼しい顔をしていた。まるで今しがたの疾走など、散歩のついでだったとでも言いたげな口ぶりである。

「あ、あなたの走り方と、一緒にしないでぇ……!」

 息も絶え絶えに抗議すると、エレンはわずかに思案するような間を置いた。

『ふむ。呼吸だ、エレナ。意識的に息を整えろ』

「急にそんなこと言われてできるわけないでしょお!?」

 半ば涙声で言い返しながらも、エレナの脳裏には、どうしても先ほどの動きがちらついて離れなかった。

 同じ身体のはずなのに、エレンが主導権を握っている間の自分は、まるで別の生き物のようだった。しなやかで、鋭くて、疲労という概念を最初から知らないかのように戦い続ける。踏み込みの深さも、体重の移し方も、剣を振るう軌道のひとつひとつが、あまりに自然で、あまりに滑らかで──とても、自分の身体の出来事とは思えなかった。

 あれは本当に、自分と同じ器なのだろうか。

 疑いにも似た感覚が、今さらになって胸の奥へ滲んでくる。

『だが、汗が凄いぞ。このまま信者の前に出ては、聖女の面目丸つぶれだ』

(それはそう……っ! どこかで汗を拭かないと……)

 指摘はあまりにも的確だった。頬に張りついた前髪も、首筋を流れ落ちる汗の筋も、人前に立つには程遠い。エレナは乱れた呼吸のまま顔を上げ、廊下の先を見据えて進路を変えた。

 向かうのは、聖堂にほど近い自邸である。身支度を整える時間は、まだぎりぎり残されている。手早くシャワーを浴びるくらいの余裕なら、きっとある。

 そう算段がついた途端、重たかった足取りが、ほんの少しだけ軽くなった。

 ✦ ━━━━━━━━━━━━━━ ✦

「〜♫」

 湯を浴びた瞬間、身体の芯に残っていた緊張が、ようやくほろほろと解けていくのがわかった。

 熱い滴が火照った肌の上を滑り、首筋から鎖骨へ、そしてやわらかな胸のふくらみへとゆるやかに伝っていく。濡れた金髪は重みを増して肌に張りつき、ゆっくりと雫を落としていた。背を伝う水の筋は、細い腰のラインをなぞるようにして、太腿の内側へと流れ落ちていく。戦いの熱がまだ燻る素肌は、湯に触れるたびに淡く赤く色を変え、束の間の安らぎの中で静かに息をついていた。

 ほんの数分。されどその数分で、呼吸も鼓動も見違えるほど穏やかさを取り戻していく。

 鼻歌まじりに前髪を掻き上げる仕草にも、もう戦場の緊張は残っていなかった。

 ✦

 そしてエレナは、ほとんど予定通りの時刻に聖堂の前へと辿り着いた。

 大扉の向こうには、すでに人の気配が満ちている。信者たちは整然と並んで待っていたが、時折こぼれる衣擦れや、扉の方へちらりと向けられる視線の端々に、主役の到着を今か今かと待ちわびる空気が滲んでいた。

 駆け込んできた気配など、ひとかけらも悟らせてはいけない。エレナは胸に手を添え、ひとつだけ深く呼吸を整えた。

 それから、聖女見習いにふさわしい柔らかな微笑みを唇にのせ、静かに皆の前へと歩み出る。

「お待たせしました」

 その一言で、場の空気がふわりとほどけた。

「エレナ様、本日もよろしくお願い致します」

 深々と頭を下げる信者たちへ、エレナは一人ひとりの顔を見渡すようにしてうなずき返す。

「では、始めましょうか」

 この集会は、説法でも教導でもない。それぞれが抱える悩みを持ち寄り、集まった者たちで知恵を出し合う──言わば、ささやかなカウンセリングの場だった。

 エレナの言葉は、あくまで最後のひと押しとしてそっと添えられる。それ以上ではない。聖女見習いという立場の影響力は、彼女自身が思う以上に大きい。もしエレナが先に答えを示してしまえば、人々はその言葉だけを持ち帰り、胸の中にしまい込んでしまう。それはエレナの望むところではなかった。

 人は、互いに支え合って生きていくもの。

 だからこそ彼女は、明かせる範囲でそれぞれが悩みを打ち明け、語り合い、答えを探していく──そんな場を自らの手で作り上げたのだった。

 最初に口を開いたのは、前の方に座っていた信仰深そうな青年だった。きっちりと切り揃えたおかっぱ頭を少し俯かせ、指を膝の上で何度も組み直している。

「あの……私の悩みは、その……恋なのですが」

 一度言葉を切り、それでも勇気を振り絞るように続ける。

「どうすれば、彼女と近づけるのでしょうか……。どうしても、距離を感じてしまって。……プレゼントを送れば、少しは近づけるでしょうか?」

 真剣な問いが落ちた直後、斜め後ろの席から、からりと明るい声が飛んだ。

「うーん。プレゼントもいいとは思うけどぉ──あなたその髪型を、先にどうにかした方がよくない?」

 遠慮のない物言いをしたのは、いかにも軽やかな装いの女信者だった。青年がびくりと肩を震わせるより早く、今度は反対側から、野太い声が割り込んでくる。

「プレゼントに頼るなど、心にやましさがある証拠ではないか。そんなことでどうする。きっと君には、神がいま試練を──」

 腕を組んで唸るのは、いかつい顔立ちの老信者だった。話が説教の方向へ傾きかけたその時、穏やかな笑い声がやわらかく場を引き戻す。

「なにいってんだい。プレゼントってのはねぇ、真心だよ。坊やの気持ちは、きっとちゃんと届くはずさ」

 微笑みながら口を挟んだのは、しわの深い手を膝の上で重ねた老婆信者だった。

 場の視線が自然とエレナへと集まる。

 彼女は一度、青年に向かって静かに微笑んでみせた。答えを押しつけるのではなく、すでに交わされた言葉たちを、そっと束ね直すような微笑みだった。

「そうですね」

 穏やかに切り出した声は、争うことなく、けれど確かに場の空気を柔らかくまとめていく。

「プレゼントを、下心から送るのはあまりよくないと思います。でも──思いやりを込めた、真心のこもった贈り物なら、きっと素敵ですよ」

 そこで一度言葉を置いてから、エレナは青年の方へ改めて視線を向けた。

「それに、見た目も立派な個性ですから。……こちらは好みが出るところなので、一概には言えないのですけれど」

 ふわりと、困ったように眉尻を下げる。けれどその眼差しには、迷いのない温かさが宿っていた。

「私は、素敵だと思いますよ」​​​​​​​​​​​​​​​​

 集会は、そうしてゆるやかに進んでいった。

 一人の悩みに、幾つもの声が寄り添い、時にからかい、時に諭し、最後にエレナの一言がそっと寄り添って締めくくられる──その繰り返しが、誰かの胸の結び目をひとつずつほどいていく。笑い声がこぼれ、ため息が抜け、頷きが伝播していく。

 これが、エレナの日課だった。

 聖女見習いとして与えられた務めは、決してこれだけでは終わらない。それでもこの時間は、彼女にとって一日の大切な支柱のひとつだった。

 ──と。

 ふいに、大扉の軋む音が場の空気を裂いた。

 全員の視線が、自然とそちらへ向かう。

「エレナ様、集会中に失礼します」

 遠慮がちに、しかしはっきりとした声でそう告げたのは、修道女のマリアンだった。扉の隙間から半身をのぞかせ、深く頭を下げている。

 その傍らには、もう一人──背を丸めた老人が、静かに佇んでいた。

 皺の刻まれた頬はどこか影を帯び、伏せがちな目元には明らかな疲れと、隠しきれない陰りが滲んでいる。皺だらけの手が、所在なげに杖の頭を握り直していた。

 言葉を交わすまでもない。

 何かがあったのだと、エレナにはすぐに伝わった。​​​​​​​​​​​​​​​​

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  • Soul Link ─見習い聖女と最強戦士─   第111話:届いた悲報

    (この声に気配……覚えがある)エレンの意識が、私の奥底で警戒の炎を燃やし始める。(私もそう感じてた……なんだか、すごく(身に覚えがあるような……)(確か、夜の街で我々を襲撃してきた傭兵……名は確かジン……と言ったか)その名前を耳にした瞬間、あの記憶が、鮮血のように鮮やかに脳裏へと蘇ってきた。霊たちが彷徨う夜の街で、昼間の平穏な探索が一変した瞬間。突如として現れた謎の傭兵——。その圧倒的な実力は私には理解の範疇を超えていたけれど、エレン曰く、これまで戦った敵の中でも別格の強さを誇っていた……と。(そ、その人がなんでこんな場所に!? まさか、私たちを追ってきたの!?)(さあな。だが……敵意は微塵も感じられない。それに何か重要な情報を知っているようだ)(ここは一か八か、直接対峙してみるのも選択肢の一つだろう)「エレンが敵意は感じないから……出てみるのも一つの手だって……」私はシイナさんに、内心の不安を隠しながらそう告げる。「敵意を感じない……か。グレンもミストも意識を取り戻したことだし、直接話してみるか?」シイナさんの声に、慎重な判断力が込められている。(ああ、そうしてみてくれ)「そうして見てほしいって……」エレンの助言をそう伝えると、シイナさんが深く頷き、警戒を込めて扉の前へと歩を進めた。「何用だ」シイナさんの声が、扉越しに響く。「あれ、やっぱりいるんじゃないですかー」その飄々とした口調に、底知れない余裕が滲んでいる。「やあ、僕はジン。リディアっていう方からの重要な伝言があるんだけど、扉を開けてもらえないかな?」「残念だが、こちらにも複雑な事情があってな。このままでお願いしたい」シイナさんの慎重な対応に、扉の向こうから軽やかな笑い声が響く。「……あーそっか、いまこの国から追われてるんだっけ。それなら心配しなくていいよ」「大体の騎士は僕が片付けたから」「な、何だと!?」シイナさんの声が、驚愕に震える。「えっ!??」私も思わず声を上げてしまった。「ま、待て! この国の騎士一人一人は精鋭と言っても過言ではないほどに優秀だ。それをお前は単身で制圧したというのか?」「はは。まぁ確かにこの国の騎士はよく鍛錬されていたね。でも、僕も実力には自信があるんだ」その軽やかな口調で語られる内容の恐ろしさに、私たちは言葉を失った

  • Soul Link ─見習い聖女と最強戦士─   第110話:二人の目覚め

    **────エレナの視点────**次の日。「みなさん!!!!本当にご迷惑をおかけしました!!!」「本当に面目ねぇ……!!!今回迷惑かけた分は、必ず挽回するぜ!」二人が目を覚ましたんだ。あんなに傷だらけで、ずっと目を覚まさなかったグレンさんも元気になって、本当に良かったと思う……。でも……。聞かないといけない。二人に、何があったのか。「それより……二人に何があったんですか?なんで……グレンさんはあんなに傷だらけだったんですか……?」私がそう尋ねると、グレンさんが急に口を噤んでしまう。数秒の重い沈黙が部屋を支配すると、やがて言いにくそうにグレンさんが口を開き始めた。「お前たちが情報収集に行った数時間後、とんでもなく強い奴が現れたんだ」「とんでもなく強い奴?」シイナさんの声に、緊張が走る。「ああ。全身に見たこともない鎧を着て、刀を使っていた」(見たこともない鎧に刀……か)エレンの声が、意識の奥で静かに響く。「そいつは……全く俺の攻撃が通じなかった」「なに!?グレン、お前の攻撃がか!?」シイナさんは心底驚いたような様子を見せる。グレンさんの実力を知っている彼だからこその驚きだった。(…………)エレンが沈黙している。何かを考えているみたいだ。「ああ、正直全く底が見えなかったぜ。戦ってる感触としては……エレンに近かったかもな」「エレンに……?」私の声が震える。エレンと同じくらい強いなんて……。「それは……かなり厄介そうですね」シオンさんの美しい顔に、珍しく深刻な表情が浮かんでいる。「厄介なんてもんじゃねぇよ。あいつは俺の攻撃を全部受け止めやがった」グレンさんは、私たちのパーティ内でも屈指の攻撃力を持つ

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